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蘇軾《定風波》|自分である勇気──「期待が重い」と感じた日に読む詩

    「期待」されても…


    「期待しているよ」

    その言葉に、嬉しさよりも、なぜかプレッシャーを感じてしまうときがあります。

    まるで、誰かの“理想の自分”を演じなければいけないような、そんな重たさ。

    でも、考えたら、そんな時は、相手との関係性がよく構築されていないことが多いものです。

    心の中から声が聞こえてくるのです。

    「え?私のこと何も知らないのに、期待?なにを?」と。

    相手は「あなた」のことをよく知らない。
    だけど「期待」をしてる。

    つまりそれは、「あなた」そのものではなく、あなたに与えられた「役割」を果たすことに対して期待しているということです。

    新しいセクション、新しいプロジェクト、新しいポジション…。
    そこには元々「期待」される「役割」があって、あなたはその役割を演じることになった人。

    だから、あなたがやるべきは、その役割を理解して、役割を与えた側が望む行動をし、彼らが期待する成果をあげる。

    要するに、「あなた自身」ではなく「役」を演じることが求められているのです。

    そう、それだけ。

    着ぐるみを渡されて「さ、次はこの役ね!期待しているよ!」と言われているようなものなのです。

    もちろん、社会なんて圧倒的にそんなものだし、仕事としてお金を受け取る立場なら尚更でしょう。

    でも…、ただ…、でも…、と疼くものがあります。

    そう、「自分」です。

    着ぐるみで演じていたら、中の人は周りからは見えません。
    もちろん、中の人の個性次第でヒーローショーの中身が変わってしまうなら、それは一大事です。
    観客はヒーローが活躍するところが見たいのであり、決して「中の人」の個性を見に来たのではないのです。

    では、その着ぐるみを着ている「自分」ってなんなのでしょう。

    「本当は、キックよりパンチの方が得意な自分」
    「本当は、戦うより話し合いたい自分」
    「本当は、悪い不良にも憧れがある自分」

    表に出してはいけない「自分」を抱えているものは苦しいものです。
    でも、「自分」を出すことで、誰かの「期待」を裏切ってしまうかもしれない。

    自分が、自分らしく生きるためにはどうしたらいいのでしょうか…?

    才人・蘇軾が失った「自分」


    北宋時代の文人・蘇軾は、詩・書・絵・政治に秀でた万能の才人です。
    しかし、政治的な対立に巻き込まれ、何度も僻地への左遷を経験する事になります。

    特に、1079年に起こった烏台詩案(うだいしあん)では、自らの創作した詩文が暗に皇帝を批判しているとの疑いをかけられ、死罪を賜る一歩手前のところまで追いやられます。

    結局、死罪は免れ、黄州に左遷となったものの、実質的には仕事も給与もないような役職をあてがわれ、極貧生活を余儀なくされます。

    失意にくれる蘇軾の日々…。

    そんな中、友人が勧めてくれた畑仕事を細々と始めることになり、四苦八苦しながらも、作物を育てる喜びを通して少しずつ「自分」を取り戻していきます。

    そんな中で生まれたこの詩は、「他人の声に惑わされず、自分の道を歩むこと」の大切さを教えてくれます。

    まずは、その全文をご覧ください。

    莫 听 穿 林 打 叶 声 ,何 妨 吟 啸 且 徐 行。
    mò tīng chuān lín dǎ yè shēng ,hé fáng yín xiào qiě xú xíng 。
    雨が降れば、林が騒ぎ、葉の打たれる音が周囲を包むであろうが、そんな音にびくびくする必要はない。高らかに歌を歌いながら、のんびり進めばよいだけだ。

    竹 杖 芒 鞋 轻 胜 马 ,谁 怕?
    zhú zhàng máng xié qīng shèng mǎ ,shuí pà ?
    手にした竹の杖と草鞋はかえって身軽で、馬で進むよりも都合がよい。
    全く恐れる必要はない。

    一 蓑 烟 雨 任 平 生。
    yī suō yān yǔ rèn píng shēng 。
    枯れ葉で作った蓑さえあれば、こんな煙るような雨は十分しのぐことができる。

    料 峭 春 风 吹 酒 醒  ,微 冷  ,山 头 斜 照 却 相 迎。
    liào qiào chūn fēng chuī jiǔ xǐng ,wēi lěng ,shān tóu xié zhào què xiāng yíng
    まだきびしい初春の寒さが酒の酔いを醒まし、少し冷え冷えするが、山の頂からは夕日が照り、私を迎えてくれている。

    回 首 向 来 萧 瑟 处  ,归 去 ,也 无 风 雨 也 无 晴。
    huí shǒu xiàng lái xiāo sè chù ,guī qù ,yě wú fēng yǔ yě wú qíng 。
    ものさびしい来た道を振り返ってみれば、もうすべて過去のことだ。
    苦難も、悲しみも何もない。さあ、帰ろう。もう雨風もやんで、晴れてもいない。

    《定風波・莫听穿林打叶声》蘇軾

    「自分」を取り戻す


    この蘇軾の「定風波」は、蘇軾の思想の転換点を示す詩として非常に有名な詩です。
    私自身も非常に好きな詩なので、この詩自体は、いつかまたゆっくり取り上げたいと思います。

    今回「自分」に関して取り上げたいのは、この詩の冒頭部分です。

    莫 听 穿 林 打 叶 声 ,何 妨 吟 啸 且 徐 行。
    雨が降れば、林が騒ぎ、葉の打たれる音が周囲を包むであろうが、そんな音にびくびくする必要はない。高らかに歌を歌いながら、のんびり進めばよいだけだ。

    着ぐるみを脱いで、「自分」を曝け出す。
    「自分」を出すということは、実はそんなに楽なことではありません。

    自分には何ができるのか?
    自分らしさはどこにあるのか?
    自分だから提供できる価値はあるか?

    「誰かが与えた役割を演じない」という選択は、
    「自分ができることについて考え続ける」ということの裏返しです。

    そうして、曝け出した「自分」に対して、たくさんの声が降ってきます。
    賞賛の声ばかりではありません。
    心無い言葉もたくさん降り注ぎます。

    でも…、それでも…、と自分の信じた道を一歩一歩進む「自分」。

    蘇軾は言います。

    そんなあなたに、雨が降り、林が騒ぎ、葉のこすれる音でザワザワすることが起こるでしょう。

    でも、大丈夫。
    そんな音に惑わされる必要はない。

    たとえ風が吹こうと、自分の歩幅で、自分のペースで進めばいい。
    詩を吟じ、鼻歌をうたいながら、歩けばいい。


    他人の声に振り回されるより、自分の心の声に耳を傾けることが大切だ

    と。

    1000年前に生きた中国史上屈指の才人・蘇軾が、まるで同じ目線で語りかけてくるようです。

    きっと、人間が悩むことなんて、場所や時代が異なっていても、中身はそんなに異なるものではないのかもしれませんね。

    自分は、間違っているのか?
    自分という生き方を信じていいのか?
    自分みたいな人間が存在していていいのか?

    いいんです。

    蘇軾は、失意の果てに、「自分」を取り戻す道を見つけました。
    この後の蘇軾は、度々辛い出来事にも見舞われますが、それでも自分らしさを失わず、詩とユーモアで生き抜いていきます。

    そんな彼が悟ったこの境地、それは今を生きる我々にも力強く行く道を照らしてくれます。


    “期待に応える”のではなく、“自分であること”を選ぶ。
    雨の中でも、鼻歌をうたいながら歩くように。

    そんなふうに歩くあなたを、蘇軾は1000年の時を越えて、静かに応援してくれているのかもしれません。


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    蘇軾の生き方について書いた、こちらの記事もぜひどうぞ。


     
     
    福岡在住|中国滞在歴10年|中国全省・自治区・直轄市・特別行政区を踏破。 『福岡人、中国をゆく』運営。 中国、福岡、東アジアの街を歩きながら、歴史・漢詩・文化・食・人々の営みを綴っています。 中国と福岡、そのつながりの中にある物語を探しています。

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