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今日の君は、少し違う|第1話

《あらすじ》
毎朝、同じ電車の同じ場所に立つ。 窓際で静かに本を読む彼女を、真司は心の中で「冬の星」と呼んでいた。

ある日、その彼女から声をかけられた。
明るくて、距離が近くて、先に手を伸ばしてくる彼女。
気づけば恋人になっていた。

それなのに、朝の電車の静かな横顔が、頭から離れない。
同じ顔のはずなのに、どこかが違う。 近づくほどに、その違いだけが深く残っていく。

——どちらも本物だった。 どちらも、嘘ではなかった。

冬の星

毎朝、同じ車両の、同じ位置に立つ。

それだけのことが、いつのまにか真司しんじの朝になっていた。

大学へ向かう通学電車。三両目のドア付近。混みすぎてもいないが、空いているわけでもない、その曖昧な密度のなかで、真司はほとんど無意識に、同じ場所を選ぶようになっていた。

理由は、最初はなかったはずだった。
ある朝、たまたま視界に入っただけだったのだと思う。

窓際に立って、文庫本を読んでいる女の人。後ろで軽く束ねられた髪。ページをめくる細い指。吊り革を持つ手首の、余計な力の入っていない線。目立つことをしているわけではないのに、人の流れのなかでその周囲だけ空気が少し静かに見えた。

以来、真司は毎朝、その姿を探すようになった。

美人だと思う。もちろん。
けれど、たぶんそれだけではなかった。

顔立ちが整っているとか、雰囲気がきれいだとか、そういう言葉で片づけようとすると、どこかで少しずれる。真司が気になっているのは、むしろ彼女のまとっている静けさのほうだった。朝の車内は、いつだって落ち着かない。スマホの画面を追う人、眠そうに揺れている人、乗り換えのことばかり考えているような顔。みんなそれぞれに急いでいて、誰もが自分の時間を守るのに忙しい。

その中で、彼女だけが少し違って見えた。

急いでいるように見えない。
退屈しているようにも見えない。
ただ、きちんとそこにいる。

窓に映る横顔が、朝の白い光のなかでひどく遠く見える日があった。
文庫本に落ちる睫毛の影が、なぜか妙に印象に残る日もあった。

真司は心の中で、彼女を「冬の星」と呼んでいた。

冷たいという意味ではない。
ただ、遠くて、静かで、毎朝そこにあるもの。

名前も知らない。学年も学部も、大学が同じかどうかさえ、最初はわからなかった。けれど、そのわからなさごと含めて、彼女は真司の朝の一部になっていた。

話しかけたいと思ったことがないわけではない。
でも、それをしてしまったら壊れる気がした。

今の距離なら、まだ美しい。
何も起きていないからこそ、何も失っていない。

そんなふうに考えるあたり、自分でも少し臆病だと思う。だが真司はもともと、勢いで人との距離を詰められるタイプではなかった。相手の表情や声色に必要以上に気づいてしまうぶん、引く時は早い。就活の面接でも、最初の一言で相手の温度を読んでしまって、そのせいで逆に言いたいことが鈍ることがある。

「おまえ、また朝から魂抜けてるぞ」

昼休み、学食で向かいに座った健人けんとが、カレーのスプーンを持ったまま言った。

「そうか?」

「そう。ここ最近ずっと。就活疲れ? それとも、とうとう悟った?」

「何をだよ」

「働きたくないってこと」

真司は笑って、紙コップの水を飲んだ。
健人は学部もゼミも同じで、つかず離れずの距離がちょうどいい友人だった。必要以上に踏み込まず、でも黙っていても変化だけは見てくる。そういうところがありがたい時もあるし、面倒な時もある。

「最近、朝ちゃんと来るよな、おまえ」
「前から来てる」
「来てるけど、前はギリギリだったろ。今は余裕ある顔してる」

真司は曖昧に笑ってごまかした。

図星だった。
たしかに最近、朝の時間だけは妙に整っている。起きる時間が少し早くなったのも、乗る電車が一本に安定したのも、結局は三両目のあの場所に間に合わせるためだ。

理由を説明するのは面倒だった。
自分でもうまく言えない。

「なんかあるなら、あるでいいけどさ」
健人はスプーンを置いて、ふと思い出したように言った。
「卒論より前に、そっち片づけとけよ」

「そっちってなんだよ」

「知らん。でも人って、わかりやすく顔に出る時、だいたい面倒なことになってる」

健人はそう言って笑った。
真司もつられて笑ったが、そのあと、少しだけ胸の奥がざわついた。

面倒なこと。
そう言われるほどの何かが、もう始まっているのだろうか。

午後の講義は、半分も頭に入らなかった。教授の声が遠い。前列の方でノートを取っている学生の肩越しに、窓の外の薄曇りだけがやけに印象に残る。ノートの隅に書いたメモは、途中からただの線になっていた。

授業が終わって教室を出たとき、真司はひどく眠かった。
眠いというより、気が抜けていたのかもしれない。午前中からずっと胸のどこかにあった小さな緊張が、何も起きないまま夕方に流れ込んで、妙に身体だけをだるくしていた。

その日、帰りの電車では彼女の姿はなかった。

朝しか見かけないのだから当たり前だ。そう思いながらも、真司は少しだけ拍子抜けした。帰り道の街の色は中途半端に濁っていて、コンビニの明かりさえ疲れて見えた。

翌朝、目覚ましより少し早く起きた。
理由は考えないようにして、顔を洗って、シャツにアイロンをかける。いつもより少しだけ丁寧に髪を整えて、家を出る。春にはまだ遠い、冷えた朝だった。

駅のホームに立つと、白い息がかすかに残った。
三両目の停止位置に並びながら、真司は何でもないふりをしていた。けれど、電車が入ってきて、ドアの向こうの人影が見え始めた瞬間、視線だけは先に探していた。

いない。

そう思ったのは、一瞬だった。

乗り込んでいつもの位置に立ったあと、次の駅でドアが開き、流れ込んでくる人の向こうから、見慣れた横顔が現れた。文庫本は持っていない。今日は手ぶらで、代わりに薄いトートバッグを肩にかけている。車内を見渡すでもなく、自然な顔で窓際へ立つ。

それだけで、真司は少しだけ息をついた。

自分でも笑ってしまう。
話したこともないのに、彼女がいるだけで、こんなふうに気持ちが整うなんて。

その朝、彼女は本を読まなかった。
窓の外を見ていた。

流れる線路脇の住宅、朝日にまだ馴染んでいないビルの壁、信号待ちの車の列。彼女が何を見ているのかはわからない。ただ、ページをめくる指先の代わりに、ガラスへ向けられた視線の角度がいつもより少しだけやわらかく見えた。

電車が揺れた拍子に、彼女の肩がほんのわずかにこちらへ傾く。
触れるほどではない。けれど、距離の輪郭が一瞬だけ曖昧になる。

真司はそこで初めて、自分がかなり長く彼女を見ていたことに気づいて、慌てて視線を外した。窓に映る自分の顔は驚くほど平静で、そのことがかえっておかしかった。

彼女の近くにいると、朝の時間の流れ方が少しだけ変わる。
焦りが消えるわけではない。電車が遅れれば普通に困るし、講義に遅れそうになれば当然走る。そういう現実は何ひとつ変わらない。ただ、それでもこの数駅のあいだだけ、世界が少し静かに見える。

真司が惹かれているのは、たぶんその静けさのほうだった。

大学に着くころには、もうその日の朝は終わっている。
駅を出て、人の流れに混ざり、校舎へ向かう。彼女が同じ大学かどうかさえ、真司にはまだはっきりしなかった。見失ってしまえばそれまでだし、あえて追おうとも思わなかった。

昼を挟んで、三限の講義が終わったあとだった。

真司が教室の後ろの席でスマホを見ていると、誰かが軽く肩を叩いた。

「ねえ」

振り返る。

その瞬間、真司は何も言えなくなった。

そこに立っていたのは、朝の電車の彼女だった。
少なくとも、真司にはそう見えた。

同じ顔だった。
同じ目元。
同じ口元。
同じ輪郭。

けれど、雰囲気だけが違う。

「いつも電車で一緒だよね?」

まっすぐ目を見て、彼女はそう言った。
声は想像より少し高くて、軽やかだった。

真司の口から出たのは、ひどく間の抜けた一音だけだった。

「……え」

彼女はその反応を面白がるように笑った。

「やっぱり。こっちは毎朝見てたのに、全然話しかけてこないから、もしかして気づいてないのかなって思ってた」

気づいていないわけがない。
むしろ、気づきすぎていたくらいだった。

けれど真司は、その言葉をうまく返せない。
頭のなかで、朝の静かな横顔と、今、目の前で笑っている顔がどうしてもすぐには重ならなかったからだ。

「同じ講義取ってたんだ」
彼女はそう言って、真司の持っていた資料をのぞき込んだ。
「意外。もっと理屈っぽい授業好きそう」

「……理屈っぽいって」

「なんとなく。真面目そうだし」

彼女はまた笑った。
朝の電車で見ていた印象とはまるで違う。けれど真司は、その違いを違和感としてではなく、驚きとして受け取っていた。

大学ではこういう人なのかもしれない。
朝と昼で、見せる顔が違うだけなのかもしれない。

そう考えたほうが自然だったし、そう思いたかったのだと思う。

「私、彩香あやか」
彼女は自分の胸元を指して言った。
「あなたは?」

「あ、真司」

「真司くん、か。やっぱりそういう名前っぽい」

「どういう名前っぽいんだよ」

「なんか、ちゃんとしてる感じ」

真司はようやく笑った。
彩香、という名前が頭の中に落ちていく。今まで「冬の星」としか呼べなかった相手に、急に現実の名前が与えられたことで、距離が一気に縮まった気がした。

彩香とはそのあとも少し話した。
ゼミのこと。学食が混む時間。就活が面倒だという愚痴。話題に深さはないのに、妙に話しやすい。彼女のほうが空気を動かしてくれるからだろう。真司は相槌を打ちながら、まだどこか現実感のない気分でいた。

「じゃ、私このあと友達と約束あるから」

彩香はスマホを見て立ち上がった。
そのあと、ふと思い出したように振り返る。

「明日も同じ電車?」

「たぶん」

「そっか。じゃあまたね、真司くん」

軽く手を振って去っていく背中を、真司はしばらく見ていた。

その日の夕方、キャンパスを出るころにはもう、真司の胸の奥には妙な高揚が残っていた。
嬉しい、というのとも少し違う。ずっと遠くにあると思っていたものが、急にこちら側へ近づいてきた時の、うまく飲み込めない感じに似ている。

名前を知った。
声を知った。
目の前で笑う顔を知った。

それだけのことなのに、今までの朝が急に違うものになってしまった気がした。

(第2話へつづく)


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第1話 https://note.com/akari105/n/n85833d9adb37
第2話 https://note.com/akari105/n/na8178e0d1499
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