今日の君は、少し違う|第6話
うまくいっているのに
前の日の夜、彩香は言っていた。
明日は一限から別キャンパス。
だから朝の電車は乗らないと思う、と。
真司はそれを、深く考えずに聞いていた。
会えるのは夕方だろう。
そのくらいに思っていた。
だから翌朝、三両目に乗り込んで窓際にその姿を見つけた時には、少しだけ驚いた。
「……あれ」
人の流れの向こう。
いつもの位置。
後ろで軽く束ねられた髪。
窓に白く映る横顔。
真司はほとんど反射みたいにそちらへ近づいた。
「彩香」
呼ぶと、彼女は小さく振り向いた。
その一拍が、ほんの少しだけ長い。
でも真司は、その時点ではただ、朝が早くて眠いのかな、くらいにしか思わなかった。
「乗らないって言ってなかった?」
そう聞くと、彼女は少しだけ目を伏せてから答えた。
「……一本、乗り遅れたの。これなら間に合うから」
内容としては自然だった。
真司は「ああ」とうなずく。
「じゃあ、朝からちょっと大変だ」
「うん、ちょっとだけ」
やはりどこか静かな返し方だった。
でも、最近はこういう瞬間が時々ある。
そういう日なのだろうと、真司はまた自分を納得させた。
電車が揺れる。
彼女の肩がわずかに傾き、真司の腕に近づく。
その距離の近さに、真司はごく自然に声を落とした。
「今日、夕方は?」
彼女は少しだけ遅れて真司を見上げる。
「たぶん、そんなに遅くならないと思う」
「じゃあ、会える?」
問いかけると、彼女はすぐには答えなかった。
ほんの数秒、沈黙が落ちる。
「……うん」
小さな返事だった。
でも、拒まれなかったことに真司はほっとした。
「じゃあ、駅前で」
そう言うと、彼女は静かにうなずく。
そのうなずき方が、なぜか妙に胸に残った。
駅に着き、人の流れがホームへこぼれていく。
別れ際、真司は恋人としてごく自然に、彼女の手に一瞬だけ触れた。
彼女は驚いたように指先を強張らせたが、すぐには離さなかった。
そのわずかなぬくもりが、夕方まで真司の中に残った。
昼を過ぎても、真司は落ち着かなかった。
講義の内容が頭に入らないほどではない。
けれどページをめくるたび、朝の三両目の静かな返事がよみがえる。
一本、乗り遅れたの。
うん、ちょっとだけ。
会える。
どれも彩香の言葉としておかしくはない。
なのに、響きの置かれ方だけが少し違う。
それを考え始めると、また自分が神経質になっているようで、真司は途中でやめた。
夕方、待ち合わせの場所に現れた彼女は、朝と同じく静かだった。
疲れているのかもしれない。
そう思えば説明はつく。
でも、やはりどこかだけ違う。
「大丈夫? ほんとに疲れてるなら無理しなくていいけど」
そう言うと、彼女は小さく首を振る。
「大丈夫。……会いたかったし」
その一言に、真司の胸が静かに熱を持つ。
彩香ならもっと軽く、もっと笑いながら言うかもしれない。
でも、今のその言い方はやわらかくて、少しだけ真剣だった。
店は、駅前から少し外れた裏通りにあった。
大きすぎないガラス窓と、木のテーブル。
夕方の早い時間だったせいか、人もまだ少ない。
奥の席に座ると、外のざわめきが少しだけ遠くなった。
注文を済ませて、しばらく、二人は店内に流れている音楽を黙って聞いていた。
ピアノの旋律に細い弦が重なる、静かな曲だった。
「こういうの、好きなんだ」
真司が何気なく言うと、彼女は少しだけ顔を上げた。
「うん、私も。よく聴く」
その返し方は、ぎりぎり彩香の口調に収まっていた。
でも、言葉の温度はやはり違う。
真司はそこで妙に落ち着く自分に気づく。
「家で?」
「夜とか。何かしながら流してること、多いかな」
少しだけ言い直す。
その小さなぎこちなさが、真司にはかえって印象に残った。
「へえ。なんか意外」
「そう?」
「うん。もっと、歌が前に出てるやつとか好きそうだった」
彼女はその言葉に、ほんの少しだけ笑った。
でもいつもの彩香みたいに大きくは笑わない。
「そういうのも聴くよ。……でも、静かな方が残る時もあるから」
真司はその言い方に、思わず目を上げた。
静かな方が残る。
そんな表現を、彩香から聞いたことがあっただろうか。
「残るって?」
真司が聞くと、彼女は少し考えてから言った。
「派手じゃないのに、あとで思い出すのってあるじゃない」
その一言で、会話の空気が少し変わった。
そこから先は、不思議なくらい自然だった。
映画の話。
終わり方だけで忘れられなくなる作品の話。
音楽が先に残る映画と、台詞だけが残る映画の違い。
本屋でつい手が伸びる小説の話。
彩香といる時には、話題は軽やかに跳ねていく。
でも今日は違った。
話は弾むというより、少しずつ深い方へ沈んでいく。
真司は気づけば、かなり多くを話していた。
子どもの頃に何度も見返した映画のことまで口にしていた。
しかも、不思議なことに、向かいの相手が多くを喋らないほど、自分の言葉の方が自然に続く。
彼女は視線を落としたまま、静かに息をつく。
「……真司は、そういうの、ちゃんと覚えてるんだね」
その呼び方に、真司は一瞬だけ言葉を失った。
いつもの軽さがなかった。
名前だけが、まっすぐこちらへ触れてきた気がした。
「好きだったやつは、たぶん残る」
真司がそう言うと、彼女は小さくうなずいた。
「そういうの、いいね」
褒められたわけではない。
でも、ただ受け止められただけのその感じが妙に深く残る。
店を出ると、外はすっかり夜だった。
風が少しだけ冷たい。
駅へ向かう細い道には人通りが少なく、街灯の白さばかりが目についた。
しばらく並んで歩いたあと、真司は言う。
「今日は、ほんとに知らない彩香が多いな」
言ってから、自分でも少し驚いた。
冗談半分のつもりだった。
でも声は思っていたより静かだった。
隣の彼女はすぐには答えない。
「そうかな」
「うん。なんか……」
真司は少しだけ笑った。
「今日、話してると落ち着く」
その言葉に、彼女の足がほんの少しだけ止まる。
真司もつられて立ち止まった。
街灯の下。
近くに人の気配はない。
夜の音は遠い。
彼女は視線を落としたまま、静かに息をつく。
「真司は、そういうの、ちゃんとわかるんだね」
さっきよりも短い、でも同じ呼び方だった。
それが、真司の中で何かを決めてしまう。
自然に、手が伸びる。
頬に触れると、肌は夜気のせいか少しだけ冷えていた。
でも、その奥の体温だけがやけに鮮明だった。
彼女は逃げなかった。
目を伏せる。
その仕草の中に、ためらいも、拒みきれないものも、どちらも見えた。
真司はゆっくりと顔を寄せた。
唇が触れた瞬間、胸の奥がひどく静かになる。
奪うような口づけではなかった。
たしかめるように、そっと重ねるだけの、短い口づけだった。
でも、その短さの中に、今日交わした会話より深いものが一気に沈んでいく気がした。
彼女は最初、息を止めていた。
それでも離れない。
真司の袖をつかむ指先だけが、ほんの少し強くなる。
その反応に、真司はもう一度、今度は少しだけ長く唇を重ねる。
夜の音が遠のき、互いの呼吸だけが近い。
街灯の下、影が薄く揺れている。
その静けさの真ん中で、彼女のやわらかさだけが逃げ場のないほどはっきり伝わってきた。
真司はそのまま、もう少しだけ近づこうとした。
その時、彼女の指先が、袖から手首へ移る。
そっと、けれど確かな力で止める。
唇が離れる。
近すぎる距離のまま、彼女が小さく息をついた。
「……これ以上は」
その声は低く、やわらかかった。
真司はしばらく動けなかった。
拒まれたのとは違う。
むしろ、完全には拒まれていないからこそ、胸の奥に深く残る。
やがて、小さくうなずく。
離れると、彼女は視線を落としたまま、もう一度だけ真司の手に触れた。
指先が静かに絡む。
それは恋人としてなら何でもないはずのしぐさなのに、今夜は口づけよりも深く感じられた。
別れたあとも、その静かな熱はなかなか消えなかった。
家へ向かう電車の窓に、自分の顔がぼんやり映っている。
今夜交わした言葉も、触れた熱も、たしかに彩香のものだったはずなのに、思い返すたびに残るのは、明るさよりも静けさの方だった。
それが何を意味するのか、真司にはまだわからない。
ただ、説明できない違和感だけが、今夜はいつもより深く胸の奥へ沈んでいた。
(第7話につづく)
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