
今日の君は、少し違う|第7話
見えてしまった二人
土曜は、朝からほとんど立ち止まる暇がなかった。
真司のバイト先は駅前の大型書店で、休日は平日よりはるかに人が多い。開店直後からレジの前には列ができ、雑誌の補充と問い合わせと返品対応が途切れない。昼休憩に入る頃には、頭の中まで紙とインクの匂いが染みついたみたいになる。
忙しいのはありがたかった。
考えなくて済むからだ。
前の夜のことを、真司はまだうまく整理できていなかった。
朝、三両目で会った“彩香”。
夕方、駅前で待ち合わせて、食事をして、静かな会話を重ねた“彩香”。
口づけまで交わしたのに、最後の一線だけはやわらかく止められた夜。
それはたしかに彩香の輪郭をしていたはずなのに、思い返すたび、残るのは明るさではなく静けさの方だった。
忙しさの中では、その違和感も少し遠のく。
客に呼ばれれば返事をするし、レジに立てば目の前の対応に集中する。
けれど、ふとした拍子に昨夜の会話が戻ってくる。
静かな音楽の話。
あとで思い出す映画の話。
そして、ためらいながら一度だけ呼ばれた自分の名前。
真司。
あの呼び方だけが、どうしても胸の奥に残っていた。
休憩終わりにスマホを見ると、彩香から短いメッセージが来ていた。
今日バイト何時まで?
真司は数秒考えてから、
夕方には終わる
と返した。
すぐに返事は来ない。
それでよかった気もするし、少しだけ物足りなかった気もする。
自分でもよくわからない。
彩香とは、ちゃんと恋人のはずだった。
それなのに、今の自分の中には何かが二重に残っている。
そのことに、真司は疲れていた。
夕方、ようやくシフトが終わった。
スタッフルームでエプロンを外し、ロッカーから荷物を出す。外へ出ると、駅前の空気は昼より少しだけ冷えていた。人通りは相変わらず多いのに、一日働いたあとの身体には、そのざわめきが妙に遠く感じられる。
真司はまっすぐ帰るつもりで歩き出した。
けれど改札の手前まで来たところで、ふと足が止まる。
少しだけ、息を整えたかった。
そのまま駅前広場の端にあるベンチへ向かう。
週末の夕方らしく、カフェのテラス席も人で埋まっていて、買い物袋を提げた人たちが忙しなく行き交っている。
真司は腰を下ろし、無意識に顔を上げた。
その瞬間だった。
視界の先、横断歩道の向こうに、見覚えのある横顔があった。
いや、横顔が、二つ、あった。
足元から何かがすっと抜けるみたいに、真司の身体が静かにこわばる。
人の流れの向こう。
少し距離はある。
それでも、見間違えようがなかった。
同じ顔だった。
同じ輪郭。
同じ目元。
同じ口元。
一人は笑っている。
もう一人は、少しだけ目を伏せて、その笑いを静かに受けている。
その違いが、今の真司には痛いほどわかった。
笑っている方は、真司の知っている彩香だった。
先に言葉を出して、空気を受ける方。
そしてもう一人は、何度か触れてしまった、あの静かな方だった。
雨の日の午後。
本屋での短いやりとり。
昨夜の、静かな会話と口づけの余韻。
あれは気分の揺れではなかった。
最初から、本当に別人だったのだ。
真司は立ち上がれなかった。
座ったまま、息だけが浅くなる。
しかも、ただの双子ではない。
その二人のあいだには、明らかに“知っている者同士”の空気があった。
笑っている方が何かを言う。
静かな方が短く返す。
笑っている方は小さく肩をすくめ、静かな方は困ったように少しだけ目を伏せる。
そのやりとりがあまりにも自然で、真司には一瞬でわかってしまった。
この二人は、ただ顔が同じだけじゃない。
真司の知らないところで、もっと長い時間を共有している。
しかもたぶん、自分に関わることまで。
その時、笑っている方がふいに顔を上げた。
真司に気づいたのだと、わかった。
表情が止まる。
笑いが、ほんの一瞬だけ消える。
その変化を見て、もう一人の静かな方も視線を上げた。
二人の目が、真司の方へ向く。
その一瞬で、もう十分だった。
言い逃れも、偶然も、ただの誤解も、全部がその場で失われた気がした。
真司はゆっくり立ち上がる。
人混みの音だけが、やけに遠い。
横断歩道の信号が変わり、人が流れる。
その波に押されるようにして真司は数歩だけ前へ出たが、そこで止まる。
何か言うべきだと思った。
けれど、最初に出たのは自分でも驚くほど静かな声だった。
「……いつから?」
問いは風の中へ落ちた。
誰に向けたのか、自分でもはっきりしない。
彩香かもしれない。
もう一人の静かな相手かもしれない。
あるいは、自分が気づけなかった時間そのものに向けていたのかもしれない。
彩香はすぐには答えなかった。
そのかわり、ほんの一瞬だけ隣を見る。
静かな方は何も言わず、ただ小さく目を伏せた。
その無言のやりとりに、真司は胸の奥がさらに冷えるのを感じた。
ああ、そうなんだ。
二人は知っている。
どこまで話すかも、どこで止めるかも、今ここで相談しなくてもわかってしまうくらいには、最初から共有していたんだ。
それがいちばんこたえた。
自分だけが、ずっと外にいたのだとわかってしまったから。
「……帰る」
結局、真司はそれだけ言った。
逃げているのだと、自分でもわかった。
でもこれ以上ここにいたら、何をどう聞けばいいのかもわからないまま、何かだけを壊してしまいそうだった。
二人は、最後まで引き留めなかった。
真司はそのまま背を向けて歩き出す。
駅前のざわめきの中へ紛れてしまえば、少しは現実感が戻るかと思った。
でも実際には逆だった。
歩くほどに、いくつもの断片がはっきりしてくる。
雨の日の、少し長い沈黙。
本屋での、目が合ってから笑うまでの一拍。
昨夜の、静かな方が残るという言葉。
一度だけ、ためらいながら置かれた真司という呼び方。
全部、もう見えてしまった。
ただ騙されていたのではない。
自分はちゃんと違いに触れていた。
違いに惹かれていた。
それなのに、ずっと名前も知らないまま、そこへ手を伸ばしていた。
それが、何より苦しかった。
改札を抜ける手前で、真司は一度だけ振り返る。
二人はまだ、横断歩道の向こうにいた。
同じ顔。
でも、今の真司にはもう、それぞれの重力がまるで違うものに見えた。
明るく、先に手を伸ばしてくる彩香。
静かに引きながら、それでも深く残る、名前のないもう一人。
どちらも本物だ。
どちらにも、たしかに自分は触れていた。
そのことを知ってしまった今は、
もうあの朝には戻れない気がした。
(第8話へつづく)
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