今日の君は、少し違う|第2話
最初に手を引いたのは
翌朝、真司はまた三両目に乗った。
もはや迷わない。
ほとんど反射のように、窓際を探す。
いた。
文庫本を開く横顔。後ろで束ねられた髪。
昨日、名前を知った。
彩香、という名前が頭の中に落ちてから、この朝の時間がまた少し変わった気がしていた。
けれど——
今朝の彼女は、一度もこちらを見ない。
昨日の彩香は、目をまっすぐ見て笑った。
言葉が先に近づいてきた。
声が、軽やかだった。
今朝の彼女は、沈黙のまま遠い。
ページをめくる指先だけが、静かに動いている。
朝の顔と、大学での顔。
違って当然だ。
そう思いながら、吊り革を握ったまま、その横顔を見つめていた。
電車が次の駅に滑り込む。
ドアが開く。
人の波が流れ込んでくる。
その圧に押されて、真司の立つ位置がわずかにずれた。
窓際から視線が外れる。
その時だった。
「おはよ」
すぐ横から声がした。
反射的に振り向く。
そこにいたのは彩香だった。
目が合うと、彼女はいたずらっぽく笑った。
トートバッグの持ち手を片手で引っかけていて、空いたほうの手で軽くこちらに振ってみせる。
真司は一瞬、何も言えなかった。
さっきまで窓際にいた彼女と、今目の前にいる彩香。
同じ顔。
同じ声。
同じ輪郭。
頭の中で何かがひっかかったような感覚が走る。
だがそれを拾い上げる前に、彩香が自然な調子で言った。
「びっくりした? 昨日、たぶんって言ってたからさ。同じ電車なんだなと思って」
「あ……うん」
「それにしても、真司くんってほんと朝は静かだよね」
そう言って、彩香は真司の隣に立った。
近い、と思った。
昨日大学で話した時よりも近い。
電車の中だから仕方がないはずなのに、その距離の詰め方が妙に自然だった。
「私、朝弱いんだよね。本当はもっと後の電車に乗りたいくらい」
「そう見えないけど」
「見えないようにしてるから。ちゃんとして見られたいし」
彩香はそう言って笑う。
車内の光の下では、たしかに昨日より少し落ち着いて見えた。
大学で会った時の明るさをそのまま持ち込んでいるわけではない。
けれど、やはり窓際で黙って本を読んでいた姿とは少し違う。
真司は思いきって聞いてみた。
「……昨日は、朝の君と、ずいぶん印象が違うなって思った」
「え、そう?」
「なんていうか……朝はもっと静かっていうか」
彩香は一瞬だけ目を丸くして、それから肩をすくめた。
「だって朝だよ? そんなテンション高くないって」
もっともらしい答えだった。
たしかにそうだ。
大学で友達に囲まれている時と、通学電車で立っている時では違って当然だろう。
真司はそれで納得したふりをした。
いや、実際にかなり納得していた。
ただ、完全ではなかっただけだ。
その朝、彩香はずっと真司の近くにいた。
会話は途切れがちだったが、不思議と気まずくはならない。
むしろ話題の切れ目ごとに、車窓の流れる音や車内アナウンスが入り込んで、必要以上に距離を詰めなくていいことが心地よかった。
駅に着いて降りる時、彩香が先に人の流れへ踏み出した。
それから少し振り返って言う。
「今日、一限終わったら暇?」
真司は歩きながら顔を上げる。
朝のホームに、薄い光が斜めに差していた。
「三限まで空いてるけど」
「じゃあ学食つきあってよ。朝ちゃんと食べてない」
その言い方があまりにも自然で、真司は断る理由を探すことすらしなかった。
「いいよ」
「やった」
彩香はうれしそうに笑って、そのまま人の流れの前に出た。
真司は少し遅れて改札へ向かいながら、胸の奥に熱ではなく、軽い浮遊感のようなものが生まれているのを感じていた。
学食で向かい合う彩香は、やはり話しやすかった。
注文したうどんを半分も食べないうちに、「就活どう?」と聞いてくる。
真司が「ぼちぼち」と答えると、「いちばん信用できない返事」と笑う。
人の懐に入るのがうまいのだと思う。
押しつけがましくなく、でも引かない。
気づいたら、こちらが少し多めに話している。
「真司くんってさ、最初はもっと話さない人かと思った」
「それ、よく言われる」
「でも、ちゃんと返してくれるよね」
「無視はしない」
「それ、えらい」
彩香はそう言って、湯気の立つ紙コップを両手で持った。
その仕草は子どもっぽいのに、目線はまっすぐで、相手の反応をよく見ている。
明るいだけじゃない。
たぶんこの子は、笑いながら距離を測っている。
「彩香は?」
真司は少し迷ってから聞いた。
「いつもああやって、知らない人にも話しかけるの」
「ああやって、ってひどくない?」
彩香は笑う。
「でもまあ、気になったら行くかも」
「俺が?」
「真司くんが、ね」
そこははっきりしていた。
真司は箸を置き、わずかに目を伏せた。
うれしい、と素直に思った。
それと同時に、少しだけ不思議でもあった。
彩香がこんなふうに真っ直ぐ気持ちを向けてくることが、まだ完全には現実として馴染んでいない。
「前から気づいてたんだよ」
彩香は続ける。
「毎朝、たいてい同じ車両にいるでしょ。なんか、あの辺にいつもいるなって」
真司は思わず笑った。
「あの辺って」
「だって本当にあの辺なんだもん。決まった場所っぽい」
「彩香もじゃん」
「私はいいの。そういうの気にしないから」
自分で言っておいて、彩香はまた笑う。
気にしていないわけがない、と真司は思った。
この子は案外、いろんなことを見ている。
見ているくせに、それを重く言わないだけだ。
一限と二限のあいだ、学食は、まだ空席が多い。
窓の外では学生たちが急ぎ足で移動している。
その落ち着かない景色を背に、彩香は妙に自然な顔で真司の前にいる。
それが少しだけ不思議で、でも悪くなかった。
その日から、彩香は何かと真司のそばに現れるようになった。
講義終わりの廊下。
学食の列。
図書館前のベンチ。
メッセージアプリの短い通知。
今日のレポート、面倒だった
今どこ?
このあと少し時間ある?
言葉は軽い。
でも、その軽さに助けられる部分もあった。
真司はもともと、自分から何かを始めるのが得意ではない。
相手のほうから手を伸ばしてくれると、それに応じるかたちで自然に進める。
彩香は、その“最初の半歩”をためらわずに踏み出す人だった。
気づけば、朝の電車でも大学でも、彩香と会うのが当たり前になっていく。
それでも真司の中には、時々ほんの小さな引っかかりが残った。
たとえば、昨日は絵文字だらけだったメッセージが、今日は驚くほど短い。
たとえば、よく笑うはずなのに、ふとした瞬間だけ妙に静かな目をする。
でもそんなものは、すべて「気のせい」で片づけられる程度の差だった。
人は毎日同じではない。
気分も違うし、体調も違う。
まして相手は彩香だ。
明るくて、動いていて、そのぶん揺れ幅があっても不思議ではない。
真司は、そう考えることにした。
むしろ彼の中で大きくなっていたのは、彩香と一緒にいる時の心地よさだった。
話が途切れても気まずくならない。
こちらが黙っていても、彩香が勝手に空気を軽くする。
そのくせ、ときどき不意に真司の沈黙のほうへ寄ってくる瞬間がある。
ある日の帰り道、駅までの坂道を並んで歩いていた時だった。
夕方の光が校舎の窓に鈍く反射して、風は少し冷たかった。
彩香は珍しく静かで、スマホも見ず、ただ足元の白線を踏むように歩いていた。
「今日、元気ない?」
真司が聞くと、彩香は少しだけ首を傾げた。
「そう見えた?」
「ちょっとだけ」
「真司くんって、そういうの気づくんだね」
彩香は視線を前に戻したまま、小さく笑う。
真司はその言い方が、いつもの軽さより少しだけ静かに聞こえた。
「でも大丈夫。ただ、ちょっと眠いだけ」
その声は、いつもより低く、落ち着いていた。
夕方の風景の中では、その静けさがやけに似合って見えた。
真司はその時ふと思った。
こういう顔もあるんだな、と。
朝の静けさ。
大学での明るさ。
そして今の、疲れたような落ち着き。
どれが本当ということではなく、たぶん全部が彩香なのだろう。
そうやって人は少しずつ知っていくものなのかもしれない。
駅前の信号で立ち止まった時、彩香がふいに真司の袖を軽く引いた。
「危ないよ」
前を見ていなかったらしい。
歩行者信号がもう点滅していて、自転車が横をすり抜けていった。
「あ、ごめん」
「ぼーっとしすぎ」
そう言いながらも、彩香の手はすぐには離れなかった。
ほんの一瞬。
けれど、袖越しに伝わる力が妙に生々しくて、真司はその感触を忘れられなかった。
青が変わり、人の流れがまた動き出す。
彩香は何事もなかったように手を離し、先に一歩踏み出す。
「真司くんってさ」
「ん?」
「最初、もっと遠い人かと思ってた」
「遠い?」
「うん。なんか、ちゃんとしてて、簡単には近づけない感じ」
真司は少し笑った。
それはむしろ、自分が朝の電車の彼女に抱いていた印象そのままだったからだ。
「でも違った?」
「思ったよりやさしい」
彩香は前を向いたまま言う。
冗談っぽくも聞こえたし、少し本気にも聞こえた。
駅の改札が見える。
人の足音と、電子音と、夕方のざわめきが混ざり合う。
そんな何でもない帰り道の中で、その一言だけが妙に胸に残った。
最初に手を引いたのは、彩香だった。
名前のない朝を、現実の恋のほうへ引き寄せたのも彼女だ。
真司はまだ、そのことを疑っていなかった。
ただ、その手の温度を知るたびに、なぜか時折、別の静けさが胸の奥でかすかに目を開ける。
それが誰のものなのか、彼はまだ知らない。
(第3話へつづく)
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