今日の君は、少し違う|第3話
雨の日の違和感
その週の金曜、朝から雨だった。
細かい雨粒がホームの端を白く煙らせていて、電車が入ってくるたびに、濡れた空気が車内へ流れ込んだ。いつもより人が多い。傘をたたむ音、床に落ちる水滴、湿った衣服の匂い。朝の車内はただでさえ息苦しいのに、雨の日はそれが一段重くなる。
真司は吊り革を握ったまま、窓際を見た。
いた。
今日も同じ場所に立っている。
文庫本を持つ指先。
視線を落としたまま、周囲から半歩だけ切り離されたような佇まい。
見慣れたはずのその姿を見つけると、胸の奥がわずかに落ち着く。
それと同時に、もう一つの認識が重なった。
この静かな横顔に、今は彩香という名前がついている。
そう思うことに、真司はまだ少し慣れていなかった。
大学ではよく笑う。
メッセージは軽い。
自分の前では距離を詰めるのが早い。
なのに朝は、相変わらず遠い。
人にはいろんな顔がある。
頭ではそう理解している。
けれど、それにしても振れ幅が大きい気がしてならなかった。
電車が揺れる。
彼女の肩先が、吊り革の揺れに合わせてわずかに動く。
その動きだけで、なぜか妙に目が離せなくなる。
駅に着き、大学までの道を歩く頃には、雨脚は少し弱まっていた。校舎のガラスに灰色の空が映っている。彩香からは、朝のうちに短いメッセージが来ていた。
今日、三限のあと空いてる?
真司が
空いてる
と返すと、
じゃあどっか寄ろ
とだけ来た。
絵文字がない。
それだけのことを、真司はなぜか少しだけ気にした。
三限が終わって教室を出ると、廊下の先に彩香が立っていた。
「おつかれ」
いつものように手を上げる。
でもその日の彼女は、どこか静かだった。
服装はいつもと変わらない。
髪も、メイクも、表情も、大きく違うわけではない。
けれど近づいた瞬間、真司はかすかな違和感を覚えた。
彩香にしては、話し出すまでの間が長い。
目を合わせてから笑うまでに、ほんの半拍ある。
それが気のせいの範囲でしかないことが、余計に真司を落ち着かなくさせた。
「どこか行く?」
真司が聞くと、彼女は少しだけ考えてから言った。
「雨だし、あんまり遠くないとこがいい」
その言い方も、やわらかかった。
いつもの彩香なら先に「駅前のカフェ行こ」とか、「新しくできたとこ気になってた」とか、もう少し軽く引っ張る気がする。
今日の彼女は、真司に選ばせるように言う。
「じゃあ、図書館の横のカフェでも」
「うん」
短い返事。
それで十分だと思わせるような、静かなうなずき。
二人で校舎を出て、傘を開いた。
彩香は、真司の傘に自然に入ってくるようなことはしなかった。隣を歩きながらも、肩が触れないくらいの距離を保つ。雨のせいで歩幅はいつもより小さくなるのに、その歩く速さが妙に心地よかった。
それは以前、夕方の坂道で、一度だけ感じた静けさに似ていた。
カフェは空いていた。
窓際の席に向かい合って座り、二人とも温かい飲み物を頼む。雨の日の午後の店内は、大学の近くなのに妙に落ち着いていて、会話がなくても居づらくならない空気があった。
真司はその日、自分でも不思議なくらいよく話した。
就活のこと。
地元の話。
高校の時、部活を途中でやめたこと。
大した話ではない。けれど普段なら、わざわざ言わなくてもいいと思うようなことまで、ぽつぽつと口にしていた。
彼女は多くは話さなかった。
ただ、ちゃんと聞いていた。
相槌は少ない。
でも、適当に流している感じがしない。
真司が言葉を探すたび、急かさずに待つ。
笑わせようとしない。
無理に空気をつながない。
その沈黙が、妙にしっくりきた。
「……今日の君、少し違うね」
気づいた時には、真司はそう口にしていた。
言ってから、少し後悔する。
こういう言い方は、相手を困らせるかもしれない。
けれど彼女は、驚いたように目を上げたあと、すぐには笑わなかった。
「違うって?」
「いや……なんていうか、今日は落ち着いてる」
真司は曖昧にカップへ視線を落とす。
自分でもうまく説明できない。
静か、と言ってしまうと、まるで今までがそうではなかったみたいになる。
でもたしかに、この日の彼女には、真司が最初に三両目で見ていたあの空気に近いものがあった。
「それ、いつもはうるさいってこと?」
少し遅れて返ってきた言葉は、冗談めいていた。
でもそこにも、いつもの彩香のような軽い跳ね方はなかった。
「そういう意味じゃない」
真司は慌てて首を振る。
「今日の感じ、嫌いじゃないっていうか」
そこで彼女は、初めて小さく笑った。
その笑い方まで、妙にやわらかく見えた。
真司は胸の奥に、理由のわからない熱のようなものがともるのを感じた。彩香と一緒にいる時の楽しさとは少し違う。もっと静かで、でも逃げ場のない感覚だった。
店を出る頃には、雨はだいぶ細くなっていた。
傘を開くほどでもないような霧雨の中を、二人はゆっくり歩いた。キャンパスの裏手へ続く道は人通りが少なく、濡れたアスファルトに街路樹の影が淡く落ちている。会話はとぎれとぎれだったが、気まずくはなかった。
その道の途中で、彼女が立ち止まった。
「真司くん」
呼ばれて振り向く。
彼女は何か言いかけて、やめたように見えた。
「……ううん。なんでもない」
そう言って首を振る。
その仕草が、どうしようもなく静かだった。
真司はその瞬間、強く抱きしめたいと思った。
理由はわからない。
慰めたいわけでもないし、何かを確かめたいというのとも少し違う。
ただ、その沈黙に、少しだけ触れてみたくなった。
自分でも驚くほど自然に、手が伸びた。
彼女の肩へそっと触れる。
拒まれなかった。
ほんの少しだけ身体がこわばって、それから静かに力が抜けるのがわかった。
真司はためらいながら、そのまま彼女をやわらかく抱き寄せた。
華奢だと思っていたのに、腕の中の温度は思っていたよりも確かだった。
雨上がりの冷えた空気の中で、そのぬくもりだけが妙に鮮明に伝わってくる。
彼女の手が、そっと真司の袖をつかむ。
強くはない。
でも、そのわずかな力が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
顔を上げると、すぐ近くにその横顔があった。
見慣れているはずなのに、その時だけは、朝の車窓で見ていた静かな輪郭が、急にこちらへ近づいてきたように思えた。
真司はゆっくりと、彼女の頬に触れた。
彼女は逃げなかった。
ただ、目を伏せる。
そのまま、もう少しだけ近づこうとした時だった。
彼女が小さく首を振る。
拒絶ではない。
けれど、それ以上は進ませないという静かな意思が、そこにはあった。
「……今日は、ここまで」
その声は低く、やわらかかった。
真司はしばらく動けなかったが、やがて小さくうなずいた。
不思議と傷つきはしなかった。
むしろ、その止め方すら彼女らしく思えて、胸の奥に長く残った。
離れると、彼女は少しだけ視線を伏せたまま、指先だけをこちらへ差し出した。
真司がためらいながらその手に触れると、彼女はほんの短いあいだだけ、静かに握り返す。
そのぬくもりは、抱きしめた時よりも、なぜか深く残った。
「送る」
と言いかけた真司に、彼女は首を振る。
「大丈夫。ここからすぐだから」
そのあと、彼女は小さく笑った。
その笑い方は、大学でよく見る彩香の明るさとは違った。
もっと控えめで、でもそのぶん、真司には深く刺さった。
別れてからしばらく、真司はその場を動けなかった。
雨上がりの空気は冷たいのに、腕の中に残っているぬくもりだけが消えない。
袖をつかんだ指先の感触も、頬に触れた時の静かな沈黙も、全部が妙に鮮明だった。
その夜、彩香からメッセージが来た。
今日ありがとー!
レポートやばいから寝落ちしそう笑
画面を見た瞬間、真司はわずかに眉を寄せた。
軽い。
いつもの彩香だ。
それ自体は何もおかしくない。
むしろ安心するはずなのに、真司の中では昼間の静かな空気と、今画面の向こうにいる彩香が、どうしてもうまく重ならなかった。
こちらこそ。今日は楽しかった
と返して、スマホを伏せる。
天井を見上げる。
部屋は静かで、外ではまだ少しだけ雨の名残が音を立てていた。
今日の君は少し違う。
口にした時は、ただの雰囲気の話のつもりだった。
けれど今は、その言葉が自分の想像以上に深いところへ沈んでいる気がした。
その小さなずれが、まだ名前を持たないまま、少しだけ輪郭を濃くした。
(第4話へつづく)
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