今日の君は、少し違う|第4話
恋人の外側
十月に入ると、大学の空気は少しだけ変わる。
夏の終わりのだるさが抜けて、かわりに、何かを決めなければいけない季節の乾いた緊張が入ってくる。就活を終えた者と、まだ途中にいる者。卒論の話をし始める者と、まだ見ないふりをしている者。
キャンパス全体が、表面上はいつも通りなのに、見えないところで少しずつ先へ進もうとしていた。
——そのはずだった。
真司も、その流れの中にいた。
けれど最近、自分の一日の輪郭を決めているのは、就活の進み具合でも、ゼミの課題でもなかった。
朝、三両目に立つこと。
大学で彩香に会うこと。
メッセージの通知が来ること。
そのひとつひとつが、思っていた以上に生活へ入り込んでいた。
彩香とは、もうかなり自然に一緒にいるようになっていた。
学食で隣に座る。
講義のあと、駅まで並んで歩く。
短いやりとりのつもりで始まったメッセージが、いつのまにか夜まで続いている。
真司は彼女より少し大学寄りの駅から乗る。帰りは途中まで同じ電車だから、どちらかが一駅ぶんだけ付き合って、一緒にいる時間を少しだけ長くすることも増えていた。
「ねえ、真司くんってさ」
ある日の帰り道、彩香がコンビニの前で足を止めた。
ガラス越しに見える店内の明かりが、もう秋の夜に近い空気のなかで明るすぎるくらい浮いている。
「ん?」
「付き合うって、ちゃんと言われたいタイプ?」
真司は一瞬、言葉を失った。
彩香はいたずらっぽく笑っている。
でもその目だけは、思ったよりずっとまっすぐだった。
「急だな」
「急かな。けっこう経ってるよ、こういう感じになってから」
たしかにそうだった。
誰が見ても、もう友達ではないだろう。二人でいる時間は増えたし、会えない日には少しだけ物足りなさを覚える。朝、彩香を見つけるとほっとするし、別れ際には、次に会うまでの時間をもう数えている自分がいる。
言葉だけが、まだどこにも置かれていなかった。
「彩香は?」
真司が聞き返すと、彩香は肩をすくめる。
「私は、なくても、わかるならいいかなって思ってた。でも、たまに不安になる」
「不安?」
「うん。私ばっかり先に進んでるのかも、って」
彩香がそういう顔をするのを、真司は初めて見た気がした。
いつも自分から手を伸ばしてくる。距離を詰めるのも、空気を動かすのも彩香のほうが先だ。だから真司はどこかで、彼女は迷わない人なのだと思い込んでいた。
けれど実際には、先に手を伸ばす人ほど、その先に何が返ってくるのかを誰より気にしているのかもしれない。
真司は少し黙ってから、言った。
「俺は、たぶんちゃんと言った方がいいタイプだと思う」
彩香は瞬きをして、それから小さく笑った。
「自分のことなのに、“たぶん”つくんだ」
「今わかったから」
「遅いなあ」
そう言いながらも、彩香の声はやわらかかった。
真司はその夜、自分の部屋に帰ってからも、コンビニ前のあの会話を何度も思い返した。付き合う、という言葉は、今さら確認するまでもないもののようでもあり、逆に、それがあるだけで急に現実が重くなるもののようでもあった。
けれど翌朝、三両目の車内で窓際の静かな横顔を見たあと、大学の構内で彩香がこちらへ手を振ってくるのを見た瞬間、真司は妙にすんなり思った。
もう、そう呼ぶしかないところまで来ているのだと。
昼休み、人気の少ない校舎裏のベンチで、真司は言った。
「俺たち、付き合ってるんだよな」
彩香は最初、少しだけきょとんとした顔をした。
それから、笑う。
「なにそれ。今さら確認?」
「ちゃんと言った方がいいって思ったから」
「そっか」
彩香はそう言って、少しだけ視線を落とした。
その横顔に、ほんのわずかに安心したような色が差す。
「じゃあ、付き合ってるってことで」
「ことで、って」
「だって真司くん、いきなり完璧な台詞とか言わなそうだし」
「悪かったな」
「悪くないよ」
彩香は笑って、ベンチの上でそっと真司の手の甲に指先を重ねた。
ほんの軽い接触だったのに、そのやわらかい重みが、言葉より先に胸へ落ちてくる。
「でも、うれしい」
その一言が、真司には思っていたより深く響いた。
付き合う、という言葉が置かれたあとも、二人の距離が劇的に変わるわけではなかった。
むしろ、それまでの流れがそのまま少しだけ自然になるだけだった。
学食で隣に座ることに、もう理由はいらない。
帰り道に手をつなぐかどうかで変に迷うこともなくなる。
夜に電話をかけても、「何かあった?」ではなく「どうしたの」が先に来る。
それだけの変化なのに、真司にとっては思っていた以上に大きかった。
名前のない関係は、それだけでどこか危うい。けれど一度“恋人”という輪郭を与えられると、その内側の時間は急に守られたものになる。
彩香は、その変化を楽しんでいるようだった。
「ね、恋人っぽいことしようよ」
週末、駅前で待ち合わせたあと、彩香が言った。
秋物の薄いニットにロングスカートという、いつもより少し落ち着いた服装だった。髪も軽く巻いていて、けれど気合いが入りすぎている感じはない。その“少しだけ”の丁寧さが、今日を普段と違う日にしたがっているように見えた。
「恋人っぽいことって?」
「映画とか、ごはんとか、そのあとちょっと長く歩くとか」
「それ、もう何回かしてるだろ」
「してるけど、今日は意識してやるの」
理屈はよくわからない。
でも彩香らしかった。
名前がついたあとで、もう一度ちゃんと最初から始めたいのかもしれない。
映画を観て、駅前の店で遅めの夕食を取った。
彩香はよく笑っていたし、真司もそれにつられて肩の力が抜けた。内容の薄い話ばかりしていた気もする。上映中に隣の席で小さく笑ったこと、料理の皿を交換したこと、店を出る時にどちらが会計するか少し揉めたこと。どれも大した出来事ではない。けれど、そういう断片の積み重なりが、その日をちゃんと恋人の時間にしていた。
駅まで戻る道で、彩香が急に立ち止まった。
「今日、まだ帰りたくない」
人通りの多い通りだった。
ネオンの反射した歩道を、何組もの人が通り過ぎていく。そのなかで彩香だけが、少し低い声でそう言った。
真司はすぐには返事ができなかった。
意味はわかる。
わかるからこそ、軽く返したくなかった。
彩香は冗談めかして笑うこともできたはずなのに、その時はしなかった。
ただ、真司を見ている。
「……俺も」
言うと、彩香の肩から力が抜けたように見えた。
そのあと二人がどこへ向かうかは、言葉にしないでも決まっていた。
部屋に入ると、外の音が遠くなる。
夜の明かりだけが、薄く部屋の輪郭を作っていた。
彩香が先に動いた。
いつものように大胆というのではない。
少しだけ不安そうに、それでも引かずに、真司の名前を呼ぶ。
その呼び方に、真司はすべての迷いを手放した。
急がないようにしようと思った。
大事にしたいと思った。
それは綺麗事ではなく、ほんとうにそうだった。
最初に触れたのは指先だった。
ほんの小さな震えが、自分のものか彩香のものか、もうわからない。
顔が近づく。
呼吸が混じる。
どちらからともなく目を閉じると、言葉はそれ以上いらなくなった。
彩香の明るさが、ひとつずつ奥へしまわれていく。
その静けさの底で、たしかにこちらを受け入れようとしているのがわかって、真司は胸の奥が少し痛むほどやさしくなった。
触れるたびに、腕の中の体温が深くなっていく。
最初はかすかにこわばっていた身体が、やがて静かに力を抜いて、真司へ預けられていく。
彩香が小さく真司の名を呼ぶ。
その声だけが、夜の中で鮮明だった。
それ以上のことは、言葉にしないまま、夜の底へ沈んでいった。
すべてが静かになったあとも、しばらく二人は離れなかった。
乱れた呼吸が少しずつ落ち着いていく。
肩に触れる頬のぬくもり。
まだ熱の残る指先。
彩香が真司の胸元へ額を寄せたまま、小さく息をつく。
「……ほんとに、付き合ったんだね」
半分笑っているような、半分は泣きそうな声だった。
「今さらそれ言う?」
「だって、こういうのって、ちゃんとあとから実感くるじゃん」
真司は返事の代わりに、彼女の髪をそっと撫でた。
彩香はそのまま顔を寄せてくる。頬が肩に触れて、そのぬくもりがじわじわと残っていく。
幸福だと思った。
ちゃんと、そう思った。
彩香といる時間は嘘ではない。
手を伸ばしてきたのは彼女で、それに今、自分はきちんと応えた。
恋人になるということが、こういうふうに現実へ落ちてくるものなのだと、その夜はじめて実感した気がした。
それなのに。
部屋の中が静かになるにつれて、真司の胸の奥に、ひどく小さな何かが引っかかった。
不満ではない。
足りなかったわけでもない。
ただ、全部が満ちたはずの場所に、なぜか別の記憶の輪郭がひとつだけ残っている。
雨の匂いを思い出す。
カフェの窓を打つ音と、向かい側でほとんど笑わなかった横顔。
あの日だけ、なぜか言葉より沈黙のほうがしっくりきた。
抱きしめた温度はたしかに彩香のものだった。
そのぬくもりに、嘘はひとつもなかった。
それでも、静まったあとにだけ立ち上がる別の気配が、どうしても消えない。
彩香はもう寝かけているのか、呼吸が少しだけ深くなっていた。
その頬にかかった髪を見ながら、真司は自分の中に浮かんだ感覚に、まだ名前をつけられずにいた。
その輪郭のすぐ外側に、まだ言葉にならない静けさがひとつ、影のように寄り添っている。
(第5話へつづく)
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