今日の君は、少し違う|第5話
越えない境界
雨のあとには、街の輪郭が少しだけ澄んで見えることがある。
その日の夕方もそうだった。 講義が予定より早く終わり、彩香との待ち合わせまで少し時間があいた。空はもう薄く暮れ始めていて、大学の正門前を行き交う学生たちの足も、昼間より少しだけ急いで見える。
真司は駅前の小さな書店に入った。 就活本の並ぶ棚を一度だけ眺めたあと、結局いつものように文庫コーナーへ向かう。何かを探していたわけではない。待ち合わせまでの時間をやり過ごすために、静かな場所へ入りたかっただけだ。
棚の前に立つ後ろ姿を見つけたのは、その時だった。
後ろで軽く束ねられた髪。 細い首筋。 本を選ぶ時の、余計な動きのない指先。
真司はほとんど何も考えずに声をかけた。
「彩香」
相手が振り向く。
顔を見た瞬間も、真司は疑わなかった。 彩香に見えた。 いや、見えたというより、そう思う以外の発想が浮かばなかった。
ただ、目が合ってから笑うまでに、ほんのわずかな間があった。
「……あ」
それだけ言って、彼女は小さく目を伏せた。 その反応が、真司には少しだけ意外だった。彩香ならもっとすぐ、「なに、その顔」とか「びっくりした?」とか、先に軽く笑ってくる気がする。
「待たせた?」 真司が聞くと、彼女は首を横に振った。
「まだ」
声も、たしかに彩香に聞こえる。 でも、どこか置き方が違う。 言葉が一歩前に出てこない。 手渡されるまでのあいだに、ひと呼吸ぶんの沈黙がある。
真司はその違和感を、また"気分の違い"として受け取ることにした。 最近はそういうことが増えている。明るくて、近くて、先に手を伸ばしてくる彩香。けれど時々、まるで別の人みたいに静かになる瞬間がある。
真司が棚へ目を向けると、彼女は手にしていた文庫本の背表紙へ視線を落とした。
「今日は、なんか落ち着いてるね」
気づくと、またそういうことを言っていた。 自分でも、ずいぶん同じところを気にしていると思う。けれど言わずにはいられなかった。
彼女は一瞬だけ目を上げる。 その視線はまっすぐではなく、少しだけためらうように真司へ触れて、それからまた逸れた。
「そうかな」
「うん。なんていうか……」
真司はそこで言葉を切る。 "しっくりくる"と言いかけて、やめた。 その感覚を口にすると、何かが少しだけ越えてしまう気がしたからだ。
彼女はそれ以上聞かなかった。 その聞かなさが、余計に静かだった。
数秒の沈黙のあと、彼女がポケットの中のスマホを取り出す。 画面を見て、ほんの少しだけ表情が変わる。
「ごめん。ちょっとLINE返してくる」
「うん」
それだけ言って、彼女は文庫本を元の棚へ戻し、足早でもなく、でもためらいなく店の外へ出ていった。
真司はその場に残される。 妙な感じだった。 待ち合わせの途中に会ったのだから、また戻ってくるのだろう。そう思うのに、なぜか今の数分だけがひどく印象に残る。
本棚へ視線を戻しても、背表紙の文字が頭に入らない。 "今日の彩香"は、いつもよりずっと静かだった。 けれど冷たいわけではなかった。むしろ、少し近づきすぎると困るみたいな、そんな引き方だった気がする。
その時、背後から明るい声がした。
「ごめん、待った?」
真司が振り向く。
彩香だった。
今度こそ、本当に。 そう思ったのは、顔を見た瞬間というより、声が耳へ届いた瞬間だった。 同じ顔のはずなのに、空気の入り方が違う。 言葉が先にこちらへ来る。 笑うまでの間がない。
真司は一瞬、何も言えなかった。
「……え」
彩香が首を傾げる。
「なに、その顔。そんな待たせた?」
「いや……」
真司は無意識に、さっき彼女が出ていった方の入口へ視線をやった。 でも、そこには誰もいない。
彩香はその視線を追わなかった。 ただ不思議そうに真司を見る。
「どうしたの?」
「いや、さっき」
そこまで言って、真司は言葉を切った。 さっきまで一緒に話していた、とは言えなかった。 いや、言うべきなのかもしれない。 でも、そんなはずはないという理屈の方が先に立つ。
今の数分が、気のせいだったようにも思えてくる。 同じ顔をしていて、同じ声を持っている相手に、印象の差だけで別人みたいなことを考えるのは、自分の方がおかしいのかもしれない。
「さっき?」
彩香が笑う。
「なに、変なの」
その"変なの"が、真司には妙に現実的に聞こえた。 さっきまで感じていた静かな密度が、いま目の前にいる彩香の一言で、少しだけほどけてしまう。
「……いや、なんでもない」
「ほんと?」
「うん」
彩香は少しだけ怪しそうにしながらも、それ以上は追及しなかった。 そのかわり、当たり前みたいに真司の袖口を軽く引く。
「じゃ、行こ。おなか空いた」
その仕草に、真司はほっとするような、でも逆に落ち着かないような気持ちになる。
歩き出してからも、さっきの感触が消えない。 並んでいるのは彩香だ。 それは間違いない。 歩く速度も、喋り方も、ちょっとした笑い方も、やっぱりいつもの彩香だ。
なのに真司の中には、ほんの数分前に文庫コーナーで向き合っていた"彩香"の静けさが、くっきり残っている。
「真司くん、今日ほんと変だよ?」
駅前の横断歩道で信号を待ちながら、彩香が笑う。
「そう?」
「そう。さっきから、ちょっと上の空」
真司は曖昧に笑ってごまかした。 説明できる気がしない。
さっきまで一緒にいたはずの相手と、今こうして隣にいる相手が、同じ人なのにどこか違う。 そんなことを言ってしまったら、自分のほうが変に聞こえる。
「最近、そういう時あるよね」
彩香が信号の向こうを見たまま言う。 その横顔は明るくて、親しみやすくて、真司が知っている彩香そのものだった。
「どういう時?」
「なんか、急に静かになる時」
それはむしろ、彩香の方に向けて言いたい言葉だった。 けれど真司は何も返さなかった。
青に変わり、人の流れが動き出す。 彩香はその波に先に入っていき、少しだけ振り返って真司を見る。
「ほら」
笑って手招きする。 いつも通りのその明るさが、今だけは少し遠く感じた。
店に入ってからも、彩香はよく喋った。 講義のこと。 友達のこと。 最近ハマっているドラマのこと。 真司も相槌を打って、ちゃんと会話をした。 でも心の奥では、ずっとさっきの数分が残っていた。
本棚の前に立つ静かな横顔。 目が合ってから笑うまでの、わずかな間。 「ごめん。ちょっとLINE返してくる」と言って外へ出た時の、少しだけ急ぐような背中。
あれはたしかに彩香だったはずなのに、今こうして向かいに座っている彩香とは、どこか空気の置き方が違う気がする。 考えすぎだと思う。 そういう日もあるのだろう、と頭では思う。 けれど、妙に静かだったあの数分だけが、なぜか胸の奥に残って離れなかった。
夜、別れ際。 改札の手前で、彩香が少しだけ真司の顔をのぞき込む。
「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫」
「ならいいけど」
彩香は小さく肩をすくめたあと、ふと思い出したように言う。
「そういえば、今日お姉ちゃんも駅前の方に来るって言ってたな」
真司は「へえ」とだけ返した。 それ以上、そこに意味を見出そうとはしなかった。 兄弟姉妹の話としては、それだけのことだった。
けれど、なぜかその一言が、すぐには頭の中から消えなかった。
「たまにこっちの本屋寄るんだよね」
彩香は軽い調子で続ける。 真司はうなずいたが、そこでようやく、自分が少し長く黙っていたことに気づいた。
「真司くん?」
「……いや、なんでもない」
彩香は少しだけ怪しそうな顔をしたあと、すぐに笑った。
「今日ほんと変」
その言い方は、いつもの彩香そのものだった。 明るくて、少し軽くて、余計な含みのない声。
真司も曖昧に笑い返す。 けれど胸の奥では、本棚の前にいた静かな"彩香"の輪郭だけが、まだ薄く残っている。
家に帰ってからも、落ち着かなかった。
ベッドに横になり、目を閉じる。 すると浮かぶのは、今夜一緒にいた彩香の笑顔ではなく、本棚の前で短く言葉を交わした、あの静かな横顔の方だった。
同じ顔のはずなのに、記憶の残り方が違う。 明るく話した時間より、ほんの数分だけの沈黙の方が深く残る。
それが何を意味するのか、真司にはまだわからない。 わからないまま、でも無視もできない違和感だけが、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
この違和感には、まだ名前がない。 けれどたぶん、いつか自分の目で見てしまえば、もう戻れない種類のものだという予感だけはあった。
(第6話へつづく)
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