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今日の君は、少し違う|第10話

境界の朝

彩香と別れた夜、真司はまっすぐ帰れなかった。

改札を抜けても、足は家の方へ向かおうとしない。駅前の灯りを少し離れたところで眺めながら、ただあてもなく歩いた。

街はいつも通りだった。酔った声がして、信号が変わり、閉店前の店のシャッターが半分だけ下りている。どこにも特別なことなんて起きていないように見える。それなのに真司の中だけが、まだ別の時間にいるみたいだった。

彩香の言葉が、何度も胸の奥へ戻ってくる。

最初に好きになったのは、私だった。

その通りだと思った。そこを否定する余地はひとつもない。

最初に真司の恋を現実へ引き寄せたのは彩香だった。笑って、手を伸ばして、名前をくれて、恋人という輪郭まで連れていってくれた。

でも同時に、静かな方へ惹かれてしまったことも消えない。

三両目の窓際。文庫本を開く横顔。人混みの中で、その周囲だけ少し時間の流れ方が違って見えた朝。

最初から触れていたのは、あの静けさの方だった。

それでも——だからといって、彩香との時間が嘘になるわけではない。

そのことが、真司にはいちばん苦しかった。

夜風の中をしばらく歩いたあと、真司はようやく駅へ戻った。

上りの終電にはまだ少しだけ余裕がある。
ホームに上がると、人はまばらだった。

ベンチの端に一人で座るスーツ姿の男と、イヤホンをした学生が数人。

その少し手前のベンチに、澄香がいた。
文庫本を開いている。 待っていたのだと、すぐにわかった。

真司の足が、わずかに止まる。

澄香はページをめくる手を止める。

顔を上げる。

目が合う。

ほんのわずかな間のあと、澄香は本を閉じた。

「……来ると思ってました」

驚きはなかった。

逃げるでもなく、呼びかけるでもなく、

ただ、そこにいることを前提にしていたような静けさだった。

それが、あまりにも澄香らしかった。

真司は数歩だけ近づく。

近づいても、まだ何を言えばいいのかわからない。

聞きたいことはたくさんある。

でも、今ここで問い詰めるようなことだけはしたくなかった。

「……帰り?」

ようやく出た言葉は、それだった。

澄香は小さくうなずく。

「はい」

低く、やわらかい声だった。

それを聞いた瞬間、真司は自分の中の緊張が少しだけほどけるのを感じた。

今いちばん落ち着かないはずの相手なのに、声を聞くだけで呼吸が整う。

少し離れた場所に立ったまま、二人はしばらく黙っていた。

ホームに風が抜ける。電車の接近を知らせるアナウンスが、まだ遠くから響く。

澄香が先に口を開いた。

「彩香と、話せましたか」

真司は目を上げる。

その問い方には探る感じがなかった。ただ、聞くべきことをわかっている人の静かな響きだけがある。

「うん」

「そうですか」

それだけ言って、澄香はまた黙る。

真司はその横顔を見つめた。

名前を知る前から何度も見ていたはずの輪郭。でも今は、澄香という名前と一緒にそこにある。

「……彩香のこと」

言いかけると、澄香は少しだけ視線を伏せた。

「ちゃんと好きだった」

その言葉は、自分のためというより、伝えておくべきことのように思えた。

澄香はすぐには何も言わなかった。けれど、ほんのわずかに唇を引き結ぶ。

その小さな反応だけで、真司には十分だった。

「私も、そう思ってました」

やがて、澄香は静かに言う。

「だから、余計に駄目だと思ってた」

その一言の中に、どれだけの時間が詰まっているのか、真司には想像しきれなかった。

「でも、会いに来た」

真司が低く言う。

澄香は少しだけ目を閉じ、小さくうなずく。

「……はい」

「どうして?」

風がまた吹いた。澄香の髪がわずかに揺れる。

「会いたかったから」

飾りのない言い方だった。

「ずっと、見てるだけでよかったんです」

澄香は続ける。

「朝の電車で、真司がそこにいるのが見えるだけで、十分なはずでした」

その言葉は、朝の電車でただ見ているだけだった頃の自分の気持ちと、どこか重なっていた。

「でも、それじゃ足りなくなった」

澄香は、かすかに笑う。

「あの日は、彩香の代わりじゃなくて、私のまま会いたかった」

その言葉が、静かに落ちる。

「……俺も」

真司は言う。

「最初から、たぶん違ってたんだと思う」

澄香がこちらを見る。

「静かな方へ触れた時だけ、自分の中の何かが落ち着いた。」
「それが澄香だったって、今はわかる」

電車が入ってくる音がする。

澄香はしばらくしてから、小さく言った。

「嬉しいです、とは言えません」

「言えない?」

「彩香がいるから」

その言葉は正しかった。

「でも」

ほんの少し息をつく。

「それでも、名前を呼ばれた時は、嬉しかったです」

真司は、思わず手を伸ばしかける。

でも途中で止める。

その動きを、澄香は見ていた。

見て、何も言わない。

ただ、ほんの一歩だけこちらへ近づく。

もう他人の距離ではなかった。

「……抱きしめてもいい?」

澄香はすぐには答えなかった。

ほんのわずかな間のあと、小さくうなずく。

真司は、そのままそっと抱き寄せた。

華奢な身体が一瞬だけこわばり、それからゆっくりと力が抜けていく。

澄香の手が、ためらいながら背へ触れる。

離れる気配はなかった。

真司は少しだけ身体を離し、澄香の顔を見る。

目を伏せたまま、呼吸だけがわずかに乱れている。

頬に触れると、夜気の冷たさの下にある熱が指先へ伝わった。

そのまま、唇が重なる。

たしかめるだけでは足りなかった。

それでも、奪うようにはならない。

離れないまま、静かに続いていく。

澄香は最初、わずかに肩を揺らしたが、やがて力を抜いた。

もう戻らないと決めた人の受け止め方だった。

やがて真司は、ゆっくりと唇を離す。

何も言わない。

澄香も、何も言わない。

それでも、もう以前の場所には戻れないことだけは、はっきりしていた。


翌朝。

真司は少し早く家を出た。

空気は冷たく、ホームの端にはまだ朝の白さが残っている。

三両目の停止位置に立つ。

電車が入ってくる。

ドアが開く。

窓際に、澄香がいる。

文庫本を開く横顔。

真司は迷わず、その隣へ立った。

「……おはよう」

「おはよう」

それだけで十分だった。

車内は少し混んでいる。

ドア付近に人が溜まり、視界が狭い。

次の駅。

ドアが開く。

人が動く。

その一瞬、視界が開ける。

向こうに、彩香がいた。

ほんの少し遅れて、真司はそれに気づく。

彩香も、二人に気づく。

一瞬だけ止まり、それからわずかに笑った。

「……おはよ」

少しだけ、遅れて言った。

軽い声だった。
けれど、その奥にあるものは以前とは違っていた。

彩香は、少しだけ距離を取った位置に立つ。
近くもなく、遠くもない場所。

三人が、同じ車両にいる。

以前とは違う。
けれど、完全に切れたわけでもない。

電車が動き出す。
吊り革が揺れる。
その揺れに合わせて、わずかに距離も揺れる。

真司は、窓の外を見る。
流れていく朝の光。

選んだ、という実感はなかった。
それでも、戻れない場所に立っていることだけは、わかっていた。

澄香は本に視線を落としたまま。
彩香は、どこでもない一点を見ている。

真司は、そのあいだに立っている。

それでも、位置はもう決まっていた。

電車は、次の駅へ向かっていた。

(完)


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