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今日の君は、少し違う|第9話

最初に好きになったのは

彩香に呼ばれたのは、日曜の夜だった。

場所は大学近くではなく、駅を二つ離れたところにある小さなファミレスだった。遅い時間で、人も少ない。窓の外には幹線道路の灯りが流れていて、店内には食器の触れ合う音と、低いBGMだけが静かに混じっている。

真司が着いた時、彩香はもう奥の席に座っていた。ドリンクバーのグラスに入った氷が、少しだけ溶けていた。

「ありがと」

真司が向かいに座ると、彩香はそう言った。いつもの軽さはない。でも、泣きそうでもなかった。泣かないと決めてきた顔だった。

「うん」

真司は短く返す。何から話せばいいのかわからなかった。

聞きたいことはもう、ほとんど聞いた気もする。
でも、聞いただけでは収まらないものが、まだ胸の奥に残っていた。

しばらく沈黙が落ちたあと、彩香が先に口を開いた。

「ごめんね、って言うの、なんかもう違う気がする」

真司はグラスの水を少しだけ飲んだ。その言葉の続きを待つ。

「ごめん、は本当にあるよ」
彩香は視線をテーブルに落としたまま言う。
「でも、それだけ言っても、たぶん何も合わないから」

真司は小さくうなずいた。それはたぶん、その通りだった。


「……私ね」

彩香が顔を上げた。その目はまっすぐだった。

「最初に好きになったのは、私だった」

真司は何も言わなかった。でも、その言葉を否定する気持ちはひとつもなかった。

「最初に見つけたのも、話しかけたのも、恋人になったのも私」

彩香はそこで少しだけ息をつく。
笑わない。ただ、自分の輪郭を確かめるみたいに言葉を置いていく。

「そこは、なくならないよね」

その問いは、責めるためのものではなかった。
確認したかったのだ。自分との時間が、ただの通り道ではなかったことを。

真司はすぐに答えた。

「なくならない」

彩香のまつ毛が、ほんの少しだけ揺れる。

「嘘じゃなかったよ」

真司は続ける。
「彩香といた時間も、好きになったことも」

それを聞いて、彩香はようやく小さく笑った。でも、その笑みはすぐにほどける。

「そっか」

たったそれだけなのに、真司にはその一言がひどく重く聞こえた。


しばらくの沈黙のあと、彩香が言う。

「ねえ」

真司は顔を上げる。

「私といた時間ってさ」

少しだけ言葉を探す。

「ちゃんと、あったよね」

その問いは静かだった。
でも、逃げ場はなかった。

真司はすぐに答えた。

「あった」

言葉に迷いはなかった。


彩香はそれを聞いて、小さくうなずく。

「なら、いいや」

そう言った声は、少しだけ掠れていた。

全然よくないはずなのに、そう言うしかないことが、真司にもわかった。


「私ね」
彩香は続ける。
「たぶん、最初から少しわかってた」

真司は黙って聞いている。

「なんか、届ききってない感じ」

言葉は曖昧だった。でも、その曖昧さの方が正確だった。

「全部じゃないところに、触れてる感じ」

真司は目を伏せる。

否定しようと思えばできたかもしれない。
でも、それを言葉にした瞬間、何かが嘘になる気がした。


「でも、それでもよかったんだと思う」
彩香は言う。
「その中で好きになったのは、本当だったから」

真司は小さくうなずく。


少し間が空く。

彩香が、ほんの少しだけ笑う。

「私ね」
「ちゃんと好きだったよ」

それは確認でも主張でもなかった。
ただ、置いていくだけの言葉だった。


ファミレスを出た時、夜の空気は思ったより冷たかった。

駅までの短い道を、二人は並んで歩く。

以前なら自然につないでいた距離のまま。でも、今はどちらからも手を伸ばさない。

その中途半端さが、今の二人にはいちばん正直だった。


改札の手前で、彩香が足を止めた。

「ねえ」

真司が振り向く。

彩香は少しだけ笑った。どこかぎこちない笑い方だった。

「でもね」
真司をまっすぐ見て、言う。
「最初に好きになったのは、私だったから」

真司は何も言えなかった。

何か返そうとすると、どんな言葉も少しずつ違ってしまう気がした。


沈黙が落ちる。

そのあと、彩香がほんの一歩だけ近づいた。

抱きつくわけでもない。すがるわけでもない。
ただ、真司の袖口を、昔みたいにそっとつまむ。

強くはない。
引き止めるほどの力もない。

それでも、その指先の熱だけは、驚くほど鮮明だった。

「……これで終わり、って感じしないね」

彩香は少しだけ目を伏せて笑う。掠れた声だった。

真司は反射みたいに、その細い指へ手を重ねそうになる。
でも、その手は途中で止まった。

彩香はそれを見ていた。見て、何も言わない。


ただ、自分からそっと指をほどく。

離れていくぬくもりが、触れていた時間よりずっと長く残る。


「じゃあね」

今度の声は、少しだけいつもの彩香に近かった。

そのまま背を向けて歩いていく。振り返らない。
でも、強がりだけでもない歩き方だった。


真司はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。

彩香のことを、ちゃんと好きだった。
それは間違いない。

先に手を伸ばしてくれた人で、
恋を現実へ連れてきてくれた人だった。


でも今、胸の奥に残っている静けさには、もう名前がある。

澄香。


その名前を知ってしまったあとでは、
以前と同じ場所には戻れない。


夜の改札を抜けながら、真司は思う。

恋は、きれいに終わってから次へ行けるものばかりじゃない。

誰かの体温を少しだけ引きずったまま、
別の名前を呼んでしまうこともあるのだと。


そしてそのことを、いちばん先に見抜いていたのは、たぶん彩香だった。

(第10話へつづく)


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