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【創作大賞2026応募作品】剥がせない名前 あらすじ& 第1章:朝に残る名の跡

    あらすじ:外された灯り

    東京の看板撤去会社「三路撤工」で働く芦倉祈乃は、閉店した店の看板を取り外す現場に立ちながら、自分の中に残る過去を無視していた。

    作業パートナーの木皿央路は、祈乃の強がりに気づきながらも踏み込まず、声と手つきだけで距離を測る。朝の光、夜の匂い、剥がされた文字の跡が積もるにつれ、仕事上の距離感だと思っていた感情が形を変えていく。

    雨上がりの路地、高架下の煤けた壁、高所の風、そして、残すと決めた写真館の看板。祈乃は、名前を外すたびに央路の名を胸に濃く残してしまう。

    別現場へ移る予感が近づくころ、まだ何も始まっていない関係には失う前の痛みだけが先に灯る。逃げ場を残したまま央路の近くにいたいと祈乃は願い、央路もまたその言葉を雑に扱わない。

    最後の夜、街から大きな看板の光が消えた後、祈乃と央路は、まだ恋人という名には届かない関係に最初の小さな呼び方を置く。剥がされた名前の跡に、消えない微光だけが、静かな夜の奥に、残る。

    第1章:朝に残る名の跡

    朝の光が資材置き場の鉄骨を淡くなでる。芦倉祈乃はスマートフォンを傾け、撤去予定の看板の写真を拡大した。画面の端を親指でそっとなでるたびに、はがされるはずの店名がわずかに揺れて見える。

    「まだ写真、気になる?」

    背後から低く落ち着いた声がする。木皿央路が脚立を肩に担ぎ、影だけを近づけてきた。祈乃は返事を探しながら工具箱に視線を落とした。

    「外す前に形を覚えておきたいだけ」

    「そっか。じゃあ、昼の空気が乾く前に下見に行こう」

    祈乃は軽くうなずいた。脚立の金具が触れ合って乾いた音が響き、朝が切られた。央路は工具を積む手を止め、壊れかけた看板枠を指でそっと押さえた。その仕草に、昨夜の街灯のシミが一時的に戻った。

    三路撤工の事務所は東京の片隅にある小さな作業場の奥にあった。表通りから少し折れた場所で古いアパートの壁と低い倉庫に挟まれ、朝になると隣の建物の影が細長く敷地へ伸びてくる。社名の入ったプレートは派手ではなく白い板に青黒い文字が少し色あせて貼られているだけだったが、祈乃はその無骨さを嫌いではなかった。

    作業車の側面にも同じ文字があった。「三路撤工(みつじてっこう)」と書かれており、きれいに飾られた名前ではないのに、何度も現場へ出て戻ってきたような傷があり、洗っても落ちないほこりが文字の縁に残っていた。

    祈乃はその文字を見るたびに、ここには飾りのない仕事しかないのだと思う。外す、運ぶ、記録する、片付ける。終わった店の名前や、古くなった光や、誰かがもう呼ばなくなった場所のしるしを、街から静かに剥がしていく。

    「養生、積んだ?」

    「積んだ。あと替えの軍手も」

    「助かる」

    央路はそう言って、祈乃のほうを見すぎない程度に目を動かした。軽い声なのに、名前を呼ばないときでもそこには妙に逃げ場の少ない柔らかさがある。祈乃はそれを仕事の癖だと決めつけ、軍手の手首部分を少し引っ張った。

    作業車の荷台からは金属と埃の匂いがした。古いビス、外した金具、丸めた養生シート、雨の日に濡れて乾いたロープの匂いが混じっている。祈乃はその匂いを吸い込むと胸の奥に小さな砂が積もるような感覚を覚えた。

    前の仕事を辞めた後、自分がどこへ行けばいいのか分からないまま三路撤工に流れ着いた。きれいな理由ではなかったし、何かをやり直すというほど立派な気持ちもなかったが、名前の残る場所を扱う仕事なら自分の中にまだ残っているものに触れずにいられる気がした。

    しかし実際には、作業をするたびに何かが残る。看板の裏の黒ずみ、壁面の四角い日焼け、ネジ穴の影、剥がれきらない接着剤の跡。終わったはずのものが、思ったよりもずっとそこに存在していた。

    「祈乃」

    名前を呼ばれて息がわずかに浅くなり、央路は運転席側のドアに手をかけたままこちらを急かすでもなく待っていた。祈乃はその一瞬をなかったことにしてスマートフォンをポケットへしまった。

    「今行く」

    声は平然と出た。自分でも少し冷たく聞こえるくらいがちょうどよかった。

    作業車のドアが閉まる音が朝の小さな敷地に低く響いた。祈乃は助手席に座り、足元の工具袋が揺れないよう膝で押さえた。車内には昨日の現場の空気がまだ残っていて、窓を少し開けると、東京の朝が薄い膜のように流れ込んできた。

    道はまだ湿っていた。夜のうちに降った雨の名残がアスファルトのくぼみに残り、建物の隙間から差し込む光を鈍く反射していた。通りの端を走る自転車のタイヤが、水たまりを短く鳴らした。

    央路の運転は乱暴ではなく、車体の揺れが大きくならないよう、道の継ぎ目を少し外して走っていた。そんな細かな気配りに気づくたび、祈乃は困ってしまう。

    「今日の現場、最初に見た感じどうだった?」

    「写真だけだと、枠が少し歪んでいる気がする。右下が浮いている」

    「見てたのそこか」

    「そこ以外も見てる」

    「うん。そうだろうなと思った」

    その返し方が少しだけ苦手だった。からかっているようでちゃんと見ている、と。祈乃が言葉にしない部分を央路は時々、手元の工具よりも静かに拾う。

    窓の外では朝の東京が少しずつ色濃くなり、閉じたシャッターの下からは洗剤の香りが漂い、歩道の端には濡れた落ち葉が薄く貼りついていた。信号の色が変わるたびに、街の光がフロントガラスに伸びては、央路の横顔を短く照らしてすぐに消えた。

    祈乃は横を見ないようにした。視線を向けたら、その先にあるものまで認めてしまいそうで怖かった。作業パートナーとしての距離なら測れる。手袋一枚分、脚立の幅、工具を受け渡すときの指先の余白。しかし、名前を呼ばれたときに喉の奥が狭くなる感覚にはまだ単位がなかった。

    現場は細い通りに面した、閉店済みの小さな店だった。表のガラスには内側から白い紙が貼られ、中の様子は見えなかった。軒先の看板はまだ残っていて、雨に濡れた後、乾ききらない表面が朝の光を鈍く吸っていた。

    祈乃は車を降り、写真と実物を見比べた。画面の中では平らだった看板が目の前では少し疲れて見えた。角の塗装が剥げ、文字の端に細かなひびが入り、枠の下には雨水が伝った跡があった。

    「右下、やっぱり浮いているな」

    央路はすぐ隣ではなく半歩ほど後ろから言った。近すぎないのに、声だけが肩のあたりに落ちてくる。

    「ビスが緩んでいる?」

    「たぶん。無理に触ると割れるかも」

    祈乃はうなずき、現場の写真を撮るために少し下がった。濡れた舗装の上で靴底が小さく滑り、体の重心が一瞬乱れた。央路の腕が伸びたのは、声よりも早かった。

    「危ない」

    手首ではなく肘の少し上を支えられた。軍手越しの力は強すぎず、すぐに離れたのにそこだけ温度が残った。祈乃は反射的に口元を結び、助かったことへの礼よりも先に、平気なふりをする方法を探した。

    「大丈夫」

    「大丈夫って言う前に、足元を見て」

    「見てた」

    「見てて滑ったなら、もっと危ない」

    央路の声に責める響きはなかった。だから余計に、祈乃は何も言えなくなる。強く言い返せたら簡単なのに、彼の言葉はいつもこちらが壊れない場所を選んで置かれる。

    祈乃は視線を足元へ落とした。濡れた石の継ぎ目に空の白さが細く溜まっており、そこに自分の靴先と少し離れた央路の作業靴が映り込んでいた。

    「気をつける」

    「うん」

    それだけで終わった。央路は余計なことを言わず、看板の枠へ視線を戻した。 祈乃は、肘に残った感触を濡れた空気のせいにしようとした。

    昼の空気が通りに降りてくるころ、店の前の湿りは少しずつ乾いていった。ガラスに貼られた白い紙は内側から明るくなり、誰もいない店内の静けさが逆に濃く感じられた。祈乃は撤去前の記録を取りながら、看板の名前を何度も画面に収めた。

    その名前がかつて誰かに呼ばれていたことを想像する。待ち合わせに使われ、道案内で口にされ、疲れた夕方に思い出されたかもしれない言葉。外す仕事をしているのに、祈乃は時々名前が消える前の時間ばかり見てしまう。

    「祈乃、こっちの角も撮っておいて」

    「はい」

    返事をしてから少し遅れて胸が鳴った。仕事の呼び方だ。現場では名前を呼ばれるのが普通で、央路に深い意味があるわけではない、と祈乃は自分に言い聞かせた。そう言い聞かせなければならないこと自体、もう面倒な証拠のように思えた。

    祈乃は看板の左端へ回り込み、レンズを近づけた。文字の縁に小さなほこりがたまり、雨粒の跡が薄くまだらになっている。指で触れればざらつきが残りそうだが、触れてはいけないもののようにも思われた。

    「こういうの、外したあと壁に残るよね」

    「跡?」

    「うん。四角く。そこだけ別の時間みたいに」

    央路は脚立の位置を調整しながらすぐには返事をせず、金具の鳴る音だけが細く響き、通りの向こうを走る車の水音が遅れて届いた。

    「残るな。外したほうが目立つときもある」

    「じゃあ、外す意味あるのかな」

    と言ってから、祈乃は少し後悔した。仕事の話にしては声が内側へ寄りすぎていたからだ。央路は振り向かずに看板の端を一度だけ指で押さえた。

    「あるよ。目立つ跡でも、もうそこに掛かっていないことが分かるから」

    その静かな言い方に、祈乃は返す言葉がなかった。外したあとに残る跡は、終わったことの証拠なのか、それともまだ終わっていないものの輪郭なのか。自分の中では、いつもその境目がぼやけている。

    昼の熱が薄く上がり始めると、作業服の内側に汗がこもってきた。祈乃は首の後ろに手を当て、髪の根元に残る湿り気を確かめた。舗装からは雨の名残と車の排気ガスが混ざった匂いが立ち、都市は乾きながら少しずつ荒れていく。

    一度会社へ戻って夜の作業に必要な道具を積み直すことになり、撤去は店の前の通りが落ち着いてから行うことになった。写真を撮り終えた看板は昼の明るさの中ではまだそこにあり、夜に外されることを知らないふりをしているようだった。

    帰りの車内で祈乃は、スマートフォンの画面を見返した。すると、撮影した写真の中に央路の手の端が一枚だけ写り込んでいた。看板の角を押さえる指先。触れる前に傷を確かめるような慎重な形。

    削除しようとしたが、できなかった。ただの記録写真だと思えばいい、そう考えたのに親指は画面の端で止まったまま動かなかった。

    「酔った?」

    央路の声が前から届いた。見ていないようで、見ている。

    「酔っていない。写真を確認していただけ」

    「ならいいけど。顔、少し静かだったから」

    「静かな顔って何?」

    「説明しづらい」

    祈乃は小さく息を吐いた。窓の外に目を向けると、ビルの壁に昼の光が貼りつき、隙間の影だけが濃くなっていた。東京はいつも動いているのに、場所によって時間の進み方が違う気がする。

    「木皿さんは、看板を外すとき、何を考えているの?」

    自分でもなぜ聞いたのか分からなかった。央路はすぐには答えずにハンドルを持ち替えた。考えるときの癖だと、祈乃はすでに知っていた。

    「落とさないこと」

    「それは仕事としてでしょ」

    「仕事としては、それが一番大事」

    「それ以外」

    少しだけ踏み込みすぎたかもしれない、と祈乃は思った。言ってから、工具袋の持ち手を指でつまんだ。央路は前を向いたまま、赤くも青くもない街の光を目の奥に受けている。

    「その店の人が最後に見たときに嫌な気持ちにならないように、かな」

    祈乃は黙った。軽く見える言葉で空気を逃がす人だと思っていたのに、こういうときだけ央路は、外した看板の重さまで声に入れてくるから、困る。

    「やさしいね」

    「そういう感じじゃない」

    「じゃあ、どういう感じ?」

    「雑に外すと、こっちが嫌になるだけ」

    祈乃は少し笑いそうになり、すぐにやめた。央路の言葉は、優しさをそのまま渡してこない。作業の手順や現場の判断、あるいは少し遠回りな理屈に包んで置いていく。

    会社に戻ると、午後の空気は倉庫の奥まで入り込んでいた。鉄の棚に置かれた工具が鈍く光り、床には細かな粉塵が薄い模様を作っていた。祈乃は養生テープを確認し、央路は脚立の足元を点検した。

    黙って並んで作業する時間は嫌いではなかった。話さなくても次に何が必要か分かる瞬間がある。祈乃がレンチを取ろうとしたとき、央路の手も同じ場所へ伸びた。祈乃は指先が触れる前に手を引っ込めた。

    「ごめん」

    「いや、こっち」

    短い言葉だけが工具棚の前に落ちた。指先は触れていないのに、触れなかったことの方がはっきりと残る。

    央路は少しだけ視線を横へ逸らした。祈乃はそのしぐさを見なかったことにした。見なかったことにしたいものほど、なぜこんなに目に残るのだろう。

    夕方の影が倉庫の床を斜めに分けるころ、夜の現場へ向かう準備が整った。作業車の荷台には、脚立、電動工具、養生材、そして撤去後の看板を包むための古い毛布が積まれていた。その毛布には、何度も金属を受け止めた跡があり、端の繊維は硬く擦り切れていた。

    祈乃は現場の写真をもう一度確認した。朝見たときよりも、看板の文字が遠く感じられた。まだそこにあるのに、すでに外された後の壁が透けて見えるようだった。

    「緊張してる?」

    央路が作業車の後ろで言った。 祈乃は軍手の手首を引っ張り、少しだけ眉を寄せた。

    「してない」

    「じゃあ、いつもより軍手が伸びる」

    「見ないでよ、そういうところ」

    「見てるつもりはないんだけどな」

    「嘘だ」と言いかけて飲み込んだ。央路は、見ている。けれど、見ていることを武器にしない。祈乃が隠したいものをわざとめくらず、危ないときだけ迷わず手を伸ばす。

    その距離の取り方がいちばんずるい。

    作業車が夕方の街へ出ると、窓の外の色は朝と違っていた。建物の輪郭は柔らかく沈み、ガラス面に残った光だけが遅れて燃えていた。人の流れは少し速くなり、舗装の匂いに、食べ物の油と、湿った布のような気配が混じっていた。

    祈乃は助手席で膝の上に置いた軍手を見つめた。央路に支えられた肘のあたりは、もう何も残っていないはずなのに時々思い出したように熱を持つ。体は意外としつこい。

    「夜の撤去、怖い?」

    「怖いっていうか、まだ慣れない」

    「慣れすぎるのもよくない」

    「木皿さんは慣れてるでしょ」

    「慣れてる部分と慣れちゃだめな部分がある」

    祈乃は彼の横顔を見た。街の影がフロントガラスを流れ、央路の目元を暗くしたり、明るくしたりしていた。軽く笑ってごまかすかと思ったが、彼はまっすぐ前を見ていた。

    「外すものに慣れすぎると、手が雑になる」

    「外される方のことを考えるの?」

    「考えないようにしても、少しは残る」

    祈乃はその言葉を胸の中で何度も繰り返した。考えないようにしても、少しは残る。人の名前も、前の職場の空気も、うまく笑えなかった昼休みも、誰かの軽い一言で固まった喉の奥も。

    三路撤工に来てから、祈乃はなるべく自分のことを話さなかった。聞かれたことにだけ答え、必要な作業を覚え、迷惑をかけないように動いた。 馴染めないことに慣れているふりをすれば、最初から期待していなかったことにできる。

    しかし、央路は祈乃が平気なふりをするたびに黙って別の作業を差し出し、重いものを代わりに持つのではなく持ち方を変え、危ない場所から遠ざけるのではなく立つ位置を一緒に確かめるのだった。

    そのせいで、祈乃は自分が弱いのではなくまだ扱い方を知らないだけなのかもしれない、と考えてしまう。それは少しだけ救いであり、少しだけ恐ろしかった。

    夜の入り口に差し掛かるころ、現場の通りは昼とは別の顔をしていた。店の前の紙は暗いガラスの奥で沈み、看板だけが街灯と通りの明かりを受けてぼんやりと浮かんでいた。雨の名残はほとんど消えていたが、石の継ぎ目にはまだ冷えた湿り気が残っていた。

    央路は車を停め、先に降りて周囲を確認した。 祈乃は助手席から降りる前に小さく息を整えた。 金属とほこりのにおい、夜の路面の冷たさ、遠くで鳴る車の音。 そのすべてがこれから何かを外す前の静けさに沈んでいた。

    「祈乃、こっちから養生出して」

    「はい」

    名前を呼ばれ、仕事の指示を受ける。ただそれだけのはずなのに、夜の空気を通すと声がいつもより低く響く。返事の後、祈乃は自分の声がいつもより薄くなったことに気づいた。

    養生シートを広げると古いビニールの匂いが立ち、それを看板の下に敷いて壁際にテープを貼った。央路は脚立を立て、足元を軽く踏んで安定を確かめた。作業の一つひとつが無駄なく、しかし急いでいる様子はない。

    祈乃は下からライトを当てた。照らされた看板の文字は昼よりもはっきりと浮かび上がり、ひび割れの細部まで見えた。名前は光を浴びると、まだ生きているかのように見える。

    「その角、割れそう」

    「見えてる。ゆっくり行く」

    央路の手が看板の端に触れた。外す前に一度だけ押さえる癖だ。祈乃はその指先を見上げて、どうしてそのしぐさだけがこんなに丁寧に見えてしまうのだろうと思った。

    電動工具の音が短く響き、夜の通りに乾いた振動が広がってすぐに建物の壁に吸い込まれた。ビスが緩むたびに、看板の裏に溜まっていた古いほこりが細かく落ちてライトの中で薄く舞った。

    祈乃は咳き込みそうになり、口元を袖で押さえた。埃には雨とは違う匂いがあった。長く閉じ込められていた光が粉になったような、少し甘くて少し錆びた匂い。

    「大丈夫?」

    「平気」

    「平気の声じゃない」

    「じゃあ、どういう声?」

    「我慢している声」

    祈乃はライトを持つ手に力を入れた。言い返したいのに、口元だけが固まる。央路は脚立の上からこちらを見下ろしているはずなのに、祈乃の逃げ道をふさぐような視線ではなかった。

    「少し下がって。ライトは俺が持つ」

    「仕事だからできる」

    「できるのは分かってる。ほこりを吸わない位置に移動して」

    できるのは分かっている。その一言だけが胸の変なところに触れた。できないから下がれと言われるよりずっと困る。

    祈乃は黙って位置を変えた。央路が脚立から降りてライトを受け取るとき、指先が触れないようにほんの少し間を空けた。触れない距離を保たれたのに、祈乃は央路に触れられたような気がした。

    作業は静かに進んだ。ビスが外され、枠の片側が浮き、看板の影が壁から剥がれていく。そこには黒ずんだ四角い跡が現れ、長い間そこに名前がかかっていたことだけが濃く残された。

    祈乃はその跡を見つめた。外したものよりも残ったもののほうが目立つ。朝、央路が言っていた通りだった。もうそこに掛かっていないことが分かるために、跡は必要なのかもしれない。

    「持てる?」

    と、央路が看板の下側を支えながら尋ねた。祈乃は両手を伸ばし、軽くうなずいた。

    「持てる」

    「重さ、急に来るから。腕だけで受けないで」

    「分かってる」

    「うん」祈乃は分かっている顔で無理をする。

    その言葉に息が詰まった。看板の重さが降りてくる前に、声のほうが先に胸に落ちた。祈乃は視線を工具箱に逃がしたいのに、両手は看板を受ける位置にある。

    「そういう言い方、やめて」

    「ごめん」

    「謝るなら言わないで」

    「言わないと、落とすかもしれない」

    それはたぶん看板の話だった。けれど、祈乃には別のものの話にも聞こえた。平気なふり、仕事の距離、壊れないように保ってきた自分の形。

    央路がビスを最後まで外した瞬間、看板の重みが祈乃の腕に移った。思ったよりも重かった。中が空洞なのに、名前の重さだけがそこに残っているようだった。

    「膝、少し曲げて」

    央路の声が近い。祈乃は言われた通りに姿勢を変えた。看板の端を支える央路の手がすぐそばにあり、軍手の繊維が擦れる音まで聞こえる。

    無事に下ろした看板を養生シートの上に置くと、祈乃の腕から力が抜けた。夜気が汗の渗んだ首元を冷やし、遅れて心臓の音が大きくなる。 央路は看板の角を確認し、割れが入っていないことを確かめた。

    「きれいに外れた」

    「……よかった」

    自分の安堵が声に混じった。祈乃はそれを隠すように外した看板を包む毛布を広げた。毛布の繊維には古い金属片のにおいが移っていて、指先にざらつきが残る。

    央路は何も言わず、反対側を持った。毛布をかぶせる動きが自然に合う。何度も練習したわけではないのに、手順だけが先に近づいていく。

    それが少し怖かった。人と呼吸が合うことを、祈乃は長い間面倒なことだと思っていたし、合った後にずれた時の痛みをできれば最初から避けたかった。

    看板を荷台に積み終えるころ、通りの明かりは濡れていない路面にもにじんで見えた。夜の東京は乾いている場所まで少し湿らせる。遠くの車音が低く重なり、どこかの室外機が眠れない息のように回っていた。

    祈乃は壁に残った四角い跡を見上げた。そこだけ色が違う。看板があった時間だけ、街から日差しも雨も避けられていた部分。外されたあとに初めて見える、隠れていた肌。

    「写真、撮る?」

    央路が尋ねたので、祈乃はスマートフォンを取り出し、カメラを向けた。

    「撮る。撤去後の記録」

    画面の中に、看板のない壁が映る。祈乃はシャッターを切った。乾いた電子音が夜の中では少し軽すぎる。

    「外れたら、何もなくなると思ってた」

    それは、央路に聞かせるつもりではなかったが、夜の静けさゆえによく通る声だった。

    「何か残るよ」

    央路は壁を見たまま言った。祈乃は、その横顔を見ないようにした。

    「跡とか?」

    「跡も。あと、触った手のほうにも」

    祈乃はスマートフォンを下ろした。外した看板の重さがまだ腕の奥に残っている。確かに壁だけではなかった。

    「木皿さん、そういうこと言うんだ」

    「たまに」

    「似合わない」

    「自分でも思う」

    そこで央路が少し笑った。軽い笑い方だったのに、祈乃の名前を呼ぶときと同じ低さがかすかに残っていて、胸の内側が落ち着かなくなった。

    帰り支度を終えて荷台の扉を閉めた。外された看板は毛布の下で形を失い、さっきまで街に向けていた名前を隠していた。祈乃は、その膨らみを見てなぜか自分の胸の中にしまい込んでいる言葉を思い出した。

    仕事だから近い。現場だから声をかける。危ないから支える。そういう理由があるうちは、何も壊れない。 祈乃はずっとその理由の中に身を隠していた。

    しかし、夜の通りで央路の声を聞くと、理由だけでは足りない瞬間がある。名前を呼ばれるたびに、作業灯よりも小さな熱が体の奥に灯り、消せないまま次の動作に移ってしまう。

    「祈乃」

    また呼ばれた。祈乃は荷台から視線を上げる。

    「帰るよ」

    ただそれだけの言葉だったけれど、央路の声は外された看板の跡よりもはっきりと祈乃の中に残った。夜の匂いが深まり、街灯の光が作業車の窓に薄く重なっていた。

    「うん」

    祈乃は助手席へ乗り込み、ドアを閉める直前に視界の端に、名前が外された壁が入った。その場所は少し寂しく見えたが、どこか軽くも感じられた。

    作業車がゆっくり動き出すと、荷台の奥で包まれていた看板が小さく軋んで車内に金属と埃の匂いが戻ってきた。祈乃は窓に映る自分の顔を見て、平気そうにしていると思った。

    本当は平気ではないが、その言葉を誰かに伝えるにはまだ夜の底が浅すぎる。

    央路は何も聞かなかった。信号の光に、ハンドルを握る手が一瞬だけ白く浮かんだ。祈乃は、その手を見て看板の端を押さえていた指先を思い出した。

    名前を外す手、壊さないように支える手、触れない距離を残す手。

    それを仕事の手だと思えばまだ安全だ、と祈乃は思おうとしたが、胸の奥で失敗した。夜の東京は窓の外で流れ続け、街の名前は光ったり消えたりしながら誰かに呼ばれるのを待っていた。

    「今日、よかったよ」

    央路が前を見たまま言った。 祈乃は少し遅れて、何のことか分からないふりをした。

    「何が」

    「下ろす時、ちゃんと重さを逃がしてた」

    「言われた通りにしただけ」

    「それができるのがいいんだよ」

    祈乃は返事をしなかった。褒められると、嬉しいよりも先に困ってしまう。受け取ってしまったら、その分だけ相手の手元に自分の弱い部分が残ってしまうような気がした。

    窓の外には閉店後の店先が流れていく。シャッターに貼られた紙、半分消えた蛍光灯、そして看板だけがまだ残っている古い入口。今日取り外した名前は、明日には街の一部から消え去ってしまうだろう。

    祈乃は膝の上で軍手を握った。央路の言葉が手の中に入ってきた小さな異物みたいにまだ残っている。痛くはないのに無視できない。

    「木皿さん」

    と呼びかけてから、続きの言葉が見つからなかった。央路がこちらに一瞬だけ視線を向けたが、すぐに前へ戻した。その動きに、祈乃は少しだけ救われた。

    「何?」

    「……今日の看板、割れなくてよかった」

    「うん」

    それだけで終わらせた。言いたかったことは別にあった気がする。危ないときに支えられた肘のこと、できると分かっていると言われたときの言葉、名前を呼ばれるたびに息が浅くなること。

    けれど、どれもまだ言葉にはならない。言葉にした瞬間、仕事の距離に置いていたものが形を変えてしまう。

    会社に戻るころには空が深く沈んでおり、倉庫の壁には街灯の明かりが淡く映り込んでいた。作業車を止めると、エンジンの振動がゆっくりと消えていった。静けさの中で、荷台の看板だけが夜の重みをまだ持っていた。

    祈乃はドアを開けて外へ出た。ひんやりとした空気が頬に触れ、作業服の中に残った熱を少しずつ奪っていく。央路は荷台の扉を開け、毛布に包まれた看板の状態を確認した。

    「明日、これを処理場に回す前にもう一度状態を確認しよう」

    「分かった」

    「腕、痛くない?」

    祈乃は一瞬、肘の上を見た。央路に支えられた場所だ。痛みなどないのに、そこを意識しただけで夜の温度が変わった気がした。

    「痛くない」

    「ならいい」

    それだけ言うと、央路は工具を下ろし始めた。踏み込まない。心配しているのに心配している顔を出さない。その控えめさに、祈乃はまた逃げ道を失った。

    片付けが終わると、倉庫の奥に灯る小さな明かりだけが残った。作業台の上には外したビスが置かれ、金属の小さな粒のように夜を受け止めている。祈乃はその一つを見つめ、名前を支えていたものは案外こんなに小さいのだと思った。

    「祈乃」

    央路の声が、近すぎない距離から届いた。今日何度目かの名前だ。数えるのはやめた方がいいと、わかっている。

    「お疲れ」

    「お疲れさま」

    声が重なりかけて、すぐに離れた。祈乃は工具箱のふたを閉めた。央路は少しだけ笑ったように見えたが、倉庫の明かりが弱くて確かではなかった。

    帰り道はそれぞれ別だった。会社の前の細い道に出ると、夜の匂いが濃くなっていた。濡れていないはずの路面が街灯を受けてしっとり見え、遠くの大通りから車の流れが低い波のように響いていた。

    祈乃は歩き出す前に、ふと振り返った。三路撤工の色あせた文字が暗い壁に控えめに残っている。外す名前を扱う会社の名前だけが今夜は妙にはっきりと見えた。

    央路は作業車の横にいて、荷台の扉をもう一度確かめていた。祈乃に気づくと、軽く顎を引いた。近づいてこず、呼び止めもしない。その距離のまま、見送るでもなくただそこにいた。

    祈乃は小さくうなずき、前を向いた。足元の影が街灯の下で伸び、歩幅に合わせて形を変える。肘の上にはもう何も残っていない。けれど名前を呼ばれた時の声だけが、まだ薄い膜のように肌の内側に貼りついていた。

    今日、ひとつの看板から名前が外れた。壁には跡が残った。手には重さが残った。胸には、木皿央路という名前だけが剥がせないまま、静かに濃くなっていった。

     
     
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