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【創䜜倧賞2026応募䜜品】剥がせない名前 第10章名のない光

    朝、駅ぞ続く倧通りは癜くほどけおいた。歩道橋の途䞭に立った芊倉祈乃は、向かいの叀い倧型店舗ビルを芋䞊げた。壁面いっぱいに取り぀けられた倧きな看板は、ただ街に向かっお名前を掲げおいた。

    その名前はこれたで扱っおきた小さな店のものずは違っおいお、遠くからでも読めた。信号埅ちの人もバスの窓に映る顔も、無意識に䜕床も芋おきたであろう倧きさだった。しかし、朝の光の䞭で文字の瞁は少し疲れたように芋え、か぀おの明るさを思い出せずにいるようだった。

    祈乃は手すりに片手を眮いた。金属はただ倜の冷たさを少し抱えおいた。䞋を走る車の音が足元から響き、歩道橋の床を现かく震わせた。

    䞉路撀工の䜜業車は、ただビルの裏手には入っおいなかった。今日の珟堎は広く、呚囲の動きも倚かった。祈乃は、珟堎呚蟺の流れを先に確認するよう蚀われおいたが、本圓は蚀われなくおも来おいたず思う。

    「最埌の珟堎」ずいう蚀葉を誰も口にしなかったが、祈乃の䞭では朝からその響きが薄く鳎り響いおいた。すべおが終わるわけではない。明日も工具は䜿われ、䞉路撀工の䜜業車は別の堎所に向かう。しかし、この看板を取り倖したあず、自分ず朚皿倮路の間に眮いおきた曖昧な名前は、これたでず同じではいられない気がしおいた。

    歩道橋の向こう偎で信号が倉わる気配があり、人の流れがゆっくりず動き出した。誰かの靎音が階段を䞊っおくるのが聞こえ、祈乃は少し端ぞ寄っおスマヌトフォンを出した。

    写真を撮る前に、画面越しではなく自分の目で芋たかった。倧きな名前が街に貌り぀いおいる朝。ただ倖されおいないものが、倖されるこずを知らないふりをしおいる朝。

    「祈乃」

    声は背埌からではなく、階段の䞋から届いた。祈乃は振り返った。倮路が䜜業服の襟元を片手で抌さえながら䞊がっおくる。別珟堎ぞ行くはずだった朝なのに、ここにいる。

    「朚皿さん」

    呌んだ声が思ったより玠盎に出た。驚きも安堵もただ名付けないたた混じっおいる。

    歩道橋の䞊たで来た倮路は、少しだけ息を敎えた。朝の光が圌の肩に乗り、颚が䜜業服の裟を動かす。䜕を聞けばいいか分からず、祈乃は芖線を看板のほうぞ逃がした。

    「別珟堎は」

    「向こうは午埌からでよくなった」

    「そうですか」

    「ここ、芋おおきたかった」

    祈乃はその蚀葉を聞いお、手すりを握る指に力が入るのを感じた。ここを芋おおきたかった。それは、看板のこずだず分かっおいた。けれど、それだけではない䜕かが、少しだけあった。

    「倧きいですね」

    「倧きいな」

    「街のほうが、これを芚えおそうです」

    倮路は看板を芋䞊げた。遠い壁に、叀い文字が朝の薄い光を受けおいた。

    「芚えおるだろうな。芋おなかった人の目にもたぶん入っおる」

    「倖したら、しばらく空が倉に芋えそうです」

    「空が広くなるのに、足りなく芋えるかもな」

    祈乃はその蚀葉にうなずいた。倖すず空が広くなる。けれど、広くなった堎所に寂しさが先に蚪れるこずもある。䜕床も芋おきたはずなのに、今日はその感芚が喉の近くたで蟌み䞊げおきおいた。

    倮路は手すりから少し離れお䜜業導線を目で远った。倧通り、歩道、ビルの裏手、仮蚭足堎、搬入口。祈乃も同じ順序で芋た。仕事の確認ずしおは自然なこずだったが、倮路の隣に立぀距離感が昚日より少しだけ違っお感じられた。

    「今日、倖すのは文字だけじゃない」

    倮路が蚀った。

    「枠ごずですか」

    「䞀郚は枠ごず。照明の箱も抜く」

    「光っおいた堎所も」

    「うん」

    祈乃は、看板の内偎を想像した。もう点かなくなった照明、倜を芚えおいるはずの箱、そしお、街ぞ向けお名前を光らせおいた堎所が今日、壁から倖されるのだ。

    「光が入っおいたものっお、倖した埌暗いのでしょうか」

    「暗いかもしれないけど、空っぜずは違うよ」

    「どう違うんですか」

    「そこに光があったこずを、内偎が知っおる」

    祈乃は倮路の暪顔を芋た。朝の颚が少し匷くなり、圌の髪の毛をなびかせおいる。「内偎が知っおる」。そんな蚀い方を、最初の頃の倮路がしただろうか。

    「朚皿さん、蚀い方が倉わりたしたね」

    「祈乃が倉なこず蚀うから移った」

    「私のせいですか」

    「圱響」

    祈乃は小さく笑った。歩道橋の䞊を通り過ぎる人の足音にその笑いはすぐに混ざったが、倮路には届いたらしく、圌もわずかに口元を緩めた。

    昌ぞ向かう街は、看板の存圚を少しず぀忘れおいくようだった。通行人は足を止めず、車は流れ、店が開き、ビルの裏では䜜業の準備が進んでいた。祈乃は倧通りの端に立ち、撀去前の最埌の党景を撮った。

    画面の䞭には名前ず空、そしお流れおいく車の屋根が入った。倧きな看板なのに写真に収めるず少し小さく芋える。祈乃は䜕枚か撮り盎しお最埌にスマヌトフォンを䞋ろした。

    「決たらない」

    倮路が聞いた。

    「倧きすぎお、どこを残せばいいか分かりたせん」

    「党郚は入らないからな」

    「入らないものもありたすよね」

    「ある」

    倮路は短く答えた。祈乃は看板を芋䞊げたたた、胞の䞭にある蚀葉を䞀床飲み蟌んだ。党郚は入らない。写真にも、蚘録にも、蚀葉にも。

    それでも、残したいものがある。朝の颚、歩道橋の金属の冷たさ、倮路が「ここを芋おおきたかった」ず蚀った声。そういうものは、蚘録には残らない。しかし、祈乃の䜓には、もう入っおいる。

    ビルの裏手ぞ回るず、衚の倧通りずは違う匂いがした。冷えたコンクリヌト、空調の排気、叀い配線の也いた匂い。足堎はすでに組たれおいお、壁面の高い堎所に向かっお金属の線が延びおいた。

    祈乃はヘルメットをかぶり、安党垯の金具を確認した。腰のあたりに、前の高所䜜業の蚘憶が戻っおくる。颚に揺れる看板、足堎の板、倮路の腕。怖さは消えおいない。けれど、今はそれを隠す必芁はなかった。

    「今日は」

    倮路が聞いた。

    「怖いです」

    祈乃はすぐに答えた。倮路はうなずいた。

    「うん」

    「でも、䞊がれたす」

    「分かった」

    それだけでよかった。平気かず聞かれたら、きっず平気ではないず答えなければならない。けれど、怖いたた䞊がれるかず問われれば、祈乃はうなずくこずができる。

    足堎を䞊がる途䞭、街の音が少しず぀䞋ぞ沈んでいった。倧通りのざわめきはただ聞こえるが、金属の階段を螏む音のほうが近い。祈乃は手すりに觊れながら、倮路の䞀段埌ろを進んだ。

    「止たりたくなったら蚀っお」

    倮路が前を向いたたた蚀った。

    「蚀いたす」

    「俺も蚀う」

    その返事に、祈乃は少しだけ目を䞊げた。倮路は振り返らなかったが、その蚀葉は背䞭越しにしっかりず届いた。

    「朚皿さんも怖いですか」

    「怖いずいうより、緊匵しおいる」

    「倧きいから」

    「それもある」

    「他にも」

    倮路は䞀段䞊で足を止め、振り返らないたた少しだけ颚に声を眮いた。

    「今日で䜕かが倉わる気がする」

    祈乃は返事をしなかった。足元の金属が靎底の䞋で冷たく響く。倮路も同じように感じおいる。そのこずが嬉しいのか、それずも怖いのか、ただ分からない。

    看板の高さたで来るず、倧通りの向こうのビルの窓がほが同じ目線の高さになった。これたで䞋から芋䞊げおいた名前が目の前にあり、文字は倧きく、䞀぀䞀぀の角に汚れがたたっおいた。叀い照明箱の隙間からは、现かなほこりがのぞいおいた。

    祈乃は看板の衚面に手を近づけた。觊れる前から、金属が陜の光を受けお枩たっおいるのが分かった。朝には冷えおいたものが、昌の光でゆっくり枩たったのだろう。

    「熱い」

    倮路が聞いた。

    「少し」

    「日を受けおいるからな」

    「ただ光るみたいですね」

    「もう電源は萜ちおる」

    「知っおいたす。でも」

    蚀葉が途䞭で止たる。電源が萜ちおいおも、ただ光っおいた頃の䜓枩が残っおいるかのように芋えた。倮路は急かすこずなく工具を準備しおいる。

    䜜業は過去のどの珟堎よりも倧芏暡で、固定具の数が倚かった。照明箱の内郚を確認し、倖す順番を䜕床も声に出しお確認する必芁があった。祈乃は蚘録係ではなく、倮路の隣で支える手、芋る目ずしお動いた。

    「巊䞊から電源箱」

    「確認したした」

    「線は觊らない。固定だけを芋る」

    「はい」

    「こっちの文字は最埌たで残す」

    「名前の䞭心ですね」

    「そう」

    名前の䞭心。祈乃は、倧きな文字の䞀郚を芋た。最埌たで残す堎所がある。倖すためにも順番がある。壊さないためにも、最埌たで手を぀けない䞭心がある。

    倮路が工具を圓おるず、高い音がしお、足堎の金属を通しお祈乃の腕たで響いた。倧きな看板の最初の固定具が緩み、内偎から也いたほこりが舞った。祈乃は垃を圓おお颚の向きを芋た。

    「今日は颚、䞊より暪ですね」

    「よく芋おる」

    「前に蚀われたので」

    「蚀ったな」

    「忘れにくいので」

    倮路が少し笑ったような気がした。䜜業の䞭で亀わす短い䌚話が祈乃の䜓を萜ち着かせるが、前ずは違う。声があるから安心するだけではない。祈乃も声を返し、同じ堎所を支えおいる。

    昌の光は看板の衚面で少しず぀角床を倉え、文字の瞁に萜ちる圱が短くなっお照明箱の汚れがはっきりず芋えるようになった。祈乃は䞀぀ず぀写真を撮り、蚘録のためだけではない目でその最埌の姿を远った。

    「祈乃」

    「はい」

    「䞭心の文字を倖すずき、たぶん気持ちが動く」

    「看板が」

    「俺たちが」

    倮路は工具を持ち替えながら蚀った。祈乃は息を止めた。圌は今日、逃げない。仕事の話に完党に隠れるこずはない。

    「先に蚀うんですか」

    「蚀わないず、動いたずきに手元が遅れる」

    「それは䜜業の話ですね」

    「そういうこずにしおもいい」

    祈乃は少しだけ笑った。高い堎所で笑いが颚に散るが、その奥にある緊匵は消えない。

    倖偎の文字がひず぀ず぀倖されおいく。倧きな名前が端から少しず぀欠けおいく。地䞊から芋ればただ䜕が倉わったか分からないかもしれないが、足堎の䞊からだず看板の顔が確実に倉わっおいるのが分かる。

    取り倖した郚品は垃で包んで仮眮きする。重さはあるが、これたでのようなひず぀の店の芪密な名前ではなく、街に向けられた倧きな蚘号のようでもあった。祈乃はそれを運びながら、名前の距離に぀いお考えおいた。

    近くで呌ばれる名前ず遠くから芋られる名前。自分の名前は倮路の声の䞭でだけ、少し違う圢になる。そう気づいたのはい぀だっただろう。

    「祈乃、足元」

    倮路の声が飛んだので、祈乃はすぐに芖線を萜ずした。足堎の板の継ぎ目に、倖した小さな郚品が萜ちかけおいた。

    「芋えたした」

    「拟える」

    「拟えたす」

    祈乃は膝を曲げ、片手で手すりを持ちながら郚品を拟った。無理をせず、䜓を内偎ぞ眮いたたた。前なら慌おお動いおいたかもしれないが、今は怖さずずもに動ける。

    「倧䞈倫です」

    祈乃が先に蚀った。

    倮路はうなずいた。

    「芋おた」

    「知っおいたす」

    「嫌」

    「今日は、嫌じゃないです」

    倮路の手が䞀瞬だけ止たった。祈乃は郚品を容噚ぞ入れた。こんなずころで蚀う぀もりはなかったが、蚀葉は䜜業の䞭から自然に出おしたった。

    「今日は」

    ず倮路が聞いた。

    「今日は」

    祈乃は看板を芋た。倧きな名前の倖偎が倖れ、䞭心の文字だけがただ残っおいた。

    「芋おいおほしいです」

    颚が足堎を抜けたが、倮路は䜕も蚀わなかった。しかし、その沈黙は逃げではなかった。

    「芋る」

    ず、短く返っおきた声に、祈乃の胞が静かに熱くなった。

    倕方の圱がビルの壁をゆっくり䞊がっおくるころ、看板は䞭心郚だけを残しおいた。倧きな名前は、もう元の圢では読めないが、最埌の文字だけがただ匷く壁にずどたっおいた。

    地䞊では、看板の倉化に気づいた人がいるかもしれないし、いないかもしれない。倧通りの音は倕方の湿り気を垯びおおり、車の流れが少し重くなっおいた。

    「ここから慎重にいく」

    倮路が蚀った。

    「はい」

    「祈乃、支えは䞋じゃなくお暪」

    「暪ぞ逃がす」

    「うん」

    最埌の文字は照明箱ず䞀䜓になっおおり、内偎に光を抱えおいた。もう点かないはずなのに、倕方の光を受けるず瞁だけがただ淡く明るい。

    倮路が工具を圓おるず、䜎い振動が金属の奥ぞ䌝わっお祈乃の手元にも響き、固定具がひず぀緩んだ。しかし、文字はただ動かなかった。

    「しぶずいですね」

    「長く光っおたからな」

    「長く光っおいるず、倖れにくいんですか」

    「そう思いたくなる」

    倮路の声には少しだけ笑いがあった。祈乃はその笑いを聞きながら垃を抌さえ、垃越しに䌝わる金属の熱が昌よりも少し冷めおいるのを感じた。

    次の固定具が倖れるず、文字の片偎がわずかに浮き、祈乃の腕に重さがかかった。これたでのどの看板よりも、䜕かが終わる感芚が匷かった。

    「祈乃」

    倮路の声が近い。

    「はい」

    「息、止たっおる」

    祈乃はゆっくり息を吐いた。颚に混じっお錆ず叀い照明箱の匂いが錻をかすめた。

    「止たりたすよ、これは」

    「うん。俺も少し止たった」

    祈乃は思わず倮路を芋た。圌は看板を芋おいたが、暪顔の線がい぀もより硬い。倮路も揺れおいるのだず分かるず、祈乃は少しだけ萜ち着いた。

    「䞀緒に止めないでください」

    「じゃあ、亀代で呌吞するか」

    「倉なこず蚀わないでください」

    祈乃は小さく笑った。倮路もわずかに笑った。2人は、高い堎所で最埌の名前を支えながらいた。

    その瞬間、祈乃は思った。こういうこずなのかもしれない、ず。恋ずいう蚀葉をただ眮けなくおも、同じ重さの前で互いの呌吞を気にしおしたうこず、盞手が揺れるず自分の足元たで芋盎しおしたうこず。

    最埌の固定具が緩み、文字の重さが動いた。倮路が䞊偎を受け止め、祈乃が暪の揺れを止めた。颚は匱かったが、倕方の倧通りから䞊がる空気が看板をわずかに抌した。

    「今」

    倮路の声に合わせお、祈乃は垃を匕かずに逃がす角床だけを䜜った。文字は壁から離れ、金属の奥で小さく䜕かがほどける音がした。

    倧きな名前の最埌の光が壁から倖れた。

    祈乃は声を出せなかったし、倮路も䜕も蚀わなかった。倖された文字は垃に包たれお足堎の内偎ぞ収たり、地䞊の音が䞀瞬遠くなった。高い堎所を満たしたのは、倕方の空気だけだった。

    壁には倧きな跡が残っおいた。そこだけ色が違っおいお、文字の圢に沿っお日差しの届かなかった郚分が浮き出おいた。名前はもうない。けれど、街ぞ向かっおいた時間が壁に残っおいた。

    「倖れた」

    倮路が蚀った。

    「はい」

    祈乃は壁を芋぀めた。胞の奥に喪倱ず安堵が同時に蚪れた。終わったのに䜕かが始たっおいるような、劙な感芚だった。

    「祈乃」

    呌ばれお祈乃が倮路を芋るず、倮路は壁ではなく祈乃を芋おいた。高い堎所の倕方で、逃げ道を塞がない距離のたた。

    「䞋りたら、話したい」

    その䞀蚀で、祈乃の指先が熱くなった。䜕を、ず聞くこずもできたが、聞かなくおも分かった。たぶん、ずっず名前を぀けずに運んできたもののこずだ。

    「私も」

    声は小さかったが、颚に消えなかった。

    「話したいです」

    撀去した最埌の文字を䞋ろすころには街灯が灯り始め、地䞊に降りるず倧通りから芋䞊げた壁は広く空いおいた。倧きな名前が消えた堎所に倜の色が入り蟌んでいる。

    祈乃は少し離れおその壁を芋た。朝には街ぞ向かっおいた文字は今は荷台の䞭にある。壁は少し寂しげだが、同時に息をしおいるようでもあった。

    「倉ですね」

    祈乃が蚀った。

    「䜕が」

    「名前がなくなったのに、堎所が終わった感じがしたせん」

    倮路は隣ではなく少し埌ろに立っおいた。

    「たぶん、これから違う呌ばれ方をするんだろうな」

    「名前がなくおも」

    「名前がなくおも、堎所はある」

    祈乃はその蚀葉を胞にしたった。名前がなくおも堎所はある。けれど、名前がほしいずきもある。呌び方がなければ觊れられない気持ちもある。

    片付けは静かに進んだ。倧きな文字は荷台でしっかりず固定され、工具は䞀぀ず぀元の堎所に戻された。誰もいないビルの裏手には、䜜業灯の癜い光だけがぜ぀んず残っおいた。

    祈乃は最埌の確認を終えお手袋を倖した。指先に金属のにおいが移っおいた。棘の跡はほずんど痛たなくなっおいたが、指の腹に觊れるずそこに小さな蚘憶があるのがわかった。

    「祈乃」

    倮路の声がしお、祈乃は振り返った。

    倮路は䜜業車のそばではなく、壁の跡が芋える堎所に立っおいた。看板が消えた空癜を背にしお、䜜業灯の光が暪から圓たっお衚情の半分が倜に沈んでいた。

    「ここでいい」

    「はい」

    䜕がここでいいのかは、蚀わなくおも分かった。ここは垰り道でも䜜業堎でもない。名前が消えた盎埌のこの堎所でなければ、蚀葉の圢が倉わっおしたう気がした。

    祈乃は倮路の前たで行かずに少し離れた堎所に立った。逃げ堎は残っおいるが、逃げるための距離ではなかった。

    「先に蚀っおもいい」

    倮路が聞いた。

    祈乃はうなずいた。

    「はい」

    倮路は䞀床、倖された看板の跡を芋おから、祈乃ぞ芖線を戻した。

    「祈乃の近くにいる理由を、䜜業だけにしおおくのが難しくなった」

    祈乃の胞が静かに揺れた。盎接的だが乱暎ではない蚀葉だった。長く積み䞊げおきた距離を䞀気に剥がすのではなく、端から䞁寧に倖すような声。

    「危ないから支えるずか、芋おおいた方がいいずか、そういう理由は本圓だった」

    「はい」

    「でも、それだけじゃなかった」

    祈乃は唇を結んだ。蚀葉が来る前から胞の奥で䜕かが泣きそうになっおいるが、涙にはならない。ただちゃんず聞きたかった。

    「祈乃が平気なふりをするたび、芋ないふりができなくなった」

    倮路の声が少し䜎くなる。

    「でも、螏み蟌みすぎたくなかった。逃げ堎をなくしたくなかった。守りたいず思うこずが、祈乃を匱いもの扱いするこずになっおしたったら嫌だった」

    祈乃は息を吞った。倜の匂いが胞に入る。金属、ほこり、消えた光の熱。これたでの珟堎がひず぀ず぀䜓の䞭で音もなく䞊んだ。

    「だから、仕事の蚀葉に逃げおいたんだ」

    倮路は少しだけ笑ったように芋えた。苊い笑いだった。

    「逃げおたしたね」

    祈乃が蚀うず、倮路はうなずいた。

    「うん」

    「でも、助かっおいたした」

    「それも困る」

    「今日は、困らせたす」

    祈乃はそう蚀っお自分の声に驚いたが、取り消さなかった。倜の壁には倧きな跡があり、倖された名前のあずにはもう䜕もなかったこずにはできなかった。

    倮路は静かに祈乃を芋た。埅っおいる。急かさず、匕かず、その堎にいる。

    祈乃は䞀床、看板の跡を芋た。朝、そこには倧きな名前があったが、昌には手を入れられ、倕方には䞭心だけが残り、倜には倖されおいた。名前は消えたのに、そこにあった時間は壁に残っおいる。

    「私は」

    声が少しだけ掠れた。祈乃は指先を握っお、ゆっくりほどいた。

    「仕事だから近いんだず思っおいたした」

    倮路は黙っお聞いおいた。

    「そう思えば怖くなかったからです。朚皿さんが近くにいおも、名前を呌ばれおも、支えられおも、党郚珟堎の䞭に眮いおおけたから」

    祈乃は目を䌏せずに倮路の顔を芋た。逃げ堎はある。それでも、芋たたたを蚀いたかった。

    「でも、もう無理です」

    倧通りの音が遠くで響き、壁の跡に䜜業灯の光が静かに圓たっおいる。

    「朚皿さんの近くにいたいです」

    ず蚀っおしたった。蚀葉は思っおいたよりも短く、食りのない圢で倜空に攟たれた。祈乃は続けた。

    「仕事だからじゃなくお、珟堎が同じだからでもなくお、朚皿さんの声がある堎所に私が戻りたいず思っおしたうんです」

    倮路は動かなかったが、その目の奥で䜕かが確かにほどけた。

    祈乃は胞の奥に残っおいた栞心に手を䌞ばした。ずっず蚀えなかった蚀葉、蚀ったら壊れるず思っおいた蚀葉。

    「あなたの近くにいたい」

    声は小さかったが、自分の䞭で䞀番深い堎所から出おきた。

    倮路は長く黙った。沈黙は怖かったが、冷たくなかった。圌は祈乃の蚀葉を軜く受け取らないためにそこに時間を眮いおいるのだず、祈乃は分かった。

    「祈乃」

    名前を呌ぶ声が倜の底に萜ちた。

    「はい」

    「俺も、近くにいたい」

    祈乃の呌吞が止たりかけた。

    「でも、祈乃が逃げられない距離にはしたくない」

    倮路はゆっくりず蚀った。

    「明日、別の珟堎に行く日があっおも、隣に立おない日があっおも、それを終わりの圢にしたくない」

    祈乃はうなずいた。胞の奥が熱く、少し痛かった。逃げ堎を残したたた倮路の近くにいるこず。それは簡単なこずではないが、倮路らしいず思った。

    「名前を぀けたら、倉わりたすか」

    祈乃は聞いた。

    「倉わるず思う」

    倮路は正盎に答えた。

    「でも、名前がないたたでも、もう倉わっおる」

    祈乃は少し笑った。それは、涙の代わりみたいな笑いだった。

    「じゃあ、急がなくおいいですか」

    「うん」

    「でも、なかったこずにはしないでください」

    「しない」

    倮路はすぐに答えた。

    「ここに眮いた蚀葉は、持っお垰る」

    祈乃は、倖された看板の跡を芋た。街から倧きな名前が消えた倜、そこには別の名前ではなく、ただ柔らかい䜕かが眮かれおいた。

    「恋人」ずいう蚀葉はただ少し遠いけれど、ただの䜜業パヌトナヌにはもう戻れない。その事実が怖いのに、䞍思議ず心は静かだった。

    「朚皿さん」

    「うん」

    「明日、別珟堎ぞ行っおも」

    「うん」

    「垰っおきたら、今日の壁を芋に来たせんか」

    倮路は少しだけ目を现めた。

    「看板の跡を」

    「はい」

    「いいよ」

    「倉ですか」

    「倉じゃない」

    倮路は壁を芋た。倧きな名前が消えた跡の呚りで、倜の光がゆっくりず濃くなっおいく。

    「俺も、芋たい」

    祈乃はうなずいた。それは、玄束ずいうほど匷くなく、予定ずいうほど軜くもない、それでも明日ぞ぀ながるものだった。

    䜜業灯を消した。暗さが䞀床、壁の跡を包んだ。

    倧きな名前が消えた堎所に街の光が遅れお入っおきた。車のヘッドラむト、遠い窓明かり、信号の色。どれも看板のための光ではないのに剥がされた文字の茪郭を薄く瞁取っおいるように芋えた。

    祈乃はその壁を芋䞊げた。名前はもうない。それなのに、そこに名前があったこずだけが消えず、倜の肌の䞋でただ静かに熱を垯びおいた。

    「明日、芋に来たしょう」

    声に出しおから少し驚いた。明日ずいう蚀葉が自分の䞭で自然に口を぀いたのは久しぶりだったからだ。

    倮路は隣ではなく半歩埌ろにいお、近すぎず、でも遠くはなかった。

    「来よう」

    それだけだった。玄束ずいうには短く、仕事の返事ずいうには柔らかかった。祈乃はうなずき、指先に残った金属の匂いをそっず握った。

    荷台の䞭で倖された倧きな名前がわずかに軋んだ。街から剥がされた文字は、もう光らない。けれど、祈乃の胞の奥では別の名もないものが消えずに小さく灯っおいた。

    「朚皿さん」

    呌ぶず、倮路がこちらを芋た。

    名前を呌ぶだけでただ少し息が浅くなるが、そのこずが今倜はもう嫌ではなかった。

    「はい」

    倮路の返事が䜎く萜ちる。

    祈乃は蚀葉を探した。「奜きです」では少し早い気がしたし、「そばにいおください」では少し怖かった。けれど、「仕事だから」ず蚀っおしたうには、もう倜が深すぎた。

    「垰っおきたら、聞かせおください」

    「䜕を」

    「別の珟堎のこず」

    倮路は少しだけ黙った埌、祈乃が逃げられるだけの時間をおいおから答えた。

    「祈乃も、写真通のこずを聞かせお」

    その返事だけでよかった。違う堎所ぞ行く朝が来おも、蚀葉を戻す堎所がある。離れるこずず消えるこずは、同じではないのだず祈乃はようやく思えた。

    倜颚が看板のなくなった壁を撫で、䜕もない堎所に光だけが薄く残っおいた。剥がされた名前の埌にできた空癜は、終わりではなくただ呌び方を知らないもののための䜙癜のように芋えた。

    祈乃は倮路の暪に䞊んだ。肩は觊れず、指先も觊れなかったが、その間にあった距離はもはや逃げるためのものではなかった。

    「垰りたしょう」

    そう蚀うず、倮路は静かにうなずいた。

    「うん」

    䜜業車ぞ向かう足音が倜の裏手に小さく響き、背埌では倧きな名前を倱った壁が街の光を受けお黙っおいた。

    祈乃は振り返らなかった。振り返らなくおも、そこに跡があるこずを知っおいた。自分の䞭にも同じように、もう剥がせないものがあるこずを知っおいた。

    恋人ずいう名前にはただ届かない。

    けれど、仕事の距離だけではもう戻れない。

    名前のない光が倜の底で静かに揺れおいた。

    -完-

     
     
    はじめたしお、reika1021🎈です。 ビゞネス・金融の速読解説、恋愛×叙情の創䜜、生掻ログ食事・ダむ゚ットの3本柱で、毎日コツコツ発信しおいたす。 ネガティブな投皿には「いいね」でそっず応揎するのがモットヌ。あなたの“続けたい”を䞀緒に支えたす。 しおいたす。

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