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【創作大賞2026応募作品】剥がせない名前 第6章:風に支える名

    朝は、地面よりも先にビルの上を明るく照らしていた。芦倉祈乃は、三路撤工の敷地ではなく大きな商業ビルの裏手に立ち、首を少し反らして袖看板を見上げていた。高い壁面から横に突き出したその看板は、まだ街の空気にしがみつくように残っていた。

    地上の音は遠く感じられた。搬入口の前では車輪の音や金属扉の開閉音が響いているのに、視線を上げると、それらの音が急に遠のく。空に近いものはいつも、こちらの手の届かないところにあるように見える。

    「高いですね」

    と言ってから、祈乃は自分の声が少し乾いていることに気づいた。木皿央路は隣ではなく少し前に立ち、上を見ていた。朝の光が彼の作業服の肩に当たり、風だけがその輪郭を動かせていた。

    「今日は下で考えすぎても意味ないな」

    「上がってからですか?」

    「上がってから分かることが多い」

    央路はそう言って足場へ続く仮設の階段を見た。金属の段はまだ朝の冷たさを保っていて、触れれば手のひらに硬い温度が移りそうだった。祈乃は軍手の手首を引き、視線を看板から足場へ移した。

    今日は写真確認から始まらなかった。現場そのものが朝のうちから目の前にあった。大きなビルの裏手、搬入口、仮設足場、空を削るような看板の端。これまでの小さな店とは違い、名前が街に向かって突き出ている。

    「祈乃、無理に上を見続けなくていい」

    央路が言った。

    「見ていないと、距離が分からないので」

    「距離はあとで測る。今は首をやる」

    「首?」

    「ずっと見上げてると作業前に疲れるから」

    祈乃は言い返さず、視線を下げた。足元には、細かな砂とビルの壁から落ちた白い粉のようなものが散らばっていた。朝の空気は乾いていたが、高い壁面の影にはひんやりとした湿り気が残っていた。

    商業ビルはまだ完全に動き出していなかった。裏手には、清掃後の水の匂いと空調の排気が混ざった冷たい風が漂っていた。祈乃はそれを吸い込み、胸の奥で少しだけ息を整えた。

    「怖い?」

    央路が聞いた。声は軽くないが、重くもない。

    「高いところが得意ではないだけです」

    「それを怖いって言っていい」

    祈乃は口元を結んだ。怖いと言えば弱くなる気がしたが、前の夜に怖いくらいでいいと央路が言ったその言葉が、まだ手の内側に残っていた。

    「少し怖いです」

    「うん。じゃあ、そのままいこう」

    央路はそう答えた。励まさない。平気だとも言わない。祈乃の怖さを作業道具のひとつみたいにその場に置いた。

    足場へ上がる前に安全帯を確認すると、金具の冷たさが軍手越しにも伝わってきた。祈乃はベルトの位置を直し、腰のあたりに重みがあることを確かめた。体に何かを結びつけられる感覚は、安心と窮屈さを同時に運んできた。

    「ここ、ねじれてる」

    央路がそう言って祈乃の腰元を指さした。央路は直接触れることなく、指先だけで場所を示した。祈乃は自分でベルトを直そうとしたが、金具が作業服に引っかかった。

    「少し待って」

    央路の声が近づいてきたので、祈乃は動きを止めた。

    「触るよ。ベルトだけ」

    その確認が胸に変な熱を落とした。祈乃はうなずき、央路が安全帯のねじれを直すのを見た。触れられているのはベルトなのに、腰の横の空気まで意識してしまう。

    「これでいい」

    央路はすぐに離れた。祈乃は息を吐くタイミングを探し、少し遅れて呼吸を戻した。

    「ありがとうございます」

    「上では引っかかったら、すぐに言ってください」

    「はい」

    「我慢すると体が固まる」

    体が固まる。言われる前から、体はすでに固まっていた。祈乃は指を曲げ伸ばしして軍手の中で手のひらを開いた。

    足場の階段を上がり始めると、地上の空気が一段ずつ遠のいていく。金属の段が靴底の下で軽く鳴り、足場全体がわずかに震える。祈乃は手すりを握って前を行く央路の背中を見つめた。

    近すぎない距離だが、彼の肩の動きや足を置く位置がそのまま次の動作の目印になる。祈乃はそれを仕事のためだと思いながら同じ場所へ靴を置いた。

    途中で風が抜けた。ビルの谷間から上がってきた風が、足場の隙間を通り作業服の裾を揺らした。祈乃は、手すりを握る力を少し強めた。

    「止まる?」

    央路が振り返らずに聞いた。

    「止まりません」

    「止まっても遅れない」

    祈乃は一度だけ足を止めた。認めることに少し抵抗があったが、足を止めると体の奥の揺れが少し収まった。央路も先で止まっている。急かさない背中だった。

    「もう行けます」

    「うん」

    上へ進むにつれ、街の音はひとつに混ざっていった。車の音、人の声、遠くのブレーキの音、換気扇の低いうなり。地上では別々だった音が、高いところでは薄い布のように重なっている。

    袖看板の近くまで来ると、風の当たり方が変わった。壁面から突き出した看板は朝の光を片側だけ受け、反対側は影になっている。文字は金属製で表面の塗装が剥げており、角には小さな錆が出ていた。

    祈乃は足場の板に立ち、看板との距離を測った。地上から見上げたときよりも大きく、すぐ目の前にあるのに外に向かって突き出ているため、手を伸ばすたびに空へ引っ張られるような感覚があった。

    「祈乃、今日は壁じゃなくて風も見て」

    「風を?」

    「看板が外れた瞬間、軽くなる。軽くなると、振られる」

    央路は、看板の下部を確かめながら言った。祈乃は、安全帯の金具を触って体が足場につながっていることを、もう一度確認した。

    「軽くなるのに危ないんですね」

    「重い時のほうが動きが読める」

    「人みたいですね」

    祈乃はそう言ってから少し黙り、央路もすぐには返さなかった。高い場所では言葉が地上よりも細く聞こえる。

    「軽くなった時の方が、どこへ行くか分からない?」

    央路が言った。

    「看板の話です」

    「そういうことにしておく」

    その返事に、祈乃は少しだけ息を緩めた。高い場所で笑うのは怖い。体の中心がぶれる気がするから、口元だけで抑えた。

    作業はすぐには始まらなかった。固定部の確認、足場の位置、工具の置き場、外した部品を受ける布の配置……これまでよりも一つひとつの確認が重く感じられ、祈乃は指示される前に声に出すことを意識した。

    「右側の下、錆びています」

    「見えてる。先に左上から緩める」

    「下を先に外さないんですか?」

    「下を抜くと風で振られるから、上を少し逃がす」

    祈乃はうなずいた。聞き返すことに前ほど抵抗がなくなっていた。分かったふりをしても、この高さでは体が先にうそを暴く。

    央路が工具を構えると、祈乃は布を手に取り、看板の下側で受ける位置を探った。すると、風が一度足場の下から吹き上がり、布の端が手の中で揺れた。

    「布、飛ばされそうです」

    「片方を腰に挟んで。手だけで持たないように」

    「こうですか」

    「そう、いい」

    短い指示が風の中で届く。祈乃は腰に布の端を軽く挟み、両手を空けすぎないようにした。央路の声がすると、足元の金属の冷たさを少し正確に感じられるようになった。

    最初の固定具が緩み始めた。工具の音は地上よりも鋭く、金属板を通して手元へ響く。看板の中にたまっていた古い粉が風に乗って横に流れていく。

    祈乃は目を細めた。ほこりが頬にあたり、口の中にわずかなさびの味が広がった。地上の看板とは違う味だった。高い場所にさらされ続けた金属は、雨と風と排気を長くかんでいる。

    「目、大丈夫?」

    と央路が聞いた。

    「大丈夫です。少し錆びの味がしました」

    「味?」

    「変ですか?」

    「変じゃない。分かる気がする」

    央路は工具を持ち替えた。考えるときの癖だ。祈乃はその手元を見て、少しだけ落ち着いた。

    昼の光は足場の上で硬くなり、ビルの壁は白く反射して影に入ると急に冷える。額には汗がにじんでいるのに、手首には風の冷たさが絡んでいた。

    「少し休む」

    央路が先に言った。

    「まだ大丈夫です」

    「俺が休みたい」

    その言い方に、祈乃は意表を突かれた。央路は足場の安全な位置に工具を置いて腰を少し伸ばした。

    「木皿さんでも、休むんですね」

    「休まないと手が雑になる」

    「面倒だから丁寧にやる人ですもんね」

    「覚えすぎ」

    「忘れにくいことを言うからです」

    と言ってから、祈乃は以前と同じやり取りをしたことに気づいた。けれど今日は、それに沈み込まなかった。高い場所の風が言葉の重さを少し散らしている。

    央路は足場の手すりに片手を置き、遠くのビルの間を見た。祈乃も同じ方向を見て、東京の屋根や看板や窓がいつもより平たく広がっていることに気づいた。

    「上から見ると、店の名前って小さいですね」

    祈乃は言った。

    「地上だとあんなに目に入るのに」

    「上から見ると、街の模様になる」

    「外しても、誰かは気づかないかもしれない」

    「でも、気づく人もいる」

    央路の声は風に混じった。祈乃は横を見なかったが、見なくても彼が街を見ているのが分かった。

    「名前って不公平ですね」

    「何が?」

    「呼ぶ人がいる場所では大きいのに、知らない人にとってはただの文字で」

    「そうだな」

    祈乃は手すりを軽く握った。自分の名前もそうなのかもしれない。前の場所では、呼ばれるたびに少し縮んでいた。三路撤工で央路に呼ばれると、同じ名前なのに胸のどこかが開く。

    「祈乃」

    その名が考えていたところに落ちたので、祈乃は反射的に息を止めた。

    「作業に戻る」

    「……はい」

    央路は気づいたかもしれないが、何も言わずに工具を手にした。祈乃は手すりから指を離し、布を持ち直した。

    作業は再開されたが、風は先程よりも強くなっていた。看板の端がわずかに震え、固定具を外すたびに、金属の奥から低い音が響いた。それは、地上では聞こえなかった音だった。

    「次、少し動く」

    央路が言った。

    「受けます」

    「腕で受けない。布と体で逃がして」

    「はい」

    央路が固定具を緩めると、看板の片側が軽く浮いた。その瞬間、横から風が当たった。金属の板が思ったより大きく揺れ、祈乃の手に布越しの衝撃が伝わった。

    足元が一瞬なくなったように感じたが、実際には足場に立っており、安全帯もついている。それなのに、体の奥が空へ引っ張られるような感覚に襲われた。

    「祈乃」

    央路の声が近づいた。呼ばれた瞬間、背中に腕が伸びた。彼の手は祈乃の腕ではなく安全帯の近くを掴み、彼女の体を足場の内側へ戻した。

    「こっち」

    短い声。強い力ではなかったが、迷いはなかった。

    祈乃は息を吸えなかった。看板の揺れよりも、自分の体が央路の手の近くで止まったことに遅れて動揺した。彼の腕がすぐそばにあり、作業服の布が風で触れそうになる。

    「足、置き直して」

    央路の声が低くなった。祈乃は言われた通り足の位置を変え、金属の板の上に靴底を戻した。体の中心が少しだけ戻った。

    「大丈夫?」

    「……大丈夫じゃないです」

    言ってから、祈乃は自分でも驚いた。いつもの言葉が出なかったからだ。央路はそのまま安全帯の位置を確認し、祈乃の顔を見なかった。

    「うん。じゃあ止まる」

    作業が止まり、風の音だけが足場の隙間を通り抜けた。祈乃は布を握ったまま、胸の奥で鼓動が速くなっているのを感じていた。

    怖かった。落ちると思ったわけではないが、体が自分のものではなくなるような一瞬があった。その瞬間、央路の声より先に腕が動いた。

    仕事の判断だ。危ないから支えた、それだけだ、と。そう思おうとしても体が納得しない。支えられた場所は安全帯の近くだったのに、胸の奥まで触れられたみたいだった。

    「祈乃、下りる?」

    央路が聞いた。

    「下りません」

    「無理なら下りる」

    「無理ではないです。少し待ってください」

    「うん」

    央路はそれ以上言わなかった。風の中で急かさない沈黙が隣にある。祈乃は手すりを握ってゆっくりと呼吸を戻した。

    地上を見ず、空を見ず、足場の板、手すりの傷、軍手の指先、央路の作業靴と、目に入るものを近くに集めた。すると、体の揺れが少しずつ収まった。

    「すみません」

    「謝らなくていい」

    「作業、止めました」

    「止める判断も作業」

    央路の声が風の中で短く響き、祈乃はうなずいた。それは、止まることを失敗と捉えない言い方だった。

    「今の、ちゃんと言えたな」

    「何をですか」

    「大丈夫じゃないって」

    祈乃は返事をしなかった。大丈夫じゃないと言った瞬間、自分が弱くなった気がした。けれど、今は崩れずに立っている。言ったから崩れたのではなく、言ったから止まれたのかもしれない。

    央路は看板を見た。

    「次、俺が受ける。祈乃は布の端だけ押さえて」

    「でも」

    「今日はそのほうがいい」

    「私が怖がったからですか?」

    「風が強いから」

    祈乃は央路を見た。彼は看板を見ており、祈乃を弱いものとして扱っている様子ではなかった。

    「祈乃が怖がったことも理由の一つだけど、それだけじゃない」

    その言葉が祈乃の胸に静かに響いた。央路は隠さないのに決めつけない。そういう正直さは時々、優しさよりも深いところに届く。

    「分かりました」

    祈乃は布の位置を変えた。自分が全部を持たなくても作業は進む。そう認めるのは悔しいが、少しだけ楽でもあった。

    次の固定具が外れるとき、央路が重さを受けた。祈乃は布の端を押さえ、揺れの方向だけを見た。風が看板を揺さぶろうとしたが、央路の腕がそれを支えた。

    祈乃は彼の呼吸を聞いた。高い場所では近い音しか届かない。工具の音、風の音、金属のきしむ音。その中で央路が少しだけ息を詰める瞬間がわかった。

    「木皿さん」

    「うん」

    「重いですよね」

    「少し」

    「少しじゃない顔です」

    央路は短く笑った。

    「見てるな」

    「今日は、見てます」

    それは作業の返事だったが、言ってから祈乃は耳の奥が熱くなるのを感じた。

    央路は何も言わなかったが、ただ看板を支える手に力を入れ直した。祈乃は、その横で布を押さえ、風が吹くたびに少し膝を曲げた。

    昼の光が傾き始め、ビルの壁の白さが柔らかく見えるようになった。地上からの音はさらに遠くなり、ここだけが風の通り道で時間の進み方も少し違うように感じられた。

    看板の上部が外れ、下の固定部だけが残った。央路は一度工具を置き、手首を回した。

    「痛いですか?」

    祈乃が聞くと、央路は少し驚いたようにこちらを見た。

    「何が?」

    「手首」

    「平気」

    「その『平気』は信用できますか?」

    央路は少し笑ったが、祈乃は笑わなかった。彼がいつもこちらにするように、今日は見逃さなかった。

    「少し張ってるだけ」

    「じゃあ、少し休んでください」

    「祈乃に言われるとはな」

    「言います」

    自分の声が思ったよりまっすぐで、祈乃は少し戸惑った。央路はそれを受け取るように工具を完全に置いた。

    「休む」

    短い返事だった。祈乃は安心した。彼が無理をしているのを見るのは、思ったより怖かった。

    足場の上で少しだけ動きを止めると、風は変わらず吹いているが、さっきより冷たく感じなかった。祈乃は遠くのビルの窓を見た。何枚もの窓が昼の光を反射し、その一枚一枚に知らない生活が小さく閉じ込められていた。

    「祈乃」

    央路が言った。

    「はい」

    「さっき、支えた時」

    祈乃の呼吸が止まりかける。

    「怖がらせた?」

    祈乃はすぐに答えられなかった。支えられなければ危なかったし、支えられたことそのものにも別の怖さがあった。央路の腕が迷わず伸びたことと、自分の体がそれを覚えてしまったことだ。

    「怖かったです」

    祈乃は言った。

    央路は黙って聞いていた。

    「でも、支えられたのが嫌だったわけじゃないです」

    また言ってしまったが、今回は取り消さなかった。高い場所の風が言葉をすぐ下へ落とさず目の前にとどめている気がした。

    央路は手すりを見たまま、ゆっくり息を吐いた。

    「それ、助かる」

    「また助かるですか?」

    「言い方が他に出てこない」

    「困る、じゃないんですか?」

    「困ってもいる」

    祈乃は少しだけ笑った。足場の上で笑うと、体の中心がふっと軽くなる。央路も目元だけで笑っているように見えた。

    「俺、たぶん祈乃が思ってるより見ないふりが下手だよ」

    その声は風に少し削られていた。祈乃は、手すりを握る指に力を入れた。

    「知っています」

    「ばれてたか」

    「平気なふりをしたときほど、見てくるので」

    「見ないほうが良い?」

    祈乃は空を見なかったし、看板も見なかった。ただ、足場の板の上に落ちた央路の影を見た。

    「見られると困ります」

    「うん」

    「でも、見ないふりをされたら、たぶんもっと困ります」

    言葉を置いた瞬間、風が強く吹き抜けた。祈乃の髪が頬に当たり、央路の作業服の裾が揺れた。彼は何も言わなかった。

    何も言わないことが答えのようだった。

    休憩の後、最後の固定具に取り掛かった。祈乃は布の端を押さえ、央路は看板の重さを受ける準備をする。風はまだあるが、先程より読める。怖さもあるが、名前をつけた分、扱いやすくなっている。

    「外れる」

    央路が言った。

    「はい」

    「下じゃなくて、こっちへ倒す」

    「見てます」

    工具の音が短く響き、最後の固定が緩んで袖看板が壁から離れた。すぐに横から風が入り、央路が看板の重さを支え、祈乃が布で端を押さえた。

    「今」

    央路の声に合わせて、祈乃は布を引かずに支えた。看板の角度が変わり、金属の中に残っていた粉が風に流れていく。錆の匂い、排気の苦さ、太陽に焼かれた塗装の乾いた匂い。

    看板はゆっくり足場の内側へ倒れた。重い音を立てないように、央路が膝を使って受け止め、祈乃が布で下を包んだ。看板は地上に落ちることも、空に振られることもなく、ようやく壁から外れた。

    祈乃はしばらく息ができなかった。成功したことよりも、央路と同じ動きで重さを逃がせたことに体が遅れて震えた。

    「できた」

    央路が言った。

    その短い言葉が祈乃の胸にまっすぐ届いた。できた。祈乃だけでも央路だけでもなく、今、足場の上で確かに。

    「……はい」

    声がかすれた。央路はその声を聞いて祈乃を見た。

    「下りたら水飲もう」

    「今じゃないんですか?」

    「今は手が震えてる」

    「私の?」

    「俺も」

    央路がそう言ったので、祈乃は驚いて彼の手元を見た。工具を持っていない手が、ほんの少しだけ力を抜いている。震えているようには見えないが、彼がそう言うならたぶん本当なのだと思った。

    外した袖看板を足場の安全な位置に仮置きして状態を確認すると、表面の文字は空を向いていて、さっきまで街に突き出していたような力強さは失われていた。横たわると、ただの古い金属の板のように見える。

    「名前って、向きで変わりますね」

    祈乃が言った。

    「地上に向いているときはあんなに強かったのに」

    「外すと、急に静かになる」

    「弱くなったみたいで、少し嫌です」

    「弱くなったんじゃなくて、役目が変わっただけかもな」

    祈乃はその言葉を聞きながら、外された看板の端に布をかけた。役目が変わる。自分にもそういうことがあるのだろうか、と思う。

    前の仕事を辞めたことは逃げたことだと思っていたし、三路撤工に来たのも流れ着いただけだと思っていた。けれど、もしかするとそれは名前の向きが変わっただけなのかもしれない。

    足場を下りる時、祈乃は上がる時よりもゆっくりだった。看板を撤去した後、体の中に残る緊張が足元へ遅れて現れた。央路は前ではなく、今度は後ろにいた。

    「後ろ、見てます」

    「落ちません」

    「落ちないために見てる」

    祈乃は手すりを握って少しだけ笑い、見ていることを隠さない央路に今日は腹が立たなかった。見られることが必ずしも奪われることではないのだ、と少しだけ思えた。

    地上に戻ると、空気の重さに驚いた。足場の上では風が体を通り抜けていたのに、下にはビルの影と排気ガスがたまっていた。祈乃はヘルメットを取り外し、首の後ろに手を当てた。

    「水」

    央路がペットボトルを差し出した。指先が触れない距離で、いつものように少しだけ余白を残して。

    「ありがとうございます」

    祈乃は受け取ったが、手がまだ少し震えていた。央路がそれを見ているのが分かった。

    「見ないでください」

    「見てない」

    「嘘です」

    「少し見た」

    「少しならいいと思ってます?」

    「思ってない」

    央路の返事が真面目で、祈乃はかえって笑いそうになった。水を飲むと、口の中に残っていた錆びた味が薄まった。喉を冷たい水が通ることで、体がようやく地上に戻ってきた気がした。

    夕方の影が伸びる前に看板は下まで降ろされた。重機を使うほどではないが、地上へ運ぶまでの道のりは慎重だった。祈乃は無理に前へ出ずに布と工具の管理に回った。

    それを悔しいとは思わなかった。役割が変わるだけだ。央路の言葉を、祈乃は作業の中で何度も思い出した。

    ビルの壁には袖看板の根元の跡が残っているが、小さな店の壁とは違い、それは高い場所にあり地上からはよく見えない。見えない跡もあるし、誰にも気づかれないまま残るものもある。

    祈乃は地上からその跡を見上げた。首が少し痛むが、朝よりも怖くない。外されたものを知っているからだと思った。

    「撮る?」

    央路が聞いた。

    「撮ります。でも、地上からだと見えにくいですね」

    「見えにくくても、残す」

    「記録として?」

    「祈乃が見たなら」

    その言い方に、祈乃はスマートフォンを持つ指を止めた。「祈乃が見たなら」。見たことに意味があると言われたようで、胸の奥が少し熱くなった。

    「また困る言い方」

    「今日は、ちょっと諦めてる」

    「何をですか?」

    「困らせないこと」

    祈乃は何も言えなくなった。央路はビルの壁を見ていて、こちらを見ていない。その横顔は、地上に戻ったばかりの空気の中で少し疲れているように見えた。

    「困らないとは言えません」

    祈乃は小さく言った。

    央路はうなずいた。

    「うん」

    「でも、全部嫌ではないです」

    言い終わる前に胸の中で何かが強く鳴り、言葉が少しずつ戻れない場所へと進んでいく。

    央路はしばらく黙っていた。ビルの裏手を風が抜け、足場の金属が遠くでかすかに鳴っていた。

    「それ、俺にはだいぶ残る」

    低い声だった。 祈乃はスマートフォンを握りしめた。 自分の言葉が央路に残る。 今まで怖かったことが、今は少しだけ嬉しくて、だからもっと怖かった。

    夜の気配は商業ビルのガラスに先に現れた。空の色が落ちる前に窓の奥が暗くなり、外の光を映し返すようになる。撤去した袖看板は作業車の荷台に固定され、空へ突き出していた時のような強さはもう見せない。

    片付けにはこれまでより時間がかかった。足場の確認、道具の整理、看板の固定。祈乃はひとつずつ声に出して確認し、央路も短く応じた。

    「布を固定しました」

    「確認しました」

    「工具、全部あります」

    「ビット一本、右のケース」

    「あ、ありました」

    「うん」

    そんな小さなやりとりが夜に向かう空気の中で積み重なっていく。以前なら、見落としたことを恥ずかしさで隠していたかもしれない祈乃だが、今は央路が見つけたビットをそのまま受け取ることができる。

    すべてを終えたころ、ビルの裏手には街灯の光が濃くなっていた。足場の金属は昼の熱を失い、触れると冷たかった。祈乃は撤去後の壁をもう一度見上げた。

    高い場所の痕跡は夜になるとほとんど見えないが、祈乃はそこに何があったかを知っている。風に揺れる看板、それを支える布、央路の腕、そして自分が「大丈夫じゃない」と言った声。

    「祈乃」

    央路が呼んだ。夜の裏手で、その名前は地上の音に消えずに届いた。

    「はい」

    「今日はよく止まった」

    祈乃は少しだけ眉を寄せた。

    「止まったことを褒めるんですか?」

    「止まれないより、ずっといい」

    祈乃は返事を探した。できたことではなく、止まれたこと、怖いと言えたこと、大丈夫じゃないと言えたこと、そういうものまで央路は見ていた。

    「木皿さんも、ちゃんと休んでいましたよ」

    「祈乃に言われたからな」

    「言われないと休まないんですか?」

    「たまに」

    「それ、危ないですよ」

    「気をつける」

    その素直な返事に、祈乃は少しだけ笑った。夜の空気は冷えているのに、胸の中は、足場の上で感じた風の余韻が残っていた。

    帰りの作業車の振動は、いつもより低く体に響いた。荷台に固定された大きな袖看板が、走るたびに微かに鳴る。助手席の祈乃は、手を開いたり閉じたりした。

    指先にはまだ布の感触がある。安全帯の重みも、央路がベルトを直したときの近さも、風に体を持っていかれそうになった瞬間も、どれもまだ消えていない。

    「手、痛い?」

    央路が聞いた。

    「少し疲れているだけです」

    「それは信用できる?」

    「今日は、信用してください」

    央路は短く笑った。

    「分かった」

    窓の外では夜の東京が流れていく。大きなビルの照明が点き始め、歩道の人影がガラスに反射して重なる。祈乃は、その光を見ながら今日の自分がどこか少し変わったと感じていた。

    強くなったわけではない。怖がった。止まった。支えられた。それでも作業を終えた。たぶん強さとは、平気な顔でいることではなく、心が揺れ動いても、その都度、足を踏み出すことなのかもしれない。

    「木皿さん」

    「うん」

    「今日は支えてくれて、ありがとうございました」

    言葉は思ったよりまっすぐに出た。央路は前を見たまま少しだけ黙った。

    「仕事だから」

    祈乃はその返事を聞いて胸の奥が小さく痛むのを感じ、いつも自分が使ってきた言い訳が央路の口から出ると、こんな風に響くのだと思った。

    「そうですね」

    祈乃は窓の外を見た。

    少しだけ沈黙が落ち、エンジンの音と荷台の金属の揺れだけが響いた。やがて、央路が低く言った。

    「仕事だから、支えた」

    祈乃は動けなかった。

    「でも、仕事じゃなくても、たぶん手は出ていたと思う」

    夜の街が窓の向こうで細くにじんだ。祈乃は膝の上の軍手を握った。言葉が胸に入りすぎて返事のしようがなかった。

    「……それは」

    続きが見つからない。否定もできない。受け入れるにはまだ怖い。

    央路は前を見たまま言った。

    「今、答えなくていい」

    逃げ道を残される。その優しさを、祈乃は今夜初めて痛いと感じた。逃げられるのに逃げたくなくなるから。

    三路撤工に戻るころには、夜が作業場の壁まで深く沈んでいた。荷台を開けると、外された袖看板が大きな影になって横たわっていた。朝は空へ向いていた名前が、今は布と金具に固定されていた。

    祈乃は荷台の脇に立ち、看板の端をそっと見た。風に振られ、手に重さを残し、ようやくここへ来た名前。外されたことで弱くなったのではなく、役目が変わったもの。

    「明日、状態確認だな」

    央路が言った。

    「はい」

    「今日はもう無理に触らなくていい」

    祈乃はうなずいた。体の疲れが後から後から出てきて、腕が重かったが、その重さは嫌ではなかった。

    片付けは最低限にした。工具を元の場所に戻し、安全帯を外してヘルメットを棚に置いた。腰から安全帯の重みが消えると、体が少し頼りなく感じた。祈乃は無意識に腰のあたりに手をやり、朝、央路がねじれを直した場所を思い出した。

    「祈乃」

    央路の声が少し離れた場所から届いた。

    「はい」

    「明日、変な痛みが出たら言って」

    「木皿さんも」

    央路は少しだけ目を上げた。

    「俺も?」

    「手首、張ってたでしょう」

    「よく見てるな」

    「見てました」

    今度は隠さなかった。央路はしばらく黙った後、小さくうなずいた。

    「言う」

    その返事だけで、祈乃は少し安心した。誰かに「無理をするな」と言えること、そして、言った相手がそれを受け取ってくれること。そんな簡単なことが、今まで自分には難しかった。

    外に出ると、夜風が足場の上よりもずっと柔らかく感じられた。三路撤工の敷地には街灯が灯り、作業車の側面の文字が薄く浮かび上がっている。祈乃は門の前で立ち止まった。

    央路は作業場の入口に立ち、安全帯を片づけていた。今日の疲れが肩に少しだけ残っている。それを見て、祈乃は胸の奥が静かに縮むのを感じた。

    「木皿さん」

    央路が顔を上げる。

    「仕事じゃなくても、たぶん手は出るって言ってましたよね」

    央路は黙った。夜の音が遠くで細く続く。

    「はい」

    祈乃は、自分の声が震えないように息を整えた。

    「それ、たぶん私には残ります」

    と言ってしまった。言葉は夜の中で戻ってこない。央路は祈乃を見た。踏み込むでもなく、逃げるでもなく、その場で受け止めるような目だった。

    「残してごめん」

    「謝らないでください」

    「じゃあ」

    「雑に扱わないでください」

    央路の表情がほんの少し変わったので、祈乃はそれ以上言えなかった。自分の言葉の重さに自分で少し震えていた。

    「分かった」

    央路は低く答えた。

    「雑にはしない」

    その言葉だけで、祈乃は今夜帰れるような気がした。まだ恋と呼べるものではない。呼んだら形が変わってしまう。けれど、名前のないものを雑に扱わないと約束されたことが胸の奥で静かに灯った。

    帰り道、東京の夜は少しだけ高く見えた。さっきまで足場の上から見ていた空は、今はビルの隙間から細くのぞいている。祈乃は歩きながら、手すりの冷たさ、風の強さ、そして央路の腕が迷わず伸びた瞬間を思い出していた。

    外された袖看板は三路撤工の荷台に眠っている。高い場所にあった名前は地上へ降り、壁には見えにくい跡が残った。祈乃の中にも、見えにくい場所に確かに跡ができている。

    怖かった。支えられた。大丈夫じゃないと言えた。そして、その全部を央路は雑に扱わないと言った。

    夜のにおいが作業服の袖に残っている。祈乃はその袖を軽く握って風に吹かれても飛ばされないようにし、もう仕事の距離だけでは呼べなくなってきた声を胸の内側でそっと抱えた。

     
     
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