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【創作大賞2026応募作品】剥がせない名前 第8章:残す名の影

    朝は、倉庫の奥に置かれた補修済みの袖看板から始まった。芦倉祈乃は布をめくり、昨日貼った補強材の端を指でそっと押さえた。金属はひんやりとしており、夜のうちに冷えたものだけが持つ、静かな重みを感じさせた。

    亀裂は広がっていなかったが、完全に消えたわけではなく、表には細い傷がまだあり、裏側には薄い金属板が当てられていた。しかし、壊れ続ける気配は止まっていた。

    「広がっていない」

    祈乃がそう言うと、少し離れた場所から木皿央路が近づいてきて、同じ傷を見た。朝の光は倉庫の入口で止まり、奥の白い灯りだけが看板の端を照らしていた。央路の影が祈乃の手元の少し横に落ちた。

    「止まったな」

    「はい」

    その短い返事が自分の中でも少し落ち着いて聞こえた。昨日ならまた見落としがあるのではないかと、傷の周りを何度も見ていたかもしれないが、今日は止まっているものを止まっていると受け取れる気がした。

    「今日の現場、変更が出た」

    央路が言った。

    祈乃は布から手を離し、顔を上げた。

    「変更?」

    「撤去じゃなくて、保留」

    「保留って、外さないんですか?」

    「今日の時点では外さない。状態確認と養生だけ」

    外さない現場。祈乃はその言葉をすぐに飲み込めなかった。三路撤工の仕事は名前を外すことだと思っていた。終わった場所から看板を剥がし、壁に跡を残し、荷台に積んで帰る。

    「珍しいですね」

    「珍しい。でも、たまにある」

    「理由は?」

    「古い写真館の看板。建物の外壁が弱くて、今外すと壁ごと崩れるかもしれない。一旦残して、補強の方法を考える」

    写真館。祈乃は頭の中でその言葉を静かに受け止めた。古い写真館の看板はこれまでの居酒屋や美容室、洋品店とは異なる雰囲気を持っていそうだった。人の顔を残してきた場所の名前を今日は外さずに残す。

    「残すのも作業んですね」

    「残すための作業もある」

    央路はそう言って、補修済みの袖看板に布を戻した。外した名前を直し、別の名前を残しに行く。終わらせることと終わらせないことが同じ倉庫の空気の中で静かにつながった。

    外はまだ早い光を抱えていた。三路撤工の敷地の端に置かれた古い脚立は昨日より少し乾いた影を落としており、祈乃は社用車の荷台に養生材、薄い保護板、柔らかい布、仮固定用の金具を積み込んだ。

    撤去用の大きな工具は少なく、荷台の音がいつもより軽かったが、その軽さが逆に落ち着かなかった。外さない現場に向かうのに、胸の中では何かを外す前よりも静かな緊張が広がっていた。

    「祈乃」

    央路に呼ばれて、祈乃は荷台から顔を上げた。

    「はい」

    「今日は無理に結論を出さない日」

    「結論?」

    「外すか残すか、現場で急いで決めない。見て、触って、持ち帰る」

    祈乃は、その言葉を荷台の奥に積んだ保護板の上に置くように聞いた。見て、触って、持ち帰る。いつもなら、外して、包んで、運ぶ。動詞の順番が異なるだけで、体の構え方が変わる。

    「持ち帰るって、看板じゃなくて」

    「判断」

    央路は短く言った。

    祈乃はうなずいた。判断を持ち帰る。外せないものを、そのままそこへ置いたまま。そういう仕事もあるのだと、まだ体が分かっていない。

    車に乗り込むと、荷台からは布と木材の匂いがした。金属を外すときの鋭い匂いではなく、守るために持っていくものの匂いだった。 祈乃は助手席で、安全帯の位置を確かめる必要もなくただ膝の上の軍手を整えた。

    道は朝の低い明るさを帯びており、大通りへ出る前の細い道では店先の鉢植えが風に揺れ、車窓の端にはまだ開いていないシャッターや点灯していない看板が流れていった。

    「外さないと、落ち着かないですね」

    祈乃が言うと、央路は前を向いたまま少しだけ目を細めた。

    「外すほうが分かりやすいからな」

    「終わった感じがする」

    「残すと、終わっていないものを見続けることになる」

    祈乃は窓の外を見た。朝の光がビルの壁に薄く乗り、排気の匂いを含んだ風が車内に入ってくる。終わっていないものを見続けること。それは外すよりも難しいのかもしれない。

    「私、たぶん苦手です」

    「何が?」

    「残すこと」

    央路はすぐに返事をしなかった。信号の手前で車がゆっくりと止まり、エンジンの振動だけが足元に残った。

    「捨てるより?」

    「捨てるのも苦手です。でも、残すほうが怖いときがあります」

    「残っているものに、毎回見られているから?」

    その言葉に、祈乃の胸の奥が少し動いた。残っているものに見られている。前の仕事のことも、自分が平気なふりをしていることも、央路に言われた言葉も、全部そうだった。

    「そうかもしれません」

    央路は短くうなずき、車をまた進めた。

    古い写真館は賑やかな駅前から少し外れた通りにあり、大きな店ではなかった。角の丸いガラス窓、色あせた庇、入口横に貼られた古い白い板。その上に写真館の名前が控えめに残っていた。

    木製の看板の角は少し反っており、手で書いたような柔らかい文字は、雨や日差しを長く受けて色が薄く褪せていた。古くなった外壁には、看板の下に細かな亀裂がいくつも走っていた。

    祈乃が車を降りた瞬間、乾いた木と古い紙の匂いがした。写真館の窓の内側は暗く、カーテンの影が薄く沈んでいた。そこには、誰もいないのに、誰かが正面を向いて座っていた時間が残っている気がした。

    「写真館って、空気が違いますね」

    「音が少ないな」

    「音を吸ってるみたいです」

    央路は看板を見上げてすぐには近づかず、祈乃も同じように立ち止まった。写真館の前だけ、通りの音が少し遠くなっているようだった。

    「ここは外したら壁が危ない」

    央路が言った。

    「見ただけで分かりますか?」

    「分かるというより、嫌な感じがする」

    「嫌な感じ」

    「触る前に、軽く見ない方がいいなって思う時がある」

    祈乃は看板の端を見た。木が反り、文字の下に細い影ができている。外そうと思えば外せるのかもしれないが、外した瞬間に周りまで崩れるかもしれない。そんな危うさが壁の古い肌ににじんでいた。

    「残すために、何をしますか?」

    「まず浮きを抑える。雨が入らないように端を養生する。外壁の亀裂を記録して後で補強案を出す」

    「外さないのに、やること多いですね」

    「外さないから多い」

    その言葉は祈乃の中で静かに重みを増した。終わらせないために手を入れる。壊さずに置いておくために時間をかける。人の気持ちにもそういう作業があるのだろうか。そう思いかけた祈乃は、すぐに視線を足元へ落とした。

    足元には細かな砂と乾いた葉がたまっていた。写真館の入口に向かう小さな段差は何度も踏まれて角が丸くなっていた。そこを通った人たちは何を撮りに来たのだろう。証明写真、家族写真、何かの記念写真。もうここにはいない人の顔まで建物の奥にしまわれている気がした。

    「祈乃、全体を撮って」

    「はい」

    祈乃はスマートフォンを構えた。画面の中に古い写真館の外壁と看板が収まる。朝の光は強すぎず、文字の薄れた部分まで写っている。シャッター音が鳴り、写真館の静けさに小さな穴が開いたように感じた。

    「看板、少し右下がりになってます」

    「うん、そこを支える」

    「裏側は見えますか?」

    「隙間から少しだけ。無理に覗かないでください」

    祈乃は頷き、角度を変えて写真を撮った。剥がす現場ではどこから剥がすかを、今日はどこを触らずに済ませるかを考える。視線の置き方から違う。

    「触らない場所を決めるのって難しいですね」

    祈乃が言うと、央路は養生材を取り出しながら答えた。

    「触ればいいってものじゃないからな」

    「木皿さんは、そういうの得意そうです」

    「得意ではない」

    「得意じゃないんですか?」

    「我慢しているだけだ」

    祈乃は、その言葉を聞いて央路の横顔を見た。踏み込まない人だと思っていたが、それは何も感じていないからではなく、感じていても手を止めているからなのかもしれない。

    「我慢って、疲れませんか?」

    「疲れる」

    央路はすぐに答えた。いつもの軽さはなく、その短さがかえって胸に残った。

    「じゃあ、どうして」

    「相手がまだ触られたくない場所を、こっちの都合で剥がしたくない」

    祈乃は息を詰めた。たぶん、看板の話だ。けれど、その言葉は写真館の古い壁を越えて、祈乃の触られたくなかった心に静かに届いた。

    「木皿さん」

    「うん」

    「それ、看板の話ですか?」

    央路は少しだけ黙った。風が写真館の庇を、かすかに揺らした。

    「看板の話にしておく」

    祈乃は返事をしなかった。「しておく」という言い方が、もう看板だけではないと分かっている証拠みたいだった。

    昼に近づくにつれ、通りの音は少し増えた。遠くを走る車の音、どこかの店の戸が開く音、歩道を通る足音。しかし、写真館の前ではそれらの音が少しずつ和らいだ。

    祈乃は、看板の下に保護板をあてる準備をした。央路は脚立に上がり、木の反った部分を確認した。今日は、工具の音がほとんどなかった。聞こえるのは、布が木に触れる音、養生テープが静かに伸びる音、そして央路の短い指示だけだった。

    「祈乃、そこを持って」

    「はい」

    「引かない。添えるだけ」

    「添えるだけ」

    祈乃は同じ言葉を繰り返しながら、保護板を壁に沿わせた。看板は外さない。支えるだけ。それなのに、指先にはいつもより繊細な緊張が走っていた。

    「このままだと雨が入りますね」

    「右上から入ります。今日ふさぎます」

    「完全には?」

    「無理にふさぐと木が逃げ場を失います」

    「逃げ場」

    祈乃は、保護板を持つ手を少し緩めた。木にも逃げ場が必要なのか。水や風や歪みを完全に閉じ込めれば、木を守れるわけではない。息をする余地を残さないと、別の部分が割れてしまう。

    「残すって、閉じ込めることじゃないんですね」

    「うん」

    央路は脚立の上から静かに答えた。

    「残すなら、動ける隙間も必要だ」

    祈乃はその言葉を胸の中で何度も反芻した。動ける隙間、逃げられる余白。央路がずっと自分に残してきたものの正体が少しだけ見えた気がした。

    作業の途中、祈乃の指に古い木のトゲが刺さった。小さな痛みだったが、素手ではなく軍手越しだったため、すぐには気づかなかった。手を動かしたとき、指の腹に細い違和感が走った。

    「どうした?」

    央路がすぐに気づいた。

    「少し、引っかかっただけです」

    「見せて」

    「大丈夫です」

    「大丈夫じゃなくて、棘かも」

    央路は脚立から降り、祈乃は軍手を外して指先を見た。小さな木片が薄く刺さっていたが、血は出ていなかった。しかし、見れば見るほど痛くなる種類の痛みだった。

    「抜けそう?」

    央路が聞いた。

    「自分でやります」

    「うん。無理なら言って」

    央路は近づきすぎずに祈乃の手元を見ていた。祈乃は爪の先で棘をつまもうとしたが、細すぎてうまくつかめない。何度か試すうちに指先が少し赤くなった。

    「貸して」

    央路の声は低かった。祈乃は手を引っ込めかけ、そこで止まった。

    「痛くしないですか?」

    「たぶん」

    「そこは絶対とは言わないんですね」

    「言えない」

    その正直さに、祈乃は小さく息を吐き、手を差し出した。央路はポケットから細いピンセットを取り出し、祈乃の指を直接握らず、その下に布をあてた。

    「動かないで」

    「はい」

    央路の指が近づく。触れているのは布越しで直接ではないが、それでも祈乃の体は勝手にその近さを感じ取ってしまう。写真館前の昼の空気が急に耳の奥で静かになった。

    「抜く」

    細い痛みが走った。祈乃は少しだけ肩を揺らしたが、声は出さなかった。

    「取れた」

    央路は小さなとげを布の上に置いた。祈乃は指先を見た。赤い点がひとつだけ残っている。

    「こんな小さいのに、痛いですね」

    「小さいから痛いときもある」

    その言葉に、祈乃は指先から顔を上げた。央路は棘を見ていた。

    「見えにくいものほど、深く入ることがある」

    祈乃は返事をしなかったし、央路もそれ以上は言わなかった。しかし、その言葉は写真館の静けさの中にしばらく残っていた。

    央路は絆創膏を差し出した。祈乃は指先に絆創膏を巻くと、少しだけ動かしづらくなった手を軽く開閉して、痛みが小さくなったことを確かめた。

    「作業、続けられる?」

    「続けます」

    「痛むなら言って」

    「言います」

    「早いな」

    「学習しました」

    央路が少し笑った。祈乃もほんの少し笑った。小さなとげひとつで止まることを、今の祈乃は前ほど恥ずかしいとは思わなかった。

    午後の光は写真館の壁をゆっくり移動し、看板の上の影が少しずつ形を変えて文字の薄れた部分を明るくしたり暗くしたりした。祈乃は、その変化を見ながら残すと決めたものは時間の中でまた違う表情を見せるのだと思った。

    作業は撤去よりも静かなのに神経を使った。浮いた部分を支え、雨が入る隙間だけに養生を入れ、木が逃げられる余地をなくさないようにする。どこまで手を入れ、どこから先は手をつけないか。その境目を探す時間だった。

    「祈乃、そこはもういい」

    央路が言った。

    「まだ少し浮いてます」

    「浮いてていい。押さえすぎると割れる」

    「まだ残ってるのに?」

    「残ってるから」

    祈乃は手を止めた。全部直したくなる。浮いたものを平らにしたくなる。見える傷を消したくなる。そうすれば安心できる気がするから。

    けれど央路は、浮いたままでいいと言う。歪んだまま置いておくことも守ることだと言う。

    「難しいです」

    「難しいな」

    「木皿さんでも?」

    「毎回迷う」

    「迷っているように見えません」

    「見せない癖がある」

    央路は脚立の上で少しだけ肩をすくめた。祈乃は彼を見上げた。写真館の看板の下、央路の顔には午後の日差しが差し込んでいた。

    「見せてもいいのに」

    と言ってから、祈乃は自分の声に驚いた。央路も少しだけ動きを止めた。

    「祈乃に?」

    と問い返された声は静かだった。祈乃は足元を見た。写真館前の段差に光が細く乗っていた。

    「……作業の迷いなら」

    「逃げたな」

    「逃げました」

    央路が小さく笑った。祈乃も少し笑った。逃げたと認めても、空気は壊れなかった。

    夕方の影が通りの端から伸びてくるころ、応急の養生は終わった。看板は外されず写真館の壁に残っているが、朝とは少し違う姿になっていた。浮いていた端は支えられ、雨が入りそうな隙間には柔らかな保護材が入っていた。

    遠くから見ればほとんど変わらないが、近くで見れば確かに手が入っている。外していないのに何もしなかったわけではない。

    祈乃は、撤去後ではなく保留後の記録写真を撮った。言葉としては少し変だと思ったが、そう呼びたくなった。外す前でも外した後でもなく、残すために触れた後の姿。

    「写真、残す?」

    央路が聞いた。

    「残します。記録に使うものと使わないものとを分けます」

    「使わないものも?」

    「今日は使わないものも、必要な気がするので」

    央路は何も言わなかった。祈乃は、画面に写真館の看板、指に巻いた絆創膏、足元に落ちた小さな木の棘を別々に収めた。

    棘の写真は記録に使わないが、今日の現場に確かにあったもので、見えにくいものほど深く心に残るという言葉とともに祈乃の中に残った。

    「祈乃」

    央路が呼んだ。

    「はい」

    「指、まだ痛む?」

    「少し」

    「少しならいい。じゃないからな」

    「分かってます」

    「ならいい」

    央路の声は強くないのに、逃がさない。祈乃は絆創膏を巻いた指を曲げ、痛みが小さく返ってくるのを感じた。

    夜まで現場を離れずに様子を見ることになった。養生した部分が風で浮かないか、木の反りが変わらないか、影が深くなったときに隙間がどう見えるかを確かめる。撤去しない夜は待つ時間が長かった。

    写真館の前に作業灯を小さく置き、これまでのように強く照らすのではなく、看板の端だけを柔らかく照らすための灯りにした。通りは暗くなり始め、窓ガラスには街灯の輪が薄く映っていた。

    「外さない夜って、変ですね」

    祈乃は言った。

    「物足りない?」

    「物足りないというか、終わり方が分からない」

    「今日は終わらせないのが終わり」

    「難しい言い方」

    「自分でも思った」

    央路が少し笑った。祈乃は、その笑い声を聞きながら看板を見上げた。写真館の名前は、まだそこにある。朝と同じ場所だ。けれど、もう朝とは違う。

    「残すって、希望みたいにも見えるし、諦めみたいにも見える」

    「両方あるかもな」

    「外さないのは、まだ終われないから」

    「外さないのは、まだ壊したくないからでもある」

    祈乃はその言葉に黙った。終われないことと壊したくないこと、その違いは小さいようで大きい。

    央路は、看板から視線を外さなかった。

    「祈乃は、どっちが怖い?」

    「終われないことと壊したくないこと、どちらが怖いですか?」

    「うん」

    祈乃は絆創膏を貼った指を見た。小さな棘の痛みがまだ残っている。

    「壊したくないと思うことです」

    声は思ったより静かだった。

    「終われないものはまだ自分の中に置いておける。でも、壊したくないと思ったら、もう自分だけの問題じゃなくなる」

    央路は何も言わなかった。祈乃は、看板を見たまま続けた。

    「相手のことを考えてしまうから」

    と言ってから、祈乃の胸が少し遅れて鳴った。「相手」という言葉が、写真館の前の夜に置かれた。それは、看板の話にも聞こえるし、そうでない話にも聞こえる。

    央路はゆっくり息を吐いた。

    「俺は、壊したくないと思った時点で少し壊している気がする」

    「どうして?」

    「手を出す理由ができるから」

    祈乃は央路を見た。彼は、看板ではなく祈乃の指先を見ていた。棘を抜いた指。絆創膏の端が少し浮いている。

    「でも、手を出さないと残せないときもあります」

    祈乃がそう言うと、央路の視線が上がった。

    「うん」

    「今日みたいに」

    「今日みたいに」

    短いやりとりだけが残る。そこには、看板のことだけではない何かが静かに含まれていた。

    夜が深まるにつれ、写真館の窓には外の光が映り始めた。カーテンの影は薄れ、代わりに作業灯と街灯の光がガラスの表面に浮かび上がる。看板の文字は暗さで少し読みにくくなったが、その存在感はかえって増した。

    「暗いほうが、残ってる感じがします」

    祈乃が言った。

    「昼は文字が見える。夜は場所が見える」

    「場所?」

    「看板だけじゃなくて、壁とか窓とか、空気ごと」

    央路の言葉に、祈乃はうなずいた。夜になると、名前は輪郭を失い、周りの空気と混ざり合う。呼ばれなくても、そこにあるものになる。

    「木皿さんは、ずっとそうやって見ていたのですか?」

    「何を?」

    「外すものとか、残すものとか」

    央路は少し考えるように工具を持ち替えた。今日はもう使わない工具なのに、癖で手の中に収めている。

    「最初からじゃない。雑に見ていた時もある」

    「今は?」

    「今は、雑に見るのが怖い」

    祈乃は胸の奥が少し締め付けられるのを感じた。央路の「怖いもの」がまたひとつ見えた気がした。

    「怖いって、言うんですね」

    「祈乃が言うようになったから」

    央路の声は軽すぎず、重すぎなかった。 祈乃はうつむき、絆創膏を貼った指で軍手の端を撫でた。

    「私のせいですか?」

    「祈乃の影響」

    「責任が重いです」

    「重くなくていい。少し残っただけ」

    少し残っただけ。祈乃はその言葉を夜の中で受け取った。央路の中に自分の言葉が少し残っている。以前なら怖くて逃げたかもしれない。今も怖い。けれど、全部嫌ではない。

    養生した看板は夜の風にも浮かなかった。保護材は端に馴染み、木の反りも朝より落ち着いて見える。完全に安全ではないが、今夜を越えられるくらいには守られている。

    「大丈夫そうですね」

    祈乃がそう言うと、央路は看板の端をもう一度見た。

    「今夜は」

    「明日は?」

    「また見る」

    祈乃は小さく笑った。

    「終わらないですね」

    「残すって、そういうことかもな」

    終わらないことを引き受ける。祈乃は写真館の名前を見上げた。外されなかった看板は、どこかほっとしたようにもまだ不安そうにも見えた。この世には、どちらか一つに決められないものがたくさんあるのだろう。

    片付けを始めると、作業灯の輪が小さくなった。養生材の残り、布、工具、脚立。撤去したものは何もない。荷台はいつもより軽く、音も少ない。

    「軽いですね」

    と祈乃が言うと、央路は荷台の奥を見た。

    「何も積んでないからな」

    「でも、何か持って帰る感じがします」

    「判断」

    「それもあります」

    「他にも?」

    祈乃は写真館の看板を振り返った。残した名前、抜いた棘、動ける隙間、そして壊したくないと思う怖さ。

    「言葉にすると軽くなりそうなので、やめておきます」

    「軽くしたくない?」

    「まだ」

    央路はうなずいた。聞き出そうとはしない。その沈黙は今夜、看板の逃げ場のように思われた。

    作業車に乗る前、祈乃はもう一度写真館の前に立った。看板は残っている。外されず、少し支えられ、雨の入り口を塞がれ、明日へ預けられている。

    「残して帰るの、少し不安です」

    祈乃が言うと、央路は隣ではなく半歩後ろから答えた。

    「不安なまま帰る現場もある」

    「木皿さんは、それに慣れてますか?」

    「慣れない。慣れたら確認が雑になる」

    祈乃はその返事にうなずいた。不安があるからまた見る。怖さがあるから手を止める。傷があるから雑に扱わない。

    「また見に来ますか?」

    「来る」

    央路は短く言った。

    祈乃はその短さに安心した。約束というほど大きくはないが、明日また見に行くというだけで、残していくものへの罪悪感が少し薄れた。

    帰りの車内はいつもより静かだった。荷台に看板がないため金属の重い音がせず、代わりに保護材の袋が擦れるかすかな音と空の荷台を渡る風の気配がした。

    祈乃は、絆創膏を貼った指を膝の上で見た。棘はもうない。けれど、痛みだけが小さく残っている。抜いた後にも残る痛み。取り除いたからといって、すぐに楽になるわけではないもの。

    「指、痛む?」

    央路が聞いた。

    「少し。でも、棘はないです」

    「ないのに痛むのか」

    「ありますよ、そういうこと」

    と言ってから、祈乃は窓の外を見た。暗いガラスに自分の顔が薄く映っている。央路はすぐに返事をしなかった。

    「あるな」

    低い声が遅れて届いた。

    「木皿さんにも?」

    「ある」

    「聞いてもいいですか?」

    央路は少しだけハンドルを持ち替えた。言いたいことを飲み込むときの癖だ。祈乃はそれを見てすぐに続けた。

    「今じゃなくてもいいです」

    央路は小さく息を吐き、たぶん少し笑った。

    「それ、俺の言い方」

    「移りました」

    「困るな」

    「嫌ですか?」

    「嫌じゃないから困る」

    前にも聞いた言葉だったが、今夜は少し違う場所に落ちた。祈乃は絆創膏の端を押さえ、胸の奥でその言葉を静かに抱えた。

    車は夜の東京を抜けていく。窓の外にはまだ光っている看板と、もう消えた看板が並んでいた。外されるもの、残されるもの、そして、外されないまま忘れられていくもの。街は、そのすべてを抱えたまま何も言わずに進んでいる。

    「祈乃」

    「はい」

    「今日、残すのが怖いって言っただろう」

    「はい」

    「俺は、祈乃がそう言ったことを残したいと思った」

    祈乃は息を止めた。外の光が窓を流れ、車内の暗さが少しだけ揺れた。

    「どういう意味ですか?」

    「まだ、うまく言えない」

    央路の声は珍しく頼りなかった。祈乃は横を見なかった。見たら、彼の迷いまで受け取ってしまう気がした。

    「でも、聞き流したくなかった」

    その言葉で祈乃の指先が少し熱くなった。聞き流したくなかった。見えにくい棘のような言葉を央路は抜かずに持とうとしている。

    「残すなら」

    祈乃はゆっくりと言った。

    「逃げ場も残してください」

    央路はすぐに答えなかった。車体の振動だけが足元に伝わる。

    「残す」

    短い返事だった。祈乃はうなずいた。逃げたいわけではない。けれど、逃げられない場所に置かれると、きっと壊れてしまう。央路はそれを分かっている。

    三路撤工に戻ると、作業場の前で改めて荷台の軽さが分かった。外した看板を下ろす作業がないのだ。道具を片づけるだけで夜の仕事が終わっていく。

    それが少し寂しかった。外した名前がない夜は、空白を持ち帰ったみたいだった。けれど、その空白の中に写真館の看板はまだ立っている。残されたまま、明日を待っている。

    祈乃は、保護材の残りを棚に戻し、使った布をたたんだ。指先の絆創膏が少し引っかかる。その小さな不便ささえも、今日の現場の一部だった。

    「祈乃」

    央路が作業台の向こうから呼んだ。

    「はい」

    「今日の記録を、祈乃の名前でまとめて」

    「外していないのに?」

    「残す判断をした」

    「私だけじゃありません」

    「俺だけでもない」

    祈乃は布を畳む手を止めた。「俺だけでもない」という言い方が胸に静かに響いた。

    「じゃあ、連名ですか?」

    「そうする?」

    「記録として変じゃないですか」

    「変でも、事実に近い」

    祈乃は少しだけ笑った。事実に近い。完全に正しいよりも、たぶんそのほうが今夜には合っている。

    「考えておきます」

    「うん」

    作業場の灯りの下、補修済みの袖看板は倉庫の奥に眠り、今日外さなかった写真館の看板は、遠い通りにまだ残っていた。ここにはないものまで、祈乃の中では静かにつながっていた。

    片付けが終わるころには、夜がさらに深まっていた。外に出ると、乾いた路面に街灯の光が薄く伸び、空の狭い部分に雲の輪郭が沈んでいた。祈乃は門のところで立ち止まり、絆創膏を貼った指を軽く握った。

    央路は作業場の入り口で今日使ったピンセットを小さなケースに戻していた。棘を抜いた道具だ。ささやかなものなのに、祈乃には妙に大事なものに見えた。

    「木皿さん」

    央路が顔を上げる。

    「今日の棘」

    「うん」

    「抜いてくれて、ありがとうございました」

    「痛かった?」

    「少し」

    「ごめん」

    「謝らないでください。痛かったけど、抜けました」

    央路は静かに祈乃を見た。踏み込みすぎない目だった。

    「なら、よかった」

    祈乃はうなずき、それから少し迷ってから言葉を続けた。

    「抜けても痛むことがあるって、言いましたけど」

    「うん」

    「でも、抜かないままよりはたぶん息がしやすいです」

    央路はすぐには答えなかった。夜の作業場に、遠くから車の音が聞こえてくる。

    「たぶん、でいい?」

    「たぶん、でいいです」

    祈乃はそう言って小さく笑い、央路も少しだけ笑った。

    帰り道、東京の夜はいつもより柔らかく感じた。外された看板を積んでいないせいか、体に残る重さが違う。けれど、胸の奥には別のものが静かに置かれていた。

    残すということは、何もしないということではなかった。触りすぎず、逃げ場を残し、明日また見ると決めること。壊さないために手を止めること。怖さを抱えたまま、今夜はここまでと決めること。

    写真館の看板は、まだ街にある。祈乃の中にも、まだ名前のつかないものがある。外さずに残したまま、それでも少しだけ支えを入れた場所がある。

    木皿央路という名前は、もうただ胸の奥に残るだけではなかった。触れすぎず、離れすぎず、逃げ場を残したまま、祈乃の呼吸のそばで静かに明日を待っていた。

     
     
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