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【創作大賞2026応募作品】剥がせない名前 第3章:雨跡に触れる息

    朝の雨はすでに上がっており、三路撤工の作業場の入口には濡れた空気だけが薄く残っていた。鉄棚の影まで少し柔らかく見え、芦倉祈乃は作業台に置いたスマートフォンを覗き込み、今日の撤去予定となっている看板の写真を指で拡大した。

    それは美容室の看板で、白い外壁に細い銀の文字が取りつけられていた。写真の端には雨粒の残る路地が写っており、看板そのものは大きくないのに、濡れた壁と並ぶと名前だけがまだ誰かの髪に触れているように見えた。

    「今日は滑るな」

    荷台の奥から木皿央路の声が聞こえた。祈乃は画面の端を親指でなぞりながら、写真に写っている脚立の置き場所を探した。濡れた路地、狭い間口、低い庇、足元の排水溝。

    「脚立、立てにくそうですね」

    「立てにくい。あと、壁が白いから傷が目立つ」

    「傷をつけないように外す」

    「そう。今日はそこが一番面倒」

    央路が「面倒」という言葉を使うときほど、たいてい丁寧になることを、祈乃は知っていた。彼が優しさを仕事の言葉に隠すように、祈乃も安心を返事の平らさに隠している。

    作業場の床には外から入った湿気が薄く残っており、祈乃が歩くたびに靴底が音を吸い込んでいた。雨上がりの朝、金属も木材も少しだけ匂いを強めており、倉庫の奥に眠っていた道具まで息をしているようだった。

    「滑り止め、入れました」

    「替えの軍手は?」

    「多めに。濡れたらすぐ替えます」

    「いいね」

    その短い言葉だけで、祈乃の手元が一瞬止まった。褒められたと受け取るにはささやかで、聞き流すには少し温かい。困るほどではないのに、困る場所にちゃんと届く。

    央路は脚立の足を拭き、ゴムのすり減りを指で確かめていた。それは、外す前に看板を押さえるときと同じ、静かな手つきだった。祈乃は、その手を見すぎないように軍手の手首を引いた。

    「祈乃」

    名前を呼ばれて、指先に入れた力が少し緩んだ。

    「はい」

    「今日は足元を先に見る。看板より先に」

    「分かってます」

    「分かってる顔で上を見るから」

    言い返したかったが、否定しきれなかった。 祈乃は現場写真を閉じ、スマートフォンをポケットに入れた。 昨日、喫茶店の窓に映った自分の顔がまだ画面の暗がりに残っている気がした。

    作業車に乗ると、車内には濡れたロープの匂いがした。雨水を吸った布と金属、古いゴム、そして、昨日の木枠から移ったわずかな塗料の気配。祈乃は助手席の足元に工具袋を置き、膝の上で軍手を揃えた。

    車が動き出すと、東京の朝は水を含んだまま低く流れた。歩道の端に残った水たまりがビルの縁を歪めて映し、排水溝の蓋には細かな葉が引っかかっていた。窓を少し開けると、濡れた舗装と洗い流されたほこりのにおいが車内に入ってきた。

    「美容室の看板って、軽そうに見えますね」

    祈乃が言うと、央路は前を向いたまま少し笑った。

    「見た目で油断すると、裏が面倒だったりする」

    「また裏ですか?」

    「裏はだいたい正直だから」

    前夜の言葉が蘇ってきた。見せるつもりのない部分。祈乃は膝の上の軍手に視線を落とした。自分の裏側には、まだ見せたくないものばかりある。

    「今日の看板も、裏が正直ですか?」

    「雨の後だからな。水を吸っているかもしれない」

    「水を吸うと、何が変わるんですか?」

    「重くなる。脆くなる。あと、外したときに匂いが出る」

    匂いという言葉に、祈乃は少しだけ息を止めた。看板を外すたび、そこに閉じ込められていた時間が匂いになる。喫茶店の木枠は古い塗料の匂いを残し、その匂いは昨日の夜からまだ薄く祈乃の指先に移っていた。

    道の端には雨粒をつけた自転車が何台も並んでいた。ビニール傘の先から落ちた水滴が歩道に小さな濃淡を作り、開店前の店先には濡れたマットが広げられていた。東京は洗われてもすぐにまた、人の匂いを取り戻す。

    「腕、張っていない?」

    央路が聞いた。

    「張っていません」

    「早い」

    「昨日もそれ言いました」

    「昨日も本当に張ってなかった?」

    祈乃は返事に詰まった。少し張っていた。大したことではない、そう思って黙っていたけれど、彼にはどこまで見えているのだろうかと考えると、落ち着かない。

    「少しだけです」

    「言ったな」

    「言わないとうるさそうだったので」

    「うるさくする前でよかった」

    央路の声は軽かったが、その軽さの奥に昨日とは違う何かがある気がした。聞きたいのに聞かない、近づきたいのに足元を確かめるような慎重さ。

    現場の美容室は細い路地の中ほどにあった。白い壁は雨のあとでくすんでおり、入口のガラスには閉店を知らせる紙が内側から貼られていた。朝の光を受けているはずの看板の銀の文字は、少し冷えて見えた。

    祈乃が車を降りた瞬間、靴底に湿ったコンクリートの冷たさを感じた。排水溝からは雨水と古い葉の匂いが立ち上り、近くの室外機はゆっくりとした息のような音を出していた。路地の狭さのためか、声まで近く感じられた。

    「ここ、音が響きますね」

    「狭いからな。工具の音も跳ねる」

    「近所、まだ静かです」

    「だから、夜はもっと静かになる」

    「夜」という言葉が祈乃の胸の奥で少し沈んだ。この仕事では夜がただ暗い時間ではなくなる。名前が外され、壁が現れ、言えないものだけが濃くなる時間。

    祈乃は看板を見上げた。美容室の名前は細い文字で壁から少し浮いており、雨粒が一部の文字の下に溜まって光を受けて小さく震えていた。

    「これ、文字だけ外すんですね」

    「そう。枠がない分、ひとつずつ丁寧に」

    「順番、ありますか?」

    「端からいく。真ん中を先に触るとバランスが悪い」

    央路は脚立をまだ立てず、壁と地面と看板の位置を確認していた。祈乃は、その横顔を横目で見た。彼は、看板を外す前にいつも少しだけ無口になる。

    仕事に集中しているだけだ、と祈乃は思う。けれど、その沈黙に昨日の帰りの車内を重ねてしまう。「聞きたいよ」と低く落ちた声。「今じゃなくていい」と残された逃げ道。

    「祈乃、先に全体を撮って」

    「はい」

    スマートフォンを構えると、画面に白い壁と銀の文字が入った。美容室の窓の端に自分の影が薄く映り、雨上がりの光のためか、その輪郭は昨日よりも柔らかく見えた。

    シャッターを切る。乾いた電子音が湿った路地に少し浮いて響いた。祈乃は角度を変え、文字の固定部分、雨水のたまり、壁の汚れを一つひとつ記録した。

    「細かいな」

    央路が言った。

    「必要なので」

    「うん、必要以上に見てる」

    「だめですか?」

    「だめじゃない」

    その返事が祈乃の中で変な風に引っかかった。必要以上に見ている。たぶん自分は、看板だけではなく、外される前の場所が持つ最後の表情まで撮ろうとしている。

    昼の空気が路地へ降りてくると、白い壁の湿りはゆっくり薄くなった。通りの外から人の声が漏れ、どこかで水を撒く音がする。美容室のガラスには、まだ使われていない椅子の背もたれの影がぼんやりと映っていた。

    祈乃は入口の前に立ち、ガラス越しの暗がりを見た。中には誰もいない。けれど、髪を切られている間の沈黙や、鏡越しに交わされる短い会話の痕跡が空気の薄い層のように残っている気がした。

    「美容室って、名前が変わると別の場所みたいになりますね」

    「名前だけで覚えている人もいるしな」

    「髪を切った場所って、変に覚えてませんか?」

    「覚えてる。似合わない髪型にされたときとか」

    祈乃は少しだけ笑った。央路も軽く笑った。その一瞬、路地の湿気が解けたように感じた。

    「木皿さんにもあるんですね、そういう失敗」

    「あるよ。しばらく帽子でごまかした」

    「想像つかない」

    「祈乃は?」

    「私は、似合ってないとは言えないまま帰るタイプでした」

    「今は?」

    祈乃は答えに迷った。今もそうかもしれない。嫌だと思っても言えないまま帰る。平気なふりをする。自分の顔が気に入らない日も、誰かの言葉が刺さった日も、何もない声で一日を閉じる。

    「少しは言うかもしれません」

    「少し?」

    「たぶん」

    「それくらいが祈乃っぽい」

    祈乃は視線を足元へ落とした。水たまりに、央路の作業靴の先が映っている。そのすぐ近くには、自分の靴が歪んで映っていた。

    「私っぽいって、何ですか?」

    「全部は言わないけど、黙りっぱなしでもないところ」

    「褒めてます?」

    「褒めてる」

    央路はまたそう言った。 祈乃は困ったように息を吐き、スマートフォンをポケットにしまった。 褒め言葉をそのまま受け取れない自分が少しだけ、古い壁みたいに思えた。

    下見を終えると、いったん会社へ戻ることになった。夜は路地の人通りが少なくなるまで待つことにして、祈乃は最後にもう一度看板を見上げた。銀の文字は湿気を帯びており、昼の光の中でもどこか夜を先取りしているようだった。

    帰りの作業車内には雨上がりの匂いが残っており、窓から入る風は濡れた植え込みと温まり始めた舗道の匂いを運んできた。祈乃は午前中に撮った写真を見返しながら、銀の文字の細さを指でなぞった。

    「消さないんだ」

    央路が言った。

    「何をですか?」

    「ぶれてる写真。いつも一枚くらい残してる」

    祈乃は画面を止めた。たしかに、少し手ブレした写真が残っていた。看板ではなく、濡れた壁と路地の端、央路の手元がわずかに写っている。

    「記録としては使いません」

    「でも、消さない」

    「消すほどでもないから」

    それは半分だけ本当だった。祈乃は、ブレた写真の方にその場の息遣いが残ることを知っている。きれいな記録には残らない、足元の冷えや声をかけられた直後の体の揺れ。

    「そういうの、祈乃らしいな」

    「またですか」

    「嫌?」

    「嫌というか、困ります」

    「困るんだ」

    央路はそれ以上言わなかった。祈乃は画面を暗くし、膝の上で両手を重ねた。「困る」と言えるようになったこと自体が、自分でも少し意外だった。

    会社に戻ると、午後の作業場は湿りを含んだ熱気で少し重くなっていた。鉄棚の影は朝よりも短く、床に置かれた養生材のにおいが強かった。祈乃は濡れた軍手を新しいものと取り替え、夜用のライトを確認した。

    央路は脚立の足をもう一度拭いていた。布を絞る手に水滴が残り、手首のあたりで小さく光る。祈乃は見てしまったことを隠すように工具箱の中のビットを並べ直した。

    「今日は文字ごとに外すから、時間がかかる」

    「分かりました」

    「飽きない?」

    「仕事なので」

    「祈乃のそれ、便利だな」

    「何がですか?」

    「仕事なので、って言えば大体隠せるところ」

    祈乃は手を止めた。央路の声は軽かったが、逃げ切れない。彼は時々、こちらの胸元に貼った紙を剥がすようなことを言う。

    「木皿さんだって、面倒だからって言うじゃないですか」

    「言うな」

    「それも便利です」

    「ばれたか」

    少しだけ空気が緩んだ。祈乃は工具箱のふたを閉め、胸に残った引っかかりを小さく飲み込んだ。こうして言い返せる距離になっていることが嬉しいのか、それとも怖いのか、まだ分からなかった。

    夕方の気配が作業場の奥まで入り込むころ、外の空は薄い灰色から沈んだ青色に変わっていった。倉庫の入り口に置かれた脚立の影が伸び、濡れた路面の匂いが再び漂ってきた。雨は降っていないのに、街は依然として水気を帯びていた。

    出発前に、祈乃はもう一度スマートフォンの写真を開いた。美容室の看板、銀の文字、白い壁、濡れた路地。その中に自分の影が少しだけ写っていた。

    「緊張してる?」

    央路が作業車の鍵を持ったまま尋ねた。

    「してません」

    「今日は本当にしてる顔」

    「じゃあ、聞かないでください」

    「聞いた方が少し緩む時もある」

    祈乃は軍手をつけ直し、口元を結んだ。緩むときもある。そうかもしれない。けれど、緩んだあとに何がこぼれるのかが怖い。

    「緊張しています」

    と言ってから、自分でも少し驚いた。央路はすぐにからかおうとはしなかった。

    「うん。じゃあ、ゆっくりやろう」

    それだけだった。祈乃はその返事に、思っていたより深く息を吐いた。

    作業車が夜に向かって走っていくと、フロントガラスに濡れた光が細く伸びた。街路樹の葉は雨粒を抱えたまま暗く揺れ、横断歩道の白はタイヤの跡で少し濁っていた。車体の振動が膝に伝わり、祈乃の呼吸は現場のほうへ少しずつ整っていく。

    「祈乃」

    「はい」

    「さっき、緊張してるって言ったの、よかった」

    祈乃は横を見ないまま眉を寄せた。

    「よかったって何ですか?」

    「分かりやすいから」

    「子どもみたいですね」

    「違う。助かるって意味」

    助かる。祈乃はその言葉を胸の中で受け止め損ねた。自分の不安を伝えることが、誰かを困らせるのではなく助けることもある。その考え方は、まだうまく体に馴染まない。

    現場の路地は昼よりも狭く見えた。白い壁は街灯を受けて青みを帯び、美容室の銀の文字が冷たく光っている。地面に残った湿り気が黒い線を描き、排水溝の近くから雨水の匂いが立ち上っていた。

    央路は脚立を立てる前に足元を何度も確認し、祈乃もライトを持つ位置を探して濡れた場所を避けた。路地の外では車が流れているはずなのに、ここだけ音が少し遠かった。

    「滑りやすい。そこ、半歩右」

    「はい」

    「ライトは低め。文字の影を見たい」

    「これくらい?」

    「もう少しだけ下」

    祈乃がライトの角度を変えると、銀の文字の下に細い影が浮かび上がった。壁からわずかに離れている部分、雨粒が溜まっている部分、劣化した固定具。光の角度を変えるだけで、見えるものが変わる。

    「見えた」

    央路が言った。

    「何がですか?」

    「右端、少し緩んでいる。先に外す」

    脚立に上がる央路の動きは静かだった。祈乃は下でライトを支えながら濡れた脚立の足元を気にしていたが、自分の足元よりも央路の足元が気になる自分に気づき、少しだけ息が乱れた。

    電動工具の音が路地に響く。細く、短く、すぐに止まる。銀の文字は、最初の固定具を外されてもまだ壁に残っていた。

    「落ちますか?」

    「まだ。支え、少し入れる」

    央路の手が文字の端に触れた。外す前に押さえるいつものしぐさとは少し違っていた。雨粒を避け、力を逃がしながら壊れやすいものの機嫌をうかがっているような手だった。

    祈乃はその手を見上げた。仕事の手だ。何度もそう思おうとするが、危ないときに迷わず伸びてくる腕や指先が触れないように距離を残すしぐさを知ってしまうと、「ただの仕事」という言葉だけでは足りなくなる。

    「祈乃、ライトを少し左に」

    「はい」

    祈乃はライトを動かした。濡れた軍手の内側に汗がこもる。雨の湿りと自分の体温が混ざり合って、手の中だけが妙に熱かった。

    「手、濡れてる?」

    央路が脚立の上から聞いた。

    「少し」

    「替えて。滑る」

    「この文字だけ終わったら」

    「今」

    声は強くなかったが、迷わせない温度があった。祈乃は返事を飲み込み、ライトを置いて軍手を外した。

    濡れた軍手を脱ぐと、指先に夜気が触れた。冷たい。祈乃が替えの軍手を探そうとしたとき、央路が脚立から片手を下ろしたのに気づいた。彼の手には乾いた軍手が握られていた。

    「使って」

    「自分で取れます」

    「近いから」

    祈乃が受け取ろうとすると、央路の指先との距離が視界に入った。触れないように渡されるはずだった。いつもならそうだった。しかし、狭い路地と脚立の高さのせいで、乾いた軍手を受け取る瞬間、指の側面がわずかに触れてしまった。

    ほんの少しだった。軍手越しでもない、素手の一部。祈乃の呼吸が止まる前に、央路の手はすぐに離れた。

    「ごめん」

    央路が低く言った。祈乃は軍手を握ったまま足元を見た。

    「大丈夫です」

    いつもの言葉が出たが、声が少し掠れていた。大丈夫ではないわけではないし、触れたことが嫌だったわけでもない。ただ、触れてしまった一瞬の小ささに体のほうが大げさに反応したのだ。

    「嫌だった?」

    央路の声が路地の湿り気に吸い込まれた。祈乃は顔を上げることができなかった。

    「嫌ではないです」

    答えた後で、その言葉の危うさに気づいた。否定しきれなかったのだ。仕事の現場で、たったそれだけの接触に意味を持たせる自分が恥ずかしくなった。

    央路は少し黙った。工具の音も車の音も一瞬遠くなった。

    「なら、よかった」

    それだけ言って、彼は作業に戻った。踏み込まない。けれど、聞かなかったことにもしない。その加減が胸の内側をゆっくり濡らしていく。

    祈乃は乾いた軍手をつけ、ライトを持ち直した。指先にまだ残っている感覚を布の内側へしまうように握る。見上げると、央路はすでに看板の文字に集中していた。

    最初の文字が外れ、銀の細い部品が央路の手に収まった。壁には小さな穴と水の跡だけが残った。祈乃は、央路が外した文字を受け取るために毛布を広げた。

    「傷、ない」

    「きれいに外れましたね」

    「まだ一文字」

    「一文字でも」

    央路が少しだけこちらを見たが、祈乃は言葉を続けずに毛布の端を整えた。一文字でも外すと、場所の表情が変わる。そう言いたかったが、今はそれ以上言うと別の話題に触れてしまいそうだった。

    作業は慎重に続けられた。銀の文字がひとつずつ壁から離れて毛布の上に並んでいく。路地の湿った匂いに金属の冷たい匂いが混じり、ライトの熱が祈乃の手の甲を少しずつ温めた。

    央路は必要なことだけを言った。「右」「少し下」「そこを持って」「待って」。短い指示の間に余計な感情は入っていないはずだった。それでも祈乃は、その声の低さや言葉の前に置かれる一瞬の間に別の温度を感じ取ってしまう。

    「祈乃、疲れてきた?」

    「大丈夫です」

    「今の大丈夫は少し信用できる」

    「少しだけですか」

    「全部はまだ」

    その言い方に、祈乃は小さく息を漏らした。笑ったのか呆れたのか、自分でも分からなかった。央路は工具を持ち替えて最後の文字に手を伸ばした。

    最後の文字は他よりも強く壁に残っており、雨水を吸った固定具が固くなっているらしく工具の音が何度か途切れた。央路は無理に回そうとせず、角度を変えた。

    「しつこいですね」

    「最後に残るやつほどだいたいそう」

    「名前みたいですね」

    と言ってから、祈乃はしまったと思った。央路が手を止めた気配がして、路地の空気が少しだけ密になった。

    「名前?」

    「……看板の話です」

    「うん」

    央路はそれ以上聞かなかった。祈乃はライトを持つ手に力を入れた。自分の胸の中に、最後まで残ってしまう名前がある。それは、前の仕事の場所の名前ではない。もう、たぶん。

    工具の音が再び響き、最後の固定具が緩んだ。央路が文字を支え、祈乃が下から毛布を差し出した。銀の文字は、壁から外れた瞬間思ったよりも小さく見えた。

    「全部外れた」

    央路が言った。祈乃は壁を見上げた。

    そこには文字の形に沿った細い跡が残っていた。穴と雨筋、そして光の当たり方の違い。美容室の名前はもうないのに、そこに名前があったことだけが妙にはっきりと感じられた。

    「外したのに、読める気がします」

    祈乃が言った。

    「跡で?」

    「はい。ないほうが、あるみたいに見える」

    央路は脚立を降り、祈乃の隣ではなく少し斜め後ろに立った。声だけが近い位置に響く。

    「そういうの、あるな」

    「困りますね」

    「困る?」

    「なくなったほうが、残ることもあるから」

    と言ってしまった。祈乃は壁を見たまま息を整えようとしたが、央路がこちらを見る気配を感じた。視線は感じるものの、向けられなかった。

    「祈乃」

    名前を呼ばれた。低く、夜の奥へ落ちていくような声だった。

    「はい」

    「今日は、そこまででいい」

    何のことか聞き返せなかった。言葉のことなのか、作業のことなのか、胸の中のどこかに触れそうになった話のことなのか。央路はそれを曖昧にしたまま、毛布の上の文字を包み始めた。

    祈乃は反対側を持った。銀の文字は冷たく、毛布越しでもその細さと硬さが分かった。濡れた軍手の不快さはもうなく、乾いた布が手に馴染んでいた。

    荷台に積む際、足元の湿った舗装で祈乃の靴が少し滑ったが、今度は自分で踏みとどまれた。央路の腕は伸びかけたが、そこで止まった。

    「今の、平気」

    祈乃が先に言った。央路は一瞬だけ驚いたように目を動かし、すぐにうなずいた。

    「うん、見てた」

    「見すぎです」

    「今日は足元を見る日だから」

    祈乃は返事の代わりに荷台の奥へ毛布を押し込んだ。胸の中で先ほど触れた指先の感覚がまだ消えないが、それを消したいとは思えなかった。

    片付けを終えると、美容室の白い壁はすっかり看板を失っていた。銀の文字があった場所だけ雨の跡が細く残り、夜の光がそこを淡く撫でていた。入口のガラスには祈乃と央路の影が別々に映っていた。

    祈乃は、壁の跡、濡れた路地、脚立の置かれていた場所の写真を撮影した。最後に、ガラスに映った影を避けるように角度を変えた。

    「それ、避けるんだ」

    央路が言った。

    「記録に必要ないので」

    「そうだな」

    けれど、央路の声には少しだけ笑いがあった。祈乃は画面を確認しながらぶれた写真を一枚だけ残した。そこには、壁の端と光の筋、そして央路の肩先の影がかすかに写っていた。

    作業車に乗り込むころには、路地の湿り気が冷えに変わっていた。走り出す前から荷台の文字が小さく鳴り、毛布の中で銀の部品同士が触れ合っていた。助手席の祈乃は、そっと指先を握った。

    「寒い?」

    と央路が聞いた。

    「少し」

    「窓、閉める?」

    「このままでいいです」

    雨上がりの匂いをまだ吸っていたかった。濡れた舗装、白い壁、外された銀の文字、それに触れてしまった指先。そのすべてが混ざり合った夜を、急いで車外に追い出したくなかった。

    「今日、怖かった?」

    「少し」

    祈乃は正直に答えた。央路は前を向いたまま少しだけ息を吐いた。

    「どこが?」

    「脚立の足元と、文字が落ちそうなところ」

    「うん」

    「あと、軍手を受け取るところ」

    その言葉を聞いた瞬間、車内の空気が一瞬止まった。祈乃は窓の外を見たまま、指先を握り直した。

    「ごめん」

    「謝ってほしいわけじゃないです」

    「うん」

    「嫌じゃなかったので」

    また言ってしまった。祈乃は、自分の声が夜に溶けるのを聞きながらもう取り戻せないと思った。

    央路はすぐに答えなかった。信号の光がフロントガラスを伝い、彼の手元を赤く照らして、すぐに青に変わった。

    「困らせたくない」

    央路の声は低かった。祈乃は胸の奥が静かに狭くなるのを感じた。

    「困っています」

    「だよな」

    「でも、それはたぶん、木皿さんだけのせいじゃないです」

    窓の外では濡れた街路樹の葉が光を弾き、祈乃はそれを見ながら言葉を探した。うまく言えない。そのままでいい気がした。

    「私が勝手に仕事のことにしようとしてるから」

    央路は黙って聞いていた。急かさないし、逃げ道を塞がない。その沈黙が今夜は少しだけありがたかった。

    「分けたいんです。仕事とそれ以外を」

    「うん」

    「でも、現場にいると、分けられないときがある」

    そこまで言って、祈乃は口を閉じた。これ以上は危ない。看板の跡よりもずっと深いところに行ってしまう。

    央路はしばらく何も言わなかった。車体の振動、タイヤが濡れた舗装を踏む音、荷台の奥で銀の文字がわずかに触れ合う音だけが響いた。

    「俺も、たまに分けられない」

    その声は、祈乃の予想よりもずっと静かだった。

    祈乃は横を見なかった。見たら、今まで仕事の距離と呼んできたものが違う名前を持ってしまいそうだった。

    「たまにですか」

    「今のところは、そういうことにしてる」

    祈乃は小さく笑った。笑うしかなかった。ずるいと思う。けれど、自分だって同じように逃げている。

    会社に戻るころには夜の色が深くなり、三路撤工の敷地には濡れた光が薄く残っていた。作業車のライトが倉庫の壁を照らしてすぐに消え、エンジンの振動が止まると車内に沈黙が訪れた。

    荷台を開けると、毛布に包まれた銀の文字が静かに並んでいた。 祈乃はそれを見て、美容室から外された名前がまだ完全には消えていないのだと思った。 形を変え、場所を変え、匂いを変えて残っている。

    「明日、乾かしてから確認だな」

    央路が言った。

    「はい」

    「軍手、ありがとう」

    「それ、私のセリフです」

    「触れたから」

    祈乃は毛布の端を押さえたまま少しだけ動けなくなった。央路は軽く言おうとしたが、言葉が軽くなりきらなかったように見えた。

    「気にしすぎです」

    「少しだけ気にするって決めたから」

    前夜の言葉が蘇ってきた。祈乃は顔を伏せて金属の匂いを吸い込む。少しだけ気にする。それはたぶん、央路が近づきすぎないようにするための線だった。

    「じゃあ、少しだけで」

    「うん」

    短いやりとりが倉庫の入り口に残った。祈乃は工具を片付けながら胸の中でその言葉を何度も反芻した。少しだけ。けれど少しだけでは済まなくなりそうなものがもう確かにある。

    片付けが終わると、夜の作業場は水気を含んだ静けさに包まれた。外した銀の文字は乾いた布の上に並べられ、光を受けずに眠っている。祈乃はそれを見下ろし、名前というものは場所から外れてもすぐには消えないのだと思った。

    「祈乃」

    央路の声が背後から聞こえた。近くはないが、呼ばれるたびに胸の奥が少しだけ開いてしまう距離だった。

    「お疲れ」

    「お疲れさまです」

    声は重ならなかった。今日は少しだけ間があった。その間に、さっき触れた指先や車内で交わした言葉、そして外された銀の文字が静かに並んでいた。

    祈乃は会社の外へ出た。雨上がりの夜の匂いがまだ路面から立ち上り、街灯の下では小さな水たまりが光っていた。そこに映ったのは、自分の靴先だけだった。

    振り返ると、央路は作業車の横に立っていた。荷台の扉を確かめ、濡れた脚立の足元を布で拭いている。こちらを見送っているわけではない、と自分に言い聞かせたが、暗がりの中で彼のいる場所だけが分かってしまう。

    祈乃は小さくうなずいた。央路も同じように、ほんの少し顎を引いた。それだけでよかった。今は、それ以上だと壊れる気がした。

    帰り道、濡れた路面が街灯を細かく揺らしていた。 祈乃は歩きながら、今日外した銀の文字を思い出した。 なくなったのに読める跡、 触れないはずだったのに残る指先、 仕事の距離だと言い切れなくなった沈黙。

    空気は冷えていたが、胸の内側だけが雨のあとに乾ききらない壁のようにまだ淡い熱を含んでいた。剥がした名前の跡よりも深いところで木皿央路という響きが静かに残っていた。祈乃は、まだ呼び方のないものとしてそれを抱えたまま歩いた。

     
     
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