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【創作大賞2026応募作品】剥がせない名前 第9章:離れる前の名

    朝の空気は薄い紙を一枚かぶせたように白く、芦倉祈乃は三路撤工の倉庫で前日に養生した写真館の記録を整理していた。画面の中の古い看板は外されず、薄い保護材に支えられたまままだ街の壁に残っている。

    残すと決めたものは写真の中でも落ち着かない顔をしていた。外された看板のように荷台に横たわることもなく、完全に修復されたわけでもなく、そこに残ったまま明日を待っている。祈乃は、その曖昧さを指先で画面の端を撫でながら見ていた。

    倉庫の奥では補修された袖看板が布の下で眠っており、亀裂は広がっていなかった。また、写真館の看板も今朝の確認では養生が浮いていなかった。壊れ続けることを止める作業は見た目ほど劇的ではないが、祈乃の中では小さな手応えとして残っていた。

    「祈乃」

    木皿央路の声が作業場の入口の方から届いた。いつもと同じ低さだったのに、ほんの少しだけ乾いて聞こえたので、祈乃は顔を上げた。

    「はい」

    央路は作業服の袖を軽く直しながら少しだけ言葉を選ぶように立っていた。朝の光が入り口から差し込み、彼の肩と頬の片側だけを明るく照らしている。その影のつき方がいつもより遠く感じられた。

    「今日、俺は別の現場に行く」

    「別の現場?」

    祈乃はスマートフォンを伏せた。別の現場に行くこと自体は珍しくないが、央路の声にはただの予定変更ではない硬さがあった。

    「しばらくそっちを見ていてほしいって話が出てる」

    倉庫の奥で金属棚が小さく鳴った。外の車が通っただけかもしれない。祈乃はすぐに返事をしようとしたが、喉の奥がうまく動かないことに気づいた。

    「しばらくって?」

    「まだ決まったわけじゃない。ただ、向こうの案件が続くかもしれない」

    央路はそこまで言って視線を少し横へ逸らした。言いたいことを飲み込むときの癖だ。祈乃はそれを知っている自分が嫌になり、同時に知っていることを手放したくないと思った。

    「じゃあ、現場のパートナーは?」

    「今日の夜は一緒に出る。明日以降は、まだ分からない」

    まだ分からない、というその言葉は、写真館の看板を残した夜に聞けば少しは柔らかく思えたかもしれないが、今朝の祈乃には外す前のビスよりも固く響いた。

    「そうですか」

    声は平坦に、思った通りに、悲しくも驚いてもいないように出た。祈乃は自分の声を聞いて少しだけ胸が冷えた。

    央路はすぐには返さなかった。作業台の上のスマートフォンには写真館の看板が映ったままだった。残すと決めた名前、逃げ場を残したまま支えた場所。

    「祈乃」

    「はい」

    「平らにしなくていい」

    その言葉が朝の倉庫に静かに落ちた。祈乃は視線を伏せた。見透かされることに慣れたわけではないし、慣れたくもない。けれど、見ないふりをされたらもっと困ると自分で言ったことを思い出した。

    「今は、平らにしないと仕事になりません」

    「仕事にはなる」

    「なりません」

    「なる。遅くなるだけ」

    祈乃は口元を結んだ。央路のそういう言い方は困る。役に立たない感情を、作業の邪魔として捨てさせてくれない。

    「今日の夜の現場は?」

    祈乃は話を戻したかったのだ。央路もそれを分かっているのか、追いかけてはこなかった。

    「小さな映画館の裏にある古い告知板。看板というより名前の入った掲示板だな。外す予定だったけど、建物側の都合で枠だけ外して文字板は仮置きする」

    「また全部は外さないんですね」

    「今日は外す部分と残す部分が分かれる」

    分かれる。祈乃はその言葉を心の中で繰り返した。外すものと残すもの。離れる現場とまだ残る関係。似せたくないのに言葉が勝手に重なっていく。

    「分かりました」

    祈乃は作業台の上の資料を手に取った。映画館の裏手、古い告知板、木枠、薄い金属板、そしてガラス。必要な道具を確認しようとしたが、一度では文字が入ってこなかった。

    央路は作業台の向こうへ回り、資料の端を指で押さえた。触れたのは紙だけだった。 祈乃の手から少し離れた場所、いつものように余白を残した距離だった。

    「今日、急がなくていい」

    「何をですか?」

    「分かったふり」

    祈乃は資料から目を上げた。央路は軽く言ったつもりかもしれないが、声の底には少しだけ痛みがこもっていた。

    「分かってます」

    「今のは?」

    「半分くらい」

    央路が少しだけ息を吐いた。笑ったのかもしれないが、祈乃は笑えなかった。

    朝の作業場はいつもより音が目立った。工具箱のふたが閉まる音、布をたためる音、荷台の床に保護板を置く音。央路が別の現場に行くかもしれないという言葉がひとつひとつの音に薄く混じっていた。

    祈乃は養生材を選びながら、いつもなら央路に尋ねるような細かな判断を、自分で先に決めた。木枠用の柔らかい布、ガラス保護用の厚いシート、仮置き用の薄い板。必要なものは分かる。分かるのに、作業場の空気が少しずつ失われていく。

    「祈乃、それで足りる?」

    央路が言った。

    「確認しなくても?」

    「見てた」

    祈乃は手を止めた。「見てた」。その言葉はこれまで何度も聞いたはずなのに、今日は胸に違う角度で入ってくる。もし央路が別の現場へ行ったら、その目はここにない。

    「見なくてもできるようにならないと」

    と言ってから、祈乃は自分の声が少し硬いことに気づいた。央路はしばらく黙っていた。

    「できるようになってる」

    「そういう意味じゃないです」

    「うん」

    央路はそれ以上言わなかった。祈乃の言葉が何を隠しているか、たぶん分かっている。分かっていながら、今は剥がさない。

    昼に近づく前に央路は別の現場の確認へ出かけた。夜には映画館の裏で合流する予定だ。作業場の入口で央路の背中を見送る形になったとき、祈乃は何も言えなかった。

    「じゃあ、あとで」

    央路が言った。

    「はい」

    それだけ。仕事としては十分な言葉だった。けれど、央路が敷地を出ていくと朝の作業場は急に広くなった。昨日の写真館の静けさとは違う、置いていかれた場所の広さだった。

    祈乃は一人で映画館の資料を確認した。写真の中の告知板は建物の裏口近くにある。表の華やかな入口とは違い、裏手には配管や古い換気口が並び、壁にはポスターの跡が四角く残っていた。

    名前の入った掲示板にはもう上映案内の紙は貼られておらず、映画館の名前だけが上部に残っている。外すのは掲示板、残すのは文字板、そう決められているのに、何を残すのか祈乃にはまだはっきりと分からなかった。

    昼の空気が倉庫の入口から入ってくる。埃の匂いが薄く動き、布の端がわずかに揺れた。祈乃は作業台に置いたスマートフォンを見た。央路からの連絡はない。

    来ないことを確認している自分に気づいて苦しくなった。連絡が必要な状況ではない。別現場の確認中なのだから何も来なくて当然だ。しかし、画面の暗さを見るたびに胸の中に小さな空白が広がる。

    「仕事だから」

    と声に出そうとしてやめた。もうその言葉で全部を隠せないことを祈乃は知っている。

    午後の作業は工具の確認だけで長く感じられた。祈乃は映画館の裏手に必要な道具をもう一度並べ、メモを作り、荷台の位置を整えた。央路がいない時間を埋めるようにいつもより細かく手を動かした。

    けれど、余白は消えなかった。手順が整うほど央路に見せたいと思う。央路ならどこを直すだろう。どこをそのままでいいと言うだろう。そう考えるとまた悔しくなった。

    夕方の色が作業場の床を低く染め始めたころ、祈乃は社用車に乗った。今日は現場で央路と合流するので、助手席ではなく自分でハンドルを握る。窓の外の東京は朝よりも少しざらついた色をしていた。

    映画館のある通りへ近づくにつれ、街の音が変わった。表通りには人の流れがあり、飲食店の匂いや舗道を踏む靴音が混ざっているが、裏手へ回ると空気は急に冷えた。

    古い映画館は、表から見るよりも裏のほうが古さを隠していなかった。壁の塗装はところどころ剥がれ、配管の周りには黒ずみが目立つ。裏口横の告知板は、まるで誰かに忘れられた窓のように壁にはまっていた。

    央路はまだ来ていなかった。祈乃は車を停め、荷台から作業灯を下ろした。裏通りには夕方から夜へ移る前の、薄い冷えがあった。換気口から出る空気には古い建物のほこりと、湿った紙のにおいが混じっていた。

    祈乃は告知板の前に立った。ガラスは曇っており、内側には剥がされた紙の白い跡が残っていた。上部の文字板には映画館の名前が残っていた。外す予定のない名前だが、枠を外せばそれだけが少し孤立してしまう。

    「残されるほうも、怖いかもしれない」

    誰にも聞かせるつもりはなかった。裏通りの空気に落ちた声はすぐに壁に吸い込まれた。

    「何が?」

    背後から央路の声がして、祈乃は振り返った。いつ来たのか分からなかったが、央路は少し息を整えながら工具袋を肩から下ろしていた。

    「聞こえました?」

    「少し」

    「聞かないでください」

    「聞いた後で?」

    祈乃は言い返せず、告知板へ視線を戻した。央路が来た。ただそれだけで、裏通りの冷え方が少し変わる。悔しいほど体が先に、安心している。

    「残されるほうも怖いって?」

    央路がもう一度、静かに聞いた。

    祈乃はため息をつきたくなったが、逃げなかった。

    「枠だけ外されて名前だけが残るなら、支えていたものがなくなるみたいで」

    央路は告知板を見た。薄暗いガラス、古い木枠、上部に残る名前。彼の横顔に裏通りの影がかかる。

    「そういう見方、俺はしなかった」

    「変ですか」

    「いや、必要な見方だと思う」

    必要、と祈乃は思った。以前なら、少し変なことを言ったかもしれないとすぐに引っ込めていたが、央路は変ではなく必要だと言う。

    「別現場、どうでしたか?」

    祈乃は聞いた。聞かずにはいられなかった。

    「続きそう」

    短い答えだった。

    「そうですか」

    また平坦な声がした。央路は、その声を聞いて工具袋を置く手を止めた。

    「祈乃」

    「作業、始めましょう」

    央路は、自分の言葉を遮る形になったことを理解した。央路も、そのことに気づいたはずだった。

    「うん」

    央路はそれでも、今はそれ以上何も言わなかった。作業灯を設置し、告知板の状態を確認する。裏通りの夜が少しずつ深くなり、古い映画館の壁が作業灯の光に照らされて浮かび上がった。

    告知板の枠は木と薄い金属でできており、下部は湿気を吸って膨らみ、上部は乾いて細かく割れていた。ガラスと文字板は残し、外すのは周りの枠だけ。簡単そうに見えても、どこを支えにするかが難しい。

    「祈乃、上の文字板に力をかけないで」

    「はい」

    「枠を外すとき、残す部分が動くかもしれない」

    「支えます」

    「支えるけど、押さえすぎないで」

    「逃げ場を残す」

    央路がこちらを見たので、祈乃は少しだけ視線を落とした。

    「昨日の現場で言ってたこと、覚えてるな」

    「覚えてるな」

    「忘れにくいので」

    そう返した瞬間、少しだけ空気が柔らかくなったが、すぐに央路が別の現場に移るかもしれないという言葉が戻ってきた。柔らかくなった場所ほど、そこに影が落ちる。

    作業が始まった。ガラスを保護し、文字盤の周りに布を挟む。祈乃は残す部分に手を添え、央路は古い枠の固定具を外していく。工具の音が小さく響き、映画館の裏壁に鈍く反響した。

    表通りから人の声が遠くに聞こえる。誰かが笑い、どこかのドアが閉まり、街灯が裏通りの床を少しずつ黄色く照らしていく。告知板のガラスには、祈乃と央路の影が近づいたり離れたりを繰り返しながら映し出されていた。

    「ここ、硬い」

    央路が言った。

    「下の膨らんでるところですか?」

    「そう。湿気で噛んでいる」

    「無理に外すと文字板まで引きますね」

    「うん。先に横を逃がす」

    央路が工具を持ち替えると、祈乃は残す文字板の端を支えた。木の向こうから古い紙と湿ったほこりのにおいが漂ってくる。ここには貼られてはがされた告知の痕跡が何層も残っている。

    「映画館の名前って、残ると変ですね」

    祈乃が言った。

    「何が?」

    「上映するものがなくなっても、場所の名前だけ残る」

    「呼ぶ人がいれば、残るんじゃないか」

    「呼ぶ人がいなくなったら?」

    央路はすぐには答えなかった。工具を少し止めて、告知板の上の文字を見た。

    「それでも、壁は覚えてるかもな」

    壁は覚えている。祈乃は、その言葉を裏通りの冷気と一緒に受け止めた。誰かが呼ばなくなっても、壁には痕跡が残る。声がなくても、形は残る。

    「私が呼ばなくなったら」

    と言いかけて、祈乃は言葉を止めた。何を言おうとしたのか、自分でも怖くなったからだ。央路は作業を止めなかったが、祈乃の言葉を聞いていたはずだ。

    「何?」

    「何でもないです」

    「今は、聞かない方がいい?」

    央路の声は近く感じられた。祈乃は告知板を見たまま唇を結んだ。

    「今は」

    「分かった」

    その一言で済ませてくれることがありがたくて、苦しかった。聞かないでくれる。逃げ場を残してくれる。けれど、逃げ場があるからこそ祈乃は、いつか戻ってこなければいけない気がする。

    枠の一部が外れ、湿気で膨らんだ木片が思ったより重く、祈乃の手元へ落ちた。央路がすぐに支えた。

    「大丈夫?」

    「はい、これは本当に」

    「今のは信用する」

    祈乃は少しだけ笑いそうになったが、笑いは途中で止まった。今日の央路はいつも通りなのに、すでに少し遠い。

    「別現場、遠いんですか?」

    ついに聞いてしまった。央路の手が一瞬止まった。

    「少し」

    「毎日、そっちへ?」

    「そうなるかもしれない」

    「期間は?」

    「まだ」

    曖昧な言葉が今夜は一番重かった。決まっていないからこそ、どう受け止めればいいのか分からない。

    「三路撤工には戻るんですよね?」

    「戻る」

    央路はすぐに答えた。その早さに、祈乃の胸が一瞬だけ軽くなる。しかし、同じ現場に立てるかどうかはまた別の話だった。

    「でも、現場は別になる」

    「たぶん」

    祈乃は告知板を支える手に力が入ろうとして、慌てて緩めた。力を入れすぎると告知板が割れてしまう。残すものには逃げ場が必要だ。

    「祈乃」

    「はい」

    「そこ、力入ってる」

    「分かってます」

    「分かってるなら緩めて」

    祈乃は手の力を抜いた。文字盤がわずかに沈み、布に収まった。央路の声がいつも通り作業を整えるが、この声が明日も隣にあるとは限らない。

    「仕事にはなります」

    祈乃は小さく言った。

    央路は聞き返さなかった。たぶん、何の話か分かっているのだろう。

    「なると思う」

    「ならなくても、ならせます」

    「うん」

    「でも」

    そこで言葉を止めた。言葉が危ない場所に来ている。裏通りの冷気が頬に触れた。

    「でも?」

    央路は急かさないが、待っている。

    「声がないと、少し遅くなります」

    前よりは言えたが、それが本当に言いたいことのすべてではないことも分かっていた。

    央路は工具を置き、告知板の枠をそっと支えた。

    「俺も、祈乃の見方がいないと、少し雑になるかもしれない」

    祈乃は顔を上げた。央路は告知板を見ていて、こちらを見ずに言った。だから、その言葉を受け取れてしまった。

    「木皿さんが?」

    「なる」

    「見せないだけじゃなくて?」

    「祈乃がいないと、見落とすものがある」

    その言葉は祈乃の胸をまっすぐ打った。必要だと言われたわけではないが、見落とすものがあると言われたことはそれに近い場所にあった。

    「そういう言い方は」

    「困る?」

    「困ります」

    「うん」

    「でも、今日はやめないでください」

    央路が初めてこちらを見た。裏通りの作業灯の中で、彼の目が少し揺れているように見えた。

    「分かった」

    それだけだった。けれど、その短い返事が古い告知板のガラスに静かに映った。

    夜が深くなるにつれて作業はさらに慎重になり、外す枠が少なくなるほど残す文字板の不安定さが増した。祈乃は布を足し、央路は木片を少しずつ外した。

    「あと一本」

    央路が言った。

    「これを外したら、枠は全部?」

    「下だけ残る。仮で支える」

    「名前は?」

    「残る」

    その言葉に、祈乃の指が少し震えた。映画館の名前は残る。枠が外れても、支えが変わっても、まだ壁に。

    最後の固定具が緩んだとき、枠が思ったより早く傾いた。祈乃は布で受け止め、央路が横から支えた。手元が近い。指先は触れ合わないが、同じ重さの中にいる。

    「祈乃、左へ逃がして」

    「はい」

    「そのまま。急がない」

    「はい」

    枠はゆっくり外れた。古い木が軋み、湿った匂いが立ち上る。央路がそれを受け取り、祈乃が文字板の揺れを抑えた。

    告知板上部の名前は、枠を失った分、少し剥き出しになったように見えた。頼りないが、それでもまだ残っている。作業灯の光が文字の端を照らし、影が壁に薄く落ちた。

    「残りましたね」

    祈乃が言った。

    「残った」

    央路の声は静かだった。

    「枠がなくても」

    「支えを変えたから」

    「支えが変われば、残れることもあるんですね」

    央路は自分で言って、その言葉が自分の胸に返ってくるのを感じた。すぐに答えなかった。

    「あると思う」

    その返事は慎重だった。祈乃は文字板を見た。支えが変わる。現場が変わる。隣に立つ時間が変わる。それでも、残れるものがあるのだろうか。

    信じたい気持ちと、信じたら失うのが怖い気持ちが、同じ場所でぶつかった。

    「祈乃」

    央路が呼んだ。

    「はい」

    「言いたいこと、ある?」

    祈乃は息を止めた。作業灯の白い光が外した枠の傷を浮かび上がらせ、表通りから人の笑い声が遠くに聞こえては消えた。

    「あります」

    央路は黙って待った。

    「でも、言うと仕事の距離が壊れそうです」

    言えたのはそこまでだった。肝心な言葉はまだ奥にあるが、入口までは来たのだ。

    央路は目をそらさなかった。

    「壊したくない?」

    「壊したくないです」

    「俺も」

    その短い言葉が祈乃の中で強く響いた。俺も、央路も、壊したくない。仕事のパートナーとして積み上げてきたものを、ここまでゆっくりと築いてきた距離を。

    「でも」

    央路が続けた。

    「壊したくないって思うほど、もう何かは変わってる気もする」

    祈乃は返事ができなかった。言葉にされると逃げ場が減るが、雑に剥がされた感じはしなかった。むしろ、ずっと見ないふりをしていた輪郭にそっと光が当てられた気がした。

    「今日、別現場の話を聞いて」

    祈乃はゆっくりと言った。

    「まだ何も変わっていないのに、失う前のような気がしました」

    声は震えていなかったが、胸の内側はひどく静かに揺れていた。

    央路は何も言わなかった。祈乃は続けた。

    「仕事ではできます。たぶん。時間がかかっても、見立ても記録も現場も」

    「うん」

    「でも、木皿さんの声がない現場を想像したら、少しだけ」

    そこで止まった。少しだけ、何だろう。寂しい、怖い、困る。どれも本当で、どれも足りない。

    「息が浅くなりました」

    央路の表情がわずかに変わったので、祈乃はすぐに視線を落とした。

    「すみません。こういうことを言うつもりじゃ」

    「謝らないで」

    央路の声が低く遮った。強くはないが、はっきりしていた。

    「それを聞いて俺が困るのは、俺の問題だから」

    「困るんですか?」

    「困る」

    央路は少しだけ視線を横に逸らしたが、すぐに戻した。

    「嬉しいから困る」

    祈乃は動けなかった。裏通りの空気が遠のく。告知板に残された名前、取り外された枠、作業灯の光、そのすべてが一瞬だけ薄くなった。

    嬉しい、とそう言われた。困るでもなく、嫌ではないでもなく、嬉しいと。

    「木皿さん」

    名前を呼んで、続きが出なかった。央路は待った。祈乃が逃げてもいいだけの隙間を残して。

    「今は、これ以上は言えません」

    「うん」

    「でも、なかったことにはしないでください」

    「しない」

    央路の返事はすぐだった。

    「雑にはしない」

    祈乃は小さくうなずいた。以前にも聞いた言葉なのに、今夜は少し違う。何を雑にしないのか、もう互いに分かってしまっている。

    片付けはいつもより時間がかかった。外した枠を包み、残した文字盤の仮支えを確認し、ガラスに保護をかける。祈乃は一つ一つ声に出した。逃げるためではなく、今ここに戻るために。

    「仮支え、固定しました」

    「確認した」

    「文字板、動きません」

    「うん」

    「枠、荷台に積みます」

    「持つ」

    央路が反対側を持った。古い枠は軽そうに見えたが、湿気を含んでいた。祈乃と央路の歩幅は自然に合った。そのことが今夜、怖いだけではないと思えた。

    荷台に積むと、取り外された枠は布の中で静かになった。名前そのものは現場に残っている。形だけが支える形から変わった。

    映画館の裏口の前で祈乃は最後の写真を撮った。残った文字板、外された枠の跡、仮支えの金具、夜の壁。使う写真と使わない写真を分けるのは後でいい。今は見たものを残したかった。

    「祈乃」

    央路が呼んだ。

    「はい」

    「明日、別現場に行く。たぶん、朝から」

    言葉は理解していたはずなのに、実際に聞くと胸が沈んだ。祈乃はスマートフォンを下ろした。

    「分かりました」

    また平らな声。けれど今度は、自分でもその奥にあるものを否定しなかった。

    「夜には戻る」

    「現場は?」

    「まだ分からない」

    「そうですか」

    央路は少しだけ近づきかけたが、そこで止まった。近づかないという選択をしたのだ。そのことまで、祈乃には分かった。

    「祈乃」

    「はい」

    「今、近づいたらダメな気がした」

    祈乃は息を止めた。そういうことを言うのはずるいけれど、言わずに近づかれるよりはずっとよかった。

    「だめではないです」

    央路の目が揺れた。

    「でも、たぶん今は近づかれたら、何か言ってしまいます」

    「言ってほしい気持ちもある」

    「木皿さん」

    「でも、急がせたくない」

    央路はそこで言葉を止めた。祈乃は、自分の指先が冷えていることに気づいた。作業灯の熱が近くにあるのに、体の奥だけが静かに冷えている。

    「急がないでください」

    祈乃は言った。

    「でも、離れすぎないでください」

    その言葉はほとんど息のようだったが、央路は聞き逃さなかった。

    「分かった」

    短い。けれど、今夜一番欲しかった返事だった。

    帰りの車内には外した枠の湿った木の匂いが漂っていた。看板の名前そのものを積んでいないせいで荷台の音は軽く、祈乃は助手席から窓の外の映画館の表通りを眺めた。

    表側の明かりはまだ少し残っていて、裏手の静けさとは違う顔をしていた。街はいつも見える場所と見えない場所を同時に持っていて、人もそうなのだと祈乃は思った。

    「祈乃」

    央路の声が前から届いた。

    「はい」

    「明日、朝は俺いないけど」

    「はい」

    「写真館の確認を祈乃に任せたい」

    祈乃は少しだけ息を吸った。写真館の看板、残した名前、明日また見ると決めた場所。

    「分かりました」

    「一人で行ける?」

    「行けます」

    央路は一瞬、何かを言いかけたが、飲み込んだ。

    「じゃあ、頼む」

    頼む、という言葉には信頼が込められていた。置いていかれるのではなく、任される。そう思いたかったが、胸の奥にはやっぱり別の痛みもあった。

    「木皿さんが戻ったら報告します」

    「うん」

    「遅くなっても」

    「聞く」

    祈乃は窓の外を向いた。街灯の光が流れ、暗いガラスに自分の顔が映る。前よりも少しだけ、逃げない顔をしていた。

    三路撤工に戻ったころには、夜も深くなっていた。荷台を開けると、外した枠が布の下で細い影になっている。名前は現場に残っているのに、枠だけがここへ来たのだ。その不完全さが今夜にはふさわしい気がした。

    祈乃は枠を倉庫の奥へ運び、仮置きした。央路は反対側で枠の重さを受けていた。木の湿気が軍手に移り、指先が少し冷たくなった。

    「軽いのに、冷たいですね」

    祈乃がそう言うと、央路はうなずいた。

    「支えていたものだからな」

    「支えるものも外されると、冷えるんですね」

    「かもな」

    枠を置くと、作業場はまた静かになった。今日は名前そのものを持ち帰っていないので、倉庫の奥にはいつもとは違う空白がある。

    片付けを終えた後、祈乃は作業台の前で記録のメモを残した。外した部分、残した部分、仮支えの状態、明日の確認事項。最後に担当欄で少し迷った。

    自分の名前だけを書くのか、それとも央路の名前も書くのか。記録としては現場に立った両方の名前を書くのが正しいが、今夜は文字の並びを見るだけで胸が少し痛んだ。

    芦倉祈乃。木皿央路。

    画面上に並んだ名前はただの担当者名だったのに、祈乃には外せない何かのように見えた。

    「どうした?」

    央路が聞いた。

    「名前を見ていました」

    「担当欄?」

    「はい」

    「変?」

    「変ではないです。ただ」

    祈乃は言葉を探した。整った言い方ではなくていい。今夜はそう思えた。

    「並んでいると、残る感じがします」

    央路は作業台の向こうで黙った。祈乃は続けた。

    「仕事の記録なのに」

    「仕事の記録でも、残るものは残る」

    央路の声は低かった。

    「明日、別の現場でも?」

    と聞いてしまった。祈乃はすぐに後悔しかけたが、もう引き返せない。

    央路は少しだけ視線を落とした。

    「残る」

    「本当に?」

    「本当に」

    祈乃は画面を閉じた。名前の並びが消え、黒い画面に自分の顔が薄く映る。

    「信じたいです」

    「うん」

    「でも、少し怖いです」

    「それも聞いた」

    央路はそう言った。祈乃の怖さを否定しない声だった。

    外へ出ると、三路撤工の敷地には夜の冷えが漂っていた。作業車の側面に書かれた文字は暗がりに消え、入口の明かりだけが細く地面を照らしていた。祈乃は門の前で立ち止まった。

    央路も作業場の入口から出てきた。距離はいつものまま、近すぎず遠すぎず。しかし、今夜のその距離は言葉を持っていた。

    「祈乃」

    名前を呼ばれた。明日、同じ朝には聞けないかもしれない声だった。

    「はい」

    「明日、報告待ってる」

    仕事の言葉。けれどそれだけではない。祈乃はうなずいた。

    「戻ってきたら、聞いてください」

    「聞く」

    「途中でうまく言えなくても」

    「待つ」

    祈乃は息を吸った。夜の匂いが胸に広がる。金属、布、湿った木、遠くの車の排気音。すべてが今日の終わりを形作っていた。

    「木皿さん」

    央路が静かにこちらを見た。

    「離れすぎないでくださいって言ったの、取り消しません」

    声は小さかったが、消えなかった。

    央路の目が少しだけ揺れたが、すぐには答えなかった。たぶん、雑に扱わないための沈黙だった。

    「取り消さなくていい」

    祈乃はうなずいた。胸の奥が痛かったが、嫌な痛みではなかった。抜いた棘の跡のように、まだそこにあることを知らせる痛みだった。

    帰り道、東京の夜はいつもより音が遠かった。祈乃は歩きながら、映画館の裏に残した名前を思い出した。枠は外され、支えは変わったけれど、名前は壁に残っている。

    明日、央路は別の現場へ行き、祈乃は写真館へ行く。二人の朝は別々の場所で始まるが、今日並べた名前は記録に残る。

    まだ何も終わっていないし、始まっているとも言えない。けれど、失う前のような痛みだけが先に来る夜に、祈乃は初めて自分の言葉を少しだけ外へ置いた。

    離れすぎないでください。

    その一文は告白でもなく、約束でもなかったが、外さずに残した看板のように祈乃と央路の間に静かに灯り、夜の中で剥がせない名前へと変わり始めていた。

     
     
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