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【創作大賞2026応募作品】剥がせない名前 第4章:煤けた名の沈黙

    朝の光は三路撤工の作業場まで届く前に近くの建物の壁で一度鈍く折れていた。芦倉祈乃は作業台の上に置いたスマートフォンを見下ろし、高架下の小さな居酒屋の看板写真を拡大した。赤茶けた文字は煤けた壁に張り付き、画面越しでも油と煙の匂いが漂ってくるようだった。

    「今日は外れにくそうですね」

    祈乃がそう言うと、木皿央路は荷台の奥から工具箱を引き寄せた。金具が床に触れる音が低く響き、作業場の空気が少し硬くなった。央路は写真をのぞき込み、看板の右端に指を近づけた。

    「高架下の店は大体粘る」

    「粘る?」

    「煙と油と湿気を吸ってる。外すとき妙にしぶとい」

    祈乃は画面の中の看板を見つめた。店はもう閉まっているのに、名前だけがまだそこで、酒の匂いや笑い声の残り香を守っているように見えた。外すはずの文字が簡単には手を離さない、そんな予感がした。

    作業場には乾ききらない鉄と布の匂いが漂っていた。昨日外した銀の文字は奥の棚に置かれ、光を受けずに静かに眠っている。祈乃はそこを見ないようにしていたが、軍手をつける指先が触れてしまった一瞬の感覚を、勝手に思い出してしまった。

    「替えのビット、多めに入れて」

    央路の声で、祈乃は顔を上げた。

    「はい」

    「今日は途中で削れるかもしれない」

    「看板じゃなくて、工具のほうが?」

    「そう。外す相手が硬いと、こっちも少し削れる」

    その言い方に、祈乃は返事を忘れた。看板の話だと分かっているのに、胸の内側が少しだけ反応する。何かを外そうとすると、外す側にも跡が残る。央路はそんなことを作業の顔で言った。

    作業車に乗るころには、朝の東京は湿りとは違う重さを持っていた。雨はないのに、空気の底に排気と油の薄い膜が沈んでいる。祈乃は助手席で、膝の上に置いた工具袋を押さえながら、車体の揺れを足の裏で受け止めた。

    「高架下、うるさそうですね」

    「電車が通るたび、声が消える」

    「指示、聞こえますか?」

    「近くで言う」

    「近くで」という言葉が少しだけ車内に残った。祈乃は窓の外へ視線を移す。朝の光に洗われたビルの隙間を、作業車はゆっくりと抜けていく。

    近いのは仕事のためだ。聞こえないから声を寄せる。危ないから手を伸ばす。現場にはいつも理由がある。理由があるうちは安全だ、と祈乃は何度も自分に言い聞かせてきた。

    しかし、理由が増えるほど、理由だけでは片付かないものも増えていく。軍手を受け取るときに触れた指先、車内で「分けられない」と言った央路の声、帰り際に交わした短い沈黙。どれも些細なことなのに、体はそれを勝手に覚えている。

    「祈乃」

    央路に呼ばれて祈乃は、膝の上の工具袋から顔を上げた。

    「はい」

    「今日、音が大きいから、聞こえなかったら聞き返して。わかったふりをしないように」

    「分かったふりって」

    「祈乃、たまにする」

    「しません」

    「今、少しした」

    祈乃は口元を結んだ。否定したいのに、当たっているときほど言葉が出ない。央路は前を向いたまま、追い詰めることも笑うこともなかった。

    「聞き返します」

    「うん」

    その一言だけで、車内の空気がまた少し動いた。央路は必要以上に踏み込まないが、祈乃が隠そうとした小さな歪みだけを仕事の確認のように見逃さない。

    高架下の居酒屋は古い線路の影が落ちる通りにあり、昼前の光は高架に遮られて店先だけが半分眠ったような色をしていた。閉じた戸の横には煤けた提灯の跡があり、看板の周囲の壁には長年の煙が薄く染みついていた。

    祈乃が車を降りた瞬間、乾いた油と鉄粉の匂いがした。高架の上を電車が通り、頭上で重い音が横へ流れていく。音が去った後にも、空気の中に微かな振動が残っていた。

    「すごい音ですね」

    「慣れる。でも、最初は持っていかれる」

    「何をですか?」

    「声とか、考えてたこととか」

    央路が脚立を下ろしながらそう言うと、祈乃は看板を見上げた。黒ずんだ枠の中に手書き風の文字が残っている。昼なのに夜の匂いがする店だった。

    「居酒屋って、閉店しても夜の雰囲気って残るんですね」

    「高架下は特に残るな」

    「名前まで少し酔ってるみたい」

    と言ってから、少し変な表現だったかもしれないと思ったが、央路は笑わず、看板の端を見たまま頷いた。

    「分かる。まっすぐ外れない感じがする」

    祈乃はスマートフォンを構え、撤去前の写真を撮った。高架の影、煤けた壁、古い店名、戸口の下にたまった細かい砂。画面の中で、看板は少し傾いて見えた。

    「傾いてます?」

    「実際に少し傾いている」

    「直したくなりますね」

    「外す前に直すなよ」

    「しません」

    央路の声に少し笑いが混じっていた。祈乃は画面を確認しながら、口元が緩みそうになるのを抑えた。こういう会話は危ない。仕事の中に紛れているのに、なぜか日常の柔らかい部分に指が触れてしまう。

    下見を始めると、看板の古さが写真よりもはっきりと見えた。文字の端には油が固まったような黒い汚れが付着し、ビスの周りは錆びて膨らんでいた。枠の下には細かな隙間があり、そこから古いほこりが薄くのぞいていた。

    央路は看板の端を押さえ、すぐには手を離さなかった。いつもの癖よりも長い時間、押さえている。祈乃は、その横顔を見るともなく見た。高架の影が彼の頬に落ち、表情の半分を暗くしている。

    「外れにくいですか?」

    「外れたがっていない感じ」

    「看板が?」

    「そう見える時がある」

    「木皿さん、そういうこと言うの増えましたね」

    央路は少しだけ手を止めた。高架の上をまた電車が通り、返事が音にかき消された。車輪の響きが去った後、央路はようやくこちらを見た。

    「祈乃がそういう風に見るからじゃない」

    胸の奥が音の消えた高架下で、不意に静まった。祈乃はすぐに視線を足元へ落とした。舗装の小さなひびに乾いた砂と黒いほこりが詰まっていた。

    「私は、ただ記録しているだけです」

    「うん。そういうことにしておく」

    またその言い方だ。祈乃は言い返したかったが、電車の余韻がまだ頭の中で響いていて、うまく声に出なかった。

    昼の空気が高架下へ入り込むころ、通りの端には人の気配が増していた。近くを通る足音、遠くの店のシャッターが鳴る音、車の低い走行音。しかし、高架下だけがどこか室内のように空気が溜まっているようだった。

    祈乃は、店の戸口に残った手垢のような跡を撮った。誰かが何度も開け閉めした場所だ。もう誰も入らないのに、取っ手の周りだけが鈍く光っている。

    「ここ、夜に外すと雰囲気が変わりそうですね」

    「変わるな。高架下は光が逃げにくい」

    「逃げにくい?」

    「灯りがたまる。変なところに」

    祈乃は、央路の言葉を聞きながら看板の下の壁を見た。確かに、昼の薄い光でさえそこに引っかかり、黒ずんだ壁の凹凸に残っている。夜になれば、作業灯や街灯の光がもっと濃く壁に貼りつくのだろう。

    「夜までに外し方を考えますか?」

    「もう考えてる」

    「早いですね」

    「遅いと現場で焦るから」

    「焦ること、あるんですか?」

    「あるよ。見せないだけ」

    祈乃はその言葉を受け止めた。見せないだけ。央路にもあるのだと思うと、少しだけ近く感じられてしまう。彼は何でも軽く受け流しているのではなく、見せる場所を選んでいるだけなのかもしれない。

    会社に戻る途中、作業車の窓にはしばらく高架の影が残っていた。車内に残る油の匂いに気づき、袖口にも少し移っていることに祈乃は気づいた。居酒屋の看板に触れていないのに、匂いだけが先にまとわりついている。

    「祈乃、昼は食べられそう?」

    「今日は食べます」

    「今日は、って言った」

    「昨日までのことは忘れてください」

    「忘れるのは苦手だな」

    その返事に、祈乃は窓の外を向いた。冗談のように聞こえるのに、どこか本当の芯がある。央路は忘れない。看板の扱いも、人の小さな変化も見なかったことにはできない。

    「忘れた方が楽なこともあります」

    祈乃がそう言うと、央路はすぐには答えなかった。車体の振動が足元から伝わり、信号待ちの静けさの中で荷台の道具がわずかに鳴る。

    「楽でも、無理に忘れると別のところが歪みますよ」

    「看板の話ですか?」

    「そういうことにしてもいい」

    祈乃はそれ以上聞けなかった。自分の中にも、忘れたふりをして歪んでしまった部分がある。前の職場で言えなかった言葉、馴染めなかった自分を責めた朝、笑って受け流したはずの小さな痛み。

    午後の三路撤工はいつもより少し乾いた匂いがした。高架下から戻ったためか、作業場の金属臭がいつもより清潔に感じられた。祈乃は昼の写真を整理し、央路は工具の刃を確認していた。

    「錆びたビスが途中で折れたら、どうしますか?」

    「残った部分を削る。時間はかかるけど」

    「看板、割れますか?」

    「力を逃がせばたぶん割れない」

    「たぶん」

    「絶対って言うと、祈乃が信用しないだろ」

    祈乃は少し笑った。そうかもしれない。絶対という言葉は強いようでいて、実は頼りない。たぶん、と言われた方が央路の手元の慎重さまで含まれている気がする。

    「信用していないわけじゃないです」

    「じゃあ?」

    「絶対より、たぶんのほうが本当っぽいだけです」

    央路は工具箱を閉じる手を止め、少しだけ祈乃を見た。祈乃は自分が言ったことに遅れて気づき、視線を写真に戻した。

    「祈乃はたまにそういうことを急に言う」

    「変ですか?」

    「変じゃない。忘れにくい」

    忘れにくい。祈乃はその言葉を聞いて、スマートフォンの画面を暗くした。忘れにくいものをまたひとつ、渡してしまったのかもしれない。渡すつもりはなくても、声は時々手よりも先に、何かを渡してしまう。

    夕方の影が作業場の入口に長く伸びるころ、夜用の道具を積み込んだ。強めのライト、替えのビット、錆びたビスを外すための細い工具、看板を支える布。祈乃はひとつずつ確認しながら、朝よりも胸の奥が静かになっていることに気づいた。

    緊張はある。けれど、昨日のようにそれを隠すだけではなく、持ったまま動くこともできる気がした。央路が何度も「足元を見ろ」と言ったからかもしれないし、「聞き返せ」と言ったからかもしれない。

    「祈乃」

    「はい」

    「今日の看板、たぶん長引きそう」

    「わかりました」

    「途中で疲れたら言ってください」

    「言います」

    央路は少しだけ目を細めた。

    「早いな」

    「言わないと見てくるので」

    「見てるつもりはある」

    「開き直らないでください」

    央路が軽く笑った。祈乃は作業車の荷台に毛布を積みながらその笑い声を聞き、高架下の音に消えないうちに少しだけ覚えておきたいと思った。

    夜に向かう道は昼と違う匂いを放っていた。車の窓の外では店の灯りが低い位置に増え、歩道の端に立つ人の影が長く揺れている。作業車のフロントガラスには信号や街灯が層になって映り込んでいた。

    高架下が近づくと、空気の震えが先に届いた。電車の音、車の反響、人の声の切れ端が狭い通りに折り重なり、どこから来た音なのか分からなくなった。

    「ここから声、近めにする」

    央路が言った。

    「はい」

    祈乃は返事をした後、自分の声が少し硬いことに気づいたが、央路はそれを指摘しなかった。代わりに、車を停める前にひとつだけ言った。

    「聞こえなかったら、何回でも聞き返して」

    その言葉が夜の入口で、小さな手すりみたいに響いた。

    現場に着くと、高架下の居酒屋は昼よりも濃く沈んでいた。看板の赤茶けた文字は、作業灯を当てる前から街灯に鈍く浮かび、壁の煤けた部分が暗い模様を作っていた。店の戸は閉じたままだった。もう中に誰もいないのに、酒と煙の気配だけがまだ通りへ沁みていた。

    祈乃は養生シートを広げて看板の下に敷いた。高架の上を電車が通るたびに、シートの端が震えて工具箱の金具が小さく鳴り、音に体の内側まで揺さぶられるようだった。

    「祈乃、ライトは壁から少し離して」

    央路の声がすぐ横で聞こえた。近い。仕事のための距離だと分かっていても、耳の奥に声の低さが残る。

    「このくらい?」

    「もう少し右。そう、そこ」

    央路は脚立を立て、足元を踏んで確かめた。祈乃はライトを持ちながら、央路の作業靴が湿った舗装にしっかりと置かれているかを確認した。自分の足元を見る前に央路の足元を見てしまったのだ。

    「祈乃」

    「はい」

    「自分の足も見て」

    見透かされたようで、祈乃は口元を結んだ。

    「見てます」

    「今から見たな」

    「細かいです」

    「今日は細かくないと危ない」

    央路はそれ以上何も言わず、看板の端に手を伸ばした。いつもなら、外す前に押さえる仕草をするが、今夜は手のひらに少し力が入っているように見えた。

    最初のビスはすぐには動かなかった。工具の音が高架の下で跳ねて硬い壁にぶつかり、戻ってくる。央路は力任せに回さずに角度を変え、一度手を止めた。

    「固い」

    祈乃が言うと、央路は小さくうなずいた。

    「油が噛んでいる。ゆっくりいく」

    「はい」

    「ライト、手元より少し上」

    祈乃は光を動かした。看板の文字の上に細い影ができ、煤けた壁の凹凸が浮かび、ビスの周りの錆が赤黒く見えた。

    電車が通り、央路の言葉が音に飲まれそうになったので、祈乃は聞き返した。

    「今、何て?」

    音が去った後、央路はすぐに答えた。

    「少し下がって。削り粉が落ちる」

    「はい」

    聞き返せた。たったそれだけなのに、祈乃の胸の中で何かが小さく整う。分かったふりをしなくていい。聞こえなかったことは、聞こえなかったと言っていい。

    削り粉がライトの中を落ちた。細かい金属片とほこりが混ざり、夜気にざらついたにおいを作る。祈乃は少し下がってライトを持つ腕の位置を変えた。

    央路の手は慎重だった。工具を持ち替え、看板を押さえ、またビスに触れる。その繰り返しの中で、彼の呼吸まで作業の一部になっているように見えた。

    「外れそうですか?」

    「少しずつ。こういうのは急ぐと折れるから」

    「名前も?」

    祈乃は言ってから、また余計なことを口にしたと思ったが、央路は手を止めなかった。

    「名前も急に剥がすと、跡が荒れるかもしれないな」

    その返し方が静かで、祈乃は何も言えなくなった。高架下の音が周囲を満たし、作業灯の光が看板の古い文字を際立たせた。

    一本目のビスがようやく外れ、央路はそれを祈乃の掌に落とした。今夜は指先が触れなかった。祈乃はそのことにほっとすると同時に、少しだけ物足りなさも覚えた。

    最低だな、と心の中で思った。触れたら動揺するし、触れなければなぜかその余白を意識してしまう。自分の体は、もう仕事の線だけでは動いてくれない。

    「熱い?」

    央路が聞いた。

    「大丈夫です。これは本当に」

    「うん」

    その「うん」は少しだけ笑っていた。祈乃はビスを小さな容器に入れ、ライトを持ち直した。

    作業は長引いた。文字の一部は壁に深く食い込んでおり、古い接着剤は硬くなっていた。央路が削り、祈乃が光を合わせ、外れた部分を布で受ける。高架の音が通るたび、手元の気配が遠くなり、音が去ったあとでまた戻ってくる。

    途中で看板の左端が少し浮いたが、央路が支える前に祈乃が布を差し出した。

    「そこ、受けます」

    「早いな」

    「見えてました」

    「いいね」

    短い言葉だが、今夜はそのまま受け取れた。祈乃は、布を持つ腕に力を入れすぎないように気をつけながら看板の重みを待った。

    「無理に支えないで。落ちる方向だけ変えて」

    「はい」

    央路の声が近い。高架を走る音に混じって、その声だけが祈乃の耳の奥に直接響く。

    看板は少しずつ壁から離れていった。外された部分の裏には黒い油の膜とほこりが固まり、鼻の奥に残るような匂いが広がった。まるで居酒屋の夜が看板の裏に何年も貼りついていたみたいだった。

    「すごい匂い」

    祈乃は思わず言った。

    「油と煙だな」

    「あと、何か甘い」

    「古い酒の匂いかも」

    行ったことのない店なのに、祈乃はそこに人がいた時間を想像した。笑い声、湯気、濡れた傘、疲れた肩、そして「帰る前に一杯だけ」という声。もう誰もいないのに、その場所にはそういうものが残っている。

    「外すの、少し悪いことしてるみたいですね」

    「そう思うときもある」

    「木皿さんでも?」

    「あるよ」

    央路は工具を置き、看板の端を両手で支えた。作業灯の影が彼の首筋に落ちた。祈乃はそれを見てしまったが、すぐにライトの位置に意識を戻した。

    「でも、外さないと終われない場所もある」

    央路が続けた。

    祈乃は、その言葉を煤けた壁に貼りつくように聞いた。終われない場所。自分にもある。前の仕事も、言えなかった気持ちも、何でもないふりをして、閉じたままの部屋のようになっている。

    「終われたら楽ですか?」

    「分からない。終わった後に寂しくなることもある」

    「それでも外すんですね」

    「依頼があるからな」

    「仕事だから」

    祈乃がそう言うと、央路は少しだけこちらを見た。

    「それだけじゃない時もある」

    高架の音がそのあとを隠した。聞こえなかったわけではないのに、祈乃は聞こえなかったことにしたくなった。けれど、今夜は聞き返せと言われている。

    「今の、もう一回言ってください」

    音が去った。央路は看板を支えたまま、少し困ったように笑った。

    「それだけじゃない時もある、って言った」

    祈乃の胸の奥が静かに熱を持つ。仕事だけではないとき。看板の話として置かれている央路の言葉は、逃げ道を残したままこちらへ届いてしまう。

    「そうですか」

    それだけ返すのが精一杯だった。央路もそれ以上は言わず、作業に戻った。

    最後の固定部分が予想以上に粘り、外すはずの文字の一部が壁に残って削っても少しずつしか剥がれない。高架下の空気は冷えてきたのに、祈乃の額には汗がにじんでいた。

    「祈乃、少し休む?」

    「まだ大丈夫です」

    「今のは信用していい?」

    「半分くらい」

    央路は小さく笑った。

    「正直になったな」

    「木皿さんが全部はまだって言ったので」

    「覚えてるな」

    「忘れにくいことを言うからです」

    と言ってから、祈乃は自分の声に驚いた。少しだけ責めるようで、少しだけ甘えている。央路もそれに気づいたのか、工具を持つ手を一瞬だけ止めた。

    「ごめん」

    「謝らないでください」

    「じゃあ、気をつける」

    「それも違います」

    「難しいな」

    央路の声が笑いに逃げきれず、落ちた。祈乃はライトを持ったまま看板の影を見つめた。言いたいことは別にある。忘れにくいことを言わないでほしいのではない。忘れられなくなる自分が怖いだけだ。

    最後の文字が外れたとき、高架の上を大きな音が通り過ぎた。金属と車輪の響きが重なり、看板の外れる小さな音はほとんど消えたが、それでも祈乃には壁から名前が離れる気配が分かった。

    央路が看板を支え、祈乃が下から布で受けた。重さは腕にずしりときた。油を吸った文字は見た目より重く、祈乃は膝を少し曲げた。

    「そのまま。急がない」

    央路の声が近い。音の中でも聞こえる。

    「はい」

    「祈乃、こっちを見るな。足元だ」

    見上げかけていたことに気づき、祈乃は足元へ視線を落とした。濡れていない舗装に作業灯の輪がにじみ、央路の靴先と自分の影が重なりかけて離れている。

    祈乃が看板を養生シートの上に置いたとき、腕から力が抜けた。央路はすぐに状態を確認し、割れや欠けがないかを見た。祈乃は壁を見上げた。

    そこには黒ずんだ跡が残っていた。居酒屋の名前は消えたのに、煤と油と光の差が文字の輪郭をまだ読ませる。ない方が、ある。前にも思ったことなのに、今夜は少し違う重さで胸に落ちた。

    「しつこいですね」

    祈乃が言うと、央路は壁を見たまま答えた。

    「しつこいな」

    「外したのに」

    「外したから見えるんだろうな」

    その言葉の後、電車は通らなかった。高架下に短い静けさが落ち、祈乃は自分の呼吸が央路に聞こえそうで怖くなった。

    「祈乃」

    央路が呼んだ。いつもより少し低い声だった。

    「はい」

    「腕、貸して」

    「え?」

    「削り粉、ついてる」

    央路は自分の軍手を外し、祈乃の袖口近くについた黒い粉を見た。祈乃は反射的に腕を引こうとしたが、途中で止めた。央路もまた、触れない位置で止まった。

    「自分で払います」

    「見えない場所」

    「大丈夫です」

    「大丈夫じゃなくて、黒い」

    その言い方がおかしくて緊張が少し抜けた祈乃は、腕を差し出した。央路は布を使って袖口の粉を軽く払い、直接は触れなかったが、腕の内側まで意識が寄っていくのを感じた。

    「取れました?」

    「少し残ってる」

    「それくらいでいいです」

    「うん」

    央路はすぐに手を離した。近づいた分だけちゃんと離れる、その距離の取り方が祈乃には優しさよりもずっと危なっかしく感じられた。

    看板を毛布で包み、荷台へ運んだ。油を吸った文字は重く、毛布越しでも独特の匂いがした。祈乃は反対側を持ちながら央路と歩幅を合わせた。

    「重いですね」

    「見た目より重いですね」

    「酔った名前って、重いですね」

    央路が少し笑った。

    「祈乃、それ気に入ってるだろ」

    「気に入ってません」

    「また使った」

    「偶然です」

    荷台へ積み終えると、祈乃は息を吐いた。高架の上を今度は電車が通らず、遠くの車の音だけが細く響いている。居酒屋の看板がなくなった壁は、昼間よりも広く、そして少し寒そうに見えた。

    祈乃は、撤去後の写真を撮った。黒い跡、外された文字の輪郭、作業灯の白い輪、路面に落ちた細かな削り粉。祈乃は、画面を確認してぶれた1枚を削除せずに残した。

    「また残すんだ」

    後ろから央路が言った。

    「記録には使いません」

    「知ってる」

    「なら言わないでください」

    「言いたくなった」

    祈乃は振り返らなかった。「言いたくなった」という言葉が妙に残る。央路はたまに、理由のない言葉を置いていく。理由がないからこそ、受け取り方に困る。

    片付けを終えるころには、高架下の夜が深く沈んでいた。店の前から看板が消えると、閉じた扉の輪郭がはっきりとし、壁に残った跡だけが不自然に目立つ。取り外した看板は荷台にあるが、通りにはまだその店の気配が漂っている。

    「帰ろう」

    央路が言った。

    「はい」

    祈乃は作業車に乗り込む前に、もう一度壁を見た。外された文字の跡が夜の中でかすかに読める。消えたものほど読もうとしてしまう、そんな自分が少し嫌で少しだけ愛おしかった。

    車内に油と煤の匂いが漂ってきた。央路が窓を少し開けると、高架下の空気が後ろへ流れていった。助手席の祈乃は腕を見下ろした。袖口にはまだ黒い粉が少し残っていた。

    「取れてない」

    央路が言った。

    「いいです。跡なので」

    「跡ならいいのか」

    「全部きれいにしなくても、今日はいいです」

    自分で言いながら、祈乃はそれが袖口だけの話ではないことに気づいた。全部きれいにしなくてもいい。外したあとに残るものがあっても、今日くらいはそのままにしておける気がした。

    央路は前を向いたまま、静かにうなずいたようだった。

    「そっか」

    その声は短く、余計な慰めを含んでいなかった。祈乃は窓の外を見た。高架の柱が後ろへ流れ、街灯の光が作業車の窓をいくつも通り過ぎていく。

    「木皿さん」

    「うん」

    「今日、聞き返せました」

    「うん、ちゃんと聞こえた」

    「それだけです」

    「それだけじゃない顔してる」

    「見ないでください」

    「今は前見てる」

    祈乃は小さく息を吐いた。央路が前を向いていることに、なぜか救われた気持ちになった。こちらを見ないでいてくれるから、少しだけ言葉をかけられる。

    「分かったふり、前はよくしていました」

    央路は黙っていた。聞いている沈黙だった。

    「聞き返すと迷惑かなって、分かってない自分が悪い気がして」

    「うん」

    「でも、分かったふりをしたほうがあとで迷惑になることもあるんですよね」

    「あるな」

    「それを前の場所で分かっていればよかったのかもしれない」

    言ってしまった後、祈乃は窓に映る自分の顔を見た。高架下の影をまだまとった顔は、少し疲れているようだった。しかし、朝の写真に写った時よりも目の奥が逃げていないように見えた。

    央路はすぐに言葉を返さなかった。信号の光が車内を淡く照らし、荷台の看板が小さく軋んだ。

    「今、分かったなら、それでいいんじゃない?」

    その声は低く、柔らかくはなかったが、祈乃が壊れない硬さを選んでいるように聞こえた。

    「簡単に言いますね」

    「簡単じゃないから、短く言った」

    祈乃は黙った。央路のそういうところがやっぱり困る。長い説明で包まないのに、必要なところだけに手が届く。

    会社に戻るころには、夜がさらに冷えていた。三路撤工の敷地には薄い街灯が灯り、作業車の側面に書かれた文字が暗がりに沈んでいた。エンジンが止まると、高架下の余韻が耳の奥からゆっくりと消えていった。

    荷台を開けると、居酒屋の看板が包まれて重く横たわっていた。祈乃は毛布の端を押さえ、央路が状態を確かめるのを待った。すると、油の匂いがまた立ち上がり、作業場の空気と混ざった。

    「明日、汚れを落としてから見る」

    「はい」

    「今日は長かったな」

    「長かったです」

    「疲れた?」

    祈乃は少し考えた。反射的に「大丈夫です」と言いかけたが、途中でやめた。

    「疲れました」

    央路は祈乃を見た。驚いた様子はなく、しっかりと聞いたという顔をしていた。

    「うん。俺も」

    その返事がなぜか胸に残った。央路にも疲れる夜がある。彼も削れる。そう思うと、祈乃は今までより少しだけ彼の横顔を遠くに置けなくなった。

    片付けの途中、外したビスが作業台の上に並んだ。錆びたもの、削れたもの、途中で頭が潰れたもの。 祈乃はそれを見つめ、「名前を支えるものは小さいくせに、外す時にはこんなに手間をかけさせるのだ」と思った。

    「祈乃」

    央路の声が近いようで少し離れた場所から届いた。

    「はい」

    「今日はちゃんと聞き返してくれて助かった」

    祈乃は工具箱のふたに手を置いたまま、動けなくなった。

    「助かったのは私のほうです」

    「じゃあ、お互いでいい」

    お互い、と。祈乃はその言葉に少しだけ息を詰めた。仕事のパートナーとしてなら自然な言葉だ。けれど今夜は、高架下の音や袖口についた黒い粉、そして短い沈黙を含んで聞こえる。

    「そうですね」

    平然と答えたつもりだったが、央路は少しだけ目を細めた。

    「祈乃」

    呼び方がいつもより短く感じられた。余計な言葉を省いた分、名前だけが近く感じられた。

    「無理に平らにしなくていいよ」

    胸の奥で何かが静かに揺れた。祈乃は返事を探したが、見つからなかった。作業場の灯りが古い工具の影を伸ばし、外の夜が入り口の向こうで濃くなっていた。

    「……そういうの、言わないでください」

    やっと出た声は小さかった。

    「ごめん」

    「謝るなら、最初から」

    「言わない方がいい?」

    祈乃は答えられなかった。言わないでほしい。けれど、言われたことをなかったことにはしたくない。矛盾した気持ちが喉の奥に絡みつく。

    央路は、その沈黙を急かさなかった。作業場には、工具を片づける音だけが戻ってくる。祈乃は、袖口に残った黒い粉を指で軽く払った。しかし、全部は取れない。

    「言わない方がいいわけじゃないです」

    しばらくして、祈乃は言った。

    央路がこちらを見る気配がした。祈乃は工具箱のふたを見たまま続けた。

    「ただ、残るから」

    高架下の看板みたいに、袖口の粉みたいに、外したあとに読める跡みたいに、と祈乃はそこまでは言わなかった。

    央路は少し黙った後、静かに答えた。

    「残るなら、雑に扱わないようにする」

    祈乃は息を吸った。作業場の匂いが胸に広がる。鉄、油、ほこり、そして、濡れていないのに湿った夜の気配。

    「仕事の話ですか?」

    「そういうことにしてもいい」

    祈乃は少しだけ笑った。声にならない笑いだった。央路もそれ以上は何も言わなかった。

    帰り支度を終えると、三路撤工の外には冷えた夜が広がっていた。高架下の轟音は消え、代わりに、遠くで車の音が響き、どこかの換気扇の低い唸りが東京の底で続いている。

    祈乃は歩き出す前に作業車の横に立つ央路を振り返った。彼は荷台の扉を確かめていた。今夜も見送りの形ではないが、祈乃が振り返ることをもう知っているかのように央路はそこにいた。

    「お疲れさまでした」

    祈乃が言うと、央路は顔を上げた。

    「お疲れ」

    短い返事だった。けれど名前を呼ばれなかったことまで、祈乃は意識してしまう。呼ばれないと少しだけ足りない。そんな自分に気づいて、胸の奥が熱くなる。

    路地へ出ると、街灯の光が舗装に細く渗んでいた。袖口にはまだ少し黒い粉が残っており、指で払っても完全には消えなかった。祈乃はそれを見ながら、今日はこのままでいいと思った。

    外した名前は荷台の奥にある。壁には跡が残っている。央路の短い声は祈乃の中にも残っている。剥がすたびに軽くなると思っていたものが、外したあとに違う形で重くなる。

    それでも、祈乃は歩けた。夜の匂いを吸い込み、袖口の汚れを抱えたまま、まだ名前のつかない気持ちを胸の奥で乱さず持っていた。木皿央路に呼ばれなかった帰り際の沈黙までもが、今夜はなぜか、呼ばれたときと同じくらい濃く残っていた。

     
     
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