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【創作大賞2026応募作品】剥がせない名前 第2章:窓に映る過去

    朝の光が三路撤去の作業場に斜めに差し込み、鉄棚の端に置かれた取り外し済みの金具を鈍く光らせていた。芦倉祈乃は作業台の前に立ち、スマートフォンに映し出したのは、撤去予定の喫茶店の看板写真だった。木枠に囲まれた古い店名は、画面の中でも少し日焼けして見えた。

    「今日は喫茶店か」

    荷台の奥から木皿央路の声が低く届いた。祈乃は画面の端を親指でなぞり、写真の中の窓ガラスに視線を移した。閉じたカーテンの隙間から、使われなくなった店の薄暗さがのぞいていた。

    「古いですね」

    「古いな。たぶん、外すときに木枠が泣く」

    「木枠って泣くんですか?」

    「変な音がする」

    央路はそう言って電動工具のケースを閉じた。軽い言い方だったのに、祈乃はなぜかその音を想像してしまった。長く壁にとめられていたものが外される瞬間、小さく声を出すような気がした。

    作業車の側面に貼られた「三路撤工」の文字は、朝の色に少し沈んでいた。祈乃はその名前を見るたびに、自分がまだ仮の場所に置かれているような気がした。前の職場を辞めてから、どこかに馴染むことを急がないふりをしてきたが、実際には急げないだけなのだと知っていた。

    「祈乃、替え刃入れた?」

    「入れました。養生も多めに」

    「いいね。あの店、壁が弱そうだから」

    「写真だけで分かるんですか?」

    「分かる時もある。写真が嘘をつく時もあるけど」

    祈乃はポケットにスマートフォンをしまい、軍手の手首を引いた。央路の言葉はいつも少し曖昧だが、現場に出ると当たっていることが多い。嘘をつく写真と隠しきれない壁。央路は、そういうものを軽く見ない。

    車に乗り込むと、荷台から古い毛布のにおいが流れてきた。昨日、看板を包んだ布には金属とほこりの湿ったにおいが染みついていた。祈乃は助手席の足元に工具袋を寄せ、窓の外に流れ始めた東京の朝を見た。

    街はまだ完全に目を覚ましていない。狭い歩道に置かれた植木鉢の葉は乾ききらない露を抱え、閉じた店先のガラスだけが薄い白を返している。車体のわずかな振動が膝に伝わり、胸の奥に残っていた昨夜の重さが少しずつ揺さぶられた。

    「腕、残っていない?」

    央路が前を見たまま聞いた。 祈乃は一瞬、何のことか分からないふりをしたくなったが、昨日の看板を受けた重さのことだと気づき、口元を結んだ。

    「残ってません」

    「早いな」

    「普通です」

    「普通って言うときほど、普通じゃない顔をする」

    祈乃は窓の外へ視線を逸らした。央路は追い詰めるような言い方をするわけではないが、逃げた先まで声が届く。優しいというには不器用で、放っておくというには少し近い。

    「木皿さんこそ、昨日の看板、重かったんじゃないですか?」

    「俺は慣れてる」

    「慣れすぎるのはよくないって言ってましたよ」

    「覚えてるんだ」

    祈乃は返事をしなかった。覚えている。聞き流したような顔をしても、央路の言葉は時々作業服の内側に入り込んだ細かな粉のように残る。払ったつもりでもあとから肌に触れてくる。

    喫茶店はその表通りから少し奥に入った場所にあった。周囲には新しい店も混じっていたが、その店だけが時間の縫い目に取り残されたように低く座っていた。茶色の庇、くすんだ外壁、曇った窓ガラス。店名の書かれた看板には、文字の縁に古い日差しが乾いていた。

    祈乃は車を降り、少し離れた場所から店全体を見た。看板は派手ではないが、その小ささの中に、長く呼ばれてきた気配があった。朝の待ち合わせに使われ、雨宿りの口実に入り、もう来なくなった場所。

    「窓、汚れてますね」

    「閉めてから時間経ってるな」

    「中、見えない」

    「見えないほうが残るものもある」

    央路が脚立を下ろしながらそう言うと、祈乃は窓に近づいた。ガラスには、外の通りと自分の顔が薄く重なっていた。

    そこに映る自分は、思ったより疲れて見えた。三路撤工に来てから、前よりもよく眠れているはずなのに、目元だけが前の仕事の疲れを覚えているようだった。無理して笑っていた頃の顔が、曇った窓の内側から戻ってきたようだった。

    「祈乃?」

    名前を呼ばれて祈乃はすぐに視線を外した。央路は脚立を立てる手を止めず、こちらを見ずに気づいている。

    「何でもないです」

    「ならいいけど」

    「何でもない顔じゃなかったですか?」

    「そういうとき、先に自分で聞くんだな」

    祈乃は少しだけ黙った。央路のそういうところが苦手だった。答えを押しつけず、こちらが逃げるために置いた言葉の形だけをそっと拾ってしまうところだ。

    昼の気配が路地に降りてくるころ、下見はゆっくりと進んだ。店の前の舗装は所々欠けており、雨水の乾いた跡が白く残っていた。壁の低い位置には細かい傷があり、昔、椅子か鉢植えでも置かれていたのかもしれない、と祈乃は思った。

    央路は、看板の下から枠を見上げて指先で角を押さえた。それは、外す前の癖だった。触り方はいつも静かで、まだ看板に名前が残っていることを確かめているようだった。

    「やっぱり木が弱い。夜はゆっくりだな」

    「割れそうですか?」

    「割れるかもしれないけど、割れないように外す」

    「絶対ですか?」

    「絶対って言うと嘘になる。でも、雑にはしない」

    その言い方は正直だった。祈乃は少しだけ安心した。けれど、安心した自分に戸惑った。央路の言葉を信じることがいつの間にか自分の中で自然になりかけていた。

    記録写真を撮るために、祈乃は店の窓の前に立った。スマートフォンを構えると、画面には看板と窓、そして自分の輪郭が重なった。前の仕事を辞める少し前、ビルのエレベーターの扉に映った自分の顔を何度も見ていたことを思い出した。

    あの頃の祈乃は、昼休みのにぎやかさにも乗れず、誰かが笑うたびに自分だけ別の部屋にいるような気がしていた。大きな失敗をしたわけではないけれど、毎日ほんの少しずつ、声の置き場をなくしていった。

    「撮れた?」

    央路の声で記憶の端がほどけ、祈乃はシャッターを切って画面を確認した。

    「撮れました」

    「じゃあ、横の壁も」

    「はい」

    いつも通り返事をする。平らな声、仕事の声。祈乃はそれを便利だと思っている。声の中に何も入れなければ、自分でも何も感じていないことにできるから。

    央路はそれ以上聞かなかった。聞かれなかったことに、祈乃は少しだけ救われ、少しだけ寂しくなった。その寂しさを、工具袋の重みで即座に押し殺した。

    下見を終えて会社に戻る途中、車内に昼の湿った空気が入ってきた。窓を少し開けると、舗装の熱と古い建物の匂いが混ざって流れ込んできた。どこかで揚げ物をしているような匂いが遠くから漂ってきて、祈乃の胃の奥が小さく動いた。

    「昼、食べられる?」

    央路が聞いた。

    「食べます」

    「それ、食べる予定の声じゃない」

    「声だけで決めないでください」

    「じゃあ、顔」

    「見ないでください」

    央路は短く笑った。軽い笑いだったが、祈乃を馬鹿にする響きはない。車内にその笑いが残ると、窓から入る風まで少しだけ形を変えるような気がした。

    会社に戻り、作業場の端で簡単に食事を取った。祈乃は買っておいたおにぎりの包装を開け、央路は工具棚の横に座って水を飲んでいた。離れすぎず、近すぎない距離。仕事場での距離感としては自然だが、それゆえに余計に名前がつけにくい。

    「喫茶店って、閉まると寂しいですね」

    祈乃は思ったより小さな声で言った。央路はペットボトルのふたを閉めて少しだけ目を上げた。

    「行ったことなくても?」

    「行ったことがないからかもしれないです。知らないまま終わる場所って、こっちが勝手に寂しくなる」

    「分かる気はする」

    「木皿さんにもそういうの、あるんですか?」

    「あるよ。入ればよかったなって店、結構ある」

    「意外です」

    「俺、そんなに何も思ってなさそう?」

    祈乃は返事に迷い、視線を包みにおにぎりのある場所へ落とした。央路は軽く見えるが、本当は外すものに対してやたらと丁寧だ。言葉よりも手つきの方が正直な人なのかもしれない。

    「思ってないわけじゃないです。ただ、出し方が雑」

    「雑か」

    「雑というか、隠すのがうまい」

    そう言った後、祈乃は自分の声に驚いた。少し踏み込みすぎた、と思ったのに、央路は嫌な顔をしなかった。

    「祈乃ほどじゃない」

    胸の奥で何かが鳴った。音にはならないが、確かに触れられた感覚があった。

    「私は別に隠していないです」

    「そういうことにしておく」

    「何ですか、それ?」

    「仕事に戻ろうかって意味」

    央路は立ち上がり、空のペットボトルを片づけた。祈乃は食べかけのおにぎりを見つめ、なぜか急に喉が詰まりそうになった。彼は踏み込まない。けれど、扉の前にいることだけは隠さない。

    午後の作業場は朝よりも音が少なく、外の道を通る車の気配が壁越しに薄く伝わっていた。天井の照明が工具の影を短く落とし、祈乃は撤去後に使うラベルを準備し、央路は木枠を保護するための布を選んでいた。

    古い喫茶店の看板は金属よりも扱いが難しいらしく、水を吸った木は脆く、力をかける角度を間違えると簡単に割れるらしい。祈乃は央路の説明を聞きながら、朝の窓に映った自分の顔の印象をまだ引きずっていた。

    「祈乃、聞いてる?」

    「聞いてます。木枠を下から受けるとき、引っ張らない」

    「そう。押さえるだけ」

    「分かってます」

    「分かってる顔でまた力が入るから」

    「もうそれ言わないでください」

    央路は少しだけ口元を緩めた。祈乃はムッとしたふりをしたが、声が尖りきらなかった。こういう小さなやりとりが増えるほど、「仕事の距離」という言い訳が薄れていく。

    作業場の奥に置かれた昨日の看板は毛布の下で低い膨らみになっており、祈乃はその横を通るたびに胸の中にまだ外せていない名前があるような気がした。今日は別の看板を外す日だ。それなのに、自分の内側では昨日の夜がまだ完全には終わっていない。

    夕方の影が作業場の入口に伸びてくると、出発の空気が少しだけ変わった。昼間の準備とは違い、夜へ向かう前の道具には静かな緊張が宿る。ライト、養生、布、工具。どれも同じものなのに、夜の現場へ持っていくときだけ重さが増す。

    祈乃は軍手をつけ直し、手首の部分を引っ張った。央路がそれを見た気配がしたが、何も言わなかった。言われないことで、かえって見られていることがわかる。

    「行くよ」

    「はい」

    作業車が会社を出ると、東京の色は昼から少しずつ剥がれ始めていた。ビルの側面に残る光は薄い膜になり、狭い路地の奥には夜の気配が先に溜まっている。窓の外を流れる人影ははっきりしないのに、声だけが湿った空気に散っていた。

    助手席の祈乃は、昼に撮った喫茶店の窓の写真を開いた。画面には、看板と窓、そして自分の輪郭が重なっていた。消したいと思ったが、消すとそこで感じたことまでなかったことにしてしまう気がして、消すことができなかった。

    「また写真?」

    と央路が聞いた。祈乃は画面を伏せた。

    「記録の確認です」

    「仕事熱心ですね」

    「それ以外に何があるんですか?」

    「さあ」

    央路の返事は軽かった。祈乃はその軽さに少し救われた。もしも重く聞かれたら、きっと答えられなかっただろう。

    夜に近づくにつれて車内の空気は静かになり、信号待ちのたびに外の光がフロントガラスに染み込んで央路の横顔の線を変えていった。祈乃は、その変化を見ないようにして膝の上の軍手を握った。

    喫茶店の前に戻ると、昼に見た店とは別の場所のようだった。窓ガラスは外の明かりを吸って黒くなり、白いカーテンの端だけが内側で薄く浮いていた。看板の文字は街灯に照らされ、古い茶色の枠が夜の中で小さく固まっていた。

    央路は車を停め、周囲を確認してから脚立を下ろした。祈乃は養生シートを広げ、舗装の継ぎ目に合わせて端を整えた。路地の奥から、湿った土と古い紙のような匂いが流れてきた。

    「今日は昨日よりゆっくり」

    央路が言った。

    「分かってます」

    「急がなくていい。割れる方が面倒だから」

    「面倒だから、ですか」

    「そう。面倒だから丁寧にやる」

    祈乃は少しだけ笑いそうになった。優しいと言われるのを避けるために、央路はすぐに別の言葉を使う。面倒、手間、仕事。そうやって感情の表面を削ってから渡ってくる。

    脚立の金具が開く音が路地の壁に小さく響いた。央路は足元を確かめてから、看板の端に手を伸ばした。祈乃は下からライトを当てた。木枠の細かな傷が浮かび上がり、古い塗料の中に染み込んだ年月が見えた。

    「ここのビス、錆びてる」

    「見えます」

    「無理に回すと割れる。少しずつ行く」

    央路が工具を持ち替えた。考えるときの癖だ。祈乃は、その動きを見上げながら自分の呼吸が看板の木目に合わせて浅くなるのを感じた。

    昨日よりも控えめな電動工具の音が、短く鳴っては止み、また少しだけ鳴る。木枠はそのたびにわずかな音を立て、祈乃は央路が言った「泣く」という表現を思い出した。

    「本当に変な音しますね」

    「だろ」

    「泣いているようには思いませんけど」

    「言ってる」

    「言ってないです」

    央路が脚立の上で笑った気配がした。祈乃はライトの角度を変え、笑い声を見ないふりをした。夜の現場に笑い声が混じると、少しだけ危ない。空気が柔らかくなりすぎて、仕事の線がにじむ。

    ビスが一本外れ、央路は祈乃に渡そうと手を下ろした。 祈乃は掌を差し出した。 指先が触れないように、央路は小さな金属をそっと落とした。

    触れない。けれど、触れないための気遣いがはっきりとわかる。祈乃は掌の中のビスを握り込み、胸の中で小さく息を止めた。

    「熱くない?」

    「大丈夫です」

    「ならいい」

    それだけ。たったそれだけなのに、祈乃の中では余計な言葉が増えていく。大丈夫と答える前に心配されること。大丈夫だと分かってから、それ以上踏み込まれないこと。そのどちらにも慣れていない。

    作業は少しずつ進んだ。木枠の上部が壁から浮き、細かなほこりがライトの筋の中へ落ちていく。金属とは違う、乾いた木と古い塗料のにおいがした。祈乃はそれを吸い込み、昔の喫茶店に入ったときの記憶はないのに、なぜか懐かしさを感じた。

    「下、受けて」

    央路の声が低くなる。祈乃は両手を上げ、木枠の下に慎重に添えた。

    「引っ張らない」

    「押さえるだけ」

    「そう」

    央路の声がすぐ上から落ちてくる。祈乃は、看板の重みを待った。昨日の金属よりも軽いはずなのに、木の看板には別の重みがある。それは、水を吸った古い紙のような、時間の重みだった。

    最後のビスが緩むとき、木枠が小さく軋んだ。祈乃の腕に重みが移る。思わず力を入れそうになった瞬間、央路の声が近くで響いた。

    「そのまま。祈乃、息止めない」

    呼吸を見られていたのだ。一瞬だけ悔しくなったが、それでも祈乃は息を吐いた。看板が少し下がり、央路が横から手を差し伸べた。

    「いい。ゆっくり下ろす」

    「はい」

    思ったより素直な声が出た。夜の路地で、木の看板を抱えるように下ろす。指先にざらついた塗料の感触があり、手の中に古い店名のかけらが移るようだった。

    養生シートの上に置いたとき、木枠は割れなかった。央路はすぐに角を確かめ、祈乃も反対側を見た。小さな欠けはあったが、形は保たれていた。

    「大丈夫そう」

    「よかった」

    祈乃は本当にそう思った。仕事だからではなく、何かを壊さずに終えられたことに安堵したのだ。その自分の感情が少し予想外で、言葉の後に沈黙が残った。

    央路は何も言わなかった代わりに、外れた看板の裏をそっと持ち上げた。裏側には表とは違う暗さがあり、埃が溜まって木目の隙間に黒い線が入っていた。長い間壁に向いていた面だけが、人に見られない時間を抱えているようだった。

    「裏って、こんな風になるんですね」

    「表より正直だな」

    「正直?」

    「見せるつもりのないところだから」

    祈乃は看板の裏を見つめた。自分にもこういう面があるのだと思った。誰にも見せるつもりのない場所。平気な声の裏に貼りついた疲れ、優しくされると逃げたくなる癖、名前を呼ばれるたびに乱れる呼吸。

    「見せるつもりがなくても、外したら見えますね」

    「見えるな」

    「嫌ですね」

    「嫌なら、見えたときに雑に扱わなきゃいい」

    央路の言葉は静かだった。祈乃は返事を探したが、喉のあたりで止まった。彼は何の話をしているのだろう。看板の話だ。そう思えばいいのに、夜の空気は言葉をすぐに別の場所へ運んでしまう。

    看板を毛布で包む前に、祈乃は撤去後の壁を撮影した。そこには古い四角い跡があった。昨日の壁とは違う。木枠の形に沿って薄茶色の影が残っており、中心には日焼けしていない部分がかすかに明るかった。

    窓ガラスには、看板のなくなった上部と祈乃の顔が映っていた。朝よりも暗いが、朝よりもはっきりと映っている。祈乃はシャッターを切る前に、自分の目元を見てしまった。

    「祈乃」

    央路に呼ばれて画面が少し揺れた。

    「撮れそう?」

    「撮れます」

    「無理に急がなくていい」

    「急いでいません」

    声が固くなった。央路は少し黙った。その沈黙に責められているわけではないのに、祈乃は自分の言い方が棘々しかったことに気づいた。

    「ごめんなさい」

    「何が?」

    「今の、言い方」

    「気にしてない」

    「気にしてください、少しくらい」

    央路は意外そうにこちらを見た。祈乃も、自分が何を言っているのか分からなかった。気にしないと言われると、自分が勝手に壁にぶつかっただけのように思えて、余計にみじめになる。

    「じゃあ、少し気にする」

    「適当ですね」

    「適当じゃない。少しだけにする」

    祈乃は笑ってしまいそうになった。笑ってはいけない場面ではないのに、笑うと何かが崩れそうで、口元を締めた。央路はそれを見て何も言わず、毛布を広げた。

    看板を包むとき、祈乃と央路の手元が近づいた。指先は触れ合わないが、同じ木枠の重さを分かち合っている。毛布の端を折り込む動きが自然に合い、その自然さが祈乃をまた少し怖がらせた。

    「持ち上げるよ」

    「はい」

    荷台へ運ぶ短い距離だったが、木の看板は思ったよりも軽く揺れた。祈乃は、腕に力を入れすぎないように意識した。央路が自分の動きを見ているのが分かったが、不思議と嫌ではなかった。

    積み終えると、夜の路地が少し広くなったように見えた。看板のない喫茶店が閉じたまま、さらに静かになっている。窓に映る街灯の光だけが、店の内側へ届かずに表面で揺れていた。

    「外したら、寂しくなりましたね」

    祈乃は小さく言った。央路は店を見上げた。

    「でも、軽くなった感じもある」

    「両方ですね」

    「だいたい、そういうものかもな」

    何が、とは央路は聞かなかった。聞いたら答えが必要になる。答えが必要になると、今の空気のままではいられなくなる。

    片付けを終えた後、祈乃はもう一度窓に近づいた。看板のなくなった上に少しだけ空が見える。夜の狭い空。黒ではなく街の明かりを含んだ、鈍い色。

    ガラスの中に映る自分は朝ほど疲れて見えなかった。たぶん現場の湿気と作業の汗のせいで輪郭がぼやけているだけだ、そう思おうとしたが、央路が何も聞かずに作業を代わってくれた瞬間のことが胸のどこかに残っていた。

    昨日、埃を吸わない位置へ変われと言われたのとは違い、今日は、祈乃が言葉を尖らせた時に央路は無理に近づかず、少しだけ気にすると言った。その加減がやけに人の体温に近かった。

    「帰ろう」

    央路の声が路地に落ちる。祈乃は振り返った。

    「はい」

    作業車に乗る前、祈乃は看板のなくなった喫茶店をもう一度見た。店の名前は外されたのに、そこに喫茶店があった気配は消えていない。むしろ、名前がなくなったことで、窓や壁やひさしの古さが急に身近に感じられた。

    帰りの車内には木の匂いが漂っていた。荷台に積んだ看板から、湿った木枠と古い塗料の匂いがかすかに流れ込んでいる。祈乃は窓に額を近づけ、外の光が顔に触れては離れるのを感じた。

    「今日、助かりました」

    と言ってから、胸が少し硬くなった。礼を言うだけなのに、なぜこんなに構えてしまうのだろう。

    「何が?」

    央路はすぐに返事をしなかった。祈乃は視線を窓の外に置いたまま答えた。

    「作業。木枠、私だけだったら力入れすぎてたかもしれない」

    「かもな」

    「そこは否定してください」

    「否定すると、祈乃が次に無理をする」

    胸の中で言葉がゆっくり沈んでいく。祈乃は返せなかった。央路のそういうところは本当に困る。優しいと言わせない言い方で、確かに逃げ道だけを残してくる。

    「でも、できてたよ」

    少し遅れて央路が付け足した。祈乃は息を吸い損ねた。

    「どっちですか?」

    「無理しそうだったけど、できてた」

    「それ、褒めてます?」

    「褒めてる」

    央路の声は軽かったが、祈乃には十分だった。十分だと思ってしまうことが怖かった。

    車窓の向こうで夜の東京が流れていく。閉じた店、まだ明るい窓、路地の奥に並ぶ室外機、濡れていないのに湿って見える歩道。誰かの生活が見えそうで見えない距離にあって、祈乃は自分の中の見せたくない場所を思った。

    喫茶店の窓に映った顔、前の仕事を辞める前の自分、どこにも馴染めないまま平気なふりだけが上手くなっていった時間。

    「私、前の仕事でも」

    と言いかけて、祈乃は言葉を止めた。央路は、ハンドルを握る手を少しだけ変えた。急かさない。聞いていると分かるだけの沈黙。

    「いや、何でもないです」

    「そっか」

    それだけだった。なぜ央路は聞かないのか。なぜ聞かれないことにほっとして、同時に少し寂しくなるのか。祈乃は自分の胸の面倒くささにほとほと嫌になった。

    「聞かないんですね」

    「聞いてほしいなら、聞く」

    「そういうの、ずるいです」

    「ごめん」

    「謝る必要はないです」

    央路は少しだけ黙った。車内の振動が足元から伝わり、荷台の看板が小さくきしむ。木枠がまだ泣いているように聞こえた。

    「聞きたいよ」

    央路の声は先ほどより低かった。祈乃は窓の外を向いたまま、動けなくなった。

    「でも、祈乃がまだ言葉にしたくないなら、今じゃなくていい」

    その言葉は胸の柔らかいところを直接触れた。踏み込まれたわけではなく、むしろ逃げられるように道を空けられた。それなのに、逃げ道を残されたことで祈乃は初めてその場に立っていたくなった。

    「木皿さんって」

    「うん」

    「優しいって言われるの、嫌いですよね」

    「苦手」

    「じゃあ、何て言えばいいんですか?」

    「仕事が丁寧とか」

    祈乃は今度こそ少し笑った。声にはならなかったが、口元の力が抜けた。央路はそれを横目で見たようだったが、何も言わなかった。

    会社に戻るころには、夜はすっかり深くなっていた。三路撤工の敷地には街灯の光が斜めに差し込み、作業車の影が倉庫の壁に大きく伸びていた。エンジンが止まると、車内にあった振動がゆっくりと体から抜けていった。

    荷台を開けると、包まれた看板から喫茶店の匂いが漂ってきた。木、塗料、ほこり、そして閉じた窓の内側にたまった時間。祈乃は毛布の端を押さえ、央路が反対側を確認するのを待った。

    「割れてない」

    「よかった」

    「祈乃が押さえ方を変えたから」

    また褒められた。祈乃はそれをそのまま受け取るのが難しく、工具箱の取っ手を持ち直した。

    「木皿さんが言ったからです」

    「言われてできるなら、できるってことだよ」

    祈乃は黙った。そういう言葉を前の場所で聞きたかったのかもしれない。できていないところを数えられる前にできたところをひとつだけ見つけてもらえたなら、少しは違っていたのかもしれない。

    片付けの後、祈乃は倉庫の外に出た。夜の空気が頬に触れ、汗の引いた首筋を冷やした。遠くの大通りから車の音が聞こえ、敷地の隅に置かれた古い脚立の影が細く伸びていた。

    央路は作業車の横で荷台の扉を最後にもう一度押した。確かめるしぐさだ。祈乃はそれを見ながら、今日の看板の端を押さえていた指先を思い出した。外す前に壊れない場所を探す手だ。

    「祈乃」

    名前を呼ばれた。夜の中で、その声だけが少し近く感じられた。

    「はい」

    「明日、腕に変な張りがあったら言って」

    「大丈夫です」

    「大丈夫じゃなくて、言って」

    祈乃は返事を探した。いつものように「平気です」と繰り返すことはできたが、今夜はその言葉が少し雑に思えた。

    「……分かりました」

    央路は小さくうなずき、それ以上何も言わなかった。押しつけず、離れすぎず、ただ祈乃の返事をそこに置いておく。

    帰り道に出ると、三路撤工の色あせた文字が背後で静かに消えていった。 祈乃は歩きながら、喫茶店の窓に映った自分の顔を思い出した。朝の顔、夜の顔。 どちらが本当かは分からないが、少なくとも今の自分は少しだけ息がしやすい。

    古い喫茶店の名前は壁から外され、荷台には木の匂いが残り、掌には小さなビスの温度がまだ残っていた。そして胸の奥には、央路の「聞かないでいてくれた」という沈黙が、外せない名前のように静かに残っていた。

     
     
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