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ベトナム写真紀行|14. 旅の終わり

     ハノイの滞在もついに最終日となった。この日はハノイに来て初めてと言っていいくらいの晴天だった。毎日夕立やらスコールやらにあてられて曇天続きだったのだが、この日は朝から気持ちの良い青空が見えていた。
     長いようであっという間の三週間だった。最後の方は疲れもピークに達して早く日本に帰りたいとすら思っていたのだが、いざ旅の終わりを迎えると去り難い気持ちになる。

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     帰りの飛行機は深夜便だったので、最後の日は朝からバスで旧市街地から南のほうへ下って行った。イェンソ公園からさらに南へ行って、バラックが見えてきたところでバスを降りてみた。ハノイもホーチミンも市街地の街並みはどこを歩いても似たり寄ったりだったが、少しはずれたあたりまで行くと街の開発もここまでは及んでおらず、観光客のいない昔ながらのベトナムを垣間見ることができた。バイクタクシーや怪しげな人も見かけないので、気張らずに街歩きをすることもできた。
     町のはずれになると外国人はほとんどいないのですれ違う人たちからは訝しげな目を向けられることになるのだが、目が合って微笑みかけると彼らはいつも笑顔を返してくれた。彼らは僕の存在を認知すると、手にぶら下げているカメラのことを何なにや彼かやとも言った。だがそれも悪意の籠っていない純粋な興味だとすぐに解るのでこちらも嫌な気にならなかった。目につく子どもたちはボールを蹴って遊んでおり、軒先の老人たちは半裸姿で家仕事をしていた。ベトナム語で話しかけられることもしばしばあったが言葉は理解できないのでコミュニケーションはほとんど取れなかったが、住民は市街地の人たちよりも穏やかでやさしそうだと思った。

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     僕は市街地ばかりじゃなくてはずれたほうをもっと探索すればよかったと少し後悔した。この旅では都市部を中心に街歩きをしていたので長閑な町をあまり見ることができなかった。都市ならではの激しさを目にするのは楽しかったが、ベトナムも都市開発が進んで高層ビルや整備された街並みが増えていた。日本にも同じことが言えるが、都市開発が進んでしまうと街並みは均一化され、同時に住民も均一化されていくように感じる。将来的には詐欺まがいなタクシーや観光客を狙う小悪党もベトナムからいなくなってしまうのかもしれない。近代化によってたしかに以前よりも安全に海外を旅行をすることができるようになったが、同時に失われていく民族的文化もあるのだ。もう二度と同じ景色は見れないかもしれないんだ、と僕は思いながらベトナムの街を最後に目に焼き付けようとした。
     僕はバラックを横目に歩きながら、<もしまたハノイに来られたならもっと街はずれを中心に歩いてみよう……いや、でも次はまだ行ったことがない街にも行きたい。ベトナム中部だって行きたいし……いやいや、それよりも別の国……まだ行ったことのないインドも行きたいか……もう少しお金を貯めたら頑張ってヨーロッパにも……>と、旅はまだ終わっていないのに次の旅のことを考えていた。真夏の八月に体力の限界まで街を歩いて、ちょっとしばらく旅はいいかな、と旅に対して食傷気味になったときもあったが、やはり終わるところまでくるともっと旅を続けたくなるのだった。
     そんなことを考えていると、僕はベトナムのことをまだ何も見られていないような気持ちが湧いてきてしまった。ホーチミンもハノイも隅々まで歩いた気になっていたがそんなことはまったくなかった。まだ見ていないものがたくさんある。まだ出会っていない人々がたくさんいる。僕はもっとベトナムにいたいと思った。僕の知らないベトナムはまだまだたくさんあるのだ。
     それでもあと一週間いられようが、滞在が一ヵ月延びようが、帰るときに僕は同じことを思うのだろう。すべてを見ることはできない。
     振り返るといろんなことがあった旅だった。面白かった。面白い旅だった。旅に出る前に不安に思っていたほど何もないわけではなかったし、僕の価値観をひっくり返してしまうような出来ごとがあるわけでもなかった。でもそれが旅だ。旅という「非日常」は日を追うごとに僕の中で「日常」に染まっていき、そしてまた日本で過ごす「日常」へと色を変えていくだけなのだ。でもそれは旅に出る以前の僕に戻るわけではない。旅とはそういうものなのだ。どんな旅でもいいからまた旅に出たい。僕という人間に新たな色を加えるためにも。

     僕は日暮れ前に宿に戻って、帰り支度を始めた。シャワーを浴びて汗を流し、生乾きの洗濯物はドライヤーを使って乾かした。カメラに付着していた砂埃をタオルで丁寧に拭き、荷物をバックパックの中へしまい込む。部屋もひと通り掃除をして、空き缶やペットボトルのごみをまとめた。ベトナムドンはもう必要なかったので机の上に気持ちばかりのチップも残しておいた。窓の外を見ると夕焼け空は曇り始めていた。昼間は雨に降られずに良かった、と僕は思った。荷物をまとめてしまうと宿を出るのが名残惜しくなっていたが、ふう、とひと呼吸して空港までのタクシーを手配した。五分ほどで宿の前に到着したアラートが鳴った。僕はもう日本に帰らなければいけない。僕の旅は終わったのだ。

     タクシーに乗って高速道路を走っていると、昼間の晴天が嘘のようにスコールがやってきて次第に激しい雷が鳴りだした。ノイバイ空港に着いてチェック・インすると案の定飛行機も遅れていた。飛行機の時間まで三時間ほどあったので最後に空港の外に出て煙草を吸った。激しいベトナムの雨とこれでお別れだと思うと、あれだけ悩まされていたにもかかわらず寂しく思った。

     東京に帰ったら、とりあえず魚が食べたいな。こっちに来てからほとんどの食事はフォーとバインミーだったし、魚は食あたりが怖くてほとんど食べていなかったし。生魚でも焼き魚でも。それと銭湯にも行こう。こっちに来てからぬるいシャワーしか浴びてなかったし。体の垢を落として広い湯船にゆっくり浸かりたい。それから東京の彼女が僕のアパートにクモが大量発生したとメッセージで言っていた。早く帰ってきてクモ退治をしてほしいとかなんとか。留守にしている間に部屋も散らかってるだろうな、と僕は思った。保安検査を通過して免税店の並ぶエリアの喫煙所で煙草を吸いながらそんなことを考えていると、僕の気分はすでにベトナムを離れ始めているようだった。行きの羽田空港と同じように、今ある日常から次の日常へ徐々に移ろいでゆく。
     自宅のクモのことを考えていたら、ホーチミンの二軒目の宿でみかけたトカゲの親子のことを思い出した。冷蔵庫の隅にいたトカゲの親子のことを。僕は彼らに別れのあいさつをしていなかった。

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    (終)



    『ベトナム写真紀行』

    目次

    |1. 出発前
    |2. ホーチミン到着
    |3. ホーチミンの夜
    |4. メコン川クルーズ(前編)
    |5. メコン川クルーズ(後編)
    |6. カジノ一家(前編)
    |7. カジノ一家(後編)
    |8. 不調
    |9. タム・ビエット
    |10. ハノイ到着
    |11. 再会
    |12. ホーおじさん
    |13. トゥーソンの町と小林くんの思い出
    |14. 旅の終わり
    |15. 編集後記


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    羊男

     
     
    30代男の戯言。 雑記散文、もしくは作り話。

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