ベトナム写真紀行|3. ホーチミンの夜
街の探索も順調に楽しんでいた二日目の夜。散歩がてらにコンビニまで水を買いに出ていた。夕立のせいか少しひんやりとした夏の夜風が気持ちよかった。昼間の喧騒は日暮れとともに落ち着きをみせ、街も歩きやすいと感じた。セブンイレブンで水だけを買い、店を出ると軒先のテラスで煙草を吸っていた日本人男性と目が合って声をかけられた。
「日本人?」と男は言った。そうです、と僕が言うと男はとても安心したようにこちらに寄ってきた。「ひとり?」と立て続けに訊かれて頷くと、「おれもなんだよ」と男は満面の笑みで言った。空港や街で日本人らしき人たちとはすれ違っていたが、実際にベトナムに来てから日本人と話をするのはこのときが初めてだった。話を訊くと、彼は今朝ホーチミンに着いてから誰ともうまくコミュニケーションが取れずに辛かった、と言った。一人旅なんて寂しいだけじゃないか、とも。旅に出て一日も経たずに心細くなってしまうこの男が不憫に思えた。僕も暇だったのでセブンイレブンのテラスで話をすることにした。
男は、君は英語を話せるのか、海外旅行には慣れているのか、一人は寂しくないのか、とよく喋った。自分の抱えている問題を共有したいらしくたくさんの質問をしてきたのだが、僕は男の悩みをうまく共有できずに頷くしかなかった。男は一週間ホーチミンに滞在すると言ったが、初日にこれでは残りの六日間をどうやって過ごすつもりなのか心配になった。
男は行き当たりばったりの旅がしてみたいと思っていたようで、ホーチミンに関してほとんど何も調べずに来ていた。その点は僕も同じだったのでようやく共感することができたのだが、男はホーチミンの情報が少しでも欲しかったらしく、とにかくこの旅の暇を潰せる情報を得たかったようだった。でも僕もホーチミンの観光情報などはほとんど調べていなかったので男の寂しさを埋める情報を与えることはできなかった。
ホーチミンについての話をしばらく続けていると、「これから風俗店に行こうと思っているんだ」と男は言った。コミュニケーションがうまく取れずにひとり海外で寂しい思いを抱えているようなことを言っておいて、旅に出てきた目的ははっきりとしているようだった。
「君もホーチミンへ来た目的はそれだろう」と含みのある顔で男は言った。
「そんなことはないけれど」と僕はあいまいな返事をした。
ホーチミンのことは何も調べずにやってきたと言っていたが、ホーチミンのすけべ事情にはかなり詳しそうな口ぶりだった。風俗店は繁華街のブイビエン通りにあるらしく、これから向かうところだと言った。初日から元気なものだな、と僕は心の中で思った。風俗店に行くつもりは僕にはなかったが、夜の繁華街をそろそろ見たいと思っていたのでせっかくならばと彼に同行することにした。

繁華街までの道すがら男は相変わらず喋り続けていて、年齢は三十五歳、生まれ育ちは埼玉、友人のこと、仕事のこと、元嫁とは十カ国以上旅をしたこと、三年前に離婚したこと、今年に再婚したこと、新しい嫁のこと、そして今回が初めての一人旅だということについて、彼は休みなく話した。二十分か三十分のあいだで彼の半生のほとんどを聞いてしまったようだった。こんなによく喋るのならばたしかに一人は寂しいと思ってしかたなさそうだった。そのあいだに僕が話したことと言えば、東京住まいなことと年齢くらいだった。
僕が一日早くホーチミンに着いていたので、ホーチミンで何をしていたのかと訊かれたのだが、本当にただ街をぶらぶらと散策していただけなので観光地らしい場所にもまだ行っていなかった。それで今日は北の方、昨日は西の方を歩いた、と地図を見せながら説明したのだが男は不思議そうな顔をしていた。「それって楽しいの?」、と言いたげな顔だった。
ホーチミンの情報交換をしたいのは僕もそうだったし、もちろん彼もそうだった。でもお互いろくに調べずにやって来たという点は同じで、移動中にも実りのある情報交換はできなかった。ホーチミンの性事情についてはこれ以上聞いても実りのある情報とは言えそうになかった。

ブイビエン通りの前に着くと、そこ一帯だけが昼間のように明るかった。音楽が通りの両側から爆音で鳴り響き、火事のようにスモークが無遠慮に焚かれ、煙の中をライトの柱が夜空に向けて何本も飛び交っていた。
通りの入り口に立って唖然としていると、男が「歩いてみよう」と言ったので二人で喧騒の中へ飛び込んだ。通りは欧米の観光客が目立ち、人混みをかき分けながらなんとか前に進んでいく。左右にはナイトクラブが何軒も並び、下着姿のグラマラスな女性や浅黒くて逞しい身体つきの男性がステージ上で音楽にあわせて体を揺らしていた。
ここの通りだけが文字通りの異世界で、馴染みのない夜の世界に対しての居心地の悪さと初めて目の当たりにする世界に対しての高揚感で頭がくらくらした。「マッサージ?」、「オニイサン、カワイイコイルヨ」、「セックス、セックス?」、と十歩進むごとに声をかけられて、間違いなくこのあたりがナイトスポットだと思い知った。
ブイビエン通りを突き当たりまで歩き、抜けた先の物陰で煙草を吸ってひと呼吸入れることにした。
「すごかったね」と男が言った。
「うん、すごかった」と僕も同じことを言った。
人の欲や熱量を目の当たりにして、僕は疲れよりも興奮していることに気が付いた。先ほどまで身を置いていた場所もまた、見ておくべきベトナムのひとつの姿だった。
僕はまだ熱にあてられてぼんやり遠くに聞こえるクラブミュージックに耳を傾けていると、
「風俗店に一緒に行ってくれないかな」と男が訊いてきた。
「いや、行かない」と僕が即答してしまうと、ツレないなあ、と言われたのだが、いくら気持ちが高まろうとそれには興味はなかった。
「これも何かの縁じゃないか」、と食い下がって説得するようなことを男が言い出した。僕は初めから行くつもりはなかったし、そんな押し問答をしばらくしていると、ベトナムまで来てなぜ日本人とかれこれ二時間近くも一緒にいるんだろうという気分になっていた。
風俗店の相場については、ここまで来る途中に聞かされていた。彼の話でわかったのは、店やプランにもよるがだいたい二百万から三百万ドンで、さらに日本語が話せる女の子のいる店だと四百万から五百万ドンらしい。
話を聞いているとその金額を支払うのならば、開高健さんや沢木耕太郎さんが滞在したホテル・マジェスティックに泊まりたいと思った。五つ星ホテルに泊まれてしまうお金を払ってまですけべをしたい熱量を今の僕は持ち合わせていなかった。でもお金の使い方は人それぞれだ。僕がわざわざ水を差すことではなかった。
僕はいい加減に一人になりたくなったので、ブイビエン通りの入り口で半ば強引に彼を見送って別れた。男があまりにも名残惜しそうにしていたので、連絡先の交換だけして僕はその場から離れていった。
男と別れた直後にスコールがやってきた。雨具は持ってきていなかったので一瞬でびしょ濡れになってしまった。でも雨に当たっていると先ほどまでのもやもやした気分は洗い流された。やっぱりひとりがいいな、と自然と口から零れた。旅の楽しみ方も人それぞれなのだ。
翌朝、目を覚ますと昨夜の男からメッセージが入っていた。「今日は何をしていますか?」と通知があった。でも僕はもう彼と会う気にはなれず、結局返信をすることはなかった。
彼に少し申し訳なく思ったが、僕は一人旅がしたいのだ。旅の出会いは大切にしたいが、彼と過ごしても僕にとって有意義な時間を送れるとは思えなかった。彼の寂しさを埋める相手をする暇は僕にはないのだ。それにまだ二日目だ。昨夜の男のように、旅の寂しさを感じるにはまだ早すぎる。

『ベトナム写真紀行』
目次
|1. 出発前
|2. ホーチミン到着
|3. ホーチミンの夜
|4. メコン川クルーズ(前編)
|5. メコン川クルーズ(後編)
|6. カジノ一家(前編)
|7. カジノ一家(後編)
|8. 不調
|9. タム・ビエット
|10. ハノイ到着
|11. 再会
|12. ホーおじさん
|13. トゥーソンの町と小林くんの思い出
|14. 旅の終わり
|15. 編集後記
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