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さんらん(仮)[1]

    あらすじ

    セミプロ写真の幸太郎は、相貌性失顔症のユナに「自分を隠し撮りして欲しい」と、依頼を受ける。他人の顔を認識できないユナは、音に敏感で、異常な執着を持っている。病気の彼女を不憫に思い、甘やかすユナの母親。そんな母娘の関係にうんざりしながらも、ユナの面倒を見る精神科医の姉の由香里。カフェオーナーの蓮田は、あることをきっかけに、彼女が昔の自分の罪を知っているかが気になり出す。自分の顔を覚えていないユナと、ユナが唯一認識している幸太郎にも劣等感を刺激される蓮田。最後まで、距離を埋めることが出来ずに、母親を失った、幸太郎は、母親の言う「本物の黒」を探す幸太郎。危ういバランスの中で、事件は起きる。

     僕が彼女に二度目に会った時、彼女は僕のことを少しも覚えていなかった。
     最初に会った時、その場に居合わせた何人かと、二時間ほど話したと思う。僕は、その時、それほど奇抜な髪型でも、服装でも無かったが、二時間も話した人間の顔を覚えていない。と言うことが、あるだろうか? 
     案外、軽薄な人なのかもしれない。
     僕は、警戒心の透明な壁と、カウンターのスツール一つ分を、彼女と僕の間に置いて座った。

     蓮田さんは、以前、写真の仕事で知り合った。
     会社の社員募集のためのポスター写真を撮る仕事だった。一日だけの外注写真家の僕に、自ら声を掛けてくれたのは、彼だけだった。
      IT会社で働いた五年分のボーナスを全て使って、東京から三十分程の通勤都市に、この古民家を買い、さっさと仕事を辞めた。それから、持ち前の手先の器用さで、自宅兼カフェバーへと、三ヶ月掛けて自分で改装した。
     彼女は、近所に住む客に過ぎなかったが、オープニングパーティーに来ていた。
     ずば抜けて目立った美人でもない上に、化粧もしていなかった。髪はどちらかというと少なく、鼻も口も小さく、唯一、完璧に形の良い目は、アメリカの画家の描くビッグアイズのように大き過ぎたが、度の強い眼鏡のせいで、実際よりも小さく見えた。
     彼女は、特別な美人では無かった。でも、特別に美人ではないから、話しやすい雰囲気があるのは確かだった。
     彼女は四十代にも、高校生にも見えた。ノースリーブのワンピースから覗く肩が、まるで十代の頃の同級生の女子のように、艶やかに光っていた。頬骨の辺りに散らばった薄いそばかすと、眉間にある深い皺だけが、細胞が再生出来ないほど長い時間、その場所にあることを思わせた。
     彼女と話すと、他人に対して、壁の作り方を知らない子供のような距離感が、話す相手に少しだけヒヤリとする罪悪感を与えた。大きな瞳で、人の目を覗き込むように話を聞き、興味があることはすべて質問し、意見を聞かれると、周りに気を遣わずに、言いたいことを言った。時々、それで周りの空気が変に止まったようになったのだが、特に気にする様子もなかった。彼女が、自分を守ることを知らないのか、守らなくても良いほどに強いのかは、僕には分からなかった。

     「それも、こちらの勘違いで、とても上手な処世術なのかもしれない。」

     そんなことを思いながら、カウンターでビールのグラスに映る彼女をチラチラと覗き込んだ。彼女は、水滴の滴るモヒートのグラスを前に黙ったままだった。自慢のオークの一枚板のカウンターの上に、二杯目のグラスビールを置きながら、友人が言った。

    「幸太郎君って、まだ写真やってるの?」

     蓮田さんは、誰でも「君」付けで呼んだ。

    「うん。たまに。」

     僕は、答えた。

    「良かった!もしよければ、この店のチラシ作ってくれないかなあ。もちろん、お礼はするよ。少ないけど。」

     遠慮も無いが、無遠慮でも無かった。人が他人との間に引いた線を軽く飛び越えて、その溝にできた水たまりで遊ぶことのできる人間。人にではなく、自分に水飛沫を掛けて、周囲を笑わせるやり方。多少の事は、人に許させる愛嬌。彼の人との接し方は、天性のもののように見せかけて、彼が、その人生の中で受けてきた傷と回復が少なくはなかったのだろうと想像させた。
     傷の深さは、負って見なければ分からないものだ。そして、それを、あえて知ろうとする人間がいる。その中で生き残った一握りの人間が彼のような人間だ。彼の遊び場では、彼が、全ての主導権を握っていて、彼が望んだことは、喜んで聞く、それが僕の正しい役割のような気がした。

     「実は、今日もカメラ持って来ているんです。今、少し撮りましょうか?」

     僕は、リュックから、デジタルの一眼レフを取り出した。

    「引き受けてくれるの? ありがとう。これ、奢りね。」

    と、先程、カウンターに置かれたビールを指差した。

    「あ、すいません。」

     僕は、そのビールから撮り始めた。僕がシャッターを切り始めると、明らかに、彼女が、僕の方を向いたのを感じた。僕が、写真を撮る間、先ほどの無関心な態度とは打って変わって、上半身をこちらに向け、僕の方を遠慮も無しに観察している。今度は、僕の方が、無関心を装う番だった。絞りを合わせる度に、グラスに映り込む彼女の姿を盗み見た。僕は、彼女が映らない位置に、グラスの位置を彼女から遠ざけて置いた。僕が離れると、彼女は姿勢を前に戻し、後はじっと目を閉じて、サンダルの足でリズムを取って、店に流れている音楽を聞いていた。僕は、店の内装を撮る振りをして、横向きの彼女の姿を数枚、カメラに収めた。周囲に完璧に溶け込んでいるようで、彼女だけが、異質な存在であるような雰囲気があった。そんな人間は、あまり見たことが無かった。


     三度目に、彼女に会った時に、先に声を掛けたのは、意外にも彼女の方だった。彼女が僕を覚えていると言うことに、少しだけ僕の自尊心は浮き立ったが、彼女の意図は別のところにあると知って、すぐにそれを引っ込めた。
     それは、僕が、例の友人のカフェから帰ろうとした時だった。チラシの打ち合わせが終わり、昼食のキーマカレーを食べ、友人と談笑する間、彼女は、テラス席に座って、庭の緑を眺めていた。今日も連れはいなかった。友人に別れを告げて、僕は店を出た。

     青いどんぐりの実がいつの間にか、たわわになった林の中の小道を、大通りに向かって百メートルほど歩いたところで、後ろから「すみません。」と、誰かが呼んだ。振り返ると、小道を削る轍を避けながら、彼女が、僕の方に向かって歩いて来た。「ちょっと、待って。」彼女は言った。その言い方は、蓮田さんとは真逆だった。無遠慮ではないが、遠慮も無かった。それは、頼みを聞きたくなるというよりは、聞かなきゃいけないないような気にさせる類の距離感だ。僕は、緊張して、彼女を待った。彼女は、僕に追いつくと、「あ、歩きましょ。」と言うので、僕らは、並んで歩くことになった。彼女が、右に左に、轍を避けるので、時々、彼女の腕が僕にぶつかった。僕は、カメラの入ったバッグを彼女とは反対側にかけ直し、彼女を避けた方が良いのか、このままが良いのか。と、考えていた。小道を抜け、舗装された道路に出ると、彼女が言った。

    「写真撮影、上手くいきました?」

     僕は、一瞬、彼女が、僕がしていることを知っていることに驚いた。僕が撮影に行く度に、彼女がカフェにいたことを思えば、不思議はなかった。

    「ええ、まあ。」
     と、僕が答えると、彼女は、いきなり僕の水たまりに大きな石を落とした。

    「そのカメラに、私、入ってますか?」

    僕は、突然、道で刑事に声を掛けられる、犯人の様な気持ちになった。いや、実際、あれは、犯罪なのかもしれない。写真の中に人が映り込むことは、よくあることだが、その人を撮ったのか、そうで無いかは、写真を少しでもかじった者なら、誰にでも分かることだ。僕が、店の内装を撮る振りをして、絞りを彼女に合わせたことは・・・。僕の心臓は、久しぶりに鳴り出した。それが、和太鼓の面に張られた革のように、硬い筋肉で覆われている事に気づく位に。彼女は、僕の緊張を察してか、表情を緩めて、言った。

    「そんなに、ドキドキしなくて大丈夫。何度か私を撮っていましたよね?」

     決定的な証拠を握っている刑事も、こんな風に話すのだろうか。周りくどく、じわじわと相手を追い詰めるのだろうか。いっそ、先に決定的な証拠を見せてくれればいいのに。そうしたら、何百という言い訳や理由を考えて、それが結局は、徒労に終わることも無いのに。僕は、諦めと哀願の意を込めて、彼女の方を見た。彼女も僕の顔を見たが、その表情を読むことは出来なかった。どこか遠くを見るような、ものすごく近くを見るような表情で、何度も瞬きをして、こう言った。

    「ごめんね。その写真、見せてもらってもいいですか?」

     そう言った、彼女の言葉は、やはり、無遠慮ではないが、遠慮もなかった。

     僕が、その時の事を話すと、ユナはいつも「そうだっけ? 忘れた。」と、言う。それから、ユナは、僕に向かって耳を澄ます。僕が、彼女に何か文句があるのか。それとも、彼女の関心を引くために、少し拗ねているだけなのか、僕の声を聞き分けるためだ。前者なら、理路整然とした言い訳であれ、黙って僕の手に触れることであれ、僕にとって何か甘いものをくれる。後者なら、「ふん。」と、笑うだけだ。彼女は、「ふん。」と、笑い、英和辞書を捲りながら、パソコンで作業を続けた。
     英語の翻訳が、彼女の仕事のようだった。ニュース記事から、エンタメ情報、youtubeの字幕まで、内容は、なんでも良いようだった。「とにかく、外国語を聞くのが好きなの。」と、彼女は、言っていた。「英語でも、フランス語でも、イタリア語でも、スペイン語でも、中国語でも、韓国語でも、なんでも。」「日本語は?」と、僕が尋ねると、「あんまり好きじゃない。」と、言った。「どうして?」と、僕が初めて聞いた時、彼女は、

     「日本語は、話されていない部分の方が多いから。それが美しいものであれ、醜いものであれ。」

     「だから、聞くのは好きじゃない。」と言った。彼女は、あまり話さなかった。でも、話すときは、その話されない場所から、きちんと言葉を拾ってくることが出来た。それが美しいものであれ、醜いものであれ。


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