
さんらん(仮)[10]
数日後、あの女が、カフェにやってきた。本格的な夏はまだなのに、突然、真夏がやって来たと、誰もが口にする。そんな日だった。去年、ホームセンターで買ってきた、小さなポットのスペアミントの苗は、夏の終わりにタネを撒き散らし、鉢の外に根付いて、今年は、そこら中に蔓延っている。取り放題のミントは、コスパ最高の自家製ミントティーとモヒートになる。
幸太郎は、差し出されたミントティーを、ソーサーを左手に持ちながら、カップを右手で自分の顔の前でゆらしながら、新鮮なハーブの香りを楽しんでいる。その仕草や姿勢の良さや、佇まいが、時折、俺の劣等感に触れる時がある。この、内気な、取り立てて、目を引くもののない男が、青い髪で現れた時も、自分が他の人間に今まで一度も感じたことのないような苛立ちを感じた。
「蓮田さん、写真、こんな感じでどうですか?」
幸太郎は、そう言って、以前、依頼したカフェのチラシに載せる写真を見せた。その差し出す指も、大人の男とは思えないほど、指先に行くほど細くなっていく、綺麗な手だった。
「食べ物や飲み物の物撮りを、もっとした方がいいですか?」
俺は、つい、その指をナイフで切り落とす想像をしてしまう。
「蓮田さん?」
田邊が、俺の名前を呼ぶ。俺は、頭を振って、
「あ、いや、商品の写真は、イメージでいくつか使う感じで良いよ。それより、店全体の雰囲気がわかるものは、あるかな?」
と、言った。幸太郎は、ミントティーを遠くに置き直し、持っていたA3のファイルのゴムバンドを解き、カウンターに大きく広げた。
「あれ、幾つか撮ったの、プリントしなかったっけ?」
と、呟きながら、大きな黒いファイルを捲る。その時、ちらりと、あの女の顔が見えた。
「あ。」
と、俺が言うと、幸太郎は、顔を上げ、
「え?」
と、言った。
「いや。」
と、俺は言い、
「もし良かったら、庭の写真も何枚か撮ってもらえるかな?」
と、頼んだ。幸太郎は、
「分かりました。今、撮らせてもらっても良いですか?」
と、カメラをケースから取り出した。
「もちろん。あ、ハーブティは、店もちで良いから。」
と、言うと、幸太郎は、
「あ、すみません。ありがとうございます。」
と、はにかんだ。俺は、田邊が金に困っているのを知っていた。原価がほぼ無いハーブティーを奢ることで、保たれる自分のプライドに関しては、今は考えないことにした。
田邊が、カメラを手に庭に出て行くと、俺は、カウンターの上のファイルの中から、「あの女」の写真の入ったクリアファイルをそっと引き出した。他のファイルよりも分厚く、相当な枚数が入っていた。その中のいくつかをパラパラと捲ったが、不思議なのは、彼女がこちらを向いている写真が無いことだった。どこかで、こんな写真を見たような気がした。そうだ、昔、警察署で刑事に証拠だと言って見せられた、自分の写真もこんなアングルだった。遠くから撮られた、自分と友人の写真。隠し撮り写真を撮られているなんて、思いもしなかった。
幸太郎は、あの女の隠し撮りをしているのだろうか? それにしては、近距離の写真も多い。幸太郎と彼女の接点は、なさそうに思えるが。そんなことを考えていると、背後から、幸太郎の声がした。
「すみません。こんな感じでどうですか?」
カメラを確認しながら近づく幸太郎に、焦って、背中を向け、そっとクリアファイルを元に戻した。振り返って、
「あ、モヒートでも飲む?」
と、言うと。
「あ、お願いします。今日、暑いですね。」
と、笑い、カウンター席に腰掛けた。俺は、モヒートを手早く作って、幸太郎に差し出した。「こんな感じです。」と言って、見せられた写真を確認しながら、ファイルをどけるふりをして、少しはみ出たクリアファイルを上手く、その中に押し込んだ。
「あ、こんな感じでOK。」
と、言い、カメラを幸太郎に返すと、幸太郎は、「良かった。」と言い、カウンターの上の冷たいモヒートを一気にストローで吸い込んだ。
幸太郎の無実な様子とは裏腹に、俺は、幸太郎と彼女の関係が気になっていた。どうにかして、写真を見たことがバレずに、彼女の事を話題に出せるか考えた。
すると、まさに、その彼女が、店の入り口から、鮮やかな色のワンピースを身に纏って入って来た。俺は、常連のお客に対するいつもの条件反射で、彼女に向かって笑って、会釈した。すると、彼女は、驚いたことに、俺の方は、一瞥もせずに、幸太郎の方に近寄り、
「ねえ、なんで、連絡しないの?」
と、静かに怒って言った。笑顔の行き場を失った俺は、カウンターの外に出て、庭の方を見渡し、他のお客に挨拶している風を装ってごまかした。それから、カウンターを背もたれにして立ち、店内をチェックしている振りをして、彼女と幸太郎の会話に、耳を澄ました。
「ねえ、何で?」
彼女が再び問い詰めると、幸太郎は、
「いや、あの後、家まで行ったんだけど、帰ってこなかったから。」
と、言った。「家?」幸太郎は、彼女の家に行くような仲だったのか。少なからず驚いた俺の耳は、更に緊張した。
「答えに、なってないんだけど。」
彼女は、言った。
「いや、ユナが、連絡したくないのかなと、思って。」
幸太郎が、言うと、彼女は、いきなり、
「Fuck。」
と、俺でも分かる英語で、罵った。
「また、始まった。聞きたいことがあるなら、はっきり聞けば、いいじゃない。なんで、私の考えを、あんたが決めるの。」
と、言うと、幸太郎は、うなだれて、
「ごめん。」
と、言い、スツールから、降りると、
「ここじゃなくて、違うところで話そう。」
と、言い、申し訳なさそうに、俺の方を見ると、
「すみません。じゃあ、写真、現像出来たら、待ってきます。」
と、言った。その時、彼女は、はっきりと俺の方を見た。ユナと言う名前の、数日前、俺にぶつかり、俺が、その腕を手当てした、その女に違いなかった。なのに、彼女は、まるで、何も見ていないような目で、俺を見た。そして、ふいと、顔を背け、幸太郎に言った。
「どうして。ここで、いいのに。」
と、言うと、幸太郎の飲んでいた、モヒートのグラスに手を伸ばすと、残りの酒を、全て吸い込んだ。幸太郎は、そんな彼女を、忍耐強く待っていた。そして、
「とにかく、今日は、これから行きたいところがあるから、そこで話そう。」
と、言った。彼女は、「シット」とか「ファック」とか、日本語には、到底翻訳できない悪態をつきながら、幸太郎の腕に手を回すと、
「で、どこに行くの?」
と、聞きながら、出口に向かって歩き出す幸太郎と一緒に、店を出て行った。
俺は、またしても、あの夜、自分が話したのは、本当にユナだったのか、不確かになって来た。そして、彼女の俺を見る目。あれこそ、ゾンビではないか。と、思った。ゾンビは、生きている人間を食うらしい。彼女にとって、俺は、捕食対象じゃないってことだろうか。カウンターの上には、ミントとライム以外を吸い尽くされ、汗をかいたグラスだけが、残されていた。あの夜と、同じように。