
さんらん(仮)[2]
彼女が、『相貌性失顔症』だと言うことを、あのカフェの帰り、彼女によって連行された、また別のカフェで、僕は、彼女から聞いた。
「『失顔症』?」
と、僕は、初めて聞く、その病名を疑った。
「じゃあ、僕の顔が、見えないんですか?」
彼女は、目を何度も細めたり、丸くしたりして、僕の首から上を観察しながら、
「見えないと言うより、分からないんです。」
と、丁寧だが、なんの意図も感情も伝わらない言い方で言った。まるで、彼女が医者で、こちらが病気を宣告されているようだった。
「見えてはいるんだけれど、顔のパーツや配置を覚えることが出来ないって、言うのかな。」
と、その、にわかに信じがたい仕組みを、なんとか説明しようとしている彼女は、無遠慮と言うより、「線」が見えない子供の様で、その距離感の無さが、僕は少し怖かった。「とにかく、」と、彼女は言った。「私が写っていたら、それを見せて欲しいの。」と、彼女は言った。「あなたには黙秘権があり、弁護士をつけることが出来ます。」という言葉が頭を過った。そして、不利な状況を少しでも良くしようと、
「きちんと現像して差し上げます。」
と、言った。彼女は、驚いた顔をした後、少し考えて、
「うん。」
と、言って、カフェの紙ナプキンに、「ユナ」と言う名前と、電話番号を書いて、僕に渡した。
「ありがとう。じゃあ、出来たら、ここに電話下さい。」
そう言って、立ち上がり、お辞儀をすると、店を出て行った。
その夜、パソコンのモニターに大きく映った彼女を眺めながら、グーグルの検索を引き出して、『失顔症』と打ち込んだ。
『「相貌失認(失顔症)」とは、脳血管障害や外傷、脳炎などによって現れる、人の顔が覚えられない、分からないという症状。両親や親友、自分の子供を見てもそれが誰だか分からない、目の前にいる人間の性別や年齢が認識できなくなる。』
写真編集ソフトで彼女の顔にぼかしを入れてみる。雨の日の、ガラス窓の内から外の景色を見るように、彼女は、僕らを見ているのだろうか。次に会った時には、彼女は、また僕を忘れているのだろうか。僕が、すでに何度も盗み見た彼女の顔を、彼女自身は一度も見たことがないのだろうか。僕が、彼女の顔を見て思ったことを、彼女は知らないし、知ることもないのだろうか。彼女の、額の髪の生え際に、小さな黒子があることを、彼女は知っているだろうか。たくさんの疑問が浮かんでは消え、僕は、また心臓の筋肉が緊張と収縮を繰り返し始めるのを感じた。
約束の日は、雨だった。まだ彼女の話を完全に信じていた訳ではなかったが、万が一、彼女が僕に気づかないことがない様に、前回と同じシャツを選んだ。カメラを肩かけ鞄にしまい、半切りサイズに印刷した彼女の写真を、雨で濡れないように、クリアファイルに挟んで、それもしまった。変なことになってしまった。とにかく面倒なことに関わるのが嫌で、女性と待ち合わせる事はもちろん、仕事以外で誰かに会いに出かけるのも、数年ぶりだった。特に長く続いている夏のせいで、久しぶりに開いた黒い傘は骨のあたりの生地を中心に、全体的に色褪せていた。
「黒だけは、良いものを選びなさい。」
黒い傘、黒い靴、黒い鞄、黒い帽子、黒いシャツ、喪服。黒いものを選ぶ時はいつも、今はいない、母親の口癖を思い出す。時々、僕はそれを無視する。お金や時間を言い訳に。そして、そのツケは、物事が完璧であって欲しい時に、必ず現れる。僕らは怠惰を容易に忘れるが、怠惰は、決してこちらを忘れない。僕は、傘を深く差し、その隙間から、大通りを行き交う人を盗み見る。このまま、ずっと雨が降り続ければ、少しは、忘れられるのだろうか。僕は、何を忘れたいのだろうか。街路樹から大粒の雨が落ちて、傘に当たる。顔の上半分が傘になった人たちの中をゆっくりと歩く。みんな、あの傘の中は、どうなっているのだろう。僕と同じだろうか。とりあえずの目的地まで。彼女のいるカフェまで。
友人のカフェを待ち合わせに選んだのには、やはり彼女なりの理由があったようだ。ガラス戸が開け放たれた窓辺のソファに腰掛けて、彼女は雨を眺めていた。目の醒める様な黄緑色のサマーニットから、白いタンクトップと片方の肩を出した彼女は、やはり、誰も知り合いがいないようだった。僕が近づいて、「ユナさん。」と、声を掛けると、彼女は、振り向いて、僕の顔を遠慮なく見つめた。次に、僕の服装やバッグと僕の顔を交互に見た。僕は、向かいのソファに座って、ショルダーバッグを開けて、彼女の写真を挟んだクリアファイルを取り出した。バッグから覗く僕のカメラを見て初めて、
「あ、幸太郎くん。」
と、言った。僕と彼女の時間に生じたバグによって、僕は、手を止めて、僕の顔を真っ直ぐに見る、彼女の瞳を見た。それは、僕を通り越して、僕のずっと後ろまで見透かしているようだった。
「今日は、いつもみたいにカメラを下げてなかったから。」
彼女は、少しも悪びれず、言った。
「雨だから。」
と、僕は返した。少しだけ、彼女の話し方に似ている自分に気がつく。必要な情報だけを伝えるのは、意外と気楽だった。僕を顔でも声でもなく、僕の持ち物であるカメラで認識する彼女も新鮮だった。
後で知ったのだが、ユナは、「誰かと待ち合わせる時は、初めての場所で会わないようにしている。」らしかった。「だって、本当にその人か分からないから。」どんなに、親しい人間であっても、ユナは、その人が本当にその人かどうか、情報を収集する必要があるのだと言う。その認知の時差は、親しければ親しいほど、相手をがっかりさせるのだ。と。「だから、あなたはがっかりしちゃあだめよ。」と、ユナは、僕が無駄に傷つかない為の警告を、時々思い出したようにするのが習慣だった。
「一応、この間と同じシャツで来たんですけど。」
と、僕が言うと、
「普通の服は、あんまり手掛かりにならない。」
と、また、刑事のような口調で淡々と、率直に述べた。
僕は、「すみません。」と言って、彼女にファイルを渡した。彼女は、証拠品を扱うように、指紋がつかないように、慎重に写真を取り出して、まじまじと自分の姿を眺めた。彼女が手を伸ばした時、空気を含んだ彼女の服から、甘い樹のような花のような匂いがした。それは、すぐに雨と土の香りと混ざり合って、彼女だけの森が出来上がる。その森に守られているかのように、ゆったりと僕の撮った彼女の写真を見ている。彼女にとっては、その表情を見ることが出来ない人間よりも、自然の方が、もっと親しみ易く、もっと近いのかもしれない。雨の重みで枝垂れている古い樹の、青々とした隙間から、カラスよりは小さく、スズメよりはずっと大きな、乾いた土色をした鳥がこちらを見ている。僕も、彼女の庭の木に、束の間とまった鳥のようなものだろうか。艶やかな彼女の肩は、湿気を帯びて鳥肌が立っている。彼女も、誰かが、その湿った肩に止まるのを許すことがあるのだろうか。
「これ、貰っても良い?」
土色の鳥が、けたゝましく鳴き始める。
「え?」
と、僕は、聞き返す。
「おいくら?」
と、彼女は、尋ねた。
「あ、お金は、いらないです。」
と、僕は、答えた。
「そう言うわけにもいかないわ。プロなんでしょ?」
彼女は、カバンから、財布を取り出した。
「いえ、本当に、いらないです。勝手に撮ってしまって、すみませんでした。」
僕は、やっと謝罪の言葉を口に出せて、ほっとした。
「それに、プロと言っても、写真家というわけでもないし。」
と、僕が言うと、
「そういうこと、自分で言わない方がいいと思うけど。」
と、彼女は言った。彼女が、どんな意味で言ったのか、僕には、分からなかった。
「どういう意味ですか。」
僕が、聞くと、
「分からないなら、別にいいわ。とにかく、ただという訳には、いかないわ。私、あなたに頼みたいことがあるの。」
「何ですか?」
「私の写真を撮って欲しいの。」
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