
さんらん(仮)[9]
庭から、一握りのミントを手に、戻った蓮田は、流しでそれを洗い、棚から取り出したグラスに、それらを入れた。冷蔵庫からライムを一つ取り出し、まな板の上で、それを半分に切り、更に半分にし、そのうちの二つをグラスに入れた。砂糖を加え、スプーンで全てをやさしく押しつぶし、ミントとライムの香りが、彼女と自分の間に広がるのを待った。クラッシュアイスを取り出し、その良い香りの中に投入すると、ホワイトラムを瓶から直接注いだ。炭酸水を入れ、スプーンでステアし、残しておいたミントの葉を、飾りに添えた。
蓮田の一連の作業を、一言も話さずに、見つめていた彼女の前に、自家製モヒートのグラスを差し出すと、彼女は、無言で、一気に三分の一ほど飲み干したあと、一息ついて、
「ありがとう。」
と、言った。
彼女のグラスの中の氷が、底に戻っていく高い音で、店内が無音なことに気が付いた。そういえば、ここに音楽が無いことも、初めてな気がする。音が無いと、自分の中がうるさくなるんだな。自分が作った飲み物を静かに飲んでいる彼女を、自分が拾って来た猫の様に感じたり、さっき、渋谷の道で倒れていたのは、本当に彼女だったか。とか、自分に気が付いていなかったのか。とか、様々な考えが廻った。すると、彼女が、唐突に、
「音楽が無いと、逆に、うるさいよね。」
と、突然言った。蓮田は、驚いて、
「え?」
と、言い、彼女の顔を見た。
「無音って、一番うるさい音なんだよ。ほとんどの人間にとって。」
と、グラスの中のライムをスプーンで取り出そうとしながら言った。
蓮田は、
「あの、今日…。」
と、言いかけて、彼女の黄色いスウェットの肘に、べっとりと血が付いていることに、気が付いた。
「あ、怪我、血が出てるよ。」
と、蓮田が自分の肘を指さすと、彼女は、自分の腕を曲げ、服に着いた血を確認した。そして、袖を二の腕まで捲りあげると、肘を顔に近づけ、自分の唾を右手の人差し指につけて擦ると、
「大丈夫、さっき、転んだの。」
と、言った。
やっぱり、先ほど、渋谷の街でぶつかったのは、彼女だったに違いない。自分にぶつかって、怪我をしてしまったのだ。蓮田は、「大丈夫な訳ないじゃん。」と、言って、カウンター下の救急箱を取り出して、大きめの絆創膏を探した。
「別にいいのに。」
と、言いつつ、おとなしく待つ彼女に、蓮田は、
「傷口、水で、洗った方が良いよ。こっち、来て。」
と、言い、カウンターの脇の自由扉を手前に開けて、手で支えた。
彼女は、躊躇することもなく、座っていたスツールから、ぴょんと、飛び降りて、カウンターの中に入って来た。
「中って、こうなってるんだね。」
と、あちこち覗こうとする彼女の腕を引っ張り、流しの中に突っ込んで、その腕の傷に水道水を掛けた。彼女の腕には、手首まで血の流れた跡があったから、それも、キレイに洗い流した。ペーパータオルで、水を抑えて拭ってから、絆創膏を貼った。傷跡が、ちょうど隠れるくらいの絆創膏があってよかった。と思った。
傷の手当てを受ける間、彼女は、おとなしく、されるがままになっているので、本当に、怪我した猫を拾って来たみたいだ。と、思った。
手当が終ると、彼女は、さっと手を引っ込め、すぐにスウェットの袖を、元に戻した。蓮田は、さりげなく、
「どこで転んだの? 手当もしないで。」
と、尋ねた。
彼女は、
「ちょっと、逃げてて。」
と、言った。自分の質問に答えていない上に、思いもよらない方向からの答えだった。自分のペースで話が出来ない相手は、久しぶりだった。緊張を和らげようと、
「誰から?悪い奴?」
と、冗談めかして言うと、彼女は、
「ううん。いい人から。」
と、言った。そして、
「いい人だけど、間違っている人。」
と、続けた。
「いい人なのに、間違ってる人?」
蓮田は、聞き返した。
「そう。自分の間違いに気付けるくらい賢いのに、それに気が付きたくない時、人って、いい人になっていくんだよ。どうしようもないくらい、いい人になるとね、人は、どうなると思う?」
蓮田の脳の中で、一度も使用したことのない部分が、ギュっとなるのを感じた。それよりも、自分は、今日、君にぶつかったのは、自分なんだ。と、いう事を、どうしても言いたかった。そして、もしかしたら、坂口たちの話を聞いたかどうかも知りたかった。しかし、期待に満ちた目で、蓮田の答えを待っている彼女に降参し、
「どうなるの?」
と、息も絶え絶えに聞いた。彼女は、誇らしげに言った。
「ゾンビになるの。」
「ゾンビ?」
「そ。逃げなきゃでしょ? ゾンビからは。自分が、ゾンビになりたくなければね。」
そういうと、カウンターに戻り、バックの中から、二千円札を取り出すと、「お釣りはいらない。」と、言って、カウンターに置き、入って来た庭の出入り口に向かった。そして暗闇を背に、振り返ると、
「あなた、いい人みたいだから。気を付けて。ゾンビにならないでね。」
と、言って、深い森に入るように、闇の中に消えて行った。
その日は、まだ、何も手を付けていない、自宅のキッチンの板の間に座り込んで、缶ビールを飲んでいたら、そのまま眠ってしまった。
どんなに洒落ていなくても、自分の手が加わっていなくても、昔いた、あの場所よりは、ましだった。冷たくて、誰の温もりも感じないところ。あそこに比べたら、誰かが、将来に対する期待と夢を込めて建てた、この板の間の木の上の方が、何百倍も温かく、安心だった。その上で、まさに、ゾンビの様に眠ること。それが、自分の夢かもしれない。そう思いながら。