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さんらん(仮)[3]

     彼女と別れた後、アパートに帰ると、どっと疲れて、リビングの床の上に寝転んでいたら、いつの間にか眠ってしまったらしく、起きた時には、キッチンの格子窓から差し込む、オレンジの光が、真っ暗な部屋の壁に橙色の四角形を浮き上がらせていた。
    「ロスコ」と、眠りと覚醒の間で、浮かんできた文字に、あの画家が言いたかったこと全てが理解できた気がしたが、頭がはっきりとしてきたら、それも薄っぺらな理解だったような気がしてきた。それよりも、死ぬほどの喉の渇きを感じて、急いで流しの中に置きっぱなしのマグカップを雑に濯いで、水道水を一気に飲み干すと、生ぬるいそれが、身体全体に行き渡り、乾いた細胞を復活させていった。

     オレンジの夕日も暮れかけて、薄暗くなっていく部屋の電気をつけようと、ベッド脇の電気スタンドに向かう途中、ソファの上に、投げ出されたままのデジタルカメラに気がついた。そのまま、それを手に取って、ソファに座ると、ケースからカメラを取り出し、電源を入れる。
     再生ボタンを押し、彼女の写真まで遡る。その後にも、前にも、写真は、沢山ある。蓮田さんのカフェバーで撮ったモヒートの写真。彼女と歩いた、コナラと笹の生い茂る小道。黒い雨傘と雨雲。何万枚もの写真の中で、彼女だけが、背景から浮き出るようだった。さっきまで、僕の家の壁にあったオレンジの夕日の線の様に。母さんの言った、本物の「黒」の様に。
     何故、彼女だけが、風景に溶け込まないのだろう。僕は、人間よりも、風景写真の方が得意だ。人を取る時も、必ず背景の一部であるかのように撮るようにしている。そうすることで、無機物も、有機物も、いずれは一つになっていくのだ。いや、今もそうなのだ。と、安心できる。それなのに、「引き」でも、「寄り」でも、彼女だけ異質だ。
     その理由を感覚的に掴もうと、目を閉じては、彼女の写真を見て。を繰り返していたら、携帯電話が鳴った。伯父からだった。

     「幸太郎。今年は、お盆に帰って来るんか?」

     伯父は、電話に出るなり、そう言った。

     「今年は、新盆だから、帰ってこないとダメだぞ。」

     僕が、答える前に、宣言する伯父。

     「帰るつもりです。」

     僕が、答えると、

     「そうか。坊さんの手配やらなんやらは、こっちでしておくから。お前は、来るだけで良いからな。」

     そう言う伯父の声は、急に優しい声になった。とても、可哀そうな子と話すように。

     「ありがとうございます。すみません。」

     僕は、可哀そうな子供でいた方が、楽なので、そうした。

     「うん。うん。じゃあな。」と、言って、伯父は電話を切った。そして、寝室のクローゼットを開け、クリーニング屋のビニールに入ったままの喪服を出して、鴨居に掛けた。紳士服の量販店で買った、安物のその黒は、明らかに、母さんの言う「黒」ではなかった。でも、僕は、まだ「可哀そうな子」になるかどうかを、決めかねていた。夏までは、まだ、時間がある。その時までに決めよう。そう決めて、喪服をクローゼットにしまった。


     フローリングの上に敷かれたレジャーシートの上に小さな椅子を置いて座り、髪染め用のケープから首だけ出して、僕はユナを待っていた。百均で買ったシートの中では、最小限の配色で描かれたジャングルの葉の影から、虎がこちらを見つめている。その目は少し、ユナに似ている。けれども、その毛の色は、2回脱色した僕の今の髪の色の方により近い。僕は、虎の毛並みを足裏で何度も撫でながら、ユナを待っている。洗面所の方から、ユナが話しかける。

     「ねえ、本当にやるの?」

     僕は、虎に向かって答える。

     「うん。」

     ユナは、プラスチックの容器の中に入った、青いクリーム状の液体を、付属の刷毛で混ぜながら、洗面所から出てきて言った。

     「別に、このままでも良いのに。」

     「でも、青の方が、見分けやすいでしょ。」

     僕は、言った。

     「まあね。」

     そう言って、僕の髪を櫛で真ん中から分けると、

     「じゃあ、本当にやるよ。」

     と、言って、青くて冷たいクリームを僕の髪に乗せた。

     僕とユナは、あれから頻繁に一緒に出掛けては、彼女の写真を撮っていた。しかも、彼女の要望で、出来るだけ、彼女がカメラに気付いていない時に撮っていた。つまり、僕は、あれからずっと彼女の事を「隠し撮り」していた。何故、僕だったのか、何故、いつもレンズを見ていない彼女の写真を撮る必要があるのか、聞きたいことは沢山あったが、僕が尋ねたのは、一つだけだった。

     「写真の中の自分の顔、分かるの?」

     彼女は、躊躇なく答える。

     「分からないわ。服装とか髪型とかで、自分なんだろうと分かるだけ。」

     そして、僕の中の疑問の全てに答えようとするように、続けた。

     「私にとって人は、モネの睡蓮みたいなものなの、その時の時間、空気、タイミング、自分の気分によって、変わっていく、あの池みたいなものなの。でも、他人にとって私はそうじゃないみたいだって。色んな人が、私よりもっとはっきりと「私」と言う人間を定義するんだもの。そして、そのどれもが「私」じゃない気がするんだもの。だから、あなたが私の写真を撮った時、思いついたの。私を盗撮すればいいんだって。そして、それを沢山見てみたら、他人が私に何を見ているのか分かるかもって。そしたら、はっきりとみんなが言う私は、「違う」ってことを知ることが出来るかも。って。」

     彼女は、自分を守らないのではなく、守ることを諦めたのだ。と、思った。想定しうる危険の全てから自分を守るなんて、到底、無理なんだと、早い内に気が付いたのだろう。もしかしたら、彼女の病気のせいで。想定しうる全ての危険から、自分を守りたい気持ちを諦められたら、僕ならどうするだろうか。もちろん、やりたい事だけを優先するだろう。他に、することなんて、ないんだから。ぼやけた世界から不意にやってくる傷から自分を守る方法を探すより、傷ついても、自分がやりたい事やすべき事をして生きていく方が、彼女には、ずっと無駄がなかったのだろう。と、僕は、思った。

     「でも、やっぱり写真でも分からなかったんでしょ。」

    と、僕が聞くと、

    「うん。でも、分かったこともあったわ。」

     と、彼女は、誇らしげに言った。そして、この話をする時は、いつも、誇らしさを欲望に変えて、僕の上に乗って来る。そして、僕は、それを受け止める事に夢中になり過ぎて、それが何だったのかを聞くのを忘れてしまう。


     ボトりと音がして、青いクリームが、虎の上に落ちる。彼女は、細かいが、大雑把な手つきで、僕の髪を染めるのに集中している。僕は、剥き出しの足の親指で、虎の毛を青く染めた。虎の毛も、僕の親指の先も青くなる。

     「はい、おしまい。」

     そういうと、彼女は、僕の頭にラップを巻いて、洗面所へ片付けに行く。バシャバシャと思いきり水音を立てながら、全ての道具を隅々まで洗う音がする。それから、自分の両手も隅々まで洗う。彼女は、汚すのも、洗うのも好きなのだ。

     ユナのシャンプーで髪を洗うと、当然だがユナの髪の匂いがした。いくら流しても、止めどなく青い水が、僕の身体中を伝って、排水溝に流れていった。浴室のあちこちに青い飛沫が飛び散っては、僕は、それを洗い、また飛び散っては、洗い流した。結局は、元に戻るもののために、何かをする。という事に、僕は、いつの間にかすっかり慣れていた。

     鏡に写った青色の髪の僕は、今までの僕には、あまりにも似合っておらず、新しい自分からしたら、さして違和感も無かった。違和感が無いどころか、特別になった気さえする自分が恥ずかしく、誇らしかった。きっと、ユナに会わなければ、決してこんなことは、しなかっただろう。僕の生活も黒い髪も、慣性の法則に従って、ずっと同じ軌道を行くはずだったのだ。ユナにぶつかって、方向転換し、また違う軌道を進んでいるだけだ。と、自分に言い聞かせた。でも、彼女が見分けられる様にと言ったのは、言い訳で、本当は自分が彼女に見分けて欲しかったのだ。と、僕は知っていた。人が、何かを変えようとするのは、欲望がある時だけだから。
     風呂場から出てきた僕を見て、

     「あはは、ずいぶん分かりやすくなったねえ!」

     と、ユナが言った。僕は、何か言いたかったが、何も言えなかった。さっきまでの僕の言葉は、みな嘘のようで、今の僕の言葉は、まだ居心地が悪かった。


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