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さんらん(仮)[5]

     由香里
     
     目の前に座った若者の青い髪を見ながら、由香里は、二つのものが自分の中に上がってくるのを感じた。一つは、ひどくありきたりで、常識的で、だからこそ、自分を守ってくれるもの。もう一つは、昔、家族でハワイに出掛けた時に、白くて熱い砂浜の上から見た、太平洋の青。それは、いつも彼女の胸を苦しくさせる。妹のユナのように。由香里は、キラキラと煌めく海を想像しそうになるのを止める。そして、すぐに自分の内面を分析してしまう癖も止める。どのみち自分に自分を診てもらうことは出来ないのだ。由香里は、目の前の「青い少年」を見た。よく見ると、髪の色以外は、至って「普通」だった。ありきたりな無地の半袖シャツに無難なベージュのハーフパンツ。黒のローファーだけが、良く履き古されていて、足に馴染んでいる。青い髪の色だけが異質だった。それは、きっと妹のせいだろうと、由香里は、ため息をついた。

     「田邊さんは、ユナの病気のことはご存知なのかしら?」

     出来るだけ、患者との会話の様にならないように気をつけて話そうとすると、かえって不自然に単刀直入になってしまうことに、自分は気づいている。

     「はい、知っています。」

     と、少年は、答える。

     「今、おいくつ?」

     どうしても、尋問調になってしまう自分を止められない。

     「27です。」

     ユナの病気の特質上、もしかしたら未成年と付き合っているかもしれない。と、言う疑念が晴れて、ほっとした。彼女の病気以上に、すでにユナという人間に関わる膨大な量の重みに、自分は耐えられる気がしない。

     「失礼ですが、お仕事は? 何をされているの?」

     何故、年齢より仕事を聞くことが失礼なのかは、自分でも不明だ。

     「フリーのカメラマンをしています。」

     「どこで、ユナと知り合いに?」

     「あ、友人のやっているカフェで。」

     「そう。」

     ひと通り、尋問が終わると、彼も私も黙って出された飲み物に口をつけた。窓の外では、夏の初めの夜を楽しむ若者で、道は溢れかえっている。私は、何をしているのだろう。
     
     
     父は、滅多に自分の話をするタイプではなく、母は、誰かを捕まえては、とめどなく話す人だった。子供の自分にとっては、二人は、自然な愛情で一緒にいるのではなく、自分やユナを育て、生計を立てるための、家という「小さな会社」の中の、好き嫌いに関わらず協力せざるを得ない、同僚のような関係に見えた。そして、子供心には、味気なく、寂しいものに感じた夫婦関係というものが、結婚した今は、四六時中、お互いの愛情を維持しながら、家族という一つの関係を維持するには、並大抵の努力ではままならず、ユナの物心ついてからの不可思議な行動に振り回され始めてからは、むしろ二人は上手くその「会社」を経営していたのではないかとも思う。唯一、二人に幾らかの親しみと、仕事ではない愛情を感じることができたのは、数年に一度行われる家族旅行の時で、それはいつも、突然の決定事項として、子供達に知らされた。
     
     それは、両親はユナの病気が発覚した、初めての夏休みだった。突然のハワイ旅行に、私の想像は世界旅行にでも行くようにどこまでも膨らんだ。
     
     飛行機の中で、母は、「相貌性失認症」に関する本や、論文、外国人の手記などを手当たり次第に読んでいた。まさか、自分の娘が、そんな特殊な病気を持っているとも知らず、彼女の特異さに気づいてから、更に、3年も育てていたと言う、無知を取り戻すかのように。そして、何故、妹があんなにも育てにくい子であったかの答えを見つけた事に安堵するかのように。
     母は、薄い冊子くらいのプリントのコピーを読み終わると、私の機内テーブルの方へとそれをさりげなく置いた。明らかに、私に読んでおけという意図が込められていたが、私は、それを無視して、機内で流されるアメリカのアニメの新作を見続けた。しばらくして、母は、私のテレビを消して言った。

     「ユカちゃんも、読んでおいて。そんなに難しくないから。」

     何故、私が? と、思った。小学4年生になったとは言え、妹の病気に対して私に何ができるというのだろう。彼女が病気だろうが、そうでなかろうが、それを私が知っていようが、知らなかろうが、ユナと私の関係は、変わらないように思えた。それとも、変えるべきなのだろうか? 大人は、いつでも1番大切なことを言わない。その代わりに、自分の為にやって欲しいことを絶対に正しい唯一の選択肢かのよう他人(ヒト)に言う。
     
     父に膨らませてもらった浮き輪を履いた途端、一気に砂浜を駆け出し、海に入っていくユナ。みんなが唖然としているうちに、何度か波に押し戻されながら、徐々に浅瀬を進んでいくユナ。一瞬あっけに取られた母は、ハッとして、ユナを追いかけたが、突然、胸の辺りまで水に沈むと、向きを変え、

     「あなた! 何してるんですか! 早く!」

     と、こちらに向かって叫んだ。私まで逃げて行かないように、咄嗟に私の手を掴んだ父も、ようやく自分の真の役割を思い出したかのように、パッと私の手を放し、海に向かって走って入っていく。父がクロールでユナに追いつき、彼女の浮き輪を掴む頃には、母は、息を切らし、ずぶ濡れの髪から、水を滴らせて、私のいる場所にまで戻って来た。突然の出来事に、私の心臓は、ぎゅっとなり、呼吸は、早く浅くなった。母の手を掴もうと手を伸ばしたが、母は、私の様子に気がつかなかったのか、気づかないふりをしていたのか、私の直感では、後者だが、私の全存在を避ける様にして、そのまま倒れるように砂浜にその大きな腰を下ろし、乱れた髪を直しながら、遠くの海に浮かんでいる二人に目をやり、

     「まったく・・・。」

     と、言った。その後、その日、一日中、私は母の手ばかり見ていた。ラッシュガードがわりの薄手の袖からすっと出ている、少し乾いた手。料理中、水で洗って、キッチンタオルで丁寧に拭かれて、しっとりとした手、忙しく動き回る母の手が、一瞬、手持ち無沙汰になる時を、何もすることが無い時間を私は待った。それなのに、そんな瞬間がようやく訪れても、結局は、母の手を繋ぎたい気持ちと、繋いではいけないような気持ちとの間で葛藤し、いつでも僅かなチャンスを逃してきた。それが、2年過ぎ、5年過ぎ、私の手が母と繋がれることは、あれから一度もなかったように思う。

     海の上のユナは、浮き輪の上に細くて白い腕を、だらりと垂らして、仰向けになって空を見ている。遠目でも、彼女が笑っているのがわかった。限りなく広い空と、終わりのない海に溶け入りながらも、波の上でキラキラと照り返す、水の光のように、ユナは、確かに存在していた。なんて、眩しいのだろう。
     
     何故、こんなにも早く、自分がそれを失ってしまうのか、私には理解できなかった。
     
     あの時の太平洋の上の燦爛を見ている自分に気がついた時、燦爛は、私から離れてしまった。

     
     目の前に、行儀よく腰かけて、温かいコーヒーに、ポーションのミルクを三つも入れて飲む、青い髪の青年を眺めていると、今年三歳になった息子も、いずれは、こんな風に成長するのだ。と、いう事を、急に実感して目がくらむ。
      保育園のお迎えの時、担任の保育士の先生が、申し訳なさそうに、髪が絵具でベトベトの息子の手を引いて来た時があった。「すみません。」と、誤る先生に、「全然、大丈夫です。子供ですから。」と、笑ったのが、つい最近の事なのに。
      目の前の青年の髪の色には、なにか不信感の様な、怒りの様なものすら感じた。この青年の顔が、息子を思い出させるくらい、幼くて、あどけない顔立ちだからだろうか。その雰囲気と、少しも、似合っていないからだろうか。ユナが、そうさせたのだろうか。ユナといると、皆、変わらざるを得なくなる。ユナだけが、そのままでいていい権利を、誰が与えているのだろうか。この、思考パターンが始まると、とめどもなく嫌な自分になる。私は、大きなため息とともに、首を振って肩を落として、自分を落ち着かせた。そして、所在なさげな青年に、名刺を差し出した。
     

    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門


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