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さんらん(仮)[7]

     目の前に、行儀よく腰かけて、温かいコーヒーに、ポーションのミルクを三つも入れて飲む、青い髪の青年を眺めていると、今年五歳になった息子も、いずれは、こんな風に成長するのだ。と、いう事を、急に実感して目がくらむ。
     保育園のお迎えの時、担任の保育士の先生が、申し訳なさそうに、髪が絵具でベトベトの息子の手を引いて来た時があった。「すみません。」と、謝る先生に、「全然、大丈夫です。子供ですから。」と、笑ったのが、つい最近の事なのに。
     目の前の青年の髪の色には、なにか不信感の様な、怒りの様なものすら感じた。この青年の顔が、息子を思い出させるくらい、幼くて、あどけない顔立ちだからだろうか。その雰囲気と、少しも、似合っていないからだろうか。ユナが、そうさせたのだろうか。ユナといると、皆、変わらざるを得なくなる。ユナだけが、そのままでいていい権利を、誰が与えているのだろうか。この、思考パターンが始まると、とめどもなく嫌な自分になる。私は、大きなため息とともに、首を振って肩を落として、自分を落ち着かせた。そして、所在なさげな青年に、名刺を差し出した。

     どうやら、青年は、田邊幸太郎という名前で、年齢は思ったより若くはなく、27歳だった。ユナの病気のことは知っていて、最近出会ったばかりという事だった。
     「ユナが今、どこにいるのか、知っていたら、教えて欲しい。」と頼んだら、「よく知りません。」と、まっすぐこちらを見て返事をしていたが、きっと嘘だろう。と、思った。その顔を、私は、どこかで見たことがあった。

     息子と同じクラスの「世那君」は、多動気味だが、とにかく笑顔が可愛らしい男の子で、幼稚園の先生に怒られても、いつも笑って先生の言うとおりにするのだが、次の日には、また同じことで怒られている子だった。
     ある日、瀬名君が、お気に入りの椅子を、同じ組の女の子に取られてしまい、怒ったせな君が、そのお友達に嚙みついてしまった。
    私が、息子のお迎えに行くと、噛まれたお友達の母親が、世那君の肩をがっしりと掴んで揺すりながら、直接、本人に、怒鳴っているところだった。

    「こういう事、しちゃいけないんだよ! わかる!?」

     世那君は、大声で泣きだし、近くにいた担任の先生は、

    「申し訳ございません。私たちが、見ていなければいけないのに。」

     と、言いつつ、その母親を止めることはしなかった。きっと、先生も、本当は、そんな風に怒りたい気持ちだったのだろう。それを、この母親に、させているのだ。と、感じた。女の子の母親の怒りは、どんどんエスカレートし、その指が、どんどん世那君の肩に食い込んでいく。私は、一瞬のうちに、後に起こるであろう面倒な事を、何通りか想像した。結局は、見なかったことにも出来ず、その母親の手の上に、自分の手を被せるように優しく、置いた。

     「世那君も分かってるよね?」

     と、言って、母親の手を温めるように、そっと握ると、自分が力を込めすぎていた事に気が付いた母親は、さっと、手を引っ込めると、立ち上がった。立ち上がると、もうすぐ臨月のお腹で、顔が隠れた。息を整えると、自分の娘の手を強く引いて、帰り路へと歩いて行った。母親に引かれる、その子の腕には、せな君の歯形がくっきりと残っていた。
     事態の収拾と世那君は、先生にお任せして、私たちも帰ることにした。
     帰り道、

    「世那君、今日は、どうしたの?」

    と、尋ねたら、息子は、話題を変えるような口調で、

    「知らない。」

     と、答えた。恐らく、この出来事について、クラス中が知っているはずなのに、変だな。と、思った。息子は、不思議と世那君とは気が合う方で、園では、良く遊ぶ方だから、きっと、話したいはずなのに。それでも、息子の断固とした様子に、「そう。」と、だけ、答えて、その後は、黙ったまま、手をつないで帰った。息子の中に、初めて、母親にも説明の出来ない気持ちが芽生えていることを感じた。


     この目の前の青い髪の青年も、その時の息子と同じ目をしていた。長い睫毛が、申し訳なさそうに、瞳に影を落としていた。頼りなさげだが、なんとなく、信頼出来そうな子だと思い、

     「とにかく、ユナが、何か問題に巻き込まれたり、問題を起こしたりしたら、その名刺の電話番号に、連絡してください。お願いします。」

     と、だけ伝えた。おそらく、彼が、連絡してくるときは、相当まずいことに違いないだろうと、思った。

     青年と別れた、帰りの電車の中で、今日の事を、母に知らせなければ、と思いつつ、気が進まなかった。結局、最寄りの駅から、自宅のマンションまでの道を歩きながら、携帯を取り出し、母に掛けた。74歳にしては、スマートフォンを使いこなす母は、すぐに電話に出た。

     「お姉ちゃん?どうしたの?」

     と、言うと、すぐさま、

     「ユナちゃんと、連絡取れた?」

     と、言った。この人は、何故、私の近況は尋ねないのだろう。

     「そんなことより、体調は? 大丈夫なの?」

     母は、数年前に乳がんの手術の後、通院と投薬を続けていた。その薬の副作用で、あまり気分が優れないことが多かった。

     「最近は、大丈夫。それより、ユナちゃんは? どうしているの?」

     と、いつも通り、自分の知りたいことだけを、有無を言わさない口調で、聞いてくる。不本意ながら、我が家の女性みんなに共通する口調だ。だが、そこにユナの事が混ざると、頭の中に狂ったように黒いものが渦巻いてくる。それが、胸のあたりまで、ドリップされたコーヒーの様に下りてくる。そして、それが、胸全体に広がって、胃の中にたまる間、私は、自分のクリニックに来院する患者たちを思い出す。彼らの中にも、私と同じものが渦巻いて、出口を求めているのだろうか。それとも、完全に消え去ることを夢見ているのだろうか。私の口は、出口を求める方を選ぶ。

     「知らないわよ。私だって、ユナがどこにいるか知らないんだもの。」

     そう、言うと、

     「そう。ユナちゃん、大丈夫かしら。」

     と、母は、あからさまに落胆した。病人に冷たくすると、罪悪感を感じる。

     「今日、ユナの友達って方と、会ったけど、翻訳の仕事は、続けているみたいよ。」

     と、最小限の情報を渡した。母は、一変して、明るい声で、

     「そうなの。良かった。偉いわねえ。ユナちゃん。」

     と、言った。母が、軽くなる分だけ、私の方は、重くなった。

     「そんなに心配なら、自分で、電話を掛ければいいじゃない。」

     と、言うと、母は、母らしく、

     「ユナちゃんの自立を邪魔しちゃ悪いじゃない。」

     と、なんとも、聖母の様なセリフを吐いた。母が、「正しい」分だけ、私は、「間違って」行く。本来の自分が、悪い人間だとは、思わない。ただ、信じがたい程、そちらには行きたくないという、強力な磁力があるだけだ。

     家に着くと、パジャマ姿の息子と夫が、仲良くダイニングテーブルに座り、カップのアイスクリームを食べていた。息子は、楽しそうに、幼稚園であったことを夫に話している様だった。

     「今日は、凄かったんだよ! せな君が、幼稚園の木の一番高いところでお昼寝しちゃったんだよ。」

     幼稚園の真ん中にある、大きな桜の木の又で、気持ち良さそう眠る、世那君が思い浮かぶ。私の頭の中に、あのハワイの海の照り返しが点滅する。でも、桜の木は、折れやすいのに。燦爛は消える。

     息子を寝かしつけてから、寝室から出て来た夫が言った。

     「世那君って子、今日もクラスの子を嚙んじゃったんだって。みおちゃんのお母さんが言ってたよ。大丈夫かな。」

     「大丈夫って、世那君が?」

     夫は、言いづらいことをいう時に、メガネの縁を中指と親指で挟んで上げるふりをして、下を向く。

     「世那君もだけど、陽太がさ。今は、仲がいいみたいだけど。」

     私は、その後に、あなたは、それを言わないで。と、思う。でも、夫は言った。

     「君が、世那君のお母さんと話してみたら?」

     こんな時、一番近い人だからこそ、急に遠くなる。

     「そんなこと、こちらから、出来るわけないじゃない。」

     私は、精神科医であって、心理カウンセラーではないのだ。

     「そうだよね。ごめんごめん。」

     そう言って、夫は、私たちの寝室に入って行った。私は、キッチンに腰掛けて、自分が、ただ嫌だという為に、膨大な量の説明がいる気がするのは何故だろう。と、考える。ユナも、世那君も、あの髪の青い青年も、ただ、自分のしたいことをしているように思う。でも、私は、したいことをしたいんじゃない。したくないことを、やりたくないだけなのだ。


    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門

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