
さんらん(仮)[6]
目の前に、行儀よく腰かけて、温かいコーヒーに、ポーションのミルクを三つも入れて飲む、青い髪の青年を眺めていると、今年五歳になった息子も、いずれは、こんな風に成長するのだ。と、いう事を、急に実感して目がくらむ。
保育園のお迎えの時、担任の保育士の先生が、申し訳なさそうに、髪が絵具でベトベトの息子の手を引いて来た時があった。「すみません。」と、謝る先生に、「全然、大丈夫です。子供ですから。」と、笑ったのが、つい最近の事なのに。
目の前の青年の髪の色には、なにか不信感の様な、怒りの様なものすら感じた。この青年の顔が、息子を思い出させるくらい、幼くて、あどけない顔立ちだからだろうか。その雰囲気と、少しも、似合っていないからだろうか。ユナが、そうさせたのだろうか。ユナといると、皆、変わらざるを得なくなる。ユナだけが、そのままでいていい権利を、誰が与えているのだろうか。この、思考パターンが始まると、とめどもなく嫌な自分になる。私は、大きなため息とともに、首を振って肩を落として、自分を落ち着かせた。そして、所在無さ気な青年に、名刺を差し出した。
どうやら、青年は、田邊幸太郎という名前で、年齢は思ったより若くはなく、27歳だった。ユナの病気のことは知っていて、最近出会ったばかりという事だった。
「ユナが今、どこにいるのか、知っていたら、教えて欲しい。」と頼んだら、「よく知りません。」と、まっすぐこちらを見て返事をしていたが、きっと嘘だろう。と、思った。その顔を、私は、どこかで見たことがあった。
息子と同じクラスの「世那君」は、多動気味だが、とにかく笑顔が可愛らしい男の子で、幼稚園の先生に怒られても、いつも笑って先生の言うとおりにする。でも、次の日には、また同じことで怒られているような子だった。
ある日、世那君が、お気に入りの椅子を、同じ組の女の子に取られてしまい、怒った世那君が、そのお友達に嚙みついてしまった。
私が、息子のお迎えに行くと、噛まれたお友達の母親が、世那君の肩をがっしりと掴んで揺すりながら、直接、本人に、怒鳴っているところだった。
「こういう事、しちゃいけないんだよ! わかる!?」
世那君は、大声で泣きだし、近くにいた担任の先生は、
「申し訳ございません。私たちが、見ていなければいけないのに。」
と、言いつつ、その母親を止めることはしなかった。きっと、先生も、本当は、そんな風に怒りたい気持ちだったのだろう。それを、この母親に、代わりにさせているのだ。と、感じた。女の子の母親の怒りは、どんどんエスカレートし、その指が、どんどん世那君の肩に食い込んでいく。私は、一瞬のうちに、後に起こるであろう面倒な事を、何通りかシュミレートした。結局は、見なかったことにも出来ず、その母親の手の上に、自分の手を被せるように優しく、置いた。
「世那君も分かってるよね?」
と、言って、母親の手を温めるように、そっと握ると、自分が力を込めすぎていた事に気が付いた母親は、さっと、手を引っ込めると、立ち上がった。立ち上がると、もうすぐ臨月のお腹で、顔が隠れた。息を整えると、自分の娘の手を強く引いて、帰り路へと歩いて行った。母親に引かれる、その子の腕には、世那君の歯形がくっきりと残っていた。
事態の収拾と世那君は、先生にお任せして、私たちも帰ることにした。
帰り道、
「世那君、今日は、どうしたの?」
と、尋ねたら、息子は、話題を変えるような口調で、
「知らない。」
と、答えた。恐らく、この出来事について、クラス中が知っているはずなのに、変だな。と、思った。息子は、不思議と世那君とは気が合う方で、園では、良く遊ぶ方だから、きっと、話したいはずなのに。それでも、息子の断固とした様子に、「そう。」とだけ答えて、その後は黙ったまま、手をつないで帰った。息子の中に、初めて、母親にも説明の出来ない気持ちが芽生えていることを感じた。
この目の前の青い髪の青年も、その時の息子と同じ目をしていた。長い睫毛が、申し訳なさそうに、瞳に影を落としていた。頼り無さそうだが、なんとなく、信頼出来そうな子だと思った。
「とにかく、ユナが、何か問題に巻き込まれたり、問題を起こしたりしたら、その名刺の電話番号に、連絡してください。お願いします。」
と、だけ伝えた。おそらく、彼が、連絡してくるときは、相当まずいことに違いないだろうと、思った。
青年と別れた、帰りの電車の中で、今日の事を、母に知らせなければ、と思いつつ、気が進まなかった。結局、最寄りの駅から、自宅のマンションまでの道を歩きながら、携帯を取り出し、母に掛けた。74歳にしては、スマートフォンを使いこなす母は、すぐに電話に出た。
「お姉ちゃん?どうしたの?」
と、言うと、すぐさま、
「ユナちゃんと、連絡取れた?」
と、聞いた。この人は、何故、私の近況は尋ねないのだろう。
「そんなことより、体調は?大丈夫なの?」
母は、数年前に乳がんの手術後、通院と投薬を続けていた。その薬の副作用で、あまり気分が優れないことが多かった。
「最近は、大丈夫。それより、ユナちゃんは? どうしているの?」
と、いつも通り、自分の知りたいことだけを、有無を言わさない口調で、聞いてくる。不本意ながら、我が家の女性みんなに共通する、口調だ。だが、そこにユナの事が混ざると、頭の中に狂ったよう不快な何かが渦巻く。それが胸のあたりまで、ドリップされたコーヒーの様に、ゆっくり下りてきて、胸全体に広がる。そして、胃の中にそれが、溜まっていく間、私は、自分のクリニックに来院する患者たちを思い出す。彼らの中にも、私と同じものが渦巻いて、出口を求めているのだろうか。それとも、完全に消え去ることを夢見ているのだろうか。私の口は、出口を求める方を選ぶ。
「知らないわよ。私だって、ユナがどこにいるか知らないんだもの。」
そう、言うと、
「そう。ユナちゃん、大丈夫かしら。」
と、母は、あからさまに落胆した。病人に冷たくすると、罪悪感を感じる。
「今日、ユナの友達って方と、会ったけど、翻訳の仕事は、続けているみたいよ。」
と、最小限の情報を渡した。母は、一変して、明るい声で、
「そうなの。良かった。偉いわねえ。ユナちゃん。」
と、言った。母が、軽くなった分だけ、私は、重くなった。
「そんなに心配なら、自分で、電話を掛ければいいじゃない。」
と、言うと、母は、母らしく、
「ユナちゃんの自立を邪魔しちゃ悪いじゃない。」
と、なんとも、聖母の様なセリフを吐いた。母が、「正しい」分だけ、私は、「間違って」いく。本来の自分が、悪い人間だとは、思わない。ただ、そちらには行きたくないという、抗うことの出来ない強力な磁力が、母の「正しさ」と私の間にあるだけだ。
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