
《無料》ハッカーハンター・シリーズ/Act.3/AIクライム 第一章 漏洩
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《あらすじ》
セキュリティ会社KISSに、上場企業の東海精機から依頼が舞い込む。機密情報がネットに漏洩し続けているが、二社のセキュリティ会社が調べても原因が見つからない。依頼者の人事総務部長は何かを隠していた。
潜入調査で見えてきたのは、九十二歳の創業者会長と娘婿の社長の対立、そして社内に導入された二つのAIの存在だった。AIの内部を解析した結果、情報漏洩だけではなく、全社システムを破壊する機能が仕込まれていることが判明する。
会社を変えたいという正義。会社を守りたいという信念。二つの正しさがぶつかった時、壊れるのは人間だった。
犯罪を犯したのはAIか、人間か。そもそもこれは犯罪なのか。目的は手段を正当化できるのか。誰にも答えの出せない問いが、読者に突きつけられる。本格的サイバーミステリー小説、第三弾。
プロローグ
─── 1 ───
東海精機株式会社の本社ビルには、夜中の十一時を過ぎても、明かりが点っている窓がある。AI推進課の部屋だった。四階の西側。窓から見えるのは、工場棟の屋根と、その向こうに広がる夜の工業団地だ。工場の灯りが低く点り、煙突が空に立っている。ものを作る場所が、夜でも呼吸している。
梶原亮は、その窓を背にして座っていた。三十六歳。情報システム部AI推進課課長。ここに来て一年と三ヶ月。最初の半年は、何もかもがうまくいくと思っていた。
安藤は帰宅した。残っているのは梶原だけだった。静まり返ったフロアを、モニターの白い光が照らしていた。
─── 2 ───
社長の武田誠一郎からスカウトの電話が来たのは、昨年の初夏だった。
前職の会社でAIの開発を続けながら、梶原は少し疲れていた。技術は作れる。けど、作ったものが、どこかで死んでいく。予算、稟議、承認、合意形成。そういったものの前で、技術はいつも後回しになった。
がしかし、武田の話は違った。
「会社を変えたい。AIでものづくりの現場を変えたい。しかし技術を理解した人間がいない。あなたに来てほしい」
その言葉に、梶原は心を動かされた。前職では、同じような光景を何度も見てきたからだ。技術が埋もれていく場所ではなく、生かされる場所があるのなら、武田の会社へ行きたい。そう思い、この会社を選んだ。
その決断を、梶原は今も間違っていたとは思っていない。しかし、来てみて初めてわかったことがある。
最初の三ヶ月は、充実していた。前の会社から、安藤瑞希を連れてきた。二つ下の後輩で、データサイエンスとコーディングの腕は梶原より上かもしれないと思っている。AIシステムの設計と構築を二人で進めた。社長が毎週、成果を聞きに来た。前に進んでいる手応えがあった。
─── 3 ───
最初に止まったのは、四ヶ月目だった。
AI推進課の設置を正式に社内告知しようとした。人事総務部長の堀内が、資料を差し戻した。「会長のご意向を確認してから」という理由だった。
会長室には、梶原一人だけが呼ばれた。
会長は椅子に深く腰掛けたまま、梶原を見据えた。
「うちは、ものづくりの会社だ」
短い一言だった。しかし、それ以上の説明は必要ないという響きがあった。梶原は反論を胸にしまい、口を閉じた。
廊下に出た。梶原は壁に手をついた。怒りか。失望か。自分でもわからない。ただ、掌に伝わる壁の冷たさだけは、妙に現実味があった。
一週間後、また止まった。
今度は予算だった。AI推進課の来期予算を通そうとすると、会長が「まだ早い」と言ったという。
「まだ早い」
何が早いのかは説明されなかった。誰も説明を求めなかった。
梶原は社長室へ向かった。武田は申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「少し待ってくれ。機嫌のいいときを見て、会長に切り出す」
武田はそう答えた。
機嫌のいいとき。九十二歳の会長の機嫌を伺いながら、会社が動く。
その頃から、梶原は気づき始めた。この組織では、紙の上の決裁は意味をなさないことに。会長が否定すれば、誰も抗えない。社長でさえ、機嫌のいいときを待っている。正規のルートでは変化は起きない。ならば、構造の外から手を入れるしかない。
─── 4 ───
夜の十一時過ぎ、梶原は画面に向かっていた。
六ヶ月かけて設計したAIシステムの管理画面だ。業務支援AIと人事AIの二つが、この画面でつながっている。梶原が構造を設計した。安藤が実装した。社長が承認した。それだけの手続きを経て、動いている。
しかし、画面の裏側で、別のコードが動いていた。
梶原が一人で書いた。深夜に、誰もいないこの部屋で、少しずつ。安藤が帰った後で、毎回少しずつ。安藤には話していない。まだ話すべき段階ではないと思っていた。
機能は二つある。
一つは、社内の情報を巡回するもの。会議の議事録、メールのデータ、人事評価のスコア。それらを定期的に収集して、梶原が指定した外部のアドレスに送信する。会長派の幹部が何を決め、誰を評価し、誰を外しているか。それが静かに梶原の手元に来る。
もう一つは、人事AIの評価スコアを操作するもの。会長派に属する人間の評価を、自動的に高くする。社長派を低くする。目に見えない傾きをつくる。誰も気づかないうちに、人事の流れがずれる。
─── 5 ───
正規の方法では変えられない。稟議は止まる。会長が拒否する。社長は動けない。改革したいと言った人間が、改革できない構造の中にいる。
技術がある。設計図がある。実行できる。
しかし今夜だけは、キーボードに手をかけるのが重かった。
安藤の顔だ。この六ヶ月、安藤は梶原を信じて動いてきた。梶原が設計したものを、安藤が実装した。一緒に作り上げたシステムの中に、梶原は一人で別の機能を仕込もうとしている。
安藤は知らない。知らせるべきか。しかし知らせれば、安藤は止めるかもしれない。安藤は生真面目だ。正しさに敏感な人間だ。だから言えない。
その判断が正しかったのか、梶原自身にも確信はなかった。わからないまま、前に進む。それが今の自分にできる唯一のことだと思っていた。
─── 6 ───
窓の外の工場棟に、明かりが点いていた。
夜勤のラインだ。ものを作る人間が、今夜もここで働いている。彼らはAI推進課のことを知らない。梶原のことも知らない。ただ、ラインの前に立って、部品を作っている。
梶原はその明かりを見た。二千人が、この会社で働いている。自分が動けば、その一人ひとりに何が起こるのか。
考えた。しかし、結論は変わらなかった。
会長の支配が続けば、この会社は変われない。変われない会社は、業界の再編の中で消える。それは二千人全員に影響する。だから変えなければならない。変えるためには、この手段しかない。
答えを出す前に、キーを叩いた。
プログラムが走った。エラーは出なかった。システムの中で、静かに、何かが始まった。画面に数字が流れた。三分ほど流れて、止まった。誰も気づかないように。
─── 7 ───
翌朝、梶原は定時に出勤した。
エレベーターで荒木専務と乗り合わせた。専務は軽く会釈した。梶原も会釈した。それだけだった。
四階のフロアに入った。安藤がすでに来ていた。
「おはようございます」安藤が言った。
「おはよう」と梶原は答えた。
デスクに座り、モニターを起動した。管理画面を開いた。昨夜動かしたプログラムの稼働状況が表示されている。エラーは出ていない。静かに動いている。梶原はその画面を一秒だけ見て、別のウィンドウに切り替えた。
今日の業務を始めた。
廊下の向こうで、誰かが話している声がした。会長が来た、という声だった。今日も来た。九十二歳が今日も来て、今日も何かを言う。
梶原はそのことを、窓の外を見るように聞いていた。
昨夜から、何かが動いている。それが何を引き起こすか、まだわからない。ただ、動いている。
工場棟の屋根が、朝の光の中に見えた。
外からは、何かが変わったようには見えない。しかし中で、歯車はすでに回っていた。
それが正しかったかどうかは、今日はまだ、わからない。
第一章 漏洩
─── 1 ───
四月の第二週。桐生インターネットセキュリティサービス、通称KISSのオフィスに、午前の光が差し込んでいた。
桐生健一はオペレーションルームの自席で、地元企業のセキュリティ監査報告書を仕上げていた。モニターの隣に置かれたマグカップのコーヒーは、すでに冷めている。ミーティングルームの方から、佐藤あかりの声が聞こえた。電話をしているらしい。声は落ち着いていたが、受け答えの間隔がいつもより短い。相手の話を急いで聞いている。
電話が終わると、佐藤がオペレーションルームに入ってきた。
「桐生さん、河野社長からのお電話でした」
河野誠治。丸海フーズの社長だ。KISSが創業して最初に受けた大口案件の依頼主で、それ以来、年に一度のセキュリティ監査を継続している。
「知り合いの会社が困っているそうで。情報漏洩が止まらないんだとか」
「河野社長から直接に?」
「はい。当社を知り合いの会社に紹介してくださったそうです。明日の午後に少しお時間をいただいて、会っていただけないかとのことでした」
桐生はモニターから視線を外した。
「どんな会社ですか?」
「東海精機株式会社といいます。自動車部品メーカーです。上場企業で、売上は八百億前後。社員は二千人くらいだったと思います」
佐藤は手帳を見ずに答えた。電話の合間にすでに調べたのだろう。
「河野さんの話だと、ネットに機密情報が流出しているそうです。製造のことや原価のことも出ているらしくて、取引先からも問い合わせが来ているんだとか」
「セキュリティ会社には依頼したんですか?」
桐生は訊いた。
「ええ、二社に依頼したそうです。でも、止まっていないそうです」
桐生は背もたれに身を預けた。上場企業で社員二千人。KISSがふだん扱う案件とは規模が違う。しかし河野社長がわざわざ電話をかけてくるということは、よほど困っているか、あるいは通常のセキュリティ会社では扱いにくい事情があるか、そのどちらかだろう。
「明日の午後、お受けしよう」
「わかりました」
佐藤はうなずいて、ミーティングルームに戻った。
─── 2 ───
翌日の午後二時。
KISSのミーティングルームに、一人の男が通された。名刺には「東海精機株式会社 人事総務部 部長 堀内修」と記されていた。五十代半ば。グレーのスーツに地味なネクタイ。髪は短く刈り込まれ、額が広い。眼鏡の奥の目は穏やかだが、どこか落ち着かない様子だった。
桐生と佐藤が応対した。
堀内は名刺を交換し、椅子に腰を下ろすと、鞄から社名の入った封筒を取り出した。中にはプリントアウトされた資料が数枚入っていた。
「これが、ネットに出回っている情報の一部です」
桐生は資料を受け取った。掲示板やSNSに投稿された内容を印刷したものだった。投稿者はすべて匿名。そこには、東海精機の製造工程、原材料の仕入れ先と価格、特定の取引先との契約条件まで、社外には出るはずのない情報が並んでいた。
「この情報は正確ですか?」
「はい。残念ながら、正しいです」
堀内の声は低かった。
「特に問題なのは、このページです」
堀内が指さしたのは、特定の部品の原価率が記載された書き込みだった。
「この数字は、経営会議の資料にしか載っていません」
桐生は資料を見つめた。経営会議の配布資料に記載された数字が、ネットに流出している。資料にアクセスできる人間の範囲は限られる。役員と一部の部長クラス、あるいはそれを管理するシステムの担当者なのか。
「いつ頃から、出始めましたか?」
「最初に気がついたのは、二か月ほど前です。営業部の社員が、取引先から言われて発覚しました。取引先の担当者が、『ネットで御社の原価が出ていますよ』と」
「二か月前が最初ですか。それ以前にも出ていた可能性はありますか」
「あります。調べたところ、三か月以上前の書き込みも見つかりました。最初の書き込みがいつだったのかは、はっきりとわかりません」
佐藤がメモを取っている。桐生は質問を続けた。
「情報の範囲は?製造と原価だけですか?」
「いいえ」
堀内は封筒からもう一枚の紙を出した。
「人事に関する情報も出ています。幹部の異動予定や、評価の内容に近いものも書かれています。会社の方針に関することもあります。社内で議論されている内容が、そのまま外に出ている感じです。範囲は広いです」
「製造、原価、人事、経営方針。かなりの範囲ですね」
「ええ」
堀内はうなずいた。しかし、その先が続かなかった。
桐生は黙って待った。
堀内は眼鏡を外し、ハンカチでレンズを拭いた。拭き終わってからも、しばらく手元を見ていた。
「……止めてほしいのです」
やっと、堀内が口を開いた。
「情報の漏洩を止めてほしい。それが、依頼したいことです」
桐生は堀内の顔を見た。止めてほしい。その言葉に嘘はないだろう。しかし、堀内の話には穴がある。二千人の社員を抱える上場企業で、三か月以上にわたって機密情報が漏洩し続けている。セキュリティ会社二社が調べても原因不明。外部からの攻撃の痕跡は発見できない。にもかかわらず、依頼に来たのは社長でも情報システム部長でもなく、人事総務部長だった。
「堀内さん、いくつか確認させてください」
「はい」
「弊社に依頼されたことは、社内で誰が知っていますか?」
「社長と、専務と、私です。あとは情報システム部長が知っています」
「役員会では議題になっていますか?」
堀内は少し間を置いた。
「正式な議題にはなっていません」
「三か月以上、上場企業の機密情報が漏洩し続けていて、正式な議題にしていない」
堀内の表情がさらに硬くなった。質問の意図は理解しているが、答えにくいのだろう。
「……社内にはいろいろ事情がありまして」
「事情ですか?」
「はい」
堀内はそこで言葉を切った。それ以上は説明するつもりがないらしい。桐生は追及しなかった。無理に聞き出したとしても、本当のことを言うだろうか。堀内が話せないことには理由があるようだ。その理由の方が、技術的な調査よりも事件の本質に近いかもしれない。
「わかりました。もう一つだけ。この調査を依頼されたことは、今おっしゃった方以外には」
「誰にも言っていません。河野社長から、御社のことは社内で口外しないほうがいいと言われています」
「それは守ってください。特に、社内の方には」
「はい」
桐生はテーブルの上の紙を揃えた。
「堀内さん、お引き受けします。ただし、条件があります」
「どんな条件ですか?」
「調査の方法と範囲は、こちらに一任していただきたい。途中経過は報告しますが、調査の具体的な手段については指示を受けません。それから、調査に必要な確認事項については、包み隠さずお答えいただければと思います」
堀内は、数秒考えてからうなずいた。
「わかりました」
「もう一つ。外部からの侵入が否定されたということは、内部犯行の可能性が高い。社内にいる誰かがやっている可能性があるということです。その前提で調査を進めますが、よろしいでしょうか?」
一瞬、堀内の視線が逸れた。
「わかりました。……はい」
「内部犯行の調査には、御社内に入る必要があります。潜入調査という形を取ることになるかもしれません。その場合、調査員が社内にいることを、堀内さんにもお知らせしません。潜入した調査員の身元が露呈するリスクを避けるためです」
「潜入……」
「ご了承いただけますか?」
堀内は口を開きかけたまま言葉を飲み込み、改めて話し始めた。
「わかりました。お任せします」
─── 3 ───
堀内が帰った後、桐生と佐藤はミーティングルームに残っていた。佐藤がメモを見返している。桐生はテーブルに広げられた紙を見つめていた。
「佐藤さん、どう思いましたか?」
「歯切れが悪かったですね。訊いてほしくないことがあるのが伝わってきました」
「どこに感じました?」
「社内の事情のところです。三か月以上も放置していて、役員会にも正式に上げていない。それだけでも不自然なのに、説明を避けました。あと……」
佐藤はメモのページをめくった。
「漏洩している情報の範囲が広すぎます。製造、原価、人事、経営方針。こんなに広い範囲にアクセスできる人間は、相当な上位の立場です。堀内さん自身がその範囲に入っている可能性もあります」
「依頼者が容疑者の一人であるかもしれないと」
「ええ、かもしれないと感じました」
桐生はうなずいた。
「もう一つ気になることがあります。堀内さんは止めてほしいと言いました。情報漏洩を止めてほしい。でも、犯人を見つけてほしいとは言われなかった」
佐藤はペンを止めた。
「……確かに、そうだったな」二秒ほど考えて、桐生は答えた。
「止めたいだけで、犯人は捕まらなくてもいい。あるいは、犯人が見つかると困る理由があるのかもしれません」
桐生は椅子から立ち上がり、窓のそばに行った。駅前の通りが見下ろせる。午後の日差しが歩道に影を落としている。
「依頼者が何かを隠している。止めたいのか、隠したいのか。あるいは、両方なのか」
佐藤はその言葉をメモに書き加えた。
─── 4 ───
夕方、オフィスに中村大輔が戻ってきた。地元の食品加工会社の脆弱性診断を終えてきたところだった。ポロシャツにカーゴパンツ、足元はスニーカー。元空手のインターハイ出場者にしては穏やかな顔をしているが、身体の動きには無駄がない。
中村がオペレーションルームに入ると、山田俊介がモニターに向かっていた。アロハシャツに短パン。季節が変わってもこの男の服装はあまり変わらない。画面にはネットワークの通信ログが表示されていた。
「新しい案件、入ったらしいね」
山田がモニターから振り向かずに言った。
「知ってる。佐藤さんからメッセージが来てたよ」
「東海精機。自動車部品のメーカー。上場企業だ」
「デカいね」
「確かに、デカい」
山田は缶コーヒーに手を伸ばした。
田中美咲はオペレーションルームの奥の席で、ヘッドフォンを首にかけたまま、前の案件のフォレンジック報告書を仕上げていた。モニターの横にアニメのフィギュアが三体並んでいる。中村が入ってきたのに気づいて、軽く会釈をした。
「中村さん、お疲れさまです」
「おう。新案件の話、聞いた?」
「さっき佐藤さんから。情報漏洩ですよね。上場企業の」
「明日の朝、ブリーフィングだって」
田中はうなずいて、モニターに視線を戻した。
─── 5 ───
翌朝、午前九時。ミーティングルームにKISSの全員が揃った。
桐生がホワイトボードの前に立っている。ボードには「東海精機株式会社」と「情報漏洩」の二つの語が書かれていた。
「昨日、東海精機の人事総務部長がオフィスに来られた。河野社長からの紹介だ。案件の概要を説明する」
桐生は堀内から聞いた内容を簡潔に話した。三か月以上にわたる情報漏洩。製造、原価、人事、経営方針にわたる広い範囲。セキュリティ会社二社が調査して外部侵入を否定。業務への実害。止めてほしいという依頼だったということ。
「外部からじゃないなら、中の人間か?」
中村が訊いた。
「可能性は高い。少なくとも、社内の広い範囲の情報にアクセスできる社員の関与が疑われる」
「漏洩している情報は正確なんですか?」
田中が訊いた。
「正確だ。経営会議の資料にしか載っていない数字までが出ている」
「経営会議の資料にアクセスできる人間……役員と、あとはサーバーの管理者ですか?」
「多分、その辺りだろう」と桐生は答えた。
山田がアロハシャツの裾を引っ張りながら口を開いた。
「ネットに出回ってる情報の量と内容について、まだ全容がつかめていないんだろ?」
「そうだ。まず、全体を押さえる必要がある。何が漏れているかを正確に把握しないと犯人の輪郭が見えない」
「俺がやります。ネット上に公開されている東海精機関連の情報を、徹底的に洗い出します」
「頼む。掲示板、SNS、ニュースサイトのコメント、まとめサイト。片っ端から拾ってくれ。書き込みの日時と内容を時系列で整理してほしい」
山田はうなずいた。
桐生はホワイトボードに「内部犯行の可能性」と書き加えた。
「この案件は、潜入調査で進める。社内に入って、内側から調べる」
中村が背筋を伸ばした。
「それで、誰が入る?」
「中村さんと田中さんを予定している。中村さんはビル管理会社の設備担当として入ってもらう。工場のある会社だから、設備の出入りは日常的にある。田中さんはIT保守ベンダーのエンジニアとして情報システム部に入ってもらう」
田中がうなずいた。丸海フーズ、浜崎地所に続く、三回目の潜入になる。
「佐藤さんには準備を頼む。協力会社の手配と、履歴書、作業指示書の準備。それから、東海精機の公開情報を調べてほしい。有価証券報告書、役員構成、業界紙の記事、会社の歴史。使えるものは全部拾ってくれ」
「わかりました」
佐藤がメモを取りながら答えた。
「山田さんはKISSのオフィスに残って、ネット上の漏洩情報の収集と分析。外側から攻める」
「わかった」
桐生はホワイトボードに向き直った。
「もう一つ。依頼者の堀内人事総務部長は、何かを隠している。事情があると言って、説明を避けられた。社内の権力構造か、人間関係か、あるいはもっと根深い問題か。それを見極めるのも、この調査の目的の一つだ」
中村が腕を組んだ。
「隠し事のある依頼者ってのは、以前の浜崎地所もそうだったけど」
「似た構図かもしれない。ただ、堀内さんの隠し方は沢木さんとは違う。沢木さんは派閥の板挟みで言えなかった。堀内さんは、自分の意志で言わないことを選んでいる。そこが引っかかる」
誰も何も言わなかった。
「もう一点。堀内さんは犯人を見つけてほしいとは言われなかった。止めてほしいとだけ言った。止めるだけでいい。犯人が見つからなくても構わない。そういう依頼だ」
「犯人が見つかると困る人がいる、ってことですか」
田中が思わず口に出した。
「それは、わからない。ただ、止めたいのと、真相を知りたいのは、同じではないこともある」
桐生はマーカーのキャップを閉めた。
「来週の月曜日から動く。佐藤さん、それまでに潜入準備を終わらせてください」
「はい、大丈夫です」
佐藤は笑ってみせた。
「今回の依頼は、堀内さんを通してですが、報酬の契約はどうしますか。上場企業なので、正式な契約手続きのプロセスが必要になるはずです」
「その点は堀内さんに確認する。ただ、堀内さんは社長と専務には話していると言っていた。契約の窓口は堀内さんでいいはずだ。社内の限られた人間だけが知っているようにしたい」
「わかりました。機密保持契約書と準委任契約書の準備をしておきます」
ブリーフィングは三十分で終わった。
─── 6 ───
その日の夕方、佐藤はオフィスで東海精機の公開情報を調べていた。
直近の有価証券報告書をダウンロードして読み進めた。売上高は約八百二十億円。連結で従業員二千百名。主な製品はエンジン部品、トランスミッション部品、サスペンション部品。納入先は大手自動車メーカー三社。海外に二つの生産拠点がある。
役員構成のページを開いた。代表取締役社長は武田誠一郎。五十八歳。取締役会長は武田征四郎。九十二歳。
佐藤は画面の前で手を止めた。九十二歳の取締役会長。創業者で、会長も社長も同じ武田姓。同族会社のようだ。有価証券報告書には、役員の略歴も記載されている。武田征四郎は一九三四年生まれ。東海精機を一九六二年に創業。代表取締役社長を四十年以上務め、二〇〇八年に会長に就任。現在も取締役会長として在任中。
社長の武田誠一郎は一九六八年生まれ。大手自動車メーカーに入社し、二〇一〇年に東海精機に入社。取締役、常務、専務を経て、二〇一八年に代表取締役社長に就任。
出身地が会長と異なっている。会長の血縁関係ではないようだった。
佐藤はメモに書いた。「創業者の会長(92歳)が取締役として在任。社長は養子、あるいは娘婿の可能性あり。会長は66年間、東海精機にいる」
役員報酬のページに進んだ。取締役の報酬総額と社外取締役の人数。個別開示の基準に達していないため、会長と社長の個別報酬は記載されていなかった。しかし、注記に「特別顧問料」という項目がある。
佐藤はその項目にマーカーを引いた。特別顧問料。会長報酬とは別に支払われている可能性がある。
業界紙の記事も検索した。東海精機の名前は、自動車部品業界の再編に関する記事に頻繁に出てくる。EV化に伴う部品構成の変化。ガソリンエンジン向けの部品を主力とするメーカーの生き残り戦略。東海精機は「対応が遅れている企業」の一つとして言及されていた。
会長の講演録も見つかった。五年前の商工会議所の新年会での挨拶が、地元紙のサイトに残っていた。
「ものづくりの原点に立ち返れ。流行に流されてはいかん」
力強い言葉だったが、五年前の時点ですでに八十七歳だった。
業界紙のホームページに、会長と社長の関係に触れた記事が掲載されていた。社長は会長の長女と結婚し、武田姓を名乗るようになったという。やはり、娘婿だった。
佐藤はパソコンの画面を閉じて、椅子に背もたれた。
九十二歳の創業者。娘婿の社長。六十年以上にわたる会社の歴史。役員会に正式議題として上げられない情報漏洩。そして、人事総務部長が語りたがらない「社内の事情」まで、すべてが一つの疑問につながっていた。
断片はいくつかある。しかし、まだ絵にはなっていなかった。
佐藤はパソコンを開き直して、潜入要員の身分工作の準備に取りかかった。協力会社の候補リストを作成する。ビル管理会社とIT保守ベンダー。中村と田中の経歴書。作業指示書のフォーマット。やることは多い。来週の月曜日まで五日間。佐藤はキーボードを叩き始めた。
─── 7 ───
同じ頃、山田はオペレーションルームで三台のモニターに向かっていた。
東海精機に関連するネット上の書き込みを収集している。掲示板、SNS、口コミサイト、ニュースサイトのコメント欄。キーワードを変えながら、片っ端から検索をかけていく。ヒットする書き込みは予想以上に多かった。
山田はスプレッドシートを開いて、書き込みの日時、投稿されたサイト名、投稿者のアカウント情報、内容の要約を記録していった。
一時間ほどで、五十件を超えた。
書き込みの内容は大きく三つに分かれている。
一つ目は、東海精機の内部情報を直接掲載しているもの。原価率、製造工程の詳細、取引先との契約条件など。これは「一次情報」だ。漏洩した本人か、その近くにいる人間が書いている可能性が高い。
二つ目は、一次情報を見た人間が反応して書いたもの。「こんな情報が出回って大丈夫なのか」、「東海精機の株、持ってるんだけど」、「従業員がかわいそう」など。これは「二次拡散」で、一次情報が拡散する過程で増幅されたものだった。
三つ目は、東海精機の製品や対応に対する苦情や批判。これは漏洩とは直接関係ないが、漏洩をきっかけに信用が低下して、普段なら表に出ない不満が噴出している。
山田は一次情報だけを抽出して、時系列に並べた。最も古いものは四か月前の書き込みだった。堀内が言った三か月よりさらに前から始まっていた。
内容を見ていくと、最初の一か月は製造工程に関する情報が中心だった。二か月目から原価情報と取引条件が加わり、三か月目に人事情報と経営方針が出始めている。
漏洩している情報が、時間とともに範囲を広げている。
山田は缶コーヒーを口に運んで、スプレッドシートをスクロールした。
書き込みの文体には特徴がある。一次情報の投稿は、事実だけを淡々と列挙している。感情的な表現はなく、「〇〇部品の原価率は△△%」「××の納入先は□□自動車」といった、データの羅列に近い文体だった。
これは、人間が書いているのか。
山田は画面に顔を近づけた。文体に個人の癖が見えない。怒りも、自慢も、悪意も、文章からは読み取れない。情報を出すことだけが目的で、それ以外の意図が感じられなかった。誰かが、何かの方法で、会社の中にある情報を外に出し続けているのは確実だ。
山田はスプレッドシートに新しい列を追加した。
「情報の種類」と「アクセスに必要な権限レベル」
この二つを整理すれば、犯人の輪郭が見えてくるかもしれない。
モニターの明かりだけが、薄暗くなり始めたオフィスを照らしていた。
─── 8 ───
メンバーが帰った後、桐生は一人でミーティングルームに残った。テーブルの上に、堀内が置いていった紙がある。
桐生はもう一度、書き込みの内容を読んだ。漏洩している情報の範囲が広い。製造工程、原価、人事、経営方針。これだけの範囲をカバーできるアクセス権限を持つ人間は限られる。しかし、それだけではない。情報を外部に持ち出す技術力も必要になる。セキュリティ会社二社が調べて痕跡を見つけられなかったということは、相応の技術で隠蔽しているか、あるいは通常の調査では見えない方法を使っているかのどちらかになる。
桐生は紙の中の一つの書き込みに目を留めた。人事に関する投稿で、幹部の異動予定が書かれている。異動の時期と対象者の部署名が具体的だった。これは誰かが直接、資料を見て書いたものではないかもしれない。もしも社内のシステムが情報を管理していて、そのシステム自体が漏洩の経路になっているとしたら。まだ、桐生はその考えを口にしなかった。今は情報が足りない。仮説を立てるには早すぎる。
テーブルの上の紙を封筒に戻し、桐生はミーティングルームを出た。