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《無料》ハッカーハンター・シリーズ/Act.3/AIクライム 第三章 二人の社長

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第三章 二人の社長


─── 1 ───

 二週目の月曜日。中村は朝から本社棟の三階にいた。
 作業の名目は空調のフィルター交換だった。経理部と経営企画部が入っているフロアで、先週の点検で埃の付着が目立ったフィルターを取り替える。作業自体は三十分もかからない。しかし中村はフィルターを外す手を意図的にゆっくり動かしながら、フロアの空気を読んでいた。
 先週感じた緊張の正体を、今週は見極める必要がある。
 経理部のエリアでは、部長席に六十代の男が座っていた。背が低く、白髪を丁寧に撫でつけている。部下が書類を持ってくると、手早く目を通して捺印するが、そのたびにちらりと天井の方――五階の方向――に視線を向ける癖があった。五階の様子をうかがっている。会長の動向を気にしている。
 隣の経営企画部では、雰囲気が違った。四十代の部長が、若い社員二人と何かの資料を広げて議論している。声は低いが、表情に熱がある。ホワイトボードに「EV対応ロードマップ」と書かれていた。社長の方針に沿った仕事をしている。この部長は社長派だろう。
 同じフロアに、二つの方角を向いた人間がいる。

─── 2 ───

 中村が三階の空調作業を終えて廊下に出ると、エレベーターのドアが開いた。中から一人の男が出てきた。
 六十代の前半だろう。身長は中村より少し低い程度だが、身体の幅がある。肩幅が広く、首が太い。工場で叩き上げた身体つきではなく、長年にわたって管理する側にいた人間の重みが全体に乗っている。濃紺のスーツは仕立てが良く、袖口からのぞく、シルバーのカフスボタンが光っていた。ネクタイは銀色の細いストライプで、ネクタイピンは金。靴は黒のプレーントゥで、丁寧に磨かれている。三階の一般社員の服装とは、明らかに一段違う格があった。
 顔は日に焼けて、頬のあたりに深い皺が刻まれている。ゴルフか、あるいは若い頃に工場の現場を歩き回った名残か。眉が太く、口元が引き締まっている。歩き方に迷いがない。歩幅が広く、靴音がはっきり廊下に響いた。この会社で何十年も上の立場にいた人間の歩き方だった。
 三階の社員たちが反応した。それで中村には確信が持てた。経理部の社員が二人、書類を手にしたまま立ち上がって会釈した。廊下の向こうで電話をしていた経営企画部の女性社員が、受話器を肩に挟んだまま頭を下げた。男はそのどちらにも視線を向けず、軽くうなずいただけで通り過ぎた。社員が立ち上がることを当然と受け止めている。この男に会釈をしないという選択肢は、このフロアには存在しないのだろう。
 佐藤が調べた有価証券報告書の役員一覧を、中村は見ていた。そのときはただ眺めただけだったが、今になって思い出した。六十四歳の荒木専務。その写真の顔は、目の前の男と一致していた。会長派の筆頭とされる人物だ。

 廊下の向こうから、別の人間が歩いてきた。五十代後半。背が高く、スーツの色はグレー。荒木に比べると着こなしに気を使っている印象はないが、姿勢が良い。穏やかな顔立ちだが、目に力がある。武田誠一郎社長だった。中村は、佐藤の資料にあった写真を思い出した。そこに写っていた人物と、目の前の男の顔が重なった。
 二人は廊下の中央ですれ違おうとしていた。
 中村はフィルターの入った段ボール箱を持ったまま、壁際に寄って道を空けた。設備担当にとっては自然な動作だった。段ボールを抱え直すふりをしながら、視線だけは二人に向けていた。
 すれ違う瞬間、荒木が社長の方を見た。一瞬だけ目を合わせた。社長もそれに応じた。しかし、どちらも足を止めなかった。会釈もなかった。声もかけなかった。
 荒木はすぐに視線を前に戻して歩き去った。社長は荒木の背中を一瞬だけ見てから、経営企画部のドアに向かった。

 一瞬の視線の交錯。
 中村は空手の試合で何百回も見てきた。向かい合った相手が間合いに入るとき、最初に動くのは目だ。目が合う瞬間に、相手が何を考えているかが読める。攻めるのか、守るのか、待つのか。
 荒木の目には、攻撃の意志も、守りの姿勢もなかった。ただ、確かめるような視線だった。社長がそこにいることを確認すると、そのまま通り過ぎる。敵意ではない。だが、味方の目でもない。何かを決めかねて、見定めている目だった。
 社長の目は違った。荒木の背中を見送った一瞬の視線には、待っている人間の色があった。何を待っているのかは、まだわからない。
 中村は段ボール箱を抱え直して、階段に向かった。三階のフロアでは、何事もなかったように業務が続いている。さきほど立ち上がって会釈した経理部の社員二人は、すでに椅子に戻って書類に向かっていた。

─── 3 ───

 火曜日の午前。中村は総務部で設備の不具合報告書を提出した後、一階のロビーの休憩コーナーにいた。
 休憩コーナーは自販機が三台並んだ小さなスペースで、丸テーブルが二つ置かれている。窓の外には駐車場が見える。ここは階をまたいで社員が行き来する場所で、雑談が生まれやすい。中村はそれを狙って、缶コーヒーを買う頻度を意図的に上げていた。

 二十代後半の男が自販機の前に来た。総務部で庶務を担当している木下だった。社内の備品管理や来客対応をしている。中村が設備点検で頻繁に出入りしているため、先週から顔見知りになっていた。人懐こい性格で、休憩時間に話し込む社員がほかにもいるらしい。中村にとっては、社内の空気を知るための窓になり得る人間だった。
「中村さん、また缶コーヒーですか。好きですね」
「もう中毒だよ。一日三本は飲むよ」
「僕もです。安いやつばっかりですけど」
 木下は微糖の缶コーヒーを買って、中村の向かいに座った。先に話を振ったのは木下の方だった。
「中村さん、うちの空調、だいぶ古いでしょう」
「本社棟の方は、設置から二十五年くらい経ってるね。室外機の一台はそろそろ交換した方がいいですよ」
「やっぱり。夏になると効きが悪くなるんですよ。でも、なかなか予算がつかなくて」
「やはり、設備投資は工場の方が優先されてるのかな」
「そうなんです。工場のラインはどんどん新しくなるのに、本社棟は後回しなんで」
 木下は缶コーヒーを一口飲んだ。
「まあ、会長のお考えですから。会長は工場が好きなんですよ。ものづくりが一番大事だって。オフィスにお金をかけるのは無駄だっていつも言ってるらしいです」
「会長さんは毎日来られてるんだって?」
「ええ、毎日です。朝八時には会長室にいらっしゃる。昔からそうだったみたいで。社員より早く来て、社員より遅く帰る。それが会長のやり方で」
「九十二歳で毎日ってのは、すごいね」
「すごいですよ。本当に」
 木下の声には、確かな敬意が込められていた。形式的な言葉ではない。本心から出た言葉だと感じられた。
「会長は、この会社を全部自分で作った人ですからね。創業の頃は、工場って言ったってプレハブの小屋みたいなもので、会長が一人で旋盤を回してたらしいです。取引先の開拓も全部自分でやった。大手の自動車メーカーに飛び込みで営業して、門前払いを何十回も食らって、それでも通い続けて。最初の受注を取った時は、工場で社員と一緒に泣いたって」
 木下は、そんな昔話を好んで語った。社内の古参社員から聞いた話を、自分の記憶として蓄積している。この若い社員にとって、武田征四郎は創業者であると同時に、伝説の主人公のような存在なのだろう。
「社員の顔も全部覚えてたそうですよ。千人を超えた頃までは。名前と家族構成と、どこの出身かまで。それで、工場を回る時に一人ずつ声をかけてた。『お前の息子、今年から中学か。頑張れよ』って。そういうことができる人だったんです」
「できた人だね」
「できた人でした」
 木下は缶コーヒーの縁を指でなぞった。過去形を使ったことに自分で気がついたらしく、少し顔を曇らせた。
「……今も、できた人ですけどね。ただ」
「ただ?」
 木下は中村の目を見た。言うべきかどうか、迷っている顔だった。
「会長はものすごく立派な人なんです。それは本当に。でも、会長のやり方って、この会社がまだ小さかったころのやり方なんですよね。社員全員の顔を覚えて、自分で工場を回って、自分で判断する。それで正しかった。実際に会社は大きくなった。でも今は二千人以上いて、海外にも工場があって、AIだのDXだの言われて……会長のやり方だけじゃ、もう回らないんじゃないかって」
 木下はそこで声を落とした。
「僕が言うようなことじゃないですけど」
「誰もが思ってるけど、言えないことってあるよね」
「……そうですね」
 木下は缶を飲み干して、立ち上がった。
「僕、そろそろ戻ります。来客があるんで」
「ありがとう。コーヒー付き合ってくれて」
「いえ。中村さんと話すと気が楽です。社内の人だと、こういう話はなかなかできなくて」
 木下は軽く頭を下げて、総務部に戻っていった。中村は残った缶コーヒーを飲み干しながら、木下の言葉を反芻していた。
「会長のやり方だけじゃ、もう回らない」
 二十代の若い社員がそう感じているということは、社内の大半が同じことを思っている可能性がある。思っているが、言えない。会長は創業者であり、この会社の神話そのものだ。神話に異を唱えることは、この会社では許されていない。

─── 4 ───

 火曜日の午後。中村は五階の役員フロアに上がった。
 先週に続いて、空調の室外機の定期点検だった。今回は屋上だけでなく、五階フロアの室内機の清掃も含まれていた。役員秘書室の社員が同行した。先週と同じ四十代の女性だった。

 専務室のドアが開いていた。荒木専務がデスクで書類に目を通している。部屋は広く、窓際に応接セットが置かれている。壁には東海精機の歴代の製品写真が額に入って飾られていた。一番古い写真は白黒で、小さなボルトの山が映っている。創業初期の製品だろう。
 中村が室内機のカバーを外す音に荒木が顔を上げた。
「ご苦労さま」
 それだけ言うと、すぐに書類に視線を戻した。中村はフィルターの清掃を始めた。室内機の位置から、荒木のデスクの上が見えた。書類の束と、分厚いバインダー。バインダーの背表紙に「人事異動案」と書かれている。付箋が何枚も貼られていた。赤い付箋と青い付箋が混在している。
 荒木は赤い付箋のついたページを開いて、しばらく見つめていた。ペンを手にしたが、何も書かずに閉じた。そして、バインダーをデスクの引き出しにしまった。

 隣の常務室は閉まっていた。案内役の秘書室の社員がノックして、ドアを開けた。
 村上常務は不在だった。
「村上常務は会長室にいらっしゃると思います。大丈夫です」
 秘書室の社員は、事務的な口調で説明した。そこには戸惑いも、疑問もなかった。長く続いてきた習慣を伝えているだけだった。会長から呼び出されれば、村上常務はすぐに向かう。役職上は常務でありながら、会長の前では別の立場になる。その関係性が、この会社では当たり前のものとして続いていた。
 中村は常務室の空調室内機を清掃した。部屋はきちんと片付いていたが、デスクの上に茶飲み碗が一つ、飲みかけのまま置かれていた。急いで席を立ったのだろう。碗の中のお茶は冷めきっていた。その横に、市販の胃薬の箱が置かれている。箱は開封済みで、中身は半分以上なくなっていた。

 清掃を終えて常務室を出ると、廊下の向こうから村上常務が歩いてきた。六十歳。がっしりした体格だが、顔色が悪い。目の下に隈があった。背中が丸まっている。かつて製造部門を統括していた男の身体だが、今は肩の力が抜け、ひと回り小さく見えた。
 中村が会釈すると、村上は軽くうなずいた。口元が微かに動いたが、声にはならなかった。その足取りは重そうに見えた。
 村上は常務室に入り、ドアを閉めた。
 中村は次の部屋に移動しながら、村上の表情を思い返していた。疲れている。ただの忙しさの疲れではなかった。何かを背負い続けていることに疲れている。中村にも覚えがあった。空手の試合で負けが込んだ時期があった。練習に出るのが辛くなった。身体は動くのに、気持ちがついてこない。毎日同じ場所に行って、同じことを繰り返す。それが何のためなのか、わからなくなる。あの時の自分と、村上常務の目は似ていた。

─── 5 ───

 水曜日。田中は四階の情報システム部のフロアで、サーバーのログ解析を続けていた。
 先週発見したAIサーバーの外部通信の不規則なパターンを、より長い時間軸で確認している。過去三か月分のログを引き出して、一日ごとの通信量をグラフ化した。パターンは一貫していた。平日の昼休み帯に送信量が増加し、夜間と休日は通常レベルに戻る。三か月間、ほぼ同じリズムで繰り返されている。機械的な正確さだった。
 田中は別の角度からログを見た。AIサーバーの内部処理の負荷を示す指標――CPU使用率、メモリ使用量、ディスクのアクセス。これらを時系列で表示させた。

 異常を見つけた。
 通常、AIサーバーの処理負荷は社員のリクエストに連動する。業務時間中に高く、夜間に低い。しかし、このAIサーバーは深夜帯にもCPU使用率が下がりきっていなかった。午前二時から四時の間に、小さなピークがある。社員が誰もリクエストを送っていない時間帯に、AIが何かを処理している。

 社内のバッチ処理スケジュールを確認した。深夜三時にバックアップのジョブが走ることになっている。しかし、田中が見ているピークはバックアップジョブとは時間帯がずれていた。午前二時十五分ごろから始まり、三時四十分ごろに終わる。バックアップジョブが動く前に、別の処理が走って、バックアップが始まる前に終わっている。
 バックアップジョブと重ならないよう、実行時間が調整されているようだった。バックアップ中はシステムの動きを管理者が確認することが多い。その時間を避ければ、不審な処理は目立ちにくい。つまり、この処理は見つからないことを前提に動いていた。

 田中はノートに図を描いた。昼間の送信過多と、深夜の不明な処理。二つのパターンが重なる。昼間はデータを外に出し、深夜は次に出すデータを内部で準備している。そういう仮説が成り立つ。
 しかし、確証はない。AIの内部処理はブラックボックスだ。ログにはCPU使用率やディスクのアクセスの数字は残るが、AIが何を計算しているのかまでは記録されない。中を見るには、AIそのものを解析する必要がある。それは田中の専門領域ではなかった。
 田中はAI推進課のパーティションの方をちらりと見た。梶原が画面に向かっている。白いシャツの袖をまくり、両手でキーボードを叩いている。集中している姿に隙がない。その横で安藤が画面をスクロールしている。二人の間に会話はなかった。

─── 6 ───

 水曜日の夕方。KISSオフィスで、山田が桐生に報告した。
 山田のモニターには、漏洩情報を分類したスプレッドシートが表示されている。色分けされた行が画面を埋めていた。
「漏洩してる情報を内容別に分類しました。結果が出ました」
 山田は椅子を回して、スプレッドシートを指さした。
「赤が会長派に不利な情報。青が社長派に不利な情報。緑が中立的な情報。白が分類不能」
 画面は赤で埋まっていた。青はほとんどなかった。
「一目でわかります。漏洩情報の七割以上が、会長派にとって不利な内容だ。具体的に言うと、特定の役員の経費使用の明細、会長が主導して決めた人事異動の一覧、会長派が長年続けてきた特定の取引先との契約条件。一方で、社長が進めているDX関連の予算や、AI導入のコスト――社長派にとって突かれたくない数字は、ほとんど出ていない」
「確かに。偏りがあるな」
 桐生が言った。
「偏りどころじゃない。明らかに意図的です。この情報を出している人間は、会長派を攻撃している。もっと正確に言えば、会長が作り上げた体制を壊そうとしている」

 桐生はホワイトボードの前に立った。先週書いた情報に、山田の分析結果を書き加えていく。
「会長派に不利な情報を選んで漏洩させている。技術情報や特許は出していない。会社の競争力を傷つけるつもりはない。狙いは経営陣の――特に会長とその周辺の信用だ」桐生はホワイトボードを見ながら話した。
「その通り。この犯人は、会社を潰したいわけじゃない」
 山田は缶コーヒーを開けた。
「会社の中の特定の構造を壊したいんだ。会長が握っている支配の構造を」
 そう言って、山田はゆっくりと缶コーヒーを口に運んだ。

─── 7 ───

 木曜日。中村は五階のフロアで、ある場面に出くわした。
 空調のフィルター交換のために廊下を歩いていたとき、会長室のドアが開いて、荒木専務が出てきた。
 荒木の表情は、月曜日に三階で見た時とは違っていた。眉間に深い皺が寄り、口元が固く結ばれている。顎が前に出ている。何かに耐えている顔だった。廊下を早足で歩きながら、スマートフォンを取り出した。しかし、電話はかけなかった。画面を見つめたまま、数秒立ち止まった。親指が画面に触れかけて、止まった。誰かに電話しようとして、やめた。荒木はスマートフォンをポケットに戻し、専務室に入った。ドアを閉める音が、五階の静かな廊下に響いた。いつもより大きかった。
 中村はフィルターの箱を持ったまま、何事もないように歩き続けた。
 あれは会長と意見が合わなかった後の顔だろう。中村にはそう見えた。怒りではない。苛立ちとも違う。何かを言おうとして、言わなかった後の顔だった。言いたいことを飲み込んで、しかし飲み込みきれずに、ドアを強く閉めた。三十年以上仕えてきた会長に対して、言えないことが溜まっている。それが荒木の顔に出ていた。

 十分ほど経って、会長室から村上常務が出てきた。村上の表情は荒木とは違っていた。疲れてはいるが、どこか諦めたような穏やかさがあった。荒木のように飲み込んでいるのではなく、すでに受け入れている顔だった。
 村上は常務室に戻らず、エレベーターに乗った。中村は階段で移動して、エレベーターの行き先を確認した。三階で止まった。
 中村が三階に降りると、村上が経営企画部に入っていくのが見えた。経営企画部は社長派の部署だ。会長室を出たばかりの村上常務が、社長派の部署に向かっている。何の用だろう。会長の指示を伝えに来たのか。それとも、別の動きなのか。
 中村には判断がつかなかった。ただ、村上の足取りが、エレベーターに乗る時と三階で降りた時で違っていたことには気がついた。エレベーターに乗る時は、背中が丸まって、歩幅が狭かった。五階で会長の相手をしてきた後の疲れが出ていた。しかし三階で降りた時は、背筋がわずかに伸びていた。歩幅が広がっていた。
 会長室にいる時の村上と、そこを出た後の村上。どちらが本当の村上常務なのか。それとも、どちらも本当の姿なのか。中村はそこまで考えて、思考を止めた。答えの出る問いではない。

─── 8 ───

 木曜日の夜。中村はKISSオフィスに戻り、桐生に口頭で報告した。
「社内の派閥構造がはっきり見えてきました」
 中村はホワイトボードに図を描いた。
「会長派の中心は荒木専務、村上常務、堀内人事総務部長。ほかに経理部長と製造部の一部の部長。古参が多い。社長派は矢島情報システム部長、経営企画部長、営業部の中堅。若手は大半が社長寄りです」
「そんなに、はっきり分かれているのか?」
「はっきり分かれてます。三階のフロアだけ見ても、経理部長は五階の方を気にしながら仕事してるし、隣の経営企画部長はEV対応のロードマップを書いてる。同じフロアで、向いてる方角が真逆です」
 桐生はうなずいた。
「会長はどうだ」
「会長は会議には出ません。でも毎日出勤して、荒木専務か村上常務を呼んで指示を出してる。人事については具体的に名前を出して命じているようです。先週も今週も、会長室から声が聞こえました」
「その指示は実行されているのか?」
 中村は少し考えた。
「されていないものもあると思います。荒木専務が会長室を出た後の表情が、言いたいことを飲み込んだ後の顔でした。専務室のデスクに人事異動案のバインダーがあったんですが、赤い付箋と青い付箋が混在してた。赤が会長の指示で、青が専務の判断。そんな気がしました。根拠はありませんが」
「直感か?」
「ええ。ただ、荒木専務はバインダーに何も書かずに引き出しにしまった。実行するかどうか、まだ決めていない。あるいは、実行しないことを決めたのかもしれない」
「会長の指示を、荒木専務が止めている可能性があるのか?」
「あると思います。村上常務の方はもっと複雑です。会長室を出た後、三階の経営企画部に行ってました。足取りまで変わっていました。経営企画部は社長派です。会長の指示を伝えに行ったのかもしれないし、社長側と何かをすり合わせに行ったのかもしれません」
「足取りが変わったと言ったな」桐生は訊いた。
「会長室を出た時は背中が丸まっていて、三階に着いたら背筋が伸びてた。会長の前では縮こまって、離れると元に戻る。いや、元に戻るというより……会長室の外に出ると、自分自身に戻れるのかもしれない」
 桐生は腕を組んだ。
「荒木専務と村上常務が、会長の指示を握り潰しているか、少なくとも実行を遅らせている可能性がある。会長派の中核にいる二人がそうなっているということは」
「会長派が、内側から崩れ始めている」中村が答えた。
 桐生はホワイトボードの会長派の欄に、小さく「内部離反の兆候」と書き加えた。

─── 9 ───

 金曜日の午前。佐藤がオフィスで調査結果をまとめていた。
 東海精機の過去十年分の決算資料を通して見ると、会社の軌道が浮かんでくる。
 十年前、売上高は九百億円を超えていた。ガソリンエンジン向けの高精度部品で国内トップシェアを持ち、大手自動車メーカー三社に安定供給していた。利益率も高く、業界紙では「堅実経営の模範」と評されていた。会長の経営判断が正しかった時代の数字だった。

 転換点は五年前だった。EV化の加速に伴い、主力のエンジン部品の受注が減り始めた。売上は九百億円から八百億円台に落ち、今年度の業績予想はさらに七百八十億円に下方修正されている。利益率は三年前の半分以下。
 設備投資の内訳を見ると、構造がはっきりする。工場の製造ラインには毎年大きな金額が投じられていた。ガソリンエンジン部品のラインだった。EV向けの設備投資は一割にも満たない。会長の信念――「ものづくりの原点」――が、数字に直接反映されていた。同業他社がEV向けの部品開発に舵を切る中、東海精機だけが古い主力に資源を注ぎ続けている。
 佐藤には経理の経験がある。元都銀のデータアナリストとして、何百もの企業の財務データを扱ってきた。数字は嘘をつかない。東海精機の数字は、過去の成功に資源を投じ続けて、未来への転換が遅れている企業の典型的なパターンだった。佐藤はそのパターンを知っている。そして、そのパターンの先に何があるかも。

 佐藤は、会長の講演録を改めて読み返した。三年前の業界団体総会での発言だった。
「EVは過渡期の技術に過ぎん。ガソリンエンジンは、決してなくならない。東海精機は、百年先も部品を作り続ける会社だ。目先の流行に惑わされて、ものづくりの魂を失ってはならん」
 力強い言葉だった。この言葉を発した人間を、聴衆は敬意を持って聞いただろう。戦後の焼け野原から一代で上場企業を育てた人間の言葉には、重みがある。しかし、重みがあるからこそ、間違った時の影響も大きい。
 佐藤はメモに書いた。
「会長の信念はかつて正しかった。東海精機を育てた原動力そのもの。しかしEV化という不可逆の変化の前で、同じ信念が会社の足枷になっている。成功が、失敗の原因になるという逆説。成功体験バイアス」

─── 10 ───

 金曜日の午後。田中はKISSオフィスに戻り、山田と並んでモニターに向かっていた。田中が持ち帰ったデータを、山田が見ている。
 AIサーバーの深夜帯のCPU使用率のグラフ。午前二時から四時にかけての不明な処理のパターン。
「バックアップとは時間がずれてるんだよな」と山田が言った。
「完全にずれてますね。バックアップは午前三時開始で、この処理は二時十五分から三時四十分まで。バックアップが始まる前に、ほぼ終わっている。わざとずらしてるとしか思えません」
「バックアップ中にディスクのアクセスが跳ねたら、別の処理が走ってるのがバレるからな。隠す意図がある」山田がつぶやいた。
「隠す意図がある処理。昼間の送信過多と合わせると」田中が問いかけた。
「深夜にデータを準備して、昼間に外に出す。そういう仕掛けが動いてる可能性がある」
 山田は椅子の背にもたれた。缶コーヒーの空き缶を手の中で転がしている。天井を見つめている。考えている時の山田は、いつもこうだった。手を動かしながら、思考を泳がせている。
「田中さん」
「はい」
「このAI、寝ていないよ」
「寝てない?」
「業務支援AIは社員が使う。人事AIはデータを同期する。どっちも、夜は大人しくしてるはずだ。でも深夜に処理が動いてる。昼間は社員のリクエストに答えながら、その裏で別の仕事をしてる。そして夜中にも、また別の仕事をしてる」
 山田は空き缶を置いた。
「二十四時間、このAIは何かを処理し続けている。与えられた仕事以上のことをしている。誰かが、AIに別の役割を与えてるんだ」
 田中は山田の横顔を見た。山田の目が、普段と違う色をしていた。飄々とした山田の目ではなく、何かに引き寄せられている目。AIの挙動の中に、山田が知っている何かがある。あるいは、山田がかつて携わっていた何かを、このAIの中に見ている。
 田中はその視線の意味をまだ知らなかった。

─── 11 ───

 金曜日の夜。全員が揃っての定例報告会。
 桐生がホワイトボードに二週間分の情報を整理した。
「二週間の調査で見えてきた構図をまとめる」
 桐生はマーカーで線を引いた。
「まず、東海精機の社内構造。九十二歳の創業者・武田征四郎会長が、今も人事権を握っている。会長は会議には出ないが、荒木専務と村上常務を通じて指示を出し続けている。会長の信念は『ものづくりの原点に立ち返れ』だ。この信念でこの会社を一代で育てた。かつては正しかった。しかし、EV化で業界が変わった今、同じ信念が会社を縛っている」
 桐生は続けて話した。
「会長派の内部に変化が起きている。中村さんの観察では、荒木専務と村上常務が会長の指示を実行していないケースがある。会長の判断と市場の現実が乖離しているからだ。会長派の中にも、ついていけない人間が出てきている」
「一方、社長は改革を進めたいが、会長の人事権に阻まれている。AI導入もDX推進も、社長の肝入りだが、会長は流行に過ぎないと退けている」
 桐生は線の下に「漏洩」と書いた。
「この社内構造の中で、情報漏洩が起きている。山田さんの分析では、漏洩情報の七割以上が会長派に不利な内容だ。技術情報は出ていない。会社の競争力ではなく、会長が作り上げた体制を標的にしている」
「田中さんの調査では、AIサーバーに不審な挙動がある。昼間の送信過多に加え、深夜帯にも不明な処理が動いている。二十四時間、AIが本来の仕事以外の何かをしている可能性がある」

 桐生はマーカーを置いた。
「犯人、動機、方法。まだ確定していない。来週はここを詰める。ただ」
 桐生は全員を見回した。
「一つだけ、はっきりしてきたことがある。この事件は、単なる技術上の問題ではない。東海精機という組織そのものが、問題を生み出す土壌になっている。かつて正しかった判断が、今は正しくない。しかし、その判断を下した人間が今も権力を持っている。その歪みの中で、誰かが動いている」
 中村が口を開いた。
「桐生さん、会長のことなんですけど」
「何だ」
「会長は悪い人じゃないと思います。総務の木下って社員と話したんですけど、会長が創業した頃の話を聞きました。プレハブの工場で一人で旋盤を回してたとか、取引先に何十回も門前払いされて通い続けたとか、社員の顔と名前と家族構成を全員覚えてたとか。この会社を作ったのは、間違いなくこの人です」
 中村は少し間を置いた。
「でも、木下さんはこうも言ってた。『会長のやり方だけじゃ、今はもう回らないんじゃないか』って。二十代の社員がそう思ってるんです。たぶん、社内の多くの人が同じことを感じてる。でも言えない。会長はこの会社の神話みたいなものだから」
「時代が変わったのに、会長が変わらなかった」桐生が答えた。
「そうだと思います。それだけのことなんだと思います」
 桐生はうなずいた。
「それだけのことが、二千人の会社を揺るがしている」
 誰も返事をしなかった。しばらく、空調の音だけが聞こえていた。
 佐藤が決算資料の分析結果を報告した。十年間の売上推移。利益率の低下。EV向け投資の遅れ。数字が裏付ける会社の危機。アナリストは、状況変化に対応できない会社と評価していること。
 報告会は一時間ほどで終わった。

─── 12 ───

 メンバーが帰った後、桐生は一人でオフィスに残った。
 ホワイトボードを見つめている。会長派と社長派の図。漏洩情報の偏り。AIサーバーの不審な挙動。

 会長の信念は、かつて正しかった。その正しさで会社を育てた。しかし、正しさには賞味期限がある。時代が変われば、昨日の正解が今日の間違いになる。変われなかった人間は、かつての正しさに縛られたまま、周囲を道連れにする。本人にその自覚はない。自覚がないからこそ、厄介だった。
 犯人は、その構造を壊そうとしている。会長派に不利な情報を選んで漏洩させている。目的はおそらく、会長の体制を崩すこと。会社を変えるためだろう。
 目的は間違っていないのかもしれない。しかし、機密情報の漏洩という手段は犯罪だ。
 桐生は、その考えをまだ整理しきれていなかった。犯人の姿が見えない。動機の輪郭は浮かび上がってきたが、顔がない。
 デスクライトの明かりが、ホワイトボードの文字を照らしていた。桐生はマーカーを手に取り、ボードの端に小さく書き加えた。
「目的と手段」
 桐生はその四文字を見つめてから、マーカーのキャップを閉めた。

 
 
 

A305

 
 
プライム上場企業で43年。現場・システム・経営企画・総務・広報・販促を経験、一貫してシステム構築に関与。IBM・NECで講演・セミナー講師も。今はITミステリー・警察小説を執筆。代表作「ハッカー・ハンター」「渋谷警察署嘱託捜査班 」。AI創作・ITセキュリティ記事発信。広島在住。

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