
《無料》ハッカーハンター・シリーズ/Act.3/AIクライム 第四章 四つの疑惑
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第四章 四つの疑惑
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三週目の月曜日、朝九時。KISSオフィスのミーティングルーム。
桐生はホワイトボードの前に立った。二週間にわたる調査で書き込まれた文字が、白いボードをほとんど埋め尽くしている。桐生はマーカーのキャップを外し、一本の赤い線を引いた。その下に、四つの名前を書き込んだ。
「容疑者を四名に絞る」
メンバーの目がホワイトボードに集まった。桐生がこの口調で話し始める時は、調査の局面が変わる合図だった。探索から、追跡へ。
桐生は一人目の名前を書いた。
「一人目。梶原亮。AI推進課課長。三十六歳」
桐生は梶原の名前の横に、「技術」「動機」「機会」と三つの要素を書き並べた。
「社長が外部からスカウトしたAIエンジニア。前職は大手IT企業のAI開発部門。東海精機社内でAIの全権を管理している。技術的に、AIを使った情報漏洩を実行できる人物としては最も可能性が高い。動機も整合する。社長の改革構想に共鳴して入社し、社長派に立っている。漏洩情報が会長派に不利な内容に偏っているなら、犯人は会長の体制を壊したい人間だ。梶原課長にはその理由がある。機会もある。AIサーバーには梶原さんと安藤さんしかアクセスしない」
「完璧すぎませんか」
佐藤が言った。
「完璧すぎる?」
「条件が揃いすぎています。技術も動機も機会もある。でも、社長が自ら連れてきた人間が、社長に無断で犯罪行為に手を染める。社長の信頼を裏切ることになる。社長が改革を進めたいのは梶原さんも知っているはずです。犯罪によって改革を加速させるなんて、社長が望むわけがない。それを梶原さんが理解していないとは思えません」
「確かに、その点は引っかかる。梶原課長が犯人だとしたら、社長の理念に共鳴しながら、社長が望まない手段を選んでいることになる。なぜそうなったのか。理念への共鳴が、どこかで暴走に変わったのか。それとも、社長が動かないから自分で動くしかないと判断したのか。動機の奥にある感情が、まだ見えていない」
桐生は二人目の名前に移った。
「安藤瑞希。AI推進課主任。二十九歳。梶原とともにスカウトされた。前職はAIスタートアップ。梶原の技術構想を実装する側だが、安藤自身も高い技術力を持っている」
「中村さんの観察では、梶原課長と安藤主任は常に一緒で、閉じた世界を作っている。しかし、二人の関係は対等ではない。梶原課長が設計し、安藤主任が実装する。指示する側とされる側。この関係の中で、安藤主任が梶原課長の知らないところで単独で動いている可能性はあるか。あるいは、安藤主任が梶原課長の指示に従いながらも、内心では疑問を抱いている可能性はあるか。気になるのは、田中さんが先週観察した安藤主任の様子――コーヒーマシンで震えていた手。そして、梶原課長へ向けた一瞬の視線だ」
田中が説明をフォローした。
「安藤さんの手の震えは、疲労かもしれないし、緊張かもしれない。ただ、あの一瞬の視線は、上司を確認する視線ではなかった。何かを確認している。梶原さんがそこにいることを確認しているのか、梶原さんの様子を窺っているのか。どちらにしても、安藤さんの中に梶原さんに対する複雑な感情がある。それは感じました」
桐生はうなずいた。
桐生は三人目の名前を書き込んだ。
「三人目。河合修三。情報システム部インフラ課課長。四十七歳」
「AI導入に当初から懐疑的で、AI推進課への批判を隠さない人物だ。サーバー管理の権限を持っていて、技術的にはAIサーバーへのアクセスも不可能ではない。動機としては、AI推進そのものへの反感がある。会長派寄りの立場で、AIで人事を決めるのは人間への侮辱だと考えている」
中村が首を振った。
「河合さんが犯人だとすると、話が合わないんですよ。河合さんは会長派寄りなのに、漏洩してる情報は会長派に不利なものが多い。自分の味方を攻撃する理由がない」
「直接結び付けるには無理がある。しかし、間接的な動機なら十分に考えられる。会長派に不利な情報を漏洩して混乱を起こし、その原因をAI導入に求めることで、AIの廃止に持ち込む。社長派の施策を失敗させるための回りくどい作戦も考えられる」と桐生は答えた。
「回りくどすぎませんか。河合さんはそういうタイプには見えない。不満は全部表に出す人です。裏で動くのは苦手だと思います」
「俺もそう思う」
山田がアロハシャツの裾を引っ張りながら言った。
「ただ、河合課長には技術力とアクセス権限がある。排除するには早い」
桐生は四人目の名前を書いた。
「堀内修。人事総務部長。五十五歳。この案件の依頼者だ」
佐藤のペンが止まった。
「堀内さんは犯人ではないと思う」
桐生が結論を先に言った。
「堀内部長にはAIを操作する技術力がない。しかし、犯人に気づいていながら真相を隠している可能性がある。堀内部長の態度を思い出してほしい。依頼時から説明を避けている。書き込みを止めてほしいとは言ったが、犯人を見つけてほしいとは言わなかった。犯人が特定されれば、会長派の権力構造が露出する。堀内部長はそれを恐れている。漏洩情報の中に会長派幹部の経費使用の明細がある。堀内部長自身にも火の粉が飛ぶ内容だ」
「依頼者が調査を妨害している?」と佐藤は訊いた。
「妨害とまでは言わない。しかし、全面的に協力しているとも言えない。堀内部長の立場は矛盾している。漏洩を止めたい。しかし、真相が明らかになっては困る。その矛盾の中で、堀内さんがどう動くかを見る必要がある」
桐生はマーカーを置いた。
「四名。梶原、安藤、河合、堀内。今週はこの四名に焦点を当てて調査する。中村さんは河合課長への接触を試みてくれ。田中さんはAI推進課の二人の行動パターンを詳しく記録してほしい。山田さんは漏洩情報の分析をもう一段深めてくれ」
─── 2 ───
月曜日の午後。中村は情報システム部のフロアにいた。
空調のダクト清掃という名目で四階に入っている。ダクトの作業は時間がかかるので、長時間フロアにいても不自然にはならない。天井近くの点検口を開けて、ダクト内部に懐中電灯を向ける。埃の堆積を確認しながら、耳と目はフロアに向けていた。
河合修三の席は、インフラ課の島の端にあった。四十七歳。中肉中背で、黒のポロシャツにチノパン。髪は短く刈り込み、もみあげが白くなりかけている。顔には険しさがあった。眉間の皺は、一時的なものではない。怒りが顔に出ているのではなく、不満を抱え続けてきた時間が、そのまま刻まれているようだった。
デスクの上は書類とメモ用紙が乱雑に積み上げられていた。モニターは二台あり、一台にサーバー監視ツールの画面、もう一台にメーラーが開いている。マグカップは二つ。片方は使われている。もう片方は、中身だけを残して放置されていた。ペン立てにはドライバーが一本刺さっていた。デスクの状態が、河合課長の仕事の仕方を物語っていた。複数の業務を並行して処理し、一つを片付ける前に次が割り込んでくる。管理職でありながら、実務をこなし続けている人間のデスクだった。
河合は電話が多い。声も大きい。受話器を肩と耳で挟み、通話しながら空いた手でメモを走らせる。
「いや、それはこっちの問題じゃない。サーバーの設定は変えてない。そっちのアプリの問題だろう」
障害対応の電話だった。相手の部署に非があると判断すると、遠慮なく指摘する。言い方がきつい。しかし、技術的な根拠に基づいた発言で、理不尽なことは言っていなかった。
河合の席からAI推進課のパーティションまでは十メートルほどの距離がある。河合は電話の合間に、パーティションの方を見ることがあった。見るというよりも、睨んでいた。目を細めて、パーティションの向こうにいるはずの二人に対して、隠す気のない敵意を向けている。
昼前に、河合が席を立って給湯室に向かった。中村はダクトの清掃道具を片付けるふりをして、タイミングを合わせた。
給湯室は情報システム部のフロアの隅にある。湯沸かしポットと電子レンジ、流しが一つ。蛍光灯が一本切れかけていて、光が時折ちらつく。中村が入ると、河合がマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れているところだった。スプーンで粉をすくう手つきが雑で、粉が少しこぼれた。河合はそれを気にせず湯を注いだ。
「お疲れさまです。設備の中村です。ダクト清掃でお邪魔してます」
「ああ。電話がうるさくてすまんな」
「いえ、こちらこそ作業中ご迷惑をおかけしてます。ダクト、だいぶ埃が溜まってました」
「だろうな。十年は手をつけてないんじゃないか。本社の設備なんて後回しだよ、うちは。工場の方に金が全部いく」
河合はコーヒーをかき混ぜながら、口元を歪めた。中村は話を広げた。
「空調の室外機も、屋上のやつは交換時期を過ぎてますね。来年の夏は厳しいかもしれません」
「確かにな、去年の夏も四階は地獄だった。三十度超えるんだよ、フロアの温度が。情シスにはサーバーがあるから空調が命なんだ。それなのに予算がつかない。工場のラインは毎年更新するくせに」
「設備投資の優先順位は会長の判断ですかね」
中村がさりげなく聞くと、河合の目が一瞬鋭くなった。設備担当がそんなことを聞くのは不自然だったかもしれない。しかし、河合は構わなかった。この男は、聞いてくれる相手がいれば話す。溜まっているものが多いのだ。
「会長は工場が好きなんだよ。ものづくりが一番大事だって。それ自体は間違ってない。この会社を作ったのは会長だし、工場の設備がしっかりしてるから品質が保てる。それは理解している」
河合はコーヒーを一口飲んだ。熱かったらしく、顔をしかめた。
「ただな、会長のやり方は全部が全部正しいってわけじゃない。この会社は変わらなきゃいけない部分もある。それは認める。でも、変え方が問題なんだ」
河合はマグカップを持ったまま、パーティションの方を顎でしゃくった。
「去年の秋から、あそこにAI推進課ってのができた。社長が外部から二人連れてきて、AIを導入するって言い出した。高い給料を払っている。予算もでかい。クラウドの利用料だけで、うちのインフラ課の年間予算と同じくらい持っていく。それだけの金をかけて、何をやってるか。誰にもわからない。ブラックボックスだよ」
「誰にも、ですか」
「誰にもだ。矢島部長にも説明しない。いや、するんだけどな、形だけの報告書を出して、『順調です』の一言で終わり。中身を聞いても、『専門的すぎて説明が難しい』で済ます。難しいじゃないだろう。説明する気がないんだ。あの二人は自分たちの領域に誰も入れたくない。城を作ってるんだよ、情シスの中に。俺たちの部署の中に、別の国を。独立国家だ」
河合の声に力がこもった。手にしたカップのコーヒーが小さく波打った。
「しかもな、AIで人事をやるんだと。人事評価をAIに管理させて、異動案をAIに作らせる。馬鹿にしてるよ。人事ってのは数字だけじゃ見えない部分がある。何年一緒に仕事してきたか、あいつはこういう時に踏ん張れるやつだとか、こいつは数字は出さないけど周りを支えてるとか。そういうことは機械にはわからない。わかるはずがないんだ。それを数字で並べ替えて、はい異動ですって。ふざけんなと思うよ」
河合はコーヒーを一口飲んで、息を吐いた。
「会長は正しいよ、その点に関しては。AIに人間のことを決めさせるな。俺はそう思う」
「河合さんは、ずっとこちらの部署ですか」
「二十年だ。パソコンがまだ少なかった頃から、ネットワーク引いて、サーバー立てて、障害が起きれば夜中だろうが飛んできて。この会社のシステムは俺が作ったようなもんだ。言い過ぎかもしれんが。でも、基盤の部分は間違いなく俺がやった。それが今じゃ、AIに全部持っていかれそうだ。AIが動くための帯域を確保するのも俺の仕事。自分の首を絞めるロープを自分で編んでるようなもんだよ」
河合は自嘲するように笑った。笑いの奥に、苦さがあった。
「まあ、あんたに愚痴を言っても仕方ないな。すまん」
「いえ。ありがとうございます。こうして話を聞かせてもらえると、建物のことがわかるんで助かります」
河合課長は軽くうなずいて、給湯室を出た。
中村は一人で残り、切れかけの蛍光灯のちらつく光の中で、河合の言葉を反芻した。
河合のAI推進課への敵意は本物だった。しかし、その敵意の底にあるのは悪意ではなかった。二十年かけて築いたものが、自分の理解できない技術に置き換えられていく恐怖。会長が「ものづくりの原点」に固執するのと、河合がAIを拒むのは、根が同じだ。過去の正しさに立脚して、現在の変化を受け入れられない。
ただ、犯人としての河合には疑問が残った。河合は不満を隠さない。裏で犯罪を犯す人間は、表面上の態度をもっと制御する。過去の犯人も表面上は穏やかだった。不満を内に溜め、閾値を超えた時に行動に出る。河合はその真逆だ。不満を溜め込まず、常に放出している。
排除はできない。しかし、犯人の像としてはずれている。
─── 3 ───
火曜日。田中は情報システム部のフロアで、保守作業を続けながらAI推進課の二人を時間帯ごとに観察した。
ノートに記録を取っていく。梶原と安藤が何時に出社し、いつ席を立ち、誰と話し、どのくらいの時間サーバールームにいたか。二人の行動のリズムを把握するための作業だった。
梶原は朝八時五十分に出社した。ほかの情シス社員より十分早い。パーティションの中に入ると、まずモニターの電源を入れ、画面が立ち上がる前にコーヒーを取りに行く。戻ると、キーボードに向かう。そこから、ほとんど動かない。姿勢が良く、背筋がまっすぐで、両手がキーボードの上に置かれる。タイピングの速度が速い。何かに没入すると、周囲の音が聞こえなくなるようだった。インフラ課の渡辺が声をかけた時、二度呼ばれてようやく顔を上げた。
安藤は九時ちょうどに出社した。梶原より十分遅い。席に着くと、まず梶原の方を見る。梶原が画面に集中していれば、安藤もそのまま自分の作業に入る。梶原が何か話しかければ、安藤はすぐに応じる。二人の間には、言葉にならない合図のようなものがあった。梶原がキーボードを叩く手を止めて、画面を指さす。安藤が自分のモニターでそのページを開く。短い会話。頷き。また作業に戻る。
二人がパーティションの外に出るのは、コーヒーを取りに行く時、トイレに行く時、矢島部長に報告する時だけだった。昼食は食堂に行かず、デスクで取ることが多い。安藤がコンビニの袋を二つ提げて戻ってくる日があった。一つは自分の分で、もう一つは梶原の分。梶原は安藤から袋を受け取り、短く礼を言った。
午後二時。梶原課長が席を立った。パーティションを出て、矢島部長のデスクに向かった。手には薄いファイルを持っている。矢島がファイルを受け取り、中を見て、何か質問した。梶原が答える。短い会話だった。矢島がうなずき、梶原はパーティションに戻った。
田中はそのやり取りを見ていた。梶原は矢島には報告をする。しかし、田中の目から見て、あのファイルの中身がどこまで正確なのかは疑問だった。矢島はAIの管理者ではない。見えているのは、梶原が意図的に見せている情報だけかもしれなかった。
午後三時。安藤が席を立ち、サーバールームに入った。ICカードと暗証番号で扉を開ける。田中は自分のデスクから、扉が閉まるのを確認して、時刻を記録した。十四時五十八分。安藤がサーバールームにいた時間は十二分間だった。十五時十分に出てきた。
田中は安藤の顔を見ていた。出てきた瞬間の表情。パーティションに戻る前の数歩。その間に、安藤の唇の力がわずかに抜けた。緊張が解けた後の表情だった。保守作業を終えた後の「やれやれ」ではない。何かをやり遂げた後の、安堵に近い緩みに見えた。
サーバールームで何をしたのか。通常のメンテナンスなら、インフラ課の河合か渡辺がやるはずだ。AI推進課の安藤がサーバールームに入る理由は、AIサーバーの操作に限られる。十二分間。何を操作したのか。
田中はサーバールームに入る機会を窺った。午後四時過ぎ、ネットワーク機器のパッチ適用を口実にサーバールームに入った。冷たい空調の風と、低い機械音。いつもの環境だった。
AIサーバーのラックに近づくと、側面に小さなラベルが追加で貼られていた。手書きで「保守中・触るな」と書いてある。先週はなかったラベルだった。テープで固定されていて、剥がした形跡はない。最近貼られたものだ。
田中はラベルの前に立った。
【触るな】
これは単なる注意書きではない。領域を宣言する言葉だ。このサーバーは自分たちのものだ、ほかの人間は関わるな。梶原か安藤が貼ったのだろう。AIサーバーを自分たちだけの聖域にしている。
田中はラベルの内容と位置をノートに記録した。写真は撮らなかった。保守員がサーバーの写真を撮れば怪しまれる。
─── 4 ───
水曜日の午前十時半。桐生のスマートフォンが鳴った。画面に「堀内」と表示されている。桐生は一呼吸置いてから出た。
「桐生です」
「東海精機の堀内です。お忙しいところすみません。お電話、よろしいでしょうか」
堀内の声は丁寧だった。しかし、最初の一言のテンポがいつもより速い。急いでいる。急いでいるが、急いでいることを悟られまいとしている。
「はい、大丈夫です」
「調査の進み具合を伺いたいのですが。もう三週間になりますので」
三週間。堀内がわざわざ日数を口にした。これは催促だ。しかし、それだけではない。三週間の調査で、こちらがどこまで掴んでいるのか。相手はそれを測ろうとしていた。
「調査は順調に進んでいます。社内の状況を把握する段階から、焦点を絞る段階に入っています」
「焦点を絞るというのは、何か見えてきたということですか」
堀内の声がわずかに上がった。半音。普通なら聞き逃す程度の変化だが、桐生はそれを聞き逃さなかった。「見えてきた」という言葉に、堀内は反応を示した。何が見えたのかを知りたい。見えたものの中に、自分に関わるものがないかを確認したいように聞こえた。
「いくつかの傾向は把握しています。ただ、まだ確定的なことは申し上げられる段階ではありません」
「傾向とは、どういう」
「漏洩されている情報の範囲と、その内容の傾向です。どのような情報が漏洩の対象になっているかには、パターンがあります」
電話の向こうが一瞬沈黙した。パターンがある、という言葉を堀内が咀嚼している。パターンがあるということは、KISSが漏洩情報の内容を分析しているということだ。分析しているということは、どの情報が多く漏洩しているかを知っている。会長派に不利な情報が多いことに、気づいているかもしれない。
「……パターンですか」
「はい。詳細はレポートでお伝えしますが、漏洩されている情報には偏りがあります。すべての社内情報が無差別に漏洩しているわけではありません」
沈黙が三秒続いた。桐生はその三秒を計っていた。堀内が次に何を聞くかで、彼の立場が見える。
「偏りというのは、たとえばどういう……」
「たとえば、技術情報や特許に関する情報はほとんど漏洩していません。漏洩しているのは、経営会議の資料、人事に関するデータ、役員の経費使用の明細、取引先との契約条件です」
役員の経費使用の明細。桐生は意図的にその言葉を入れた。堀内の反応を見るためだ。電話の向こうで、堀内が息を飲む音がかすかに聞こえた。
「……そうですか」
堀内の声は平静を装っていたが、明らかにトーンが変わった。低くなった。防御に入った声だった。
「桐生さん、一つお訊きしてもいいですか?」
「はい、どうぞ」
「そういった情報にアクセスできる人間は、社内にどのくらいいるとお考えですか」
堀内が質問を返してきた。これは防御の動きだった。アクセス権限の範囲を聞くことで、容疑者の枠を広げようとしている。自分が含まれる枠が広ければ広いほど、自分に焦点が当たる確率は下がる。
「それは私がお聞きしたいことでもあります。堀内さんは人事総務部長として、経費使用の監査を担当されていますね」
「はい、そうです」
「ということは、堀内さんもそのデータにアクセスできる立場です」
沈黙が長くなった。五秒。七秒。桐生は待った。
「……私が疑われているのでしょうか」
堀内の声は震えていた。そこにあったのは怒りではない。怯えだった。罪を犯した者が見せる怯えとは違う。隠してきたものに、誰かが触れようとしている。その瞬間に感じる怯えだった。
「疑っているわけではありません。調査の過程で、アクセス権限を持つ人間の範囲を把握する必要があります。堀内さんにもご理解いただきたい」
「……わかりました」
「もう一つ確認させてください。情報流出が始まった頃と現在で、公開されている内容に変化はありますか。正確な分析でなくても構いません。堀内さんが感じている範囲で教えてください」
桐生は話題を変えた。堀内をこれ以上追い詰めると、協力を完全に引き出せなくなる。逃げ道を作りながら、情報を引き出す。
「変化……そうですね」
堀内は少し考えた。質問に答えることで、自分への疑惑から話題が離れることに安堵したのか、声が少し落ち着いた。
「最初の頃は、製造に関する情報が多かったように思います。原価とか、製造工程とか。最近は、人事に関するものが増えました。幹部の異動案とか、評価に関するものとか。それから、役員の……経費のことも」
「範囲が広がっている、ということですか?」
「そう思います。最初は製造だけだったのが、今は会社のあらゆる部門に広がっている気がします」
「ありがとうございます。とても参考になります。また進展があればご連絡します」
「お願いします。一日も早く止めてほしいのです」
「承知しています」
電話が切れた。桐生はスマートフォンをデスクに置いた。椅子の背にもたれて、天井を見た。
堀内は犯人ではない。桐生はそう確信している。しかし、堀内は何かを知っている。犯人が誰なのか、あるいは犯人が誰であり得るのか、見当がついている。それを言えないのは、犯人の特定が会長派の体制を崩壊させるからだ。堀内にとって、犯人を守ることが自分の立場を守ることに等しい。
しかし、漏洩が続くことで堀内の立場も追い詰められている。メインバンクの支店長から直接電話が来た。信用問題になりかねない。堀内は止めたい。しかし、解決されてはならない。その矛盾の中で、堀内は探りを入れてきた。KISSがどこまで知っているかを確認し、自分に火の粉が及ぶかどうかを測っている。
桐生は堀内の声を思い返した。「偏り」という言葉を聞いた時の沈黙。「経費使用の明細」を聞いた時の息を飲む音。「疑われているのか」と聞いた時の声の震え。すべてが、秘密を守ろうとする人間の反応だった。
─── 5 ───
木曜日。中村はダクト清掃の仕上げで四階に入りながら、河合と梶原の位置関係を観察していた。
十メートルの距離。物理的にはフロアの端と端ではない。しかし、二人の間には見えない壁がある。河合はパーティションの方を見る時、明らかに不快な表情をする。梶原はパーティションの外をほとんど見ない。河合の存在を意識しているのかどうかさえ、わからなかった。
午前十一時。河合が立ち上がってコピー機に向かった。コピー機はパーティションの横にある。河合がパーティションの中をちらりと見た。梶原がモニターに向かっている。安藤は席にいなかった。サーバールームに入っているのかもしれない。
河合はコピー機の前で立ち止まった。コピーのボタンを押す前に、もう一度パーティションの中を見た。今度は少し長く見た。視線の先に何があるのかは、中村からは見えなかった。しかし、河合の目は梶原の画面を見ようとしているように見えた。
コピーが終わると、河合は用紙を取って席に戻った。歩きながら、小さく舌打ちをした。先週も同じ場所で舌打ちを聞いた。河合にとって、パーティションの横を通ることは、異物の近くを通ることと同じなのだろう。
午後になると、河合インフラ課長の声とインフラ課の社員たちの応答が、フロアの向こうから聞こえてきた。
「AIサーバーのネットワーク帯域、また増えてるぞ。ピーク時にこっちの業務系サーバーのレスポンスが落ちてる」
「AI推進課に連絡しますか」
「言っても無駄だ。あいつらに言っても『推論エンジンの特性上、帯域の変動は不可避です』って返すだけだ。不可避だとよ。こっちは二十年インフラ管理してきて、帯域の設計も全部やってんだ。不可避なんて言葉で片付けられてたまるかよ」
河合の声には、技術者としての矜持が滲んでいた。自分が設計したネットワークを、自分が理解できない技術に食い荒らされている。そのことへの怒りは、個人的な感情だけではなく、技術者としての職業意識に根ざしていた。
中村はダクトの最後のパネルを閉めながら、河合の言葉を整理していた。河合がAI推進課を憎んでいるのは事実だ。しかし、河合の怒りは「外に向かう」タイプの怒りだった。電話で相手に文句を言い、同僚に不満を漏らし、パーティションの方を睨む。発散する。溜め込まない。犯罪を犯す人間は、逆だ。外に出さず、内に蓄積し、ある日突然、別の形で爆発する。河合はそのタイプではなかった。
─── 6 ───
木曜日の夜。山田はKISSオフィスで、漏洩情報のスプレッドシートを新しい角度から分析していた。
先週は情報の内容別に分類して、会長派に不利な情報の偏りを確認した。今週は二つの新しい軸を加えている。一つは、漏洩された情報がどのサーバーに格納されているデータなのか。もう一つは、元データの更新日時と、ネット上への投稿日時のラグだった。
まず、サーバーの特定。経営会議の資料はグループウェアサーバーに保存されている。人事評価のデータは人事AIが管理している。経費使用の明細は経理部のファイルサーバーにある。取引先との契約条件は購買部のデータベースにある。
漏洩情報は、四つの異なるサーバーに分散しているデータから構成されていた。
山田の手が止まった。四つのサーバーすべてにアクセスできる人間は限られている。だが、本当に引っかかったのはそこではなかった。ログインする。データを探す。抜き出す。選別する。そして投稿する。その繰り返しを、三か月以上、ほとんど同じ精度で続けている。人間の作業として考えると、どこか不自然だった。
次に、ラグの分析。山田はスプレッドシートに新しい列を追加した。
「ソースサーバー」「データ更新日時」「漏洩投稿日時」「ラグ(時間)」
百件以上のデータを突き合わせていった。
経営会議の資料が社内サーバーに置かれてから、ネット上に投稿されるまでの時間を、一件ずつ計算していった。
気づけば、手にしていたコーヒーはすっかり冷めていた。何気なく缶に口をつけ、冷たさに触れた瞬間、山田は自分が長い時間、画面と向き合っていたことに気づいた。
結果が出た。ラグの平均は二十七時間。最短十八時間、最長三十六時間。散布図にすると、二十時間から三十六時間の帯にきれいに収まった。外れ値がほとんどない。
人事評価のデータも、経費の明細も、同じパターンだった。更新から漏洩まで、約一日。山田はグラフを見つめた。このきれいさが異常だった。人間が手動でやっているなら、ラグにはもっと揺らぎが出る。会議が重なった日は対応が遅れるし、休み明けは溜まった分をまとめて処理する。人間の行動には生活のリズムが反映される。しかし、このラグの分布には生活のリズムが見えない。機械のリズムだった。
さらに、山田は一つの漏洩投稿の中に、複数のサーバーからのデータが混在しているケースに気がついた。経営会議の資料と、人事評価のデータと、経費使用の明細が、一つの投稿にまとめて掲載されている。三つのサーバーから抜き出した情報を、一つのテキストに統合して投稿している。
人間がやるとしたら、三つのサーバーにそれぞれログインし、必要なデータを抽出し、一つのドキュメントにまとめ、匿名化してネットに投稿する。できなくはないが、毎回やるのは煩雑だ。しかも、この作業を人間がやっている痕跡——ログインの記録、ファイルのダウンロード履歴——はセキュリティ会社二社が調べて見つからなかった。
しかし、AIならどうか。
業務支援AIは社内文書を処理するために、グループウェアサーバーやファイルサーバーと日常的に通信している。人事AIは人事データを管理するために、経理のデータにもアクセスする権限がある。二つのAIが通常業務の中で各サーバーのデータに触れながら、その裏で特定の基準に従って情報を選別し、蓄積し、外部に送信する。正規の業務通信に偽装すれば、通常のログ解析では検知されない。
田中が発見した深夜の処理。午前二時から三時四十分にかけて、バックアップジョブを避けるように動く不明な処理。あれが翌日に漏洩するデータを各サーバーから収集し、選別し、送信用に準備する工程だとしたら。昼間の送信過多が、準備したデータの外部送信だとしたら。
すべてのピースが、一つの仮説に向かって収束していく。
しかし、確証がない。AIの中で何が起きているのかを直接見なければ、仮説は仮説のままだ。AIの内部を解析するには、AIそのものに踏み込む技術が必要になる。
山田はモニターから目を離して、天井を見た。自分に、その技術があるかもしれない。かつてはあった。今もあるかどうかは、わからない。山田はその考えを振り払うように、缶コーヒーの空き缶をゴミ箱に投げた。缶は縁に当たって、中に落ちた。
モニターに視線を戻す。スプレッドシートの数字が並んでいる。正確なラグ。きれいな分布。四つのサーバーを横断する情報収集。選別の意志。
「完全に選んでいる」
山田は声に出して言った。オフィスには自分しかいなかった。
「何を出すか。いつ出すか。どこから取るか。全部、選ばれている。人間がやっているにしては、正確すぎる。揺らぎがなさすぎる」
山田の声は、オフィスに響いた。