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《無料》ハッカーハンター・シリーズ/Act.3/AIクライム 第二章 潜入

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第二章 潜入


─── 1 ───

 月曜日の朝。中村大輔は東海精機の正門前に立っていた。
 首から下げた身分証には「浜崎メンテナンスサービス 中村大輔」とある。紺色の作業着。安全靴。ヘルメットは腰のホルダーに差したまま。名前は本物だ。偽名は使わない。余計な疑いを招く可能性がある。KISSの名前は出さない。協力会社の社員として入る。それが、丸海フーズや浜崎地所でも使ったやり方だった。佐藤が用意した経歴では、前職は浜松市内のビルメンテナンス会社で、空調設備の保守を三年間担当したことになっている。

 正門の守衛室は、コンクリート造りの古い建物だった。屋根の塗装が剥げかけている。正門の向こうに見える本社棟は、外壁がタイル張りで、建てられてから三十年以上は経っているだろう。ただし、玄関周りだけは最近改修されたらしく、自動ドアのガラスとステンレスのフレームが新しい。古い建物に新しい皮を被せたような、ちぐはぐな印象だった。

 守衛室で受付を済ませると、総務部の若い社員が迎えに来た。
「今日から入っていただく中村さんですね。よろしくお願いします」
 本社棟のロビーに入った瞬間、中村の目に飛び込んできたのは、一体の胸像だった。台座には「武田征四郎」と刻まれている。創業者の姿を残したブロンズ像。鋭く前を見据える目。突き出した顎。そこにあるのは、迷いを知らない人間の顔だった。
 壁には「誠実 堅実 創造」という社訓が掲げられている。金色の文字は朝の光を受けながら、冷たく光っていた。
 ロビーの空気には、微かに油の匂いが混じっている。工場が近い。空調を通して、プレス機のオイルの匂いがここまで届いている。この匂いが嫌だという社員はいないだろう。ここで何十年も働いてきた人間にとっては、この匂いが日常の一部のはずだった。

 総務部の事務室に通され、設備管理の担当者と打ち合わせをした。中村に割り当てられたのは、本社棟と第一製造棟の空調・電気設備の定期点検だった。各フロアの空調室外機、電気設備の配電盤、非常用照明の動作確認。社内のどの階にも出入りできる。設備の不具合があれば、各部署に直接連絡を取ることもある。
 これも、佐藤が協力会社を通じて手配した配置だった。中村はうなずきながら説明を聞いた。担当者は人の良さそうな中年の男で、点検のルートや注意事項を丁寧に教えてくれた。中村がセキュリティエンジニアだとは、誰も思わないだろう。作業着を着て、工具箱を提げて、黙々と点検をする設備担当者。それが今の中村だった。

─── 2 ───

 同じ月曜日の午前十時。
 田中美咲は情報システム部のフロアにいた。
 IT保守ベンダー「テクノサポート浜崎」のエンジニアとして、本名で入構している。白いブラウスに黒いスラックス。胸には来訪者用のIDカードをつけている。普段のアニメTシャツとは別人のような服装だが、田中にとって潜入時の服装は道具の一つにすぎない。調査に必要な格好をして、必要な役割を演じる。今回の潜入でも、その切り替えに淀みはなかった。

 情報システム部は、本社棟の四階にあった。フロアの半分を占める大部屋で、デスクが島状に並んでいる。窓際に部長席があり、その横にホワイトボードが二枚。フロアの奥にサーバールームへ続く扉がある。扉には電子錠がついていた。
 社員は二十名ほどが出勤していた。画面に向かっている者が多く、会話は少ない。キーボードを叩く音と、エアコンの送風音が混じり合っている。

 田中を迎えたのは、インフラ課の渡辺という若い社員だった。二十代後半。眼鏡をかけている。田中の役割は、あくまで定期保守担当者だった。社内ネットワーク機器のファームウェア更新。セキュリティパッチの適用。そのための二週間の常駐契約だった。
 渡辺に案内されて、フロア内を歩いた。
「ここがインフラ課です。隣がアプリケーション開発課です。奥にあるのがサーバールームになります。入るにはICカードと暗証番号が必要です。今回の保守作業で使用するため、田中さん用に一時的な入室カードと暗証番号を準備しました」
 渡辺はカードケースから一枚のICカードを取り出して、田中に渡した。
「暗証番号はこちらの紙に。覚えたら破棄してください」
 田中はカードと紙を受け取り、ちらりと暗証番号を見た。紙をポケットにしまうと、数字はすでに記憶していた。

 窓際の部長席では、矢島情報システム部長がモニターに向かっていた。五十歳。短い白髪交じりの髪に、銀縁の眼鏡。田中が渡辺に連れられて挨拶に行くと、矢島は椅子から立ち上がり名刺を手に取った。
「よろしくお願いします。何かあれば、遠慮なく声をかけてください」
 声は低く、落ち着いている。田中と目を合わせたとき、視線が一瞬だけ長く留まった。観察する目だった。単なる保守ベンダーにする挨拶にしては、相手を見る時間が長い。真の技術者は人を見るときも、システムを見るときと同じように本質を探るのだろう、と田中は思った。

 田中は丁寧に頭を下げて、割り当てられたデスクに向かった。
 フロアの奥に、パーティションで区切られた一角が見えた。他の島とは明らかに距離がある。パーティションは腰の高さで、中にいる人間の上半身は見えるが、画面は見えない。
「あそこはAI推進課です」
 渡辺が言った。
「AI推進課」
「去年の秋にできた部署です。うちの部の中にあるんですけど、正直、別の組織みたいなもので」
 パーティションの向こうに、二人の社員がいた。一人は三十代半ばの男で、白いシャツの袖をまくっている。背筋がまっすぐで、画面に向かう姿勢に迷いがない。もう一人はその隣のデスクで、二十代後半の女性が画面をスクロールしていた。髪をひとつに束ねている。
「課長の梶原さんと、主任の安藤さん。二人でAIの管理をしています」
 渡辺の声が少し低くなった。
「社長が外からスカウトしてきた人たちなんです。前職は大手のIT企業と、AIのスタートアップだったかな。技術のレベルが、うちの部の人間とは違うんですよね。悪い意味じゃなくて、あの二人の仕事に口を出せる人が、部長を含めて誰もいないんです」
 田中はうなずいた。梶原と安藤のデスクの配置が気になった。二人は隣り合っているが、パーティションの外の社員とは明らかに空間が隔てられている。フロアの中に、見えない壁がもう一枚ある。
 渡辺は続けた。
「AIの導入自体、社内でいろいろ意見があったんですよ。特に人事AIは。AIが人事の案を作るなんて、って。でも社長の方針だから」
「社長の方針?」
「はい。うちの社長、改革派なんです。DXとか、業務の効率化とか、いろいろ進めたがってる。でも」
 渡辺はそこで口をつぐんだ。言いかけて、やめた。
「まあ、いろいろあるんですよ、うちは」
 田中は追及しなかった。初日に踏み込みすぎると警戒される。渡辺の「いろいろ」の中身は、時間をかけて拾えばいい。

─── 3 ───

 月曜日の午後。中村は本社棟の各フロアを巡回した。
 空調設備の点検を名目に、地下一階から五階まで順に回っていく。工具箱を提げ、チェックシートを持って、吹き出し口の風量を測り、配電盤の表示を確認する。本物の点検作業だった。手を抜くわけにはいかない。手を抜けば、設備の担当者に怪しまれる。

 一階は受付と総務部。電話の応対の声が飛び交っていて、活気がある。二階は営業部と購買部。ここも声が大きく、営業部の社員は外出と帰社を繰り返していた。ドアの開閉音が頻繁に聞こえる。
 三階で、空気が変わった。
 経理部と経営企画部のフロアだった。話す声が低い。電話で話す社員も、受話器を口に近づけて、聞こえないように話している。廊下ですれ違う社員の表情が硬い。中村が会釈すると、返事はするが、目が笑っていなかった。
 中村は空手の試合の前の空気を思い出した。試合場に入る直前、対戦相手がウォーミングアップしている姿が見える。相手の構えを見れば、何を狙っているかは大体わかる。しかし、構えの裏にある感情――恐怖なのか、自信なのか、諦めなのか――は、構えだけでは読めない。身体が発する微妙な緊張の質を、皮膚で感じ取る必要がある。
 三階の空気には、その種の緊張があった。社員たちは普通に仕事をしている。だが、どこか力が入っている。肩に力が入ったままの社員がいる。声を潜めるように話す社員もいる。何かを警戒している。それが何なのかは、まだ見えなかった。
 四階の情報システム部は、田中がすでに入っている。中村は空調の点検だけを済ませて、すぐに通過した。田中と目を合わせなかった。同じ会社に二人の調査員が入っていることを、互いの振る舞いで悟らせてはならない。
 五階の役員フロアに上がると、空気がまた変わった。
 三階の緊張とは質が違う。ここは静かだった。カーペット敷きの廊下に足音が吸い込まれる。照明は明るいのに、光が沈んでいるように感じる。人の気配が少ない。社長室、会長室、専務室、常務室、会議室が廊下の両側に並んでいるが、ドアはすべて閉まっていた。

 空調の点検を続けながら、中村はさりげなく周囲を確認していた。視線の先に並ぶ白いプレート。
「会長室」「社長室」「専務室」「常務室」
 会長室のドアだけが、妙に存在感を放っていた。ほかのドアより厚く見える。防音対策なのか。それとも、中村がそう感じているだけなのか。その場では確かめようがなかった。

─── 4 ───

 翌日の火曜日。田中は保守作業を進めながら、社内サーバー群の構成を一つずつ確認していった。
 業務サーバー、ファイルサーバー、メールサーバー、グループウェアサーバー。それぞれのOSのバージョンとパッチの適用状況を記録する。これが名目上の作業だが、田中の本当の視線はネットワークの通信パターンに向いていた。
 ICカードを認証させ、暗証番号を入力する。サーバールームの扉が静かに開いた。冷却された空気が流れ出し、同時にサーバーの低い駆動音が耳に届く。室温は二十二度。安定した環境が維持されている。並んだラック。整理された配線。天井トレーを走るケーブルにも乱れはない。ここを管理している人間が、細部まで手を抜かない性格であることが伝わってきた。

 田中はラックの間を歩きながら、サーバーの配置を確認した。業務系のラックが三本、開発系が二本、ネットワーク機器が一本。その奥に、他のラックから少し離れた場所に、二つのサーバーが収まったラックがあった。
 ラックの側面にラベルが貼ってある。
「AI-01 業務支援」「AI-02 人事管理」
 田中はラックの前に立ち止まった。二つのサーバーは、他の機器とは別のスイッチングハブに接続されていた。独自のサブネット。そして、ラックの背面から一本の光ファイバーケーブルが、壁の配管を通じて外に出ている。他のサーバーとは別系統の外部接続回線だった。
 インフラ課の渡辺に頼んで、ネットワーク構成図のコピーを受け取った。A3サイズの図面に、本社棟と工場棟のネットワーク全体が描かれている。

 田中はデスクに戻って図面を広げた。社内LANは業務系、開発系、工場制御系の三セグメントに分かれている。ファイアウォールで仕切られた標準的な構成だった。外部接続はインターネット回線と取引先VPNの二系統。
 AIサーバーは業務系セグメントの中に置かれているが、専用のサブネットに隔離されている。そしてAIサーバーだけが、独自の外部接続回線を持っていた。
 田中は図面のAIサーバーの部分にマーカーで丸をつけた。
 AIには外部との通信が必要だ。大規模言語モデルの推論処理を外部のクラウドサービスに委託しているのか、あるいはAPIの呼び出しで外部のAIエンジンを使っているのか。いずれにせよ、AIサーバーが外部と通信する正当な理由がある。そして、その正当な通信の中に不正な送信が紛れていれば、通常のネットワーク監視では見分けがつかない。
 セキュリティ会社二社が痕跡を見つけられなかった理由は、ここかもしれない。田中はそう考えた。しかし、考えたことをまだ誰にも言わなかった。まだ仮説にもなっていない。ただの直感だった。

─── 5 ───

 水曜日の昼。中村は社員食堂にいた。
 食堂は本社棟の一階にあり、工場の社員も利用する。席数は三百ほど。昼の時間帯は混雑して、トレーを持った社員が列を作る。設備管理の作業着を着た中村は、工場の作業員たちに紛れて違和感がなかった。

 窓際の席で日替わり定食を食べていると、食堂の風景が見えてくる。作業着の社員とスーツの社員が混在しているが、テーブルの選び方にはっきりとした境界がある。作業着の社員は窓際と奥のテーブルを使い、スーツの社員は入口に近いテーブルを好む。二つのグループが同じ空間にいるのに、ほとんど交わらない。
 食堂の壁に、大きな社是の額が掛かっている。
【品質は命 納期は約束 改善は日課】
 文字は筆書きで、署名は「武田征四郎」とあった。この言葉を毎日見ながら食事をしている社員たちは、もうこの額を見ていないだろう。風景の一部になっている。

 隣のテーブルに、四十代くらいの男性社員が二人座った。スーツ姿で、首からIDカードを下げている。三階の経理か経営企画の社員だろう。二人は小声で話し始めた。
「結局、人事の話、どうなったの」
「流れたよ。上が首を縦に振らなかったらしい」
「社長が出した案だろ。なんで通らないんだ」
「わかってるだろ。あっちが首を振らないんだよ」
 中村は味噌汁を飲みながら、聞いていた。「あっち」という言い方。名前を出さない。出さないのではなく、出せないのだ。この食堂で、その名前を口にすることには、何かのリスクがある。
「あっちだって、もう……」
「しっ。やめとけ」
 一人が周囲を気にして、声を落とした。中村は食器を片付ける動作をして、自然に視線を外した。二人の会話はそこで途切れた。

 中村は食器をカウンターに返し、食堂を出た。
 食堂前のロビーに掲示板がある。社内報、組合の案内、福利厚生のチラシ。その中に「会長の一言」というコーナーがあった。A4サイズの紙に、短い文章が印刷されている。
「諸君、初心を忘れるな。我が社の原点はものづくりである」
 署名は「取締役会長 武田征四郎」だった。日付は先月のものだ。
 中村はその紙をしばらく見つめた。九十二歳の会長が毎月これを書いているのか。それとも、誰かが会長の名前で書いているのか。どちらにしても、この紙が毎月ここに貼り出されるということは、会長の存在が社内で依然として重いということがわかった。

─── 6 ───

 水曜日の午後。田中はネットワーク監視ツールの画面を睨んでいた。
 AIサーバーの通信パターンを、時系列で観察している。業務支援AIは社員のリクエストに応じて動く。朝の始業時に通信量が増え、昼休みに減り、午後に再び増えて、終業後に落ちる。人間の活動に比例したパターンで、これは正常だった。
 人事AIは通信量が少ない。日常的なリクエストは多くなく、定期的にファイルサーバーと同期している程度に見える。

 田中の注目は、外部接続の通信に向けられていた。
 二つのAIサーバーは、外部のクラウドサービスと常時接続している。AIの推論エンジンとの通信で、これ自体は正常な動作だ。AIが社員のリクエストに答えるためには、外部の推論サーバーにデータを送り、結果を受け取る必要がある。
 田中は通信量のグラフを一分単位で表示させた。通常、こんな粒度で見ることはない。
 通常のAPI通信は、リクエストとレスポンスの往復で、パケットサイズも通信時間も一定の範囲に収まる。社員がメールの下書きを依頼すれば、テキストデータが送られ、生成されたテキストが返ってくる。このパターンは繰り返される。
 しかし、グラフの中に、わずかなピークがあった。
 通常のAPI通信の合間に、短時間だが通信量が上がる瞬間があった。上がり方が違う。通常の通信はリクエストとレスポンスのペアで、送信量と受信量がほぼ対称になる。しかし、このピークの部分は送信量が受信量を大きく上回っている。データが外に出ている。
 一日に数回、三分から五分程度。そのピークは昼休みの時間帯に集中していた。
 田中はそのピークの部分のパケットを抽出しようとした。しかし通信はTLSで暗号化されており、中身を見ることはできない。通信先のIPアドレスはクラウドサービスの正規のアドレスと一致していた。
 同じIPアドレス、同じポート番号、同じプロトコル。通常のAI推論リクエストと、この不規則な送信が、完全に同じ外見を持っている。

 田中は画面の前に立ち、腕を組んだ。
 これを「不正」と断定する材料はまだない。AIサーバーが昼休みに何らかのバッチ処理を実行している可能性もある。学習データの更新や、キャッシュの整理。技術的に説明がつく理由は複数ある。
 しかし、田中のフォレンジストとしての経験が引っかかっていた。以前の案件でも、不正の痕跡は最初から明確に見えたわけではない。正常な通信の中に紛れた、わずかな逸脱。それを拾い上げるのが、田中の仕事だった。
 ノートに書いた。
「AIサーバー外部通信に不規則な増加あり。昼休み帯に集中。送信過多。暗号化済み。通信先は正規IPと一致。要・継続監視」
 セキュリティ会社二社がこれを見逃したのは無理もなかった。通信先が正規のクラウドサービスと同じIPアドレスでは、不正な通信だと判断する根拠がない。フラグを立てる理由がどこにもない。田中がこれに引っかかったのは、通信量のグラフを一分単位まで細かく見たからだ。通常の監査では、そこまで細かい粒度では見ない。

─── 7 ───

 木曜日。中村は五階の役員フロアに入った。
 空調の室外機は屋上に設置されていた。五階から屋上へ上がるには、専用階段を使う必要がある。事前に総務部を通じて連絡は済ませていたため、役員秘書室の社員が案内役についた。四十代の女性だった。物腰は穏やかだったが、中村に向ける視線には、はっきりとした警戒が混じっていた。
「余計なことには踏み込まないでほしい」そんな意図が伝わってきた。

 五階の廊下を歩く。カーペットが厚く、足音が消える。照明は一階より明るいはずなのに、空間が沈んで見える。人の声が聞こえない。
 会長室のドアの前を通りかかったとき、中から声が聞こえた。ドアが薄く開いている。高齢の男性の声だった。
「……あの男はだめだ。いくら言ってもわからん」
 もう一つの声が応じた。低く、疲れた声だった。
「はい、会長。仰るとおりです」
「あいつを外せ。今すぐ外せ。なんで言うことを聞かんのだ」
「……検討いたします」
「検討じゃない。やれと言っているんだ」
 会長の声には怒気があった。しかし、相手の返答を待たずに同じ指示を繰り返す話し方だった。聞いているのではなく、命じている。反論の余地を与えない。長年、そうやって組織を動かしてきた人間の声だった。

 もう一つの声――おそらく村上常務か、荒木専務のどちらかだろう――は、否定も肯定もしていなかった。「検討いたします」という言葉は、受け止めるための言葉であって、実行を約束する言葉ではない。この人物は、会長の言葉を聞きながら、それを実行しないことに慣れている。
 中村は足を止めなかった。歩調を変えず、案内の秘書室の社員と一緒に階段の方に歩き続けた。立ち止まれば、聞いていたことが知れる。潜入調査員がすべきことは、存在しないかのように振舞うことだ。
 それでも、耳に残った。
「あいつを外せ。今すぐ外せ」その声だった。九十二歳になった今でも、その一言には人を従わせる重さがあった。この会社を一代で築き上げた人間の声だ。その判断に従い、組織は何十年も動いてきた。
 だが、声に力があることと、その判断が正しいことは別だった。

 屋上に出ると、風が吹いていた。工場棟の屋根の向こうに、遠くの山の稜線が見える。中村は室外機の点検をしながら、五階で聞いた声を反芻していた。

─── 8 ───

 木曜日の夕方。田中はAI推進課の安藤と短い会話を交わした。
 共用のコーヒーマシンが情報システム部のフロアの隅にあり、田中のデスクはその近くだった。安藤がカップを持ってコーヒーマシンに来たとき、田中は自然に声をかけた。

「お疲れさまです。保守の田中です」
「ああ、今週から来ていただいてる。安藤です」
 安藤は丁寧な口調だった。声が小さい。目の下にうっすらと隈がある。コーヒーマシンのボタンを押す指先が、わずかに震えていた。疲労か、緊張か。田中にはまだ判断がつかなかった。
「AI推進課の方ですよね。社内にAIがあるなんてすごいですね」
「ええ、社長の方針で導入しました」
「どんなAIを使っているんですか? 差し支えなければ」
 安藤はすぐには答えなかった。何かを確かめるように考えた後、ゆっくりと言葉を選び始めた。
「業務を支援するものと、人事の管理をするものと、二つあります。社員の方が日常的に使うのは業務支援の方です。メールの文案を作ったり、議事録を整理したり」
「便利そうですね」
「ええ。社員の方には好評です。人事の方は」
 安藤は、また言葉を選んだ。
「評価のデータを管理したり、異動の案を作ったり。最終判断は人間がしますけど、AIが下地を作る形で」
「お二人で管理されてるんですか」
「はい。課長の梶原と、私の二人で」
「二人で全部を? 大変ですね」
 安藤はコーヒーカップを両手で包んだ。その手が、また微かに震えているのが見えた。
「……そうですね」
 安藤の目が、一瞬だけ、パーティションの向こうの梶原の方を見た。すぐに戻した。
「大変なのは大変ですけど、やりがいはあります」
 その言葉は、誰かに聞かせるためではなく、自分に言い聞かせるような響きだった。
 安藤はコーヒーカップを持って、パーティションの向こうに戻った。田中は去っていく安藤の背中を見つめながら、二つのことが頭から離れなかった。一つは、安藤の手の震え。もう一つは、あのとき安藤が梶原へ向けた一瞬の視線だった。

─── 9 ───

 週末の金曜日。田中はKISSオフィスに戻り、山田に対面で報告した。
 山田のモニターには、ネット上の漏洩情報を整理したスプレッドシートが映っていた。行数はすでに百を超えている。
「外部通信に不規則なパターンがありました」
 田中が言った。
「AIサーバーから外部への送信で、通常のAPI通信とは別の通信が混ざっています。送信量が受信量を大幅に上回っていて、昼休みの時間帯に集中しています。データが外に出ている可能性があります」
「暗号化されてて中身は見えないんだろ」
 山田は椅子を回し、田中に向き直った。裾の出たアロハシャツは、今日もそのままだった。
「ええ、見えません。通信先のIPも正規のクラウドサービスと同じです。ログだけ見たら正常な通信としか判断できません」
「セキュリティ会社が見落としたのはそこか」
「おそらくそうだと思います。異常と判断できる根拠がありません。通信先は正規、プロトコルも正規、ポート番号も正規です。私も一分単位で通信量のグラフを見なければ、気づきませんでした」

 山田は缶コーヒーに手を伸ばした。飲まずに、缶の表面を指で叩いている。考えている時の癖だった。
「俺の方も話していいか」
「どうぞ」
「漏洩情報のパターンを整理してたんだけど、いくつか面白いことがある」
 山田はスプレッドシートをスクロールした。
「まず、書き込みの時間帯。平日の昼間に集中していて、夜間と土日がほぼゼロ。次に、一次情報を投稿しているアカウントが複数あるんだけど、どれも文体が同じ。事実だけを列挙して、感情が入ってない。怒りも、自慢も、悪意もない。データをそのまま転写しているような書き方」
「同一人物が複数アカウントを使っている?」
「それも考えた。で、もう一つ」
 山田は特定の書き込みを指さした。
「この投稿。部品の原価率なんだけど、小数点以下三桁まで出てる。人間が覚えて書いたにしては精度が高すぎる。これはデータベースから直接引っ張ってきた数字だ」
「コピペ、したみたい」
「そう、コピー・アンド・ペースト。で、漏洩してる情報に偏りがある。経営会議の資料、人事評価、人事異動案、幹部の経費使用。こういう内容が多い。技術情報や特許関連はほとんど出ていない」
 田中は山田の画面を見つめた。
「選別されているのですか?」
「ランダムじゃない。誰かが、何を漏らすか決めて選んでいる。しかも、選び方に方向性がある。会社の技術的な競争力を傷つける情報は出していない。傷つけているのは、経営陣の信用と、社内の人間関係だ」
 二人は黙った。
 山田が缶コーヒーを一口飲んだ。
「で、そういう選別を、人間がやっているのか。それとも」
 山田はそこで言葉を切った。
 田中も、それ以上は口にしなかった。同じことを考えていた。小数点以下三桁まで揃った精度。感情を排した文章。平日の昼間という時間帯。AIサーバーが休止時間に送っていた、不規則な通信。
 すべてが偶然とは思えなかった。だが、まだ口にするには早い。仮説を立てるには材料が足りない。二人ともそれを知っていた。

─── 10 ───

 金曜日の夜。KISSオフィスに全員が揃った。
 一週間の報告会だ。桐生がホワイトボードの前に立ち、メンバーが報告事項を共有していく。
 中村が社内の空気について語った。フロアごとに変わる緊張の質。社員たちの視線の向き方。食堂で聞いた「あっち」という言葉。五階で漏れ聞こえた会長の声。
「社長が出した人事案を、会長が潰している。九十二歳の会長が、人事権を握っている。五階で聞いた声は、間違いなく人事についての指示だった。具体的に誰かを『外せ』と言っていた」
 桐生はホワイトボードに「会長 人事権」と書いた。
 田中がAIサーバーの通信パターンについて報告した。外部通信の不規則なパターン。送信過多。昼休み帯の集中。暗号化による内容の不可視。
 山田がネット上の漏洩情報の分析結果を加えた。平日昼間の投稿パターン。小数点以下三桁の精度。感情のない文体。漏洩情報の偏り。
 佐藤が有価証券報告書と業界紙から得た情報を共有した。創業者の会長。娘婿の社長。特別顧問料。EV化の波と業界再編の中で「対応が遅れている企業」という評価。

 桐生はホワイトボードに書き出した情報をしばらく見つめた。
「一週間で見えたことを整理する」
「一つ。漏洩は内部犯行の可能性が高い。データベースから直接抜き出された形跡がある。二つ。流出した情報には意図がある。経営陣を傷つける情報だけが選ばれている。技術情報は出ていない。三つ。社内には二つのAIがある。管理者はAI推進課の二人だけ。AIサーバーから外部への不自然な通信も確認されている。四つ。九十二歳の会長が、今も社長の上にいる。人事権を握り続けている。その事実は、社内では公然の秘密だ」
 桐生はマーカーを置いた。
「犯人、動機、方法。まだ何も確定していない。来週はここを詰める」
 中村が腕を組んだ。
「桐生さん、あと一つだけ」
「何だ」
「食堂で聞いたんです。社員が愚痴みたいに言ってた」
 中村は一拍置いて話した。
「『うちの会社には社長が二人いるんだよ』って」
 社員食堂の騒がしさと、あの社員の疲れた声を思い出していた。

 
 
 

A305

 
 
プライム上場企業で43年。現場・システム・経営企画・総務・広報・販促を経験、一貫してシステム構築に関与。IBM・NECで講演・セミナー講師も。今はITミステリー・警察小説を執筆。代表作「ハッカー・ハンター」「渋谷警察署嘱託捜査班 」。AI創作・ITセキュリティ記事発信。広島在住。

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