
異世界に行けなかった俺の半生。|最終話 #20 異世界に一番近づいた日
あのとき、俺はまだやれると思っていた。
壊れていることに、気づかないまま。
▶ 初めての方はこちら
#1 壊れた家と、死の匂い
▶ 全話まとめはこちら
→ 異世界に行けなかった俺の半生。マガジン
朝礼が終わったあと、俺は江東店と販売センターの仲間たちに、深く頭を下げた。
荒れたこの店を、立て直したとき、
あのときと同じように、新規事業も、きっとやり切れると信じている。
「みんな、また……ね」
最後の挨拶の途中で、声が少し震える。
俺は笑って誤魔化したが、誰も笑い返さず、ただ、俺のことを見つめていた。
本当は、江東店のみんなや、販売センターのみんなともっと一緒に働きたかった。しかし、それが叶うことはない。
販売センターの外部委託については、業務引き継ぎの段取りを整えた。
あとは、みんなに任せれば大丈夫だ。俺の出る幕はないだろう。
——本当にありがとうございました。
顔を上げると、職人ドライバーが静かに頷いた。
『ーー会社、変えたってください。』
あの言葉を胸に残し、俺は本社へ向かう。
営業レースの賞金で直した新しい看板が、少しずつ視界から遠ざかっていった。
この頃、細々と付き合っていた彼女と籍を入れた。
仕事の悩みを聞いてもらっているうちに、いつしかそんな関係に。
ご両親への挨拶は済ませていたものの、本業がこの状態では落ち着いて式も挙げられない。
あと少しで落ち着くから。
妻にはそう言って引っ越しだけを済ませ、あとのことは色々先延ばしにしていた。
名刺の肩書きが変わった。
「経営企画部 部長」
印刷された文字を見ても、イマイチ実感が湧かない。
役職が変わったからといって、経営企画部長として十全に動けるわけじゃない。手の中で、その紙が少し重く感じた。
本社の廊下は明るいのに、どこか冷たい。
経営企画部──
ただの派遣だった俺を、主任待遇で引き上げてくれた、あの部長が管理していた部署。
あの人の退職とともに、経営企画部は廃止されたが、新体制で再編された形になる。
創業社長の右腕として信頼された、かつての経営企画部長。
俺は少しでも彼に近づくことができているのだろうか。
いまなら、あの創業社長の助けとなれるのか。
いや、まだだ。まだ全然足りない。
もっと。もっと修羅場をくぐらななければ、あの人の右には立てない。
もしかしたら、そんな日は永遠に来ないのかもしれない。
それでも、やるしかない。中卒の俺にはもう後がないんだ。
頑張れ。
それは。
呪いの言葉。
経営企画部。
俺が不在の間は、男性の主任と女性の事務員ふたりで新規事業を回していると聞いている。主任は現場に出たまま、事務所にはほとんど戻っていないらしい。
机の上には、未開封の段ボールが積まれ、
伝票は重なったまま、誰の手にも触れられず埃が積もる。
何かが滞っているような、そんな空気。
俺はYシャツの袖をまくり、黙って一番上の箱を開けてみた。
ほこりをかぶった段ボールの中には、ハンドソープとマスクの箱。
新品であるはずなのに、やけにくたびれて見える。
天井の蛍光灯が、わずかに点滅する。
俺は――ここで、本当にやり直せるのだろうか。
経営企画部が抱えている事業。
それは「既存店舗の活用事業」だった。
既存の物流ネットワークを使って、オフィスの衛生用品を定期的に補充する。「置き菓子」のような事業といえば、わかりやすいかもしれない。
ハンドソープ、除菌ウェット、マスク。どれも、オフィスにあると便利なものばかりだ。
だが――
勢いがあるはずの新規事業の現場は、すでに疲弊していた。
「……以上が、現状の報告です」
事務員の女性に経営企画部の現状を確認して、現実を突きつけられた。
在庫はあちこちに散らばって管理しきれていない。
人が動く補充ルートは、作業効率を無視したかのように入り組む。
ただ作業しているだけーー。これが最初の印象だった。
誰も事業の全体像を把握していないし、改善される雰囲気もない。
本来であれば、事業を少しずつ動かしながら、PDCAサイクルを回していくべきだが、部長の俺は不在。主任も現場に出たまま戻らず、監督不在のまま選手だけが動いていた。
事務員が黙々と報告書をまとめる。
誰も読まず、資料としてすら使われていない報告書を。
昼過ぎ。現場の主任から一本の電話が鳴った。
事務員の女性と一瞬目が合ったので、俺が出るといって受話器を手に取った。現場に出ずっぱりの主任は、疲れているのか声は低い。
「すみません、今日も補充、間に合いそうにないです」
抑揚のない声で主任が告げた。
「あまり無理をしないで。無理な分は、明日に回していいから。
明日以降、対策を考えていこう」
そう返したが、返事はなかった。
電話の向こうで、台車を押す音と主任のため息。
その音が、妙に遠く聞こえた。
机の上には、角が少し折れた報告書。
俺はそれを見つめながら、どこから手を付けるか考えていたが――答えはすぐには出なかった。
事務所作業の手が空いたタイミングで、現場に足を運んだ。
そこでは配送店の片隅を間借りして、スタッフたちが作業を進めていた。
本業である配送業務の邪魔にならないよう、静かに。
主任の姿が見えたので、声をかける。
「ちょっと、現場が混乱してるみたいだけど、実際どんな状態?」
「はい……」
押し込んでいた言葉が、主任の口から静かにこぼれた。
新規事業の立ち上げを任されて、嬉しかったこと。
俺の部下になれるのが、誇らしかったこと。
しかし、いくら待っても俺が来ない。
「早く事業を開始しろ」上からの圧力。
手探りで新規事業を立ち上げるも、何もかもがうまくいかない。
協力してくれる人はいない。
新規事業への熱意はいつか、彼にとって重荷に変わっていった。
誰にも相談できないまま、自分にできることを探して動き続けて
――気づけば、ここまで来ていた。
「そうか……すまなかった」
主任がどんな状態でここまで来たのか。
それだけは、分かった。
俺も、同じだったから。
まず、潰れかけている現場を落ち着かせなければならない。
手押し台車に、大量のオフィスグッズを詰めて何キロも歩く。
正直、見ていて、まともなやり方とは思えない。
最初に、電動アシスト自転車と、自転車に接続する台車を導入した。
現場スタッフの足を、少しでも軽くしたかったからだ。
地獄のようだった往復五キロの道のりが、一気に縮まる。
初めて乗った電動アシスト自転車は、想像以上に快適だった。
オフィスグッズが満載された台車を繋げても、体が重さを感じない。これはすごい。
しかし、この台車……右左折時、けっこう危ないな。
車や歩行者視点で見て危険と感じた部分は、乗車前の安全運転講習に組み込んだ。
次に、手を付けたのは作業の拠点の見直しだった。
配送拠点の片隅を間借りしているようでは、やりたいこともできない。
拠点を本社二階の空きスペースへ移した。
「既存店利用のコンセプトから外れるだろう」
経営陣は強く反発したが、基盤を整えなければ何も始まらない。
俺は無理やり押し切った。
本社二階の空きスペース。
陽の当たる場所に机を並べ、棚を組み替えた。
工具でネジを締めていると、その横で、女性事務員がコードを束ねていた。
「なんか、家の引っ越しみたいですね」
そう言って笑った彼女の声が、久しぶりに明るく聞こえた。
俺はその後も、できることから手をつけていった。
管理システムを見直し、入力ルールを整理。
補充ルートを組み直し、無理のない形に整える。
人を揃え、現場に出す前に研修を実施する。
ひとつずつ整えていく。
それだけで、事務所の空気が少し変わった。
現場に出たまま戻らなかった主任も、現場を出発させると事務所に戻るようになり、俺と一緒に事業の運営に力を入れはじめた。
――ああ、この感覚……江東店を思い出すな。
凍りついていたような事務所に、少しずつ笑い声が溶け込んでいく。
このままいけば、この事業も形にはなるだろう。
「ただいまー」
久しぶりに明るい気持ちでマンションの扉を開けると、妻が出迎えてくれた。
「おかえりー。ん?なんかいいことでもあったの?」
「それがさぁ、聞いてくれよ……」
晩酌しながら、得意げに業務改善の話を熱弁すると、
その夜は、久しぶりにぐっすり眠れた。
現場が、ようやく落ち着きを取り戻し始めた頃、営業用の携帯が鳴る。
「ああ、部長、経営企画部に合流されたんですよね」
財務経理部の部長だった。
「はい。おかげさまで少しずつ整ってきてはいます」
財務経理部が俺に何の用事なのか。
何を言われるのか考えていると、一瞬、間が空く。
「整ってきている……ですか。
部長が担当している新規事業、真っ赤なのはご存知でしたか?
毎月、150万の赤字です。正直、今すぐ撤退してほしいくらいです」
毎月150万円の赤字?
役員が試算を承認して立ち上げたんじゃないのか?
どういうことだ?
「……どんな前提で、スタートしたんですか」
「社長の一存です。稟議すらされていません。
こちらは何も関与していませんよ」
俺は無意識に、机の端を指で叩いていた。
「損益計算書を、すぐ送ってください」
通話を切ってしばらくするとメールが一通届いた。
「件名:損益計算書の件」
添付された書類に目を通した瞬間――絶句した。
すべては、はじめから崩れていた。
どう試算しても、赤字。赤字。赤字。
既存店舗の利用、人員の削減、仕入れの調整。
何をどう変えても、行きつく先は赤字。
顧客が増えるほど、損失が膨らむ負のスパイラル。
電卓を叩くたび、その音が胸に響いた。
「原価率70%超え……? そんなはずはない」
指先が、冷たくなった。ページをめくるたびに、静寂が深くなる。
――これは……どう頑張っても無理だ。
黒字化できないような事業を、なぜ会社は始めたんだ?
何かがおかしい。
蛍光灯の下、報告書の白がやけに眩しい。
キィーーーーーーーーーーーン
その夜、初めて耳鳴りがした。小さな、耳の裏で鳴り続ける高周波。
この日俺は、――事業の撤退を心に決めた。
翌日、資料を手に本社へ向かった。
――会議室。
社長と役員を前に、商売として成り立っていない事を理由として、新規事業の撤退を進言。
だが、返ってきたのは、あまりにも軽い一言だった。
「まだ、何もやっていないですよね。」
「やれることは、まだまだあるはずだろう?」
「あなたが経営企画部に来た意味を、考えてください。」
その言葉を聞いた瞬間、押し返せない圧が、心の奥できしんだ。
ーーああ、またか。
どこかで、聞いたような声。
机上の空論を並べる、あの頃と同じ音。
「人員を減らしてでも、あの事業は継続してください」
「在庫は、何度も回して対応しろ。腐るものじゃないだろう」
黒字化できないまでも、限界までコストを削減し、事業としての形だけは成り立たせる。
言いたいことは分かる。
だが――
既存のインフラに新規事業を乗せて、利益を積み上げるはずだった。
――その前提は、どこへ消えた。
そんな歪んだ考えの上に、従業員を乗せるのか。
この事業を信じて働いている人間に、それをやらせるのか。
いつ消えるかも分からない仕事を。
「私は人間的撤退をしたいんです!」
何度も伝えた。
だが、役員を納得させることはできなかった。
――何のためにこの事業を続けるんですか。
その問いは、ついに口には出なかった。
会議室のガラスに映った、自分の顔。
その表情が、一瞬、他人のように見えた。
主任、事務員を含めたスタッフには、現状を隠さずに説明した。
「責任者不在の中、みんなで力を合わせてくれた結果、この事業は少しずつ良くなりました。
……でも、この事業は商売として成り立ちません。
つまり、いつ終わってもおかしくない……完全に俺の力不足です。本当に申し訳ない。」
主任に丸投げで始まり、赤字だけが積み重なっていった。
俺は何のために、ここにいるんだろうか。
――
本社の廊下ですれ違いざま、事業本部長から吐き捨てるように言われた。
「部長、あの赤字のオフィスグッズ部門、配送員と同じ制服を着せてるらしいじゃないですか。
やめてください。勘違いされる。
モデル店だかなんだか知らないが、何でも自分の好きにできると思わない方が良い」
確かに配送員と同じ制服を着せているが、それに何の問題があるのか。
言い返したところでどうしようもないので、俺は頭を下げた。
「申し訳ありません。すぐ変更します」
江東店成功の裏では、他人の嫉妬が渦を巻く。
俺にはもう右腕も、左腕も、ない。
相談できるような仲間は、ひとりもいない。
この日も耳鳴りが続いた。
――やっと部長が来たと思ったら、突然職場がなくなると言われた。
新規事業の現場から見れば、そういう話だ。
俺の判断で業務を縮小したことで、現場の空気は重く変わっていた。
言葉を選ぶたびに、喉の奥が熱くなる。
「本日から、補充ルートには余裕を持たせてください。空いた時間は、就職活動に使っても構いません。他部署を希望するなら、私が口を利きます。相談があれば、いつでも乗ります」
一度、言葉を切る。
「全員の行き先が決まるまでは、この事業は続けます。だから……焦らなくて大丈夫です」
「……ふざけんなよ。」
誰かがボソッとつぶやいた声が聞こえた。
「あなた、顔色良くないよ。会社でなんかあったの?」
よっぽど顔色が良くなかったのか、家に帰ると妻に声をかけられた。
「あぁーー、ちょっと疲れてるから先に寝るよ」
そうだ。
俺があと少し頑張れば良いだけの話だ。
こんなの余裕だろう?何度も壁を乗り越えてきただろう?
そう自分に言い聞かせることしかできない。
ベッドに横になったが、仕事のことを考えるとなかなか寝付けない。
部屋の明かりを落とし、机の上を、何度も拭いた。
拭いても、拭いても、同じ場所を磨いていた。
それが、なぜか世界と自分を繋ぐ作業のように思えた。
手を止めると、自分が消えてしまうような。
指先の動きが止まると、また耳鳴りがした。
最初は、小さな音。それが、少しずつ近づいてくる。
蛍光灯の残光が、天井に滲む。
その光が、息をしているように揺れて見えた。
ーー俺は、まだ大丈夫だ。まだ戦える。
そう呟いた。
でも、その声が、既に自分のものではないように聞こえていた。
おれは。
まだ。
大丈夫。
その日は出社しても、誰とも顔を合わせなかった。
主任は現場、事務員は外回りで、電話も鳴らない。
静かすぎる部屋で、コピー機のファンが唸っていた。
パソコンのモニターに向かって、数字を打ち込む。手が、勝手に動く。
しかし、頭の中では何も考えていない。思考と動作が、かみ合っていない。
昼になったが、食欲が湧かなかった。
コンビニの袋を開け、明太子のおにぎりを半分だけ食べる。
味がしなかった。
机の上に残ったそれをゴミ箱に捨てても、「もったいない」という感覚さえ湧かなかった。
――
午後。
社長からメールが届いた。
『今日の進捗を共有してください。経営企画部の役割を、もっと明確に。』
文字を追う目が、途中で止まる。
「俺にばっかり言わないで、自分でやってくれよ」
返信を打とうとしたが、指が動かなかった。
――
夕方、窓の外の光が、ゆっくりと色を失っていく。
その消え方が、妙にきれいに見えた。
それが、今日唯一の感情だった。
数日が経った。
自分の何かが、おかしい。
だが、それが何なのか分からない。
出社したのかどうかすら、思い出せない日があった。
パソコンの電源を入れた記憶はある。その先が、抜け落ちている。
誰かが話しかけてきた気がする。返事もした気がする。
――誰だったか、思い出せない。
――
気づくと、耳鳴りがしている。
机の上に、書類が山のように積まれていた。
どこから手をつけていいか、分からない。
指先に力が入らない。マウスを握る手が、わずかに震えていた。
息を吸うのも、億劫だった。
――
家に帰ったのは、何時だったか。
靴を脱いだところで、動けなくなった。
「いつまで、玄関に座ってるの?ねえ、本当に大丈夫なの?」
誰かの声がした。
玄関の灯りが、やけに白い。
その光が、自分の影を床に貼りつけていた。
俺は、その影を見ていたが、自分がそこにいるのか分からない。
気づけば、夜が明けていた。
机の上には、書きかけの退職届。
ペンの跡が、途中で止まっている。
――それを、ただ見ていた。
今思えば、その退職届をそのまま提出してしまえばよかったのかもしれない。
商品の仕入れ値が、明らかにおかしい。
一人で事業の資料を追っていくうちに、仕入れ先が同じ資本系列であることに気づいた。
請求書の数字を細かく見はじめると、手が止まった。
――高すぎる。
同じグループの中で、片方が利益を吸い上げ、もう片方が赤字を背負っている。
なぜ、こんな事業を始めたのか。
誰が得をしているのか。
数字を追うほどに、構造が見えてくる。
……なるほど。そういうことか。
怒りは、湧いてこなかった。
「まあ、そんなもんだろう」
机の上の資料を閉じた。
考えるのもめんどくさい。
指先が、冷たかった。
一人、また一人と辞めていくスタッフ。
「部長、短い間ですがお世話になりました」
そして、ある日主任が辞めた。
結局、何もしてあげることは出来なかったが、それも仕方ないだろう。
それに……人が減ると静かになって助かる。
そう思った瞬間、俺の中で何かが静かに折れた音がした。
ーー
ペンを直角に並べ、書類を等間隔に揃える。机の上を整える。それだけで、胸の中のノイズが少し静まった。
人が減り、サービスの提供エリアを港区と千代田区の二区に絞った。
現場を縮めていくほど、部屋は静かになっていく。
その静けさが、いつの間にか俺にとっての「安心」に変わっていた。
新聞を開くと、筆頭株主のファンド会社が倒産したニュースが、一面に掲載されていた。
またか。
この会社は、倒産するかもしれない。
それでも、もはや何も感じることはなかった。
むしろ――はやく倒産してほしい、とさえ思った。
そうすれば、もうここにいなくて済む。家に帰ることができる。
家?
まるで、遠い国の話みたいだ。
そういえば……
若い頃、ニュージーランドにいたときも、日本を見て同じことを思っていたな。
ハハッ。
おかしくもないのに、勝手に笑いが出た。
事業が競合する会社を探し、一人で事業譲渡の動きを始めた。
売却の対象は、この「オフィスグッズ事業」。
膨らんだ赤字を少しでも回収し、そして……そのまま退職させてほしい。
それだけが俺の最後の願いだった。
誰かが片をつけないといけない仕事だと、自分に言い聞かせて。
資本がまた変わるので、社内は大騒ぎしている。
うるさい社長も役員も退陣が決まっているので、今はもう何も言わなくなった。
こうして、稟議の承認が下り、新規事業の撤退が正式に決まった。
事業の売却先を探して数週間。
交渉を続けていた大手通信会社と事業譲渡契約がまとまった。
あとはーー
在庫の処理。
機材の引き渡し。
帳簿の整理。
そして、俺の退職ーー。
全ての工程を、一人で進めた。
事業の売却額は、四百万円。
それが、この事業の“終わりの値段”。
営業損失はその何倍もあったが、
俺の頑張りを誰も褒めないので、意味もなく自画自賛した。
ーー
引き渡し当日。
譲渡先の担当者が、4トントラックで機材と在庫を受け取りに来たので、俺と、女性事務員の二人で対応した。
これが彼女にとって最後の仕事になる。
書類にハンコを押し、箱を積み終えると、彼女が小さく笑った。
「これで、ぜんぶ終わりですね。」
俺は頷くが言葉が出ない。
嬉しい?悲しい?いや何の感情もわかない。
エンジンがかかると、低い音を残してトラックはゆっくりと走り出し、その音が消えると、空になった事務所が、静かになった。
蛍光灯のうなりだけが、かすかに響く。
その週末、女性事務員が退職した。
彼女の机の上に置き手紙があった。
白い便箋には、こう書かれていた。
お世話になりました。
ありがとうございました。
文字が、やけに整っていた。
俺は、その紙を折りたたみ、机の引き出しに入れた。
そして、引き出しを閉めた瞬間、事務所が完全に無音になった。
前の社長が、会社を買い戻した。
つまり、今度の新社長は、前の社長だ。
説明すると長くなるが、俺にとっては、もうどちらでもよかった。
もう退職させてほしい。
俺の環境は、もはやあの頃とはまるで違っていた。
――江東店のみんな、元気かな。
楽しかったな。
あの場所に帰りたいな。
ある日、原状回復を終えたはずの、事務所の電話が鳴った。
「新体制が、お前に残ってほしいと言っている」
電話の向こうで、退陣予定の社長が淡々と言った。
「俺を便利屋みたいに使えると、思わないでくださいよ」
気づけば、口が勝手に動いていた。
怒りではない。ただの反射ーー。
新しい管理本部長による、四度目の説得で、俺は折れた。
断る気力が、交渉する力が残っていなかったと言っていい。
ただ、
流されただけだった。
新しい肩書きは、「管理本部 副本部長」だった。
役員の一歩手前。
担当する業務は「法務」だった。
契約書の発行、締結、リーガルチェック。
新店舗の開発、賃貸借契約。
各種リース契約案件の管理。
……そして、訴訟案件。
通常、顧客クレームは「顧客サービス」の範囲で処理する。
俺が担当するのは、その外側。
会社のリスクヘッジだった。
その日、本屋に立ち寄ってビジネス書を買い漁った。
「契約書の読み方」
「法務のQ&A」
やる気もないのに。
もう逃げたいのに。
身体がまだ俺を無理やり動かす。
新体制になってから、初めて本社に顔を出した。
すれ違う視線が突き刺さる。
誰も何も言わない。俺も何も言わない。
「経営企画部で失敗したやつが、どの面下げて本社に戻ってきたんだ」
「お前がやっていた事業の赤字の補填、誰がやるんだ。」
俺にはそんな声が、聞こえていた。
空気が、音を失っていた。
エントランスのガラスが、朝の光を反射していた。
まぶしいよりも先に、目を細めた。
デスクの上には、新しい名刺の箱。
角が立っていて、やけに白い。
「管理本部 副本部長」
名刺の紙が、少し厚くなった気がした。
指でなぞると、体が少し重くなった。
会議室に入る。
ドアが閉まる音が響く。沈黙が、机の上に均一に並んでいた。
ガラスに映る自分の顔が、少し老けて見えた。
時計が、小さく音を立てると、世界が、少しだけ動いた気がした。
ただ、俺は何も感じなかった。
その日の午後、俺は取引先のオフィスにいた。
テキスタイル系の取引先。
貨物が遅れたと、損害賠償を請求してきた。
ここまでくると、現場で処理できる話ではない。
俺が出ることになった。
事前に、運送約款を確認しておいた。
「遅延による損害は補償しない」
それだけの一文。それで十分だった。
法を盾にしてしまえば、もう何も言わせる必要はない。
――法を盾に相手を蹴散らす。
久しぶりに、熱くなった気がする。
「誠意をみせて、いただけますか」
相手は、配達遅延を理由に、損害を主張した。
だが、すでに商品は売却済み。
「では、実損は発生していないということで。
商品の原価買取による補償であれば、検討の余地はありますが、商品は既に売却済みとのこと。誠意という意味であれば、会社として正式に謝罪いたします。」
そう言った瞬間、空気が変わった。
「そういう問題じゃないだろう!」
声が弾ける。
「やりすぎると、話が変わってきますよ?」
俺は、声を変えずに約款を開いた。
「運送約款第十四条に明記されています。配送の遅延による損害については、補償の対象外です。」
沈黙。
相手の呼吸が荒くなる。
「上の人間を出せ」
「私がトップです。上はいません」
相手が、一瞬、言葉を失った。
俺は、静かに書類を閉じた。
「本件はこれで協議終了とさせてください。
合意内容は、後日、弁護士を通じて正式な書面をお送りします。」
相手は唇を噛み、それでも頷いた。
沈黙。
空調の音だけが、やけに大きく聞こえた。
申し訳ないとも、勝ったとも思わなかった。
ただ、生きている実感だけがあった。
朝のメールを開くと、各店のトラブル報告が並んでいた。
契約書の誤送信。請求データの破損。顧客からの督促。
どれも、よくある日常のひとつと感じていた。
午後には、別の問題が起きた。
倉庫の在庫が合わない。伝票も、ない。誰のせいかを探す会議。
沈黙ばかりが続いた。
その沈黙の中で、俺はなぜか、笑っていた。
「おかしいですよね」
誰かの声に合わせて、また笑ってしまった。
笑いながら、喉の奥が痛くなった。
――
夕方。今度は配送車が人身事故を起こした。
保険会社、顧客、警察への対応に社内が騒然としている。
頭の中で、手順をなぞる。
それなのに、口角が勝手に上がっていた。
「笑ってる場合じゃないですよ!」
総務部長に言われた。
「そうですよね。すいません。」
そう答えながら、まだ笑っていた。
夜。机の上の書類を束ねる手が震えた。
それでも、俺は笑っていた。
声を出さずに。
反社会的な香りのする顧客から、直接の配送クレームがあった。
対応を誤れば、会社に火がつく。
それでも、俺は妙に落ち着いていた。
呼び出された、足立区にあるアパートの一室。
大きな神棚に掲げられた半紙が、冷房の風で揺れていた。
謝り続けていると、何故か許された。
「もういいわ。帰れ、お前」
謝罪を終え、ふとアパートの入り口を見ると、
「子ども相談室」と書かれたシールが貼ってあった。
小さなクマのキャラクターが、笑っていた。
思わず、
笑ってしまった。
夜。携帯が鳴った。
「販売センター」の沖縄出身の元部下の名前が、液晶に浮かんでいた。
数秒、見つめたあと、電話を取らずに切った。
そのまま、机の上のペンを揃えた。
数日後、外注先に転籍したはずの、沖縄出身の元部下が、パワハラが原因で退職したと聞いた。
俺は、驚かなかった。
「そうか。静かになるな」
そう口にしてから、自分が今、何を言ったのか分からなくなった。
鶯谷駅のホーム。
電車の通過音が、遠くから近づいてきた。
風が吹き抜ける。シャツの裾が揺れた。
少しだけ、身体が前に傾いた。
一歩。
その一瞬、
音がすべて消えた気がした。
手と背中に、
汗が滲んでいた。
俺は何かを掴もうとしたのか。
何故、手を開いたままだったのか。
……覚えていない。
中野区担当の所長から連絡が入った。
「社宅に入居している新卒が、三日も無断欠勤している」
新宿の社宅に向かった。
扉の前で、一度だけ深呼吸をした。
中からは、何の音もしなかった。
管理人が鍵を開ける。
玄関の光が、部屋の奥まで伸びていく。
その先に、
彼女がいた。
変わり果てた姿で。
「いいな」
何が「いいな」なのかは、わからない。
その言葉だけが、他人の声みたいに浮かんでいた。
光が、
少し揺れた気がした。
「この電話番号は、現在使われておりません。」
プープープー
ピッ
「この電話番号は、現在使われておりません。」
プープープー
ピッ
「この電話番号は、現在使われておりません。」
プープープー
ピッ
「この電話番号は、現在使われておりません。」
「この電話番号は、現在使われておりません。」
「この電話番号は、現在使われておりません。」
「この電話番号は、現在使われておりません。」
ーー
朝。
携帯の発信履歴が、同じ番号で埋まっていた。
ーー販売センター
いつから、何故電話をかけて続けていたのか。
思い出せなかった。
会議が終わるころだった。
頭の奥で、カン高い音が鳴り響いた。
最初は、何かのノイズかと思った。
ーーこれはいつもの耳鳴りと違う。
少しじっとしてみたが、音は消えない。
次の瞬間、世界がゆっくりと、横に回り出した。
視界が強制的に回る。
左から右への一方通行。
平衡感覚が失われていく。
誰かの声が、遠くで響く
輪郭がぼやけて、言葉の意味が分からなかった。
椅子を掴もうとして、手が空を切った。
立ち上がった瞬間、視界が歪んだ。
壁に手をついた。冷たかった。
それでも、体を支えることができなかった。
床が斜めに傾いて見えた。
息ができない。
汗が滲む。
頭の中が、遠くでざわついていた。
足音。
声。
何人かがこちらを見ていた。
誰かが、俺の名前を呼んだ。
だが、
何も聞こえない。
トイレまで、
何とか辿り着いた。
壁を伝い、
扉を押し開ける。
冷たいタイルの匂い。
視界の端が、波のように揺れていた。
吐いた。
胃の中は、もう空だった。
それでも止まらなかった。
喉が焼けるように痛い。
息を吸っても、吐き気が重なってくる。
何分経ったのか分からない。
ただ、
時間が伸びたり縮んだりしていた。
便座に手をついて、何度もえづいた。
目の奥が痛い。世界が遠い。
三十分以上、吐き続けた。
手の震えが止まらない。呼吸が浅い。
目が横方向にぐるぐると回る。
額を冷たい壁に当てる。
そのまま、俺はーー
動けなくなった。
震える手で、
ポケットの中のスマホを探した。
画面の光が、
目の奥に刺さる。
指が滑って、
番号を押し間違える。
「……助けてください……救急車を……」
声にならなかった。
自分の声が、
別人のように聞こえた。
廊下の音。
足音が近づく。
誰かが肩を叩いた。
何かを言っていたが、
言葉の意味が分からなかった。
サイレンの音が、
遠くで鳴っていた。
それが、
こっちに向かってくる。
赤い光が、
天井を走った。
担架に乗せられた瞬間、
身体が宙に浮いた気がした。
視界が、
白く滲んだ。
音が、
途切れた。
白い天井。
眩しい光。
どこかで、
誰かの声がしていた。
単語だけが、
遠くで、ふわふわと浮かんでいる。
「……症状から見て、おそらくメニエール病ですね」
その言葉を聞いても、
何も感じなかった。
医者が何かを説明している。
薬の話。
再発率の話。
生活習慣の話。
どれも、
自分のことじゃない気がした。
「重度の鬱の症状も出ています。
ストレスの原因を、できるだけ取り除いてください。それも、できるだけ早く。それが一番の治療です。」
医者の口が動くたびに、
音が遅れて届いた。
時間が、
ゆっくり波打っていた。
「早く、会社に戻らないと」
病室。
点滴の管が、腕の中で揺れていた。
看護師が、扉をノックした。
「お迎えの方が見えています」
扉の向こうにいたのは――
結婚を理由に退職した、販売センターの元スタッフ。
倉庫スタッフの髪の長い彼女。
そして俺の妻。
「悪い。
ちょっと調子、崩した」
・
・
・
「…もう……いいでしょ……」
その声に、
少しだけ息が詰まった。
「最近、忙しかったから、ちょっと疲れ……」
妻の声が、被せるように遮った。
「……もう、あなたは十分やってきたでしょう」
「あの社長ならこの程度のことは、笑いながら……
あの人の右腕になるなら、俺はもっと――」
「もういいの!
あなたは、あの社長を、勝手に神聖化してるだけだよ」
俺が言葉を発する前に、
妻がーー叫んだ。
「あの社長は、あなたが体を壊してまで、尊敬すべき人間じゃないッ!」
静寂。
その言葉で、
長年、胸に巣食っていた“幻”が、一気に崩れ落ちた。
「もう、いいかな。
俺、十分やったかな」
「やったに決まってるでしょ。
私は隣で、ずっと見てたよ」
「……そうか。
……良かった。
もう良いのか。」
「うん。
帰ろう。家に」
・
・
・
その日、
病気を理由に、俺は会社を辞めた。
世界は静まる。
耳鳴りも、怒号も、もう聞こえない。
ただ、妻と子供達の「おかえり」だけが、心に響く。
それは、とても暖かい音だった。
――
朝、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
ぼーっと眺めていると、その光が、まるで呼吸しているように見えた。
ゆっくりと身体を起こす。 腕に残る点滴の跡が、まだじんわり痛む。
妻が、小さなカップにコーヒーを注いでいた。
「会社、大丈夫かな、少し顔出したほうがいいかな」
「もう全部終わったんだよ。だから、大丈夫」
湯気が、静かに立ちのぼる。
「今日は、天気いいね」
「うん」
それだけの会話だった。 外の風が、カーテンの端をふわりと揺らした。
耳鳴りは、もうなかった。 その静けさが、少しこわいほど心地よかった。
――
しばらくして、机の上のノートパソコンを開く。 画面に映る、真っ白なページ。
指が、わずかに震えた。
「ねぇ、なに書くの?」
「うん。いろいろ書きたいことが、あるんだ。」
――
夕方。
窓の外が、オレンジ色に染まっていく。
「ごはんできたよ」
妻の声が、リビングに響いた。 子供たちが、バタバタと席につく音がした。
俺は、ゆっくりと立ち上がった。
「ただいま。」
小さく呟いた。
「おかえり」
妻が、笑って答えた。
◀ 前の話
#19 線香花火が落ちる前:後編
▶ 全話まとめはこちら