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異世界に行けなかった俺の半生。|#8 社会復帰、その洗礼:前編

    これは、やっと社会に戻れたと思った俺が、もう一度壊れた話。
    希望ってやつは、手に入れた瞬間に奪われることもあるらしい。


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    #1 壊れた家と、死の匂い


    葛飾区にある大きな倉庫の4階。
    そこを小さく間仕切りした物流会社の事務所で、俺の事務員生活は始まった。

    派遣先は物流会社が運営する「販売センター」のPC入力業務。
    仕事の内容はといえば、ひたすら顧客情報を社内システムに入力していく。
    ただそれだけ。

    でも、「それだけ」のはずの作業が、俺には満足にできていなかった。

    料理人だった頃は、パソコンを触ったことすらない。
    ニートで親のスネをかじっていた間も、2chやゲームで時間を浪費しているだけ。

    その間に学んだものといえば、自宅サーバーの構築、Webサイトの構築など事務仕事とはかけ離れたものばかり。

    ブラインドタッチが出来ないどころの騒ぎじゃない。
    Excelだってマス目に数字を入れるアプリ程度の理解だった。
    はっきりいえば……仕事ができない人間。

    --これは非常にマズイ。

    仕事終わり、俺は書店に寄るようになった。

    ビジネス書のコーナーで、新社会人向けのExcel入門を手に取る。
    レジに持っていく時、少し恥ずかしかった。

    30歳。

    俺と同い年くらいの人たちは、すでに部下がいる年齢だ。
    みんなとっくに当たり前に出来ているものを、この年齢で一から覚えようとしている。

    しかし、恥ずかしいとか言っている場合じゃなかった。
    俺の今後の人生がかかっているのだ。

    休憩時間や通勤時間はもちろん、帰宅してから、湯船の中でも本を開く。
    翌朝、出社してひたすら入力する。
    わからないことが出れば、Googleを開いて検索する。
    また書店に寄って、別の本を買う。

    派遣されてからしばらくの間は、その繰り返しだった。


    物流会社の販売センター。

    そこで働くのは、
    女性の主任と、フルタイムアルバイトが2人、パートが5人。

    従業員が女性ばかりなので緊張はしたが、みんな優しくて、穏やかな人たちで、30代の「新社会人」である俺にも寛容だった。

    誰も俺の過去を聞かないし、ただ同じ時間に働く。
    それが、妙に心地いい。まるで、自分が「普通の人」に戻ったような。

    そして何より──

    「高校中退で元ニートの俺なんかが、事務の仕事で雇ってもらえた」

    その事実が、たまらなく嬉しかった。

    料理人を辞めてからというもの、仕事もせずに無駄に時間を過ごしてしまったが、世の中が少しだけ、自分を受け入れてくれたように感じていた。


    でも――
    人生ってホント簡単じゃない。

    人は優しさの裏に牙を隠してることもある。
    それを事前に気づくことができれば対処のしようもあるが、「新社会人」という世間知らずの俺は、まだそれを知らなかった。


    派遣されてから数週間が経った頃。
    その日、スーツ姿の、恰幅の良い男性が事務所に入ってきた。

    「おはよーっす」

    みんなが一斉に立ち上がって挨拶をし始める。

    「おはようございます。部長」

    そのスーツ姿の男性は、この部署の責任者だった。
    「販売センター」を統括している経営企画部の部長。聞けば、非常勤ということで、社外で自分の会社まで経営しているという。

    「やっぱり雰囲気あるよな」

    年齢自体はさほど俺と変わらなく見えた。30代後半から40代前半といったところだろうか。口調自体は軽いが、その立ち回りから「責任者」という重みを感じる。

    派遣社員の俺が、そんな偉い人と関わることはないと思っていた。

    でも、そんな俺の考えを知るはずもなく、その日を境に、少しずつ周囲の空気が変わり始めた。


    部長は、俺の考える「会社の偉い人像」とは全然違った。

    砕けた口調で、冗談ばかり言う関西人。
    でも、どこか人を包み込むような雰囲気がある。これがカリスマ性というものなのだろうか。

    「君か、新しく来た派遣さんやね。で、ここに来る前は何やってたの?」
    楽しそうに、俺の過去を聞いてくる。

    やはり自分の過去からは、逃げることができないみたいなので、正直に答えることにした。

    「お恥ずかしい話、数年間実家で……ニートをしていました。その前は和食の料理人です。」

    「ニート、マジか!普通隠すもんやろうけど、正直なやっちゃの。
     ほんなら今度、俺の会社で一杯飲むか。元板前ならアテも楽しみやしな!」

    そんな他愛もない会話から、付き合いが始まり、気づけば、部長が事務所に来るたび、飲みに誘われるようになった。


    居酒屋でビールを片手に、仕事の話、くだらない話、そして少しだけ人生の話。久しぶりに、社会人として話せる時間が楽しかった。

    笑って、飲んで、また笑って。

    部長と一緒に飲んだ夜は、心の奥がじんわりと温かくなった。

    あの頃、やっと――

    「人生を取り戻し始めた」

    そう感じられるようになっていたのかもしれない。


    そんなある日、デスクでいつもの入力作業をやっていると、部長に声をかけられた。

    「ちょっと話があるんやけど。時間ええか?」

    「はい。大丈夫ですけど」

    飲みの誘いならここで良いのにと思ったが、主任に聞かれたくないのかもしれない。そんなことを考えながら部長の後ろを歩いていると、着いたのは別階にある会議室だった。

    「まあ、空いてる席にかけて」

    会議室の扉を閉めながら部長が言ったので、言われるがままに席に座る。
    もちろんビジネスマナー本で学んだ通り、部長が座る場所の上座は空けた。

    飲みの誘いじゃなさそうだな。なら派遣契約終了の話?いわゆる派遣切りか!?いや待ってくれ、これでも仕事ができるようになるために努力してるんだ。お慈悲を!!

    そんなことを考えていると、俺が空けた上座に座った部長が口をひらく。

    「この部署の主任として、正式にウチに来ないか?」

    頭に、雷が落ちたような衝撃を喰らった。

    「は?」

    声が、裏返った。

    「今の主任、お腹大きいやろ?出産間近でな、近々育児休暇をとる予定なんや。その代わりってわけや無いんやけどな」

    「はぁ。それはわかりますが、長く働いている先輩たちがいますよね。私よりも明らかに適任だと思うんですけど」

    正直、派遣社員から正社員に誘ってくれているのは嬉しい。しかし、いくらなんでもいきなり主任はないだろう。
    日々の勉強により、少しずつではあるものの仕事は覚えてきてはいる。しかし、この部署の仕事は、俺が担当している入力作業だけではない。明らかに力不足だ。

    「お前、ここに来る前はニートしていたって言ってたやろ。そのニートが数ヶ月でここまで仕事が出来るようになるには、それなりの努力が必要や。
    俺はその努力を買ってるつもりや、お前は上に登ってくるって確信しとる。」

    思いもしていなかった評価に驚いた。目を点にして固まっていると部長は続けた。

    「それとな、この倉庫は来年に取り壊しが決まっているんや。事務所は神田に移転する予定なんやけどな……そうなると派遣契約も終わる。その前にうちの会社に引っ張りたいって話や。新拠点の立ち上げメンバーとしてやってみんか?お前みたいにマジメで、責任感あるやつに任せたいんやけどな」

    正直、泣きそうになった。

    張りつめていたものが、音もなくほどけた。

    「ホンマは俺のかわりに部長にしようとしたんやけど、流石にあかんかったわ。イケると思ったんやけどな……。俺も自分の会社に集中したいねんけどな。」

    そりゃそうだろう。何言ってんだこの人。


    高校中退、料理人リタイヤ、事故、そしてニート。
    何度も失敗してきた俺なんかを、必要としてくれる人が現れた。

    紹介予定でもない一般派遣の人間が、派遣先に直接引き抜かれるなんて本来ありえない。それくらいのことは、さすがに俺でも知っている。
    ましてや主任待遇とか……。

    でも、あの日の部長の言葉が、どうしても忘れられなかった。

    「お前と一緒に、この部署をつくれたら楽しいんやけどな」

    だから、俺は向かった。
    登録している派遣会社の事務所に。


    柏駅から少し歩いた先に、派遣会社の事務所はあった。
    初回の登録の際に足を運んだだけで、ここに来るのは二度目。

    「どうしてもお願いがあります」

    震える声で、俺は担当者に頭を下げた。
    向かいに座って俺の話を聞く派遣担当者は、笑うわけでもなく怒るわけでもなく、ただ俺の話を聞いていた。

    「このチャンスを逃したくないんです」

    自分の思いを伝えることはできたと思う。
    しかし、商品である派遣社員を、派遣会社が簡単に手放すとは思えない。
    正直、断られると思っていた。

    断られたら派遣会社を辞め、改めてあの会社に入社するか。しかし、それは業界的に一番やってはいけないこと。状況によっては、会社同士の問題に発展するかもしれない。

    --しかし

    自分の人生のため、やれる限りの事はやろう。
    後悔だけはしないように。

    少しの沈黙の後、派遣元の担当者は、怒るどころか笑って言った。

    「主任…ですか。君の年齢でこんなチャンス、なかなかあるもんじゃないよ。絶対ものにしなさい。」

    絶句した。
    紹介型派遣に切り替えるとかじゃなく、何のペナルティもない転籍。こんなことってあるんだろうか?逆に心配になったので、担当者に確認した。

    「えっと……あの会社に入社しても良いってことですか?」

    「そういうことです。そのかわり、派遣が必要な時はウチをひいきにしてね」

    担当者が笑うと、人生って捨てたもんじゃないなと、本気で思った。
    こうして俺は派遣社員から正社員となった。


    月末を目処として派遣会社の退職手続きと、この会社の入社手続きを済ませ、晴れて社員として――
    いや、主任として事務所に初出勤した。

    真新しい社員証を受け取った瞬間、この会社で本気で頑張ろうと心に誓った。

    「俺はここで頑張るんだ。板前修行の時のように」

    でも――

    人生っていうのは、そう簡単なものじゃなかった。

    その日から、始まったんだ。

    女性主任とフルタイムアルバイト2人による――俺への徹底したいじめが。



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    #7 ゆっくり動き出した心の音


     
     
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