
異世界に行けなかった俺の半生。|#10 倉庫で泣いて、また歩いた
これは、もう無理だと思った場所で、救われた話。
終わりだと思ったその先に、まだ続きがあった。
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#1 壊れた家と、死の匂い
主任やアルバイトが帰ったであろう、遅い時間帯。
本社の総務から自宅宛で郵送してもらった「退職届」を胸に、俺は倉庫へ向かった。
心はすでに限界だった。
何のために生きているのかも、よくわからなくなっていた。
すべてを終わらせて、苦しくない場所に帰りたい。
一生ニートのままでいい。こんな思いは、もうしたくない。
そんなことを考えながら電車に乗り、駅から歩き、倉庫にたどり着いたと同時に、足が震えた。
あの悪夢が、フラッシュバックする。
怖い。
ドドドド……。
倉庫の階段を上がると、誰もいないはずの事務所から、聞き慣れた音が耳に入ってきた。
伝票を印刷するプリンタの音。
何度も何度も聞き続けた、あの音。
静まり返った事務所の中から、ラインプリンタの音だけが響いていた。
――誰?
事務所にいたのは、部長だった。
Yシャツの袖をまくり、額にうっすら汗を浮かべながら、出荷作業をしている。
その後ろでは、同じ倉庫の別部署のスタッフが二人、手慣れた様子で梱包をしていた。
「……っ」
言葉が出なかった。
俺に気づいた部長が、目を丸くする。
「おお!大丈夫か?心配しとったで!」
「はい」と返そうとした、その瞬間。
「なんで……なんで、もっと早く相談しなかったんや!」
その声は、怒鳴り声というより、泣き声だった。
部長は、すべてを知っていた。
俺の状況は、今一緒に作業をしている、倉庫スタッフから聞いたらしい。
「……すいません。心配をかけたくなくて……」
部長はしばらく黙り、手を止めた。
そして、静かに言った。
「もう心配しなくてええ。あのアルバイト二人は、移転先には来ない」
「それと、お前の味方を入れろ。社員一人と、必要なだけ派遣。稟議は、もう通してあるで」
言葉を詰まらせながら、続ける。
「……あの三人とは戦ってええで。これからはお前が、ここの責任者や」
我慢していた涙が、こぼれた。
「でも暴力はあかんぞ」
「しませんよ」
思わず、笑ってしまった。
俺のことを部長に報告してくれた、倉庫の二人にも頭を下げた。
「俺、辞めなくていいんだ」
そう思った。
カバンに入れていた退職届を取り出し、そっと丸めて、ゴミ箱の底に押し込んだ。
その瞬間、張りつめていた心が、ゆっくりほどけていった。
しばらくすると、倉庫スタッフの一人が声をかけてきた。
背が高く、長い髪の女性だった。
ふと顔を上げると、思ったより近い距離で、彼女がまっすぐこちらを見ていた。
「ひとりで遅くまで仕事しているのは知っていました。販売センターの雰囲気が悪くなっていたことも……でも、あの三人が怖くて、何もできませんでした。本当に、すみません」
「いっ、いえ……こ、こちらこそ、巻き込んでしまって申し訳ありませんでした!」
緊張してしまい、言葉がうまく出てこなかった。
みんなが見て見ぬふりをしていると思っていたのに、俺を見てくれていた人が、ちゃんといた。
黙って会話を聞いていた部長が、口を開く。
「それとな。移転が終わったら、この二人はお前の部下になるからな。たのむで」
「はぁ???」
思わず、声が裏返った。
泣いたあとに笑うとは、こういうことなんだろう。
その後、職場に復帰はしたものの、主任とアルバイトの三人とは険悪なムードが続いていた。
しかし、俺はもう一人じゃない。そう思うと、悪口も無視も暴言も、もう気にもならない。
いいよ。好きにしててくれ。
部長からの指示通り、味方を増やすべく、新たな社員候補を面接した。
もちろん、俺のように「中卒ニートです」なんて人はいない。来たら落としていたかもしれない。
面接した数十人の中から俺が採用したのは、いろいろ足りないところはあるけれど、誠実そうな二十代後半、沖縄出身の男性だった。
柔らかい雰囲気。真っ直ぐで、嘘がない。けれど、まだ自分に自信がない。
彼からはなぜだろうか、自分と似ているものを感じた。
能力がありそうな人は他にもいたし、俺より優秀な人も多かった。でも、今回は自分の勘を信じることにした。
かつて、自分が登録していた派遣会社に電話した。
「電話対応できる人三名、倉庫の出荷・梱包ができる人二名を派遣していただきたいです。それと、引っ越し作業もあるので、そこまで含めて手伝ってもらえると助かります」
気持ちよく俺を送り出してくれた、お礼の意味もある。
「これで、俺が抜けた分も稼げるでしょ?」
派遣として働いていた俺が、いまは派遣社員を発注する側にいる。
派遣会社の担当者は笑っていたけれど、その声の奥に、懐かしさと安堵が少し混じっていた気がした。
この人、ほんと優しい人だよな。
・
・
・
「……というわけで、この工程を外部に委託することになりました。ちょっと面倒だとは思いますが、一つ工程を入れて、相手にわかりやすい形に変えていきます。質問ありますか?」
業務の指示を出していると、反抗的だったアルバイトの一人が小さくつぶやいた。
「……マジでウゼェんだけど」
その瞬間、空気がピリッと張りつめた。
堪えきれず、焦ってうわずった声が出た。
「なに……? 俺に……言いたいことあんなら……。はっ、はっきり……言っ……い、言えよっ!」
俺が言い返した瞬間、主任がブチ切れた。
「なんなの? あんた、その態度!」
俺は深呼吸してから、必死で言った。
「わた……私は……ここの責任者、です……。彼女が……私の指示に対して、『マジでウゼェ』って……。……だから……言いたいことがあるなら、は、はっきり言ってくださいって……伝えただけで……。
……問題、ありましたか……主任」
「は? 責任者? は? 何を偉そうに!
あなたが来るまではね、ここは何の問題も無かったんですけど? 何を知ったつもりで、勝手に業務工程変えてるの? 部長がいるからって、好き勝手しないで頂戴!」
主任が言い返してきた。
俺は、一拍おいてゆっくり口を開いた。
手が震える。
「……はっきり、い、言わせてもらいます……。
主任……出産で休むのは……いいと、思います……。でも……。
その……穴を必死に埋めようとしてる人間に……。言い返せないの、わかってて……。
……ここまで、追い詰めるって……。
……かつて、ここの責任者だった方として……。
これは正しいことなんですか……」
頭の中は真っ白だった。心臓はバクバク鳴っていた。
顔も耳も真っ赤になっていたと思う。
手が、足が、がくがくと震えた。
主任とアルバイトは、何も言わなくなっていた。
沈黙。
遠くでやりとりを聞いていた部長が、こらえきれずに間に入った。
「まあまあ、もうええやん」
そう言って、俺を睨みつけ続ける主任を、別室に連れ出していった。
その日を境に、主任は姿を消した。
そのまま育児休暇を取ることにした、と部長に言われた。
誰も何も言わなかったが、この場の空気がすべてを物語っていた。
いや、自分の荷物くらい、片付けていけよ。
怖くて直接は言えないけどさ。
その日の帰宅途中、もう一人のアルバイトと駅で鉢合わせた。
言い合いになっていない方だ。
心の中で「声かけてくるなよ」と思ったが、その直後。開口一番、こう言われた。
「あ、主任! お疲れさまですっ! あのぉ……ほんっといろいろゴメンでした。超反省してます。私の事、怒ってます?
で、引っ越し先でも一緒に働かせてもらえませんか?
職場は楽しいのがおすすめですよ。私、盛り上げていくんで。
あ、事務所の引っ越し先が今より近いとか、それが理由じゃないですよ」
こいつ……お前らのせいで、俺がどれだけ辛い思いをしたと思ってるんだ。
俺は答えた。
「あれだけ嫌がっていたのに、俺の下で働けるの?」
彼女は満面の笑みで答えた。
「あったり前じゃないですかぁ! 絶対頑張りますよ、私。主任に後悔はさせないっす!」
……おい、調子良すぎだろ。さっきまで何だったんだよ、ほんとに。
気にしないわけじゃない。
でも、味方は……一緒に働く仲間は、多い方がいい。
長く働いている彼女が、会社に残る意味は大きい。
それにしても、強いやつだな。
勝ち馬に乗るって、こういうことか。
俺の方も、少し反省してみた。
もっと主任の気持ちを考えて、相談しながら動けば良かったのかもしれない。
……いや。
そんなことを考える前に、きっと、いじめられたんだろうな。
主任が育児休暇を取得してから数ヶ月が経過し、葛飾の倉庫から神田の事務所への移転が近づいていた。
それからの日々は、怒涛だった。
俺が一人でやっていた業務は分散され、ついに「部署」として稼働し始めた。アルバイトの二人は、一人は協力的、もう一人は非協力的なままだったが、もはや気になることでもない。
やることなすこと、全部が未経験だった。アウトソーシングの概要をまとめ、システム改修の要件定義を詰め、移転先でも働ける人・働けない人たちとの調整。移転先に一緒に行けない人たちとは、ひとりひとり合意書を交わした。さらには外注先の業務研修まで。
それでも、慎重に、一つ一つ丁寧に、部長に確認しながら進めた。
「失敗したってええ。いや、初めての経験なんやから失敗するのが当たり前や。周りや俺を頼ってやり切ったれ!」
部長の言葉が心強かった。
腐っても、指が痺れてても、俺は元料理人だ。板前で叩き込まれた「段取り」——これさえしっかり組んでいけば、なんだってできる。この経験が、自分にとって今後大きな力になることを、この時の俺はまだ知らない。
事務職として、主任として至らない点ばかりの俺。
原因はあきらかに勉強不足だ。
高校をきちんと卒業し、大学でしっかり学んでいれば、もっと上手く出来ていたのだろうか。
しかし、弱音を吐くわけにはいかない。至らないなら今から学べばいい。
世の中にはそういったビジネス本はごまんとあるし、今の時代ネットだってある。
自分から学ぼうと思えばいくらでも学べるんだ。
俺は絶対に負けない。
この頃から、分からないことがあれば直ぐに調べ、学び、何度も咀嚼して自分に落とし込む。そんな癖が付きはじめていた。
販売センターに派遣された当初に学んでいた「EXCEL本」は、既にVBA、マクロ、そしてACCESSまで進み、手書きだった業務が格段に進化し始めていた。
それからも問題は次々に現れた。
「これ、倉庫の取り壊しまでに間に合うのか?」
倉庫に置きっぱなしの大量の在庫も整理しなければならない。
「何なんだよ。どれだけ在庫抱えてるんだ、この倉庫!部長、発注しすぎじゃないですか?」
「大量発注のボリュームディスカウントを狙って、沢山買っちゃった。てへぺろ」
……てへぺろじゃねえよ、おっさん。
晴れて俺の部下として配属された女性スタッフ二人も、懸命に……動いてくれている……のか?
「みてみて!これ、超懐かしい〜」
思い出に浸ってないで、片付けてくれよ。
「主任〜!オリオンビールって、カラオケあるんだって〜。終わったらみんなでカラオケ行きません?」
「そとなーんちゅぬみんなで、カラオケ行ちゅんでーびるねー」
残ることになったアルバイトと、沖縄出身の新しい部下。お前ら、マジで動け。
「あの、お忙しいところすいません。システムの調整で、夜間にサーバーをメンテしたいんですが」
はい。システム屋さんと、今日は会社にお泊まり決定。
こんな感じで、気づけば昼も夜もなく動き回っていた。目の前の課題を潰しても、またすぐ次の山が現れる。それでも、この空気が楽しかった。あの地獄の日々に比べれば、この忙しさは、希望の匂いがした。
やっと——。
居なくなった主任の荷物は、段ボールにまとめて、大きく名前を書いておいた。ものが無くなった!とあとで騒がれないよう、俺が整理しましたと書き足しておいた。
移転作業が終わった。
最後くらいは、みんなでお祝いしよう。
社員もバイトも派遣も外注も関係なく。移転先で一緒に働ける人も、そうでない人も全員で。
「非常勤で申し訳ないってことで、接待交際費として部長の会社がお金を出すから、今日はタダで飲めますよ。ね、部長」
「!?」
そう言われた部長の顔はマジだった。
これまで見せたことのない、“漢”の顔だった。
引っ越しの打ち上げは最高だった。
笑い声が絶えず、あの嫌な出来事も、全部笑い話に変わった。
倉庫スタッフと飲んで鼻の下を伸ばしていると、部長が酔った勢いのまま、俺の肩を叩いた。
「お前、よう頑張ったな。ほんまお疲れさんやで。」
少し間を置いて、
「今度、社長に紹介したるわ。」
思わず笑った。
「いやいや、社長とか。
そんな偉い人、俺なんかが会ったって仕方ないでしょう。」
部長はニヤリと笑って、
「ええんや。俺と社長は、ちゃん付けで呼び合う仲や。」
うそつけ。
そう思いながらも、なぜか笑みがこぼれた。
パートさんたちから、あらためて主任と揉めていた当時の話を聞かされた。
最初に部長に伝えてくれたのは、彼女たちだったらしい。
「げっ、バツが悪すぎるし。
本当にごめんなさいって、私、ちゃんと謝ったよ〜。
そしたら主任が許してくれたんですぅ。ねぇ主任?」
と、照れ笑いを浮かべるあのアルバイト。
(そう、駅で謝ってきた調子がいい方だ。)
「この人、反省してるからってね。
仕方ないから、時給マイナス1,400円の減俸処分で許したんで。」
「ええっ!それじゃ私が払う側じゃないですかぁ!」
「俺を虐めた罰だろ」
そう言ったら、みんなが笑った。
"ウゼェ”と言って、俺と揉めたもう一人のアルバイトは、打ち上げには来なかった。そのまま、退職届も出さずに静かに居なくなった。
その後、駅で顔を見かける機会があったが、幸せそうには見えなかった。
――あの嵐のような移転が終わって少しした夜。
久しぶりにオヤッサンの店に顔を出すことにした。
事務所の移転先は、ーー神田。
「いらっしゃいませー」
スーツ姿で店に入っていくと、カウンターの向こうでオヤッサンが目を丸くした。
「お前……なんだ、その格好は。」
笑いながら、
「今は物流会社の事務職してます。主任になりました」と言うと、オヤッサンはしばらく黙って、包丁を置きながら言った。
「包丁の世界じゃなくても、しっかり戦ってるんだな。」
その一言が、胸に沁みた。
何も言えず、ただ黙って頷いた。
ふと店内を見回す。
――ここも、久しぶりだな。
見知った顔がいくつもあった。
笑顔で「久しぶりー」と声をかけると、
仕事を放り出した仲居さんたちが、次々に駆け寄ってきた。
調理場の奥から、煮方の先輩が顔を覗かせている。
笑顔で頭を下げると、手を振ってくれた。
グラスの氷が溶ける音が静かに響く。
「閉店まで飲んでられるか? 終わったらちょっと飲むか。」
「ぜひ。」
オヤッサンと話をした。
事故の後のこと。
しばらくニートをしていたこと。
料理の仕事ができなくて派遣で働いたこと。
倉庫でのこと。
いじめられて辞めそうになったこと。
でも、みんなのおかげで、今も続けられていること。
マシンガンのように一方的に語る俺。
本当の父親のように、黙って聞いてくれる笑顔のオヤッサン。
「人に恵まれたな。」
ひとことオヤッサンが言った。
本当に、そう思うーー。
店を出てオヤッサンと別れたあと、街の空気をゆっくり吸い込んだ。
神田の街は相変わらず雑多でうるさい。
でも、あの頃の俺とは少し違う気がした。
働くという意味が、少しだけ変わっていた。
翌日。
新しい神田の事務所には、まだ段ボールの匂いが残っていた。
みんなの頑張りで、ここまでこれた。
一人じゃ絶対に無理だったと思う。本当に感謝しかない。
引っ越しの跡片付け部隊と、通常業務部隊に分かれて業務を進める。
終業間際、外はすっかり暗くなり、窓の外には首都高のライトが流れていた。
ラインプリンタの音が、また静かに鳴り始める。
それが、俺たちの再出発の合図のように思えた。
少しだけ、笑顔になれた。
――そのとき。
電話が鳴った。
パートさんが受話器を取る。
「はい。はい。大変申し訳ございません。
すぐに担当部署に確認した上で、折り返しご連絡を差し上げます。」
数秒の沈黙。
「……配送クレームです。」
俺は、ゆっくりと天井を見上げた。
地獄は、まだ終わっていなかった。
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#9 社会復帰、その洗礼:後編