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異世界に行けなかった俺の半生。|#11 崩れる会社で見た背中

    これは、壊れていく会社を、自分の目で見た話。
    それでも、最後まで立ち続けようとした“ひとりの背中”を見た話だ。


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    #1 壊れた家と、死の匂い


    神田の新事務所に段ボールの匂いが馴染み、気づけば三年という月日が流れていた。

    始まりは、どこにでもある、たった一本の配送クレーム。
    しかしそれは、終わりへ向かうカウントダウンの最初の一音だった。


    出社直後。
    神田の事務所に入った瞬間、空気の違いに気がついた。

    外線の呼び出し音が鳴りっぱなしだ。

    「おたく、ふざけてんの!?」
    「まだ届かないんだけど!」
    「なんとかしてよ!絶対に今日中に必要なんだよ!」

    未配達による悲鳴と怒鳴り声が、PCモニターの明滅と重なっていた。

    誰かが小さく「またクレーム……」と呟いた。

    電話回線は応対中のランプで真っ赤に埋まる。
    隣の席では、電話を切ると同時に次の着信。

    「主任!もう、キリがないですよっ」
    沖縄の部下も必死に受話器を上げていた。

    音の洪水。
    人の声。
    機械音。

    販売センターは、いまや未配達クレームの最前線と化していた。

    本来なら、こういった配送クレームの処理を担うのは、カスタマーセンターだ。
    しかし、その回線はすでに限界を超えてパンクしていた。

    「すいません、なんていうのは聞き飽きました。もういいです!責任は取ってもらいますからね!」

    受話器越しに聞こえた女性の声が途切れ、プツンと電話が切れる音。


    一歩後ろに下がると、視界の端で、目の前のスタッフの肩が小さく震えていた。

    「辛い思いをさせてすみません。
    せめて、自分個人が叱られているとは思わないで。叱られているのは会社ですから、ね」

    慰めにはならないかもしれない。
    俺にはこんなことしか、できなかった。

    地獄って、音がするんだな。

    耳の奥がジンジンする。
    蛍光灯の光が、やけにまぶしい。
    目の前の世界が、まるでノイズの塊みたいに揺れていた。


    昼前、部長に呼ばれた。

    「ちょっと来い。東京エリア、やばいことになっとる。」

    ドア越しに、コールセンターの責任者が電話を握りしめていた。
    顔色が悪い。

    机の上には、クレーム一覧のプリントが積まれている。
    どれも「届かない」「遅い」「破損」。

    「品川の店長、今週から来てないらしい。」

    「え?」

    「無断退職や。しかもドライバーが三人、一緒に辞めとる。」

    一瞬、息が止まった。

    配送ルートに穴が空く。
    それだけで、簡単に会社の物流は止まる。

    「人が抜けたら、荷物は動かん。」

    部長の言葉は、淡々としていた。
    けれど、その声の奥に、深い疲労が滲んでいた。

    システム上では「出荷済」と表示されている荷物が、実際は倉庫に積まれたまま。

    客は“届かない荷物”を待ち続け、コールセンターは“動かない荷物への謝罪”を繰り返す。

    出口が見えない。


    「ちょっと現場、見てきます」

    そう言って外出の準備をしていると、倉庫スタッフの女性が心配そうに声をかけてきた。

    「ひとりで大丈夫ですか?何かあれば販売センターでフォローするので電話してください」

    「ありがとう。大丈夫。そのまま販売センターの業務を頼みます。」

    ・
    ・
    ・

    品川の倉庫に着いたのは、昼過ぎだった。

    静まり返った空気。
    風すら動いていない。

    扉を開けた瞬間、埃と湿気の混ざった匂いが鼻の奥を刺した。

    そして――その奥に、山があった。

    積み上がった段ボール。
    パレットで埋め尽くされて床が見えない。

    残荷は300はあると思われた。

    「……これ、全部ここで止まってるのか。」

    声に出してみたけど、誰も答えてはくれなかった。
    返ってきたのは、自分の声の反響だけ。

    俺は、足元の伝票を拾った。
    配送指定日は三日前。
    納期の欄には赤いマジックで“至急”の文字。

    倉庫の片隅に、開けかけのカッターと、飲みかけのペットボトルが置きっぱなしになっていた。
    その持ち主は、今どこにいるのか。

    荷物の山に手を伸ばす。
    空調が止まっているせいで、梱包材の表面が、ほんのり湿っている。

    体の芯がじわっと冷たくなった。


    カスタマーセンターと連絡を取り合いながら、ヘビークレーム案件から順に処理を始めた。

    それにしても件数が多すぎる。
    でも、やるしかない。

    宛先を確認し、段ボールを区域ごとに仕分けしながら伝票を貼り直す。
    バイク便を手配し、配送可能な分だけ出す。
    残りは翌朝以降の配送に回す。

    翌朝?誰が配送するんだ?
    ハハッ。


    作業用の蛍光灯が、倉庫の中央を照らしていた。
    その光の下で、段ボールを積み替える音が響く。

    ガムテープを切る音。
    バイク便のエンジン音。
    俺の小さなため息。

    その小さなため息だけが、いつまでも倉庫に残った気がした。

    時計を見る余裕もない。
    ただ、ひとつでも多く、荷物を動かすことだけを考えた。

    しばらくして、荷物を抱えて外に出た瞬間、心地よい風が顔に触れた。
    少しだけ、冷たくて気持ちいい。

    外の空気を吸い込むたびに、体の中の重さが抜けていく気がする。
    けれど同時に、心の奥底が、ひやりと沈んでいった。


    「これ、全部届け終わるまで、あと何日かかるんだろうな。」

    シャッターの柱の影が歪んで伸びていくのを眺めていると、一般に公開していないはずの、店舗の固定電話が鳴った。

    受話器を上げると、そこには“怒り疲れた人”の声。

    「申し訳ありません。現状を確認中ではありますが……。
    はい。はい。こちらで対応いたします。」

    確認します、と、それしか言えない。

    息を吐くたびに、空気が白く濁っていく。
    夜の気配が、ゆっくりと倉庫を包んでいった。


    翌日、
    ドライバーが出発したタイミングを見計らって、再び品川エリア店へ足を運んだ。

    なぜドライバーが出発した後なのか。

    主任というちっぽけな存在でも、俺は本社機能に近い「経営企画部」の人間だ。「本社の人間」が来たとなれば、確実にドライバーと揉めることになる。

    ここでドライバーと、下手に対立するわけにはいかない。

    本来、販売センターの主任である俺が、こんなことをする必要はない。

    それでも、配送クレームによる「販売センター」の苦しみを、少しでも取り除いておきたかった。

    倉庫の中は暗いままだった。
    窓から射し込む光が埃の粒を照らす。
    小さな欠片が、ゆっくりと宙に舞う。

    書類と伝票が雑然と積み上がった店長の机。
    その片隅で、一枚の紙切れを見つけた。
    ドライバーの置き手紙だった。

    「もう無理です。体が限界です」

    文字が震えていた。
    どんな心境で書いたのだろうか。

    別の机の上には、伝票と一緒に、メモがいくつか置かれていた。

    「人が辞めたコース、補充はいつ?人が入らないなら俺も辞めます」
    「数字ばっか見てないで、現場なんとかしろ」
    「一人が配送するエリアが広すぎるし、荷物が多すぎます」

    汚れたメモ帳の端には指の跡が残っていた。
    黒く、油の染みた指。

    現場の声は、誰にも届くことはなかった。

    いや、届いたのかもしれない。
    それでも、誰も動かない。いや動けなかった。

    管理者も、現場のドライバーも、疲れきっていた。
    気づいたときには、もう手遅れだった。

    崩壊の原因は、労働環境の悪化だ。

    ドライバーが辞めた穴を、店長が埋めた。最初は一コース。二人辞めれば二コース。店長の負担は、じわじわと、しかし確実に膨らんでいった。

    そしてこの状態で、新人が長続きするはずがない。俺でも三日で辞めるだろう。

    ドライバー不足は解消されないまま、店長は配送コースに入りっぱなしになり、店舗の管理が回らなくなった。それに耐えきれなくなった店長が、ついに辞めた。

    こうして、店舗は崩壊した。

    倉庫の奥に差し込む光が、段ボールの影をゆっくりと伸ばしていく。
    その影を見つめながら、俺はそこで初めて「会社の終わり」を感じていた。


    部長に呼ばれたのは、倉庫の片付けが終わった夜だった。

    品川から神田の事務所に戻る途中、携帯電話が鳴った。

    「神田の社長室、ちょっと来てくれ」

    電話越しの声は、いつもより少し低い。

    夜の神田は静かだ。
    人通りの少ないオフィス街に、ビルの明かりが点々と灯っていた。

    オヤッサンの店も、満席のようだった。
    笑顔で客と話すその表情が、なぜか、とても遠くに感じた。

    社長室のドアをノックすると、
    「おう、入ってええで」
    と、低くて落ち着いた声が返ってきた。

    中には、部長と、見慣れない男がひとり。

    スーツの上着を脱ぎ、上等なワイシャツの袖をまくっている。
    年齢は四十代後半くらい。
    髪は短く、目は鋭いけれど、どこか優しさを感じた。

    それが、俺が初めて会った社長だった。

    「お前か、東京の販売センターの新しい主任は。
     前の主任は育児休暇に入ったらしいな」

    一瞬、何と返せばいいかわからなかった。

    思っていたよりも、ずっと低く、静かな声。
    威圧感はない。
    けれど、言葉には確かな“重さ”があった。

    「品川で遅延貨物の処理やっとるって聞いとる。ほんなら今の会社の状況も、よう分かっとる前提で話すで。」

    一拍置いて続けた。

    「俺はこれまで、何度も会社の危機を経験してきた。
    正直なところ今、会社に金はない。けど、これまでも必ず金は集めてきた。大丈夫や、絶対潰さんで。」

    息を呑んだ。
    言い方が本気だった。
    強がりでも、根性論でもない。
    人の人生を丸ごと背負う覚悟の声だ。

    横で、部長が何も言わずに頷いている。

    「……山ちゃん、あなたが社長でよかったです。」
    口から自然に出た言葉だった。

    ……山ちゃんて!
    こいつ、マジで社長をちゃん付けしやがった!

    社長は笑った。
    「誰が山ちゃんやねん。お前はほんまに…。
    ま、俺なんかまだまだやで。自信はあるけどな」

    その笑い方が、妙に優しい。
    豪快でもなく、誤魔化しでもない。
    信じてもいい大人の笑いだった。


    それ以降、社長と部長と俺の三人で飲みに行く機会が増えた。

    店はいつも同じ。
    神田駅近くの、古い大衆居酒屋だった。

    暖簾をくぐると、焼き鳥の煙とタレの匂いが漂う。
    カウンターには常連が並び、
    テレビからはプロ野球のナイター中継。

    社長は、いつも最初の一杯を頼むと、
    「おう、今日も生きとるだけでええ日やな」と笑う。

    部長は無言でグラスを傾けた。
    その横で、俺は何を話せばいいのかわからないまま、
    ただ黙ってビールを口に運ぶ。

    少し酔いが回った頃、社長が俺の方を見る。

    「お前、今、仕事つらいやろ。」

    いきなりの言葉に、少し詰まった。

    「……まぁ、いろいろありますよね」

    「そらそうやな。けどな、あきらめたら終わりや。
    俺らみたいなんは、あきらめた瞬間に全部止まる。」

    社長はそう言って、笑った。
    けれど、目は笑っていない。

    その夜、初めて社長の目の奥に“疲れ”を見た。
    誰よりも強く見えた人が、誰よりも弱っている。

    気づいたら、俺は口にしていた。

    「……俺が、何とかします」

    その瞬間、社長が目を細めた。
    部長は、少しだけ口元を緩める。

    「お前、ほんまにええやっちゃな」

    社長はそう言って、静かにグラスを上げた。
    氷が当たる音が、カウンターに小さく響いた。


    「主任!クレームが多すぎて処理しきれません」
    沖縄の部下が嘆く。

    「主任、主任〜わたし、エクセルのVBAってやつ使えるようになりました。褒めてくださいよぅ」

    「わかったから、今度見るから」

    アルバイトとのやり取りに、心が少し救われた。


    会社の混乱は、日を追うごとに広がっていった。

    品川だけじゃない。
    練馬、目黒、板橋。
    どこも同じように、ドライバーが消え、所長が消え、
    ーーついに会社が、崩れ始めた。

    その頃から、社長と二人で飲む夜が増えた。
    社長が神田に来るたび「軽く行くか」と言って、居酒屋や焼肉屋に誘われる。

    最初は仕事の話。

    けれど、グラスが進むにつれて、
    社長は家族のことや、昔の苦労話を語るようになった。

    「俺はな。トラック一台、裸一貫でここまで来たんや」
    「金はない。でも、俺の代で会社を終わらせたくはない」

    そう言って笑う「その横顔」が、少しずつやつれていく。

    ――社長も、限界に近い。

    そんなある日、部長に呼び出された。

    「わかってると思うけど……この会社、もう危ないかもしれん。」

    部長は、珍しく真顔だった。

    「お前、俺の会社来るか?」

    その言葉に、すぐに返せなかった。

    「お前みたいな真面目なやつ、ウチの管理職で欲しいねん。給料も今より上げたる。少しだけどな」

    懐かしいな。
    派遣だった俺を、販売センターに誘った時と、同じセリフ。あれから何年経ったんだろうか、もう覚えていない。

    部長の誘いに、すぐには答えられなかった。

    一瞬、社長の顔が脳裏に浮かんだ。

    あの人は、いつも孤独だった。
    誰にも本音を言えない空気の中で、一人で会社のすべてを背負っていた。

    「社長なんだから当たり前だ」
    そんなことはわかっている。

    ――そう、
    一人で抱えることの辛さは、俺が一番わかっている。

    だから、決めた。

    「……すみません部長。話はとてもありがたくて、嬉しいです。でも俺、もう少し社長のそばにいます。」

    部長は、少しだけ苦笑いを浮かべた。

    「お前らしいな。」

    それだけ言って、立ち上がる。

    帰り道。
    ビルの谷間を抜ける風がやけに冷たく感じた。
    街の灯りが滲んで見えた。

    販売センターの業務は、この日を最後に止まった。

    みんなに休暇を出し、「必ず社長が復活させるから、それまで頼む」とだけ伝えた。


    事務所には俺一人。

    電話回線はすでに止まっている。電話の鳴らないオフィスは静かすぎる。

    パソコンのモニターの光が、妙に眩しい。
    机の上には、ひっくり返された誰かのマグカップと、本が一冊残っていた。

    「ピボットテーブルによる損益計算書の応用」
    これはアルバイトの彼女か。

    誰も悪くない。
    それなのに、みんなが少しずつ居なくなっていく。

    ――その静けさが、俺にはいちばんつらかった。


    ある日、社長室に呼ばれた。

    今、神田の事務所には、俺と社長の二人だけ。

    コンコンコン
    「失礼します」

    その日の社長室は、いつもと少し空気が違った。

    机の上には、書類の束。
    社長はそれをトントンと、ゆっくり整え、小さく息を吐く。

    「この会社はもう事業を維持できひん。申し訳ない」

    その声は静かだった。

    「せやけどな、従業員の生活は守る。
    お前が販売センターで扱っている、商品を子会社化。
    その上で、別の資本に引き継ぐ。

    借金は全部、この会社と一緒に俺が持っていく。
    大丈夫や、倒産はせえへん」

    息が止まった。

    ーー大丈夫
    それは敗北の宣言じゃない。
    覚悟の言葉だった。

    この人は――
    この状況でも、まだ前に進もうとしている。

    社長は、誰よりも強い。

    けど、たぶん――それが、あの人の唯一の弱点だったのかもしれない。

    自分の限界と、部下の限界が同じだと思っていた。

    「俺にできるんやから、お前にもできるやろ」

    そう言って笑うその顔は、人を信じる顔だった。

    でも、人はみんな、この人みたいには強くはない。

    この人の“強さ”が、誰かにとっては“重さ”に変わることもある。

    その優しさも責任感も。
    そして、厳しさも、全部ひっくるめて――

    社長の失敗は、それに気づけなかったことだった。

    「……頼んだぞ」

    その言葉だけ残して、社長はドアの方へ歩き出した。

    「はい」

    「それと……最後に頼んだあれの件な、あれは俺の置き土産や。」
    「あれは、お前に残しとく」

    社長は少しだけ振り返り、ほんの一瞬、笑ったように見えた。

    大きな背中が、少しだけ小さく見える。
    でも、足取りはしっかりしていた。

    誰もいない廊下に、コツ、コツ、と靴の音だけが響く。

    見送ったのは、俺だけだった。


    「ありがとうございました。俺は……俺はあなたを、尊敬しています」


    声に出したのか、心の中だったのか。
    それは、自分でもわからない。

    体の奥で、薄い光が消えるような感覚があった。

    外はもう夕暮れ。
    街の灯りが点き始めていた。
    ビルの窓に映る空が、やけに赤い。

    あの日を境に、
    俺の中の「経営者」という言葉の意味が変わった。



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    #10 倉庫で泣いて、また歩いた


     
     
    文芸賞応募作品。絶望からの再生を描くノンフィクション連載『異世界に行けなかった俺の半生。』全話完結。さらなる加筆と校正を加え、完全版として更新中|ブログ村ノンフィクション1位🏆|

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