メインコンテンツへスキップ
見出し画像

異世界に行けなかった俺の半生。|#19 線香花火が落ちる前:後編

    全部、うまくいったはずだった。
    ――なのに、何かが決定的に壊れていた。


    ▶ 初めての方はこちら
    #1 壊れた家と、死の匂い


    倉庫の空気が、いつもと違っていた。

    誰も何も言わない。
    それでも、全員の動きがどこか軽かった。

    フォークリフトの音まで、やけに軽く聞こえた。


    最初に声を上げたのは、入社して三ヶ月目の新人ドライバーだった。

    「店長、新規ひとつ取りました!」

    伝票を差し出す手が震えていた。

    「マジかよ。ありがとう!やったな……おい!」

    その一言で、倉庫の空気が変わった。

    その後も立て続けに、昼に二件。午後には、五件。
    報告が来るたび、俺は一人ひとりに「ありがとう」と返した。

    気づけば、店の至るところで笑い声が聞こえてくる。
    江東店の空気が戻っていた。

    数か月前まで、あれほど荒れていた店が——
    まるで、別の職場のようだった。


    夕方、倉庫で仕分けをしていると、スマホの通知音が鳴った。本社からのメールだった。

    「店舗対抗・新規顧客獲得レース速報」

    ダサいタイトルだ。
    主催者のセンスを疑う。

    「もうちょっとこうさ……かっこいいタイトルにできないのかね、例えば……」

    「いいから、早く本文開いてくださいよ!」

    メールを開く前から、リーダーの一人が画面を覗き込んでいた。

    ――大阪ベース店 32件。
    ――名古屋栄店 28件。
    ――江東店 20件。

    一瞬、静まり返った。

    「……全国三位?」

    誰かが呟いた。

    次の瞬間、倉庫の空気が弾けた。

    「マジかよ!」
    「江東が三位!?」
    「いやこれ、嘘だろ!」

    笑い声と歓声が、トラックの間を跳ねる。
    いつもなら機械音が反響するだけの倉庫が、今日はまるで別の場所だった。

    続いて、メールが届いた。件名は同じ。
    本文に、こう書かれていた。

    ――“今週の主役は江東店やな。まだまだ頼むで”

    ……本社からじゃない。携帯メール?

    2階の事務所を見上げると、職人ドライバーがこちらを見て笑っていた。
    この人、悪魔みたいに人の心を煽るな。

    それでも、そのメールが燃料になった。

    誰も止まらない。

    倉庫の奥まで、熱が走った。


    夕方を過ぎると、配送を終えたトラックが次々と倉庫に入ってきた。みんな疲れているはずなのに、表情は軽い。

    「店長、今日も二件いきました!」
    「こっちも三件!他もいい感じだったんで、明日も続きます!」
    「全国トップだトップ!狙ってこうぜー」

    報告の声が飛び交うたびに、フォークリフトのエンジン音まで明るく聞こえてくる。

    その中に、一人だけ何も言わずに、別コースの伝票を渡してくるドライバーがいた。

    無口で、いつも誰とも話さない。
    それでも仕事はきっちりこなす、そんなドライバーだ。

    「お疲れ!どうした?なんかトラブルあったか?」

    そう聞くと、彼は黙ってうなずいた。
    後ろから別の声が飛んだ。

    「店長!それ、そいつの成績につけといてください」

    「は?なんでお前のコース?」

    「あいつと一緒に営業回ったんすよ。それでゲットした案件なんで。」

    無口な彼が、少しだけ照れくさそうに笑った。

    話が苦手な彼をフォローしてくれたのか……。

    思いもしなかった。江東店のドライバーが、自発的に他人をフォローしながら営業するなんて。

    倉庫の奥で誰かが拍手した。それが連鎖して、笑いに変わった。

    言葉は少なかった。

    それでも——
    確かに何かがつながった。


    翌週。

    朝の積み込み前から、倉庫の外に見慣れない顔が並んでいた。

    傭車……委託のトラックドライバーたちだ。

    「おはようございます!」

    その声が、やけに明るい。

    「なんや、えらい早いな」

    職人ドライバーが笑うと、一人が前のめりに口を開いた。

    「昨日、別の店で話聞いたんですよ。営業レースで、江東が上位走ってるらしいじゃないですか。……俺らも、何か手伝おうかなと思って」

    職人ドライバーが笑って言った。

    「そんなん言われたら、断られへんやんけ。――新規顧客、百件くらいでええで」

    「また、そういうこと言ってー」

    笑いが広がる。

    小さな輪が、次第に大きくなっていく。
    その中に、委託ドライバーたちも、いつの間にか混ざっていた。


    午前中の現場回り。
    どのトラックも、営業チラシを満載にして出ていった。

    「今日は、まだ一件だけです、すいません!」

    「俺はゼロ…絶対とってきます」

    「傭車まで営業してるらしいじゃないですか。負けられねえな」

    俺のもとに、次々と入ってくる営業獲得報告。

    もう、俺も職人ドライバーも、指示なんてしていなかった。
    ドライバー全員が当たり前の様に営業している。
    ――あの江東店が。

    この店は、もう小さな会社みたいだった。
    ここまでくれば、自分たちの売上だけでやっていける。
    そう思えた。

    倉庫の外で、トラックの排気音が重なって響く。
    それが、最後の戦いの音に聞こえた。


    営業レース最終日。

    全国ランキングは、江東店が二位。
    あと一歩で、全国トップに届く。

    ――絶対にやりきってやる。

    倉庫の朝礼は、いつもより少し静かだった。

    緊張でもなく、焦りでもない。
    「あと一歩」の空気。

    江東店の全員が、前を向いていた。

    「部長、今日、どうします?」
    職人ドライバーが、笑いながら聞いた。

    「どうするって、行くでしょ」

    そのまま営業車、ボロボロのハイエースのキーを手に取った。

    「部長、免許ないのにあかんです。俺が運転しますから。」


    「どこ行きます?」

    「行ったことないとこです」

    外は気持ちよく晴れていた。
    空の青が、いつもより少し濃く見える。

    昼過ぎ。

    営業用のスマホが鳴った。
    販売センターの部下からだった。

    「部長! 今、トップの大阪ベース店との差、五件です!」

    営業資料を挟んだクリップボードを、強く握った。

    「五件か……」
    運転席の職人ドライバーがニヤリと笑った。

    「部長の名刺の出番じゃないですか?」
    「ほな行きますか」

    「よし、行こう」

    エンジンを踏み込むと、ボロいハイエースがうなりを上げた。


    江東区を越え、俺たちはその日、四件目の営業先へ向かっていた。

    「もう中央区入っとりますけど。これ、完全にルール違反の遠征やないですか」

    「永代橋の先が中央区だったなんて、僕知りませんでした。ごめんね。って言っとくよ」

    営業先に向かう交差点。信号待ちの間に、車内のスマホがもう一度鳴った。今度は、アルバイトの彼女からだった。

    「もっしもーし、ぶっちょー!トップと二件差まで詰まったっす!けど、大阪ベース店の追い込みがヤバいっす。ミスターシービーみたいっす!
    ……あと、これは私の勘っすけど……十件程度、隠し玉があるのは、計算しておいたほうが良いっす」

    ミスターシービーって例えが古すぎんだろ……。
    それにしても、コイツ……助言が的確すぎる。

    「了解!助かるよ。任せておけ!」

    信号が青に変わる。
    同時に、二人の笑い声が重なった。

    「これ……ほんとに勝てるかもな」

    窓の外を、夕方の光が流れていった。


    車を止めたのは、永代橋を超えた先の中央区にある、小さな工場。
    古い看板に、使い込まれた鉄扉。

    貨物は――ありそうだ。

    配達先として名前は知っていたが、荷物を預かっているわけじゃない。
    つまり、見込み客だ。

    電話でアポイントは取ってある。玄関先で追い返されることはないだろう。

    「こんにちは!いつもお世話になっております」

    奥から出てきたのは、雰囲気のある初老の男性だった。
    六十前後だろうか。
    職人の空気をまとっていた。

    俺たちが通されたのは、書類が雑多に積まれた一室。
    整理はされていないが、どこか懐かしい香りがして妙に落ち着く。

    長く使われてきた空気があった。

    「貨物一つからでも集荷に伺いますので、一度うちを使ってみてはいただけませんか。配送品質については私が責任を持ちます。何かあればすぐに対応させていただきます」

    「統括部長」と書かれた名刺をスッと出す。

    男性は名刺を指先でつまみ、じっと見つめた。
    次の瞬間、低い声で言った。

    「もし荷物に何かあったら……責任をとれるのか?」

    迷いはなかった。

    「もちろんです。問題を起こさないというのは大前提として、もし何かあった場合は……統括の私と、こちらの”店長”が全力で対応します」

    隣にいた職人ドライバーが、一瞬だけ嫌な顔をした。

    「申し訳ないです、いま名刺切らしとりまして。次お伺いするときにお持ちします」

    男性はゆっくりと視線を落とし、机の端にあった自社の伝票をつまむ。

    「配送料も、いま使ってるところより安いしな……」

    少し考える間があって、

    「あぁ、とりあえず一個から試させてもらおうか」

    その言葉を聞いた瞬間、職人ドライバーと目が合った。

    これで、さらに一件獲得。数字が一つ、静かに積み上がる。

    あとは――ドライバーたちに任せるだけだ。


    夕方の光が、ゆっくり傾いていく。
    街の看板が、赤く染まっていた。

    「もし優勝したら、賞金の使い道どないします?」

    「そうですね。……賞金であのボロい店の看板、綺麗に直しますか。」

    「それ、前から気になってましたわ。」

    くだらない会話が、やけに心地よかった。

    その時、営業スマホが震えた。
    倉庫スタッフの彼女からの電話だった。

    職人ドライバーにも聞こえるよう、スピーカーに切り替えた。

    「部長、江東店、ついにトップになりましたよ!おめでとうございます!あ、結果はまだですよね。最終結果は、ドライバーが帰ってからの集計次第です!」

    職人ドライバーが、ゆっくりスマホをのぞき込む。

    「トップ……ほんま、ですか」

    エンジン音だけが、車内に残った。

    言葉が、出てこない。
    手の中のスマホが、かすかに熱を持つ。

    「……やりましたね」
    彼が言った。

    「あとは、今日みんなが、どれだけ取ってきてくれるか……ですね」
    それしか、もう言えなかった。

    街のネオンがフロントガラスを流れていく。
    俺はきっと、この景色を忘れない。


    翌朝。

    いつもの倉庫が、やけに明るく見えた。
    朝日が壁の鉄板に反射して、眩しい。

    販売センターを含めた、江東店のメンバー全員が集まっていた。

    本社からの報告を待つ顔に、笑みが浮かぶ。
    そこに、負ける空気はなかった。

    本社からの着信。

    「はい。……わかりました。ありがとうございます」

    息を整えて、口を開いた。

    「……営業レースの結果が、出ました」

    空気が、一瞬止まる。

    「江東店――優勝です!」

    誰も、すぐには声を出せなかった。
    誰かが拍手すると、それが連鎖して倉庫が揺れた。

    笑い声と涙が混ざっていた。
    肩を叩く音が、次々と響いた。

    エースドライバーの彼女が近づいてきた。
    興奮気味に、一言だけ言った。

    「店長、本当にやっちゃいましたね!……マジすごいです!よーし!私も頑張っちゃおうかな!」

    俺は笑おうとしたけど、うまく笑えなかった。

    「ありがとう。凄いのは、俺じゃなくて……みんなだから」

    「……ありがとう」

    気づけば、同じ言葉しか出てこなかった。


    本社の会議室は、いつもよりわずかにざわついていた。スクリーンには、全店舗の営業結果が映し出されている。

    営業本部長が淡々と報告を終えると、静寂が広がった。
    その沈黙を破ったのは、社長だった。

    「……江東店、優勝おめでとう、すごいな」

    短く、それだけ。
    数秒の間を置いて、もう一言。

    「あなたが言ってたモデル店舗の江東店、今度見に行きますよ」

    何かが静かにほどけた。

    この瞬間、あの店はこの会社の“モデル店舗”になった。

    江東店で生まれたリーダー制度が、会社の標準になっていく。

    現場が――会社を変えた。


    朝の倉庫は、いつになく明るい。
    まだ早い時間だが、店舗全体に、柔らかい空気が広がっていた。

    「皆さん。まずは営業レース、江東店が優勝。本当にお疲れさまでした」

    「これで、江東店が全国トップの店だと証明されました。この店について、私から言うことはもうありません」

    拍手が起きた。
    でもその音よりも、笑い声のほうが大きかった。

    俺は少し口元を緩めて、続けた。

    「就任当時は……皆さんにいじめられて、何度逃げようと思ったか分かりません」

    「えー!」

    「今、そんなこと言います?」

    笑いとツッコミが返ってくる。

    「でもね。あの頃は本当に、毎日が戦場でした」

    会場に、軽いどよめきが広がった。
    その奥に、懐かしさが滲んでいた。

    俺はもう一度、皆を見渡した。

    「……でも、あれからこの店は本当に変わった」

    誰かが小さくうなずいた。

    「今は胸を張って言える。江東店は、会社のモデル店舗になりました」

    言葉にした瞬間、胸のあたりがふっと軽くなった。

    「いろんなことがあった。でも、みんながいたから……みんなが一緒に動いてくれたから、乗り越えられました。

    本当に、ありがとう!」

    誰も喋らなかった。ただ、静かにうなずいていた。

    拍手が静まり、倉庫に静けさが戻った。

    俺は少しだけ間を置いて、言った。

    「これまで、免許も無い私を、この店の店長として育ててくれて、ありがとう。大変な日々ではありましたが、現場の大変さを、骨の髄まで知ることが出来ました。私は、この店を一生忘れません。」

    ひと呼吸おいて、もう一度、声を出した。

    「――そして。この店を、次に託します」

    ざわめきが起きた。

    「今月末をもって、私は経営企画部長として本社に戻ります。皆さんと一緒に培った経験を糧に、新しい事業を作り上げるつもりです。

    そして、この店の新しい店長は――」

    視線をゆっくりと、職人ドライバーに向けた。

    「彼です」

    一瞬、空気が止まった。
    次の瞬間、拍手が広がった。

    「死にかけやけどな。
    老骨に鞭打って、もう少しだけやりましょうかね」

    彼は笑いながら、いつものように頭をかいた。

    「もう立派な店長ですよ。でも、彼が好き勝手するようなことがあれば――エリアリーダーの皆さん。遠慮なくやっちゃってください」

    笑い声とどよめきが重なった。
    倉庫の天井に、音が柔らかく響き、拍手は、いつまでも鳴り止まなかった。

    倉庫の空気が、静かに揺れている。
    みんなの声が、どこか遠くに聞こえる。

    俺はゆっくりと頭を下げた。

    何も言わずに、
    ただ、深く。

    顔を上げたとき、職人ドライバーと目が合った。

    彼は笑っていた。
    変わらない、あの笑い方で。

    背中を包んでいた空気が、静かにやわらいだ。

    ――これが俺が江東店と、言葉を交わした最後の瞬間だった。


    外の光が差し込んで、空気がわずかに揺れた。
    誰にも気づかれないように、俺は小さく息を吐いた。

    江東店の一角にある、販売センター。

    事務スペースの空気が、重い。

    誰も喋らない。
    壁の時計の音だけが、やけに大きく響いていた。

    机の上には、配布用の資料が並んでいる。
    白い紙には、“外部委託”の四文字が浮かんでいた。

    俺は一度深呼吸して、口を開いた。

    「……来月末をもって、ここ、販売センターの業務を外部委託することになりました」

    静寂。

    目の前の誰も、顔を上げなかった。
    ゆっくりと、紙の端を指で押さえている人がいた。

    「これまで販売センターがやってきた仕事を、別の会社が引き継ぎます」

    その瞬間、空気がわずかに動いた。

    「部署は無くなりますが、皆さんの雇用がなくなるわけではありません。別部門への異動、もしくは外注先への転籍で、販売センターの仕事を続けることもできます」

    何かを飲み込むように、全員が小さくうなずいた。

    「今後については、一人ひとりと話をさせてください。都合のいい時間があれば、教えてもらえると助かります」

    販売センターのみんなは、ただ、静かに現実を受け入れていた。

    誰も俺を責めないのが、逆に辛かった。


    翌週、販売センターの個別面談が始まった。
    販売センターの進路は三つ。

    委託先への移籍、別部門への異動、そして……退職。

    最初に入ってきたのは、沖縄出身の彼だった。

    椅子に座ると、腕を組んで、少し照れたように笑う。
    その仕草を見た瞬間、あの頃を思い出した。

    販売センターに入ったばかりの頃だ。
    当初の彼は仕事が遅く、女性陣に散々いじられていた。

    「ねえ、またそれ?」
    「遅いって、いいからそれ貸して」

    何を言われようとも、言い返さない。頭をかいて、黙って次の仕事に向かう。彼がいると、不思議と場は荒れない。

    気づけば、誰かが困ったとき、一番先に動いていたのは彼。俺が販売センターを離れる時間が増えてからは、なおさら。

    ——あの中で、よく踏ん張ってくれたな。

    そんなことを考えていると、彼が口を開いた。

    「俺は、委託先で販売センターを続けます。向こうも、ここと同じ空気にしたいんで。」

    胸の奥が、少し詰まった。

    あの頃、孤立していた俺の横に、最初に立ったのは彼だった。

    仕事は不器用だった。でも、絶対に逃げなかった。
    いつも、俺の味方として横にいた。

    「そうか……ありがとう」

    それだけしか言えなかった。

    「また、どこかでご一緒できれば。何かあれば、いつでも助けに来ますよ。飲みの誘いは大歓迎です」

    そう言って立ち上がる背中を見て、思った。

    ——あのとき、彼を選んで良かった、と。


    ——次に入ってきたのは、倉庫スタッフの彼女だった。

    椅子に腰かけると、背筋を伸ばしたまま、まっすぐにこちらを見る。

    「私、結婚が決まりました」

    小さく笑って、軽く頭を下げる。

    「短い間でしたけど、販売センターで働けて良かったです」

    言葉が終わると、ほんの一瞬、静寂が落ちた。

    「……おめでとう」

    それだけ言って、少し間があいた。

    ——俺が退職届を持って、倉庫に向かったあの夜。
    俺の代わりに、必死で業務を回していたのは、当時の部長と——彼女だった。

    「ずっと横で、助けてくれて……ありがとう。
    そろそろ俺も自分の足で、ちゃんと立ち上がらないとね」

    「立ち上がるって……もう、部長じゃない」
    彼女は、少しだけ笑った。

    「販売センターに来てくれて、本当に助かった」

    一拍おく。

    「……貴女がいなかったら、たぶん俺はここにいない」

    彼女は、静かにうなずいた。

    「どうか、無理はしないで」

    視線を外さずに言う。

    「あなたは時々、自分を犠牲にしてでも突き進んでしまう。それだけが心配です」

    言葉が、出てこなかった。
    ただ、小さくうなずいた。

    ブラインドの隙間から差し込む光の中で、彼女の表情だけがはっきりと見えた。

    外の風が、倉庫の壁をなでた。


    ——三人目は、アルバイトの彼女だった。

    扉を開けるなり、いつもの調子で口を開いた。

    「私、辞めます。
    ……いや、本当は辞めたくないです」

    椅子に座りながら、少しだけ視線を落とす。

    「この仕事、超慣れてるし。普通にみんな楽しかったし」

    言葉が途切れた。

    「いちばん最初、主任……いや部長のこと、めっちゃ嫌いでした」

    ふっと笑う。

    「おどおどして頼りないし、電話対応できないから電話出ないし。なんか急に、ずっと回ってたやり方、全部変えてくるし。

    派遣から、いきなり主任になって入社してきた、ってのもアレでしたよね。

    平社員から泥水を啜り、成長してから役職につけよって思ってました。
    そのせいですよ、当時の主任に目をつけられたの」

    肩をすくめる。

    「でも、なんで業務内容変えたのか、販売センターをどう変えたかったのか、その理由が分かってからは……ちょっと見方変わりました。やるじゃんコイツって」

    「強いなー、とか。普通にすごいなー、とか」

    軽い調子のまま、言葉を続ける。

    「気づいたら、人事とか江東店とか……どんどん先行っちゃってて」

    「販売センターに来なくなったし、私のこと、このままモブとして忘れるのかなって思ったんで」

    小さく笑う。

    「じゃあ、負けてらんないぞって」

    「VBAとか、ピボットとか、SQLとか……とりあえず仕事で触れるもん全部やりました。今なら、部長に負けないと思いますよ。……いや、そういう話じゃないですね」

    一瞬、間があいた。

    「……あ、ここ辞めたあとは、秘書やります」

    あまりにも自然な口調だった。

    「もう行き先も決まってて。ちょっと有名な地元の与党議員のとこです」

    そのまま続ける。

    「で、そのまま地盤奪って、出馬するつもりです」

    その目に迷いはなかった。

    「勝てる形になったら、普通に行く道行きますよ。私」

    そういって彼女は軽く笑った。

    「……」

    俺は言葉が出てこなかった。

    ただ、目の前の彼女を見ていた。

    「……一緒に仕事できて、楽しかったです」

    最後だけ、少しだけ声が揺れた。

    「これはお世辞とかじゃなく……マジで総理大臣くらいになっても驚かないわ。出馬したら、俺、この会社辞めて、あなたの後援会の会長やるよ」

    そう言って笑うと、彼女も笑った。

    今度は、ちゃんと崩れた顔で。

    彼女の目が、ゆっくり滲んだ。

    「ありがとうございました!部長
    また。会いましょうね」

    外からフォークリフトの音が、遠くで響いていた。


    最後の一人を見送った。

    スタッフが帰った後の販売センターは、やけに静かだった。

    さっきまで、みんながいたはずなのに、抜け落ちたみたいに音が消えていた。

    机の上には、押印済みの退職書類。

    「俺を……ひとりに……しないで……」

    思考が止まる。

    販売センタースタッフの退職届に手を伸ばしたとき、違和感が走った。
    指先が痺れて、うまく力が入らない。

    一瞬、呼吸が詰まる。

    ……指先の感覚が、薄い。

    あの日と、同じ。
    事故のあと、ベッドの上で何度も確かめた、あの感覚。

    何年もかけて、やっと取り戻したはずの指先が、ゆっくり剥がれていく。

    退職届がそのまま床に滑り落ちると、そこには紙の冷たさだけが残った。

    販売センターと、江東店。

    俺にとって右腕だったものと、左腕だったものが、俺の前から消える。

    「……なんで俺ばかり……」

    机に額をつけたまま、しばらく動けなくなった。

    今は、何も考えられない。

    視界の端で、ブラインドの隙間から差し込む光の中に、細かい埃がゆっくり浮いているのが見えた。

    それを、ただ見ていた。



    ◀ 前の話
    #18 線香花火が落ちる前:前編

     
     
    文芸賞応募作品。絶望からの再生を描くノンフィクション連載『異世界に行けなかった俺の半生。』全話完結。さらなる加筆と校正を加え、完全版として更新中|ブログ村ノンフィクション1位🏆|

    あなたへのおすすめ