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【新連載】 『初恋』 第1章「夢」

    あらすじ

    ある朝目覚めると、大学生・時任響(ときとう・ひびき)の左手小指に見知らぬ銀の指輪がはまっていた。刻まれた銘は「Five minutes man」——その名の通り、時間をたった五分だけ巻き戻す力を持つ指輪だった。
    路上ライブから急ブレイクしたシンガーソングライター・柊琴音(ひいらぎ・ことね)との運命の出会い。彼女には数分先の未来が見えるという秘密があり、さらには命を狙うストーカーの影も刻々と迫っていた。
    たった五分。大きな奇跡も、劇的なヒーローも生み出せない、ちっぽけな力。それでも——その五分に命を賭けることを選んだ「不器用な五分男」が、最愛の人を守るために戦い、そして初めて恋を知るまでの、魂を揺さぶる物語。



    ※本文 約5,000字(読了目安:約10分)


    かつて、イスラエルの偉大な王ダビデの子ソロモンは、夢の中で、神から「なにが欲しいか」と問われた。ソロモンは富や長寿ではなく、「民を正しく導くための知恵と知識」を願った。その無欲さと賢明さが神の御心にかない、彼は知恵だけでなく、圧倒的な富と栄誉までも賜ったという。

    「賢者ソロモン」とか「ソロモンの知恵」は、またたく間に当時の世界に伝わり、約3700キロ離れたエチオピアからも女王が会いに来るほどだったと言われている。あの「シェバの女王」とか「シバの女王」と呼ばれる物語だ。

    このエピソードを世界史の資料集で読んだとき、僕は「できすぎた話だ」と鼻で笑った。もし自分が神に問われたら、もっと具体的で、自分勝手で、切実ななにかを願ってしまうだろうから。

     

    そんなある夜、僕は夢を見た。

    暗闇の中で、だれとも知れぬ存在に問いかけられていた。それは神さまだったのか、天使だったのか、仏さまだったのか、それとも、もうこの世にはいないご先祖さまだったのか……そこはまったく覚えていない。

    「おまえに、一つだけ力を授けよう。なにを望むか?」

    僕は迷わなかった。喉から手が出るほど欲しいものがあった。

    「時間を……。時間を戻せる力がほしいです」

    今思い返しても、そもそも、なぜそんなことを願うに至ったのか、その理由さえ、はっきりとは思い出せない。

    ただ、夢の中の僕は、妙に必死だった。声にならない声で、「どうか」「どうか」と、なにかにすがりつくように願っていた。まるで、取り返しのつかないなにかを、すでに失ってしまったかのように。

    けれど、それがなんだったのかは、霧の向こうに隠れたように思い出せない。ただ、夢の中の僕は、過去のなにかを猛烈に後悔していた。


    目を覚ましたとき、頬には涙の跡があったものの、夢の内容は、すでに輪郭を失い始めていた。窓の外からは、五月とは思えないほど力強い初夏の陽光が差し込んでいる。

    「……なんだよ、変な夢」

    ま、どうせ夢だ。そう思って、深く考えようとはしなかった。
    僕は枕元に置いたスマートフォンを確認した。時刻は午前六時三十分。いつもの一日が始まるはずだった。

     

    まだ五月の半ば過ぎだというのに、ここのところ、連日二十五度を超える夏日が続いていた。昨日などは三十度を超え、ニュースでは「今年初の真夏日」という言葉が使われていた。

    今日も快晴。空はやけに高く、青く、暑くなりそうだった。湿り気を帯びた空気が、肌にまとわりつく。僕は寝癖のついた髪をかき上げ、制服に着替えた。冬服の制服を羽織るだけで、じわりと汗が滲む。

    一階へ降りると、トーストの焼ける匂いと、コーヒーの香り、そして朝食を終えてソファーでくつろぐ父がめくる新聞の乾いた音がリビングを満たしていた。

    「おはよう。今日は母さんもパートが早いから、自分で片付けてね」

    母が慌ただしくメイクを直しながら言った。

    「おはよう」

    僕は答えながら、父の読む新聞をのぞき込む。父はメガネを押し上げ、天気予報の欄を指さした。

    「今日の予想最高気温は三十二度らしいぞ。五月でこれじゃあ、先が思いやられるな。熱中症に気をつけろよ」

    「三十二度? マジかよ。制服の上着、脱いでいきてぇ……」

    ぼやきながら洗面所へ向かい、蛇口をひねった。冷たい水で顔を洗う。

    そのときだ。頬に、カチリと硬いものが当たった。

    「いてっ……」

    なにか、違和感があった。冷たい水とは別の、硬質な感触が、顔のどこかに当たった気がしたのだ。タオルで顔を拭き、鏡をのぞき込む。顔に傷はない。寝癖のついた髪、少し寝不足気味の目。特に変わったところは見当たらない。

    「……気のせいか」

    そう思って洗面所を出た。

    キッチンに戻り、パン皿を手に取った瞬間、左手小指と皿の縁が触れ、
    ガリッ
    と、乾いた音がした。

    「ん?」

    反射的に左手を見た瞬間、心臓が跳ねた。左手の小指に、見覚えのない銀色の指輪がはまっていた。シンプルだが、どこか重厚な輝きを放っている。

    「……なんだ、これ?」

    まったく、身に覚えがなかった。僕は混乱した。ファッションで指輪をつける習慣なんてないし、そもそも昨夜まではめていなかった。

    冗談だろ、と思いながら引き抜こうとした。だが、まるで指の一部になったかのように動かない。

    僕は焦った。右手でその指輪を回しながら、角度を変えながら、もう一度──

    その瞬間。

    視界がぐにゃりと歪んだ。めまいに似た感覚。でも、それはほんの一瞬のことだった。気がつくと僕は──自分の部屋を出て、階段を降りているところだった。

    「えっ……?」

    足がもつれて階段を踏み外しそうになり、慌てて手すりにしがみついた。

    なにが起こったのか、理解が追いつかない。さっきまで、一階のキッチンにいたはずだ。

    恐る恐るリビングの扉を開けて、中をのぞき込むと、そこには、モーニングコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる父と、出勤のためメイクを直している母がいた。

    母が言う。

    「おはよう。今日は母さんもパートが早いから、自分で片付けてね」

    ──さっき聞いた言葉だ。デジャブなんてレベルじゃない。母は、さっきと一言一句違わぬ言葉を口にしている。

    父も、新聞から目を離さずに続けた。

    「今日の予想最高気温は三十二度らしいぞ。五月でこれじゃあ、先が思いやられるな。熱中症に気をつけろよ」

    背筋に冷たいものが走った。まるで、時間が巻き戻されたようだった。

    もしかして……あの夢?
    あれは、ただの夢じゃなかったのか?

    僕は自分の左手小指を見つめた。そこには、確かにあの銀色の指輪が鎮座している。

    「……これ、本物なのか?」

    時間を戻すための道具……?

    いやいや、まさかそんなわけがない。SFじゃあるまいし。

    頭が混乱している僕に、母が声をかけた。

    「なにボーッとしてんの。あんた変よ」

    母が僕の顔を覗き込んできた。

    「熱はなさそうだけど……。顔色も悪くない。

     ちゃんと水分補給して、早く食べちゃいなさい。
     あと十分で家を出ないと、いつもの電車に遅れるわよ!」

    その声で、ハッと現実に引き戻された。そうだ、今は、そんな夢だの指輪だのを考えている場合じゃない。遅刻はシャレにならない。

    混乱を抱えながらも、僕は野菜ジュースを一気飲みして、トーストを口に押し込んだ。グラスと皿を洗い、歯磨きをくわえたままトイレに行き、上着に袖を通して外に出た。それだけで、じわりと汗ばんでくる。が、そんなことも言ってられない。

    今日の三限目は英語の定期テストだ。オカルトに浸っている暇はない。学校に着いたら、もう少し見直さなければ。

     

    僕は、時任響(ときとう・ひびき)。
    都内の高校に通う、二年生だ。



    学校に着いても、左手の違和感は消えなかった。授業中も、小指の重みが主張してきて、気になってしょうがない。

    そして迎えた三限目の英語。試験は、そこそこ解けていた……と思っていた。

    だが、最後の問題。時間が足りず、焦って凡ミスをしてしまった。最後の大問、関係代名詞の書き換えを、まるごと一段ずらして解答していたのだ。テストの終了間際、その痛恨のミスに気づいた。

    (クソッ、書き直す時間が……!)

    無情にもチャイムが鳴り、答案が回収される。僕は絶望の中で、無意識のうちに左手小指の指輪に手をやり、回していた。

    一瞬の暗転。

    と、目の前にあるはずのないものがあった。回収されたはずの、僕の答案用紙。まだ白紙の解答欄が残ったままだった。教室内を見渡す。皆、必死にペンを走らせている。

    時計を見ると、終了五分前。

    心臓が、どくんと鳴った。

    「もしかして……本当に、戻った……?」

    手が震えた。指輪を見つめる。試しに、もう一度、回してみた。

    なにも起こらない。

    内回り、外回りと、何度か回してみたが、カチカチと空回りするような感覚があるだけだ。

    「……そんなこと、あるわけないか」

    そうこうしているうちに、試験終了の二度目のチャイムが鳴った。

    ハッと、われに返る。その瞬間、後悔が押し寄せてきた。肝心のテスト直しをしていなかった。直せたはずだった。

    が、ときすでに遅し。

    「あ~あ、やってしまった……

     いや、なにもやらずに終わってしまった……」


    次の授業中も、僕は何度となく指輪を回してみたが、なにも起こらなかった。

    「やっぱり……気のせい、だったのかな? この指輪の力じゃなかったのかなー?」

    そんなことばかり考えていて、教師の声は、ほとんど耳に入ってこなかった。

     

    昼休み。
    いつものように、仲間たちが集まってきた。僕の周りには、男女三人と二人、合わせて五人の幼馴染みがいる。家が近所で、幼稚園、小学校、中学校──ずっと一緒。腐れ縁というやつだ。

    屋上へと続く階段の踊り場。そこが僕ら五人組の定位置だ。

    達也がコンビニの唐揚げ棒を頬張りながら、僕の手元を指さした。

    「なあ、響。おまえ、そんな指輪してなかったよな? お洒落に目覚めたか?」

    ドキリとした。運動神経の良さと関係があるのかはわからないが、あいかわらず鋭い。

    「あ、いや。これは……」

    「えっ、見せて見せて! 響が指輪なんて珍しいじゃん」

    香と結衣が興味深そうに身を乗り出してくる。聡は相変わらず読書をしていたが、眼鏡の奥の目をこちらに向けた。

    香が悪戯っぽく笑う。

    「彼女からのプレゼント、とか?」

    「ほんと? 響、彼女できたの?」

    「んなこと、あるわけないだろ? 拾ったんだよ」

    「なーんだ、おもしろくない!」

    「こら、それは失礼だろ? 僕だって、いつかは!」

    「でも、ちょっと、貸して」

    結衣が僕の手を掴み、指輪を抜こうとした。驚いたことに、僕がどうやっても抜けなかった指輪が、結衣の手によってスルリと抜けたのだ。

    「……え? 外れた?」

    「なに、ばか言ってんの!」

    驚く僕をよそに、結衣は指輪を太陽にかざして観察し始めた。

    「内側に、なんか……文字が刻んであるよ。英語かな?」

    「なんだよ、愛のメッセージか?」

    聡も興味を持ったように言う。

    「結婚指輪みたいに、〈Y to H〉とかって刻んであるんじゃないよな? そしたら、響の彼女がだれだか、わかるな?」

    達也が茶化す。

    「だから、彼女はいないって!」

    僕は懸命に否定した。

    結衣はしばらく凝視していたが、やがて噴き出した。

    「ひ、響……これ……っ!」

    「なんだよ、なんて書いてあるんだ?」

    結衣は腹を抱えながら、涙目で宣告した。

    「『Five minutes man』だって! 五分男!」

    一瞬の静寂の後、踊り場は爆笑の渦に包まれた。

    「五分男! なんだよそれ、ウルトラマンの親戚か?」

    「なにか新しいヒーローものか? その指輪は、マニアックなレアアイテムなのか?」

    爆笑が止まらない。「ハラ痛てぇ!」と、涙を流している。

    「これから、響のこと、五分男って呼ぶか?」

    「響、おまえこれから『ミスター・ファイブミニッツマン』な!」

    普段は、どちらかと言えば、物静かな聡さえ、腹を抱えて大笑いしている。

    「うるせぇ! 返せよ!」

    僕は顔を真っ赤にしながら、結衣から指輪を奪い返して、乱暴にポケットに突っ込んだ。

    「くっそー! 今日は最悪だ!」

    五分男──。あまりにもダサすぎる称号だ。でも、この指輪の主は、僕の「時間を巻き戻したい」という浅ましい願望を見抜いていたということなのだろうか。

     

    家に帰って、ポケットから取り出した指輪をまじまじと見た。確かに、刻まれていた。“Five minutes man”と。

    「五分男かー。まったく、この指輪のせいで、とんでもない思いをした!」

    ひとりごちながら、指輪を引き出しに仕舞おうとしたが、その前に、もう一度だけ試してみたくなって、小指にはめた。

    そして、現在時間を確認。十八時三十分。僕は意を決して、指輪を回した。景色が溶け、再構築される。目を開けると、僕は一階の洗面所で手を洗っていた。時計は十八時二十五分。

    「……確定だ。やっぱり、夢でもなんでもなかった。本当に五分、戻れる……。あ、だから、“Five minutes man”──五分男なんだ。あんま、格好良くないけど。ってか、相当格好悪いけど」

    そうつぶやきながら、もう一度指輪を外そうとしたが、やはり僕の力ではビクともしない。

    「ヤバイ! また外れなくなった!

     そっか、自分では外せないってことなんだ」

    どうして、そんなことになるのかはさっぱりわからなかったが、でも、自分でははずせないということだけはわかった。

    「ま、いいか。あとで母さんに外してもらおう。

     それと、たぶん、一度、時間を戻したら、そのあとは、何時間か経たないと、使えないんだな。充電時間みたいなものか」

    その晩、僕はベッドに横になって、この指輪の使い道について、あれこれ考えたり、想像したりしているうちに眠ってしまった。指輪を外してもらうのを忘れたまま……



    (第2章へつづく)


    ※本作はフィクションです。
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