
【連載】 『初恋』 第4章「脅迫メール」
※本文 約9,000字(読了目安:約20分)
翌日の昼。スマホが震え、画面に琴音の名前が浮かんだ。LINEメッセージだった。
『私、朝から授業で、これから学食で昼食なんだけど、響は? まだだったら、一緒に食べない?』
たったそれだけの短い文なのに、胸の奥がふっと温かくなるのがわかった。昨日まで、僕は彼女のことを知らなかった。昨日まで、彼女も僕のことを知らなかった。それなのに、今日はもう「一緒に食べない?」と自然に言われている。
僕はしばらく画面を見つめたまま、返信を打つ指が止まっていた。なにかを考えていたわけでもない。ただ、その「自然さ」が、少し怖いくらいにうれしかったのだ。震える指で返信を打つ。
『僕は二限から授業だった。昼食はまだ。これから学食に行くよ』
『席取っておくから』
『ありがとう。よろしく』
送信してから、思わず一人で小さく笑ってしまった。出会って二日目なのに。けれど、この気負いのなさはなんだろう。昨日、彼女の秘密を知り、自分の秘密を明かした。その重みが、かえって僕たちの距離を、長年連れ添った友人のような自然なものに変えていた。まるでずっと前から知っている人みたいで、でも、やっぱり違う。気持ちは落ち着くのに、理性は落ち着かない。そんなあやふやな、変な感じだ。
僕はあらためて左手小指を見た。昨日、琴音が外してくれた指輪が、今はまた僕の指に納まっている。僕の体の一部のように。だれが、なぜ、どうやって、僕の指にはめたのか?──嘘みたいな本当の話。でも、確かなことは、この指輪が、僕を琴音と出会わせてくれたこと……。
そんなことを考えながら学食に入ると、空気が少し変わった。学生たちの放つ熱気と揚げ物の匂いとざわめきはいつも通りなのに、別の音を僕の耳が拾ってしまった。
「ね、あの子、SNSに上がってた子じゃない?」
「見た? 昨日の」
「琴音のイベントで騒ぎを起こした男か?」
「本物?」
「うちの大学の学生だったの?」
ヒソヒソと交わされる断片的な言葉が、湯気のように漂っている。視線も感じた。隠すようにスマホのレンズを向けている人もいた。足が止まり、やるせなさに襲われ、帰ってしまいたくなってきた。
そんな喧騒の中で、琴音が立ち上がり、大きく手を振っているのが見えた。
「響!! こっちこっち!!」
まるで何事もないように、よく通る声で、僕を呼ぶ。
僕にはわかった。琴音は、あえて、大きな声で僕の名を呼んだのだ。そして、笑顔で手招きする。
その瞬間、周囲の視線が一斉に僕に突き刺さるのを感じた。それは「気がした」なんてレベルではない。人気急上昇中のシンガーソングライター・柊琴音が、地味な男の名をうれしそうに呼んでいるのだ。
さっきまで僕を悩ませていたヒソヒソ声が、まるで遠い異国の言葉のように聞こえ、一気に、僕の中で、どうでもいいものになった。それどころか、むしろ、優越感のようなものさえ感じて、なんとなく背中がむず痒くなった。
が、同時に、そんなことで優越感を抱く自分という人間の器の小ささを突きつけられたようで、情けなくて自己嫌悪する。
琴音の近くに行くと、周囲の視線がさらに刺さるようになった。
「え、あいつだれ?」
羨望、好奇心、軽い嫉妬、そして……理由のわからない棘。それが混ざっているのがわかる。
「響、なに食べる? 今日は日替わりがハンバーグだよ」
「じゃあ、それにしようかな。琴音は?」
「私も日替わりにする。ね、今日は私に奢らせて」
琴音は、あっけらかんとした顔で言った。
「昨日のお礼。断らないでね」
ざわっとした空気が漂い、周囲の視線を再び感じた。
「いや、でも……」
「だめ。これは私の気持ち。だから、受け取って」
その口調は柔らかいのに、譲る気配がない。結局、僕は彼女の背中を追って券売機に並んだ。そこでまた視線を感じる。僕がイケメンでもなんでもない、ごく普通の大学生であることが、余計に目立たせているのだろう。
受け取ったトレーを持って席に戻り、向かい合って座る。琴音がハンバーグを小さく切って口に運ぶ姿は、ステージの上の神々しさはなく、どこにでもいる女子大生のそれだった。
「ね。私の歌、どうだった?」
直球だった。僕は一瞬、昨日の歌声を思い出す。あの場の喧騒が遠のき、声だけが胸に落ちてきた瞬間。
「初めて聴いたけど……すごくよかった。歌詞も、メロディーも、君の声も、全部がひとつの塊になって心に飛び込んできた。ずっと聴いていたい、そう思える歌だった」
琴音は目を細めて、うれしそうに笑った。
「ありがとう。よかった。うれしい」
彼女は心底安心したように目を細めた。その笑顔が眩しくて、僕は少し視線を落とした。
そして、思っていたことを正直に言った。
「でも……僕は、君のこと、今まで全然知らなかったんだ。琴音っていうシンガーソングライターがいることすら。芸能界の話題にも興味がなくて。歌も、普段ほとんど聴かないし……ごめん」
「そっか。昨日まで、私のこと知らなかったんだ? 私もまだまだだね」
そう小声でつぶやいた。
「でも、じゃあ、どうして昨日はあそこにいたの?」
「パソコンが壊れちゃって、中古を買おうと思って秋葉原に行ったんだ。で、歩いてたらイベントがあって……。一緒にいた幼馴染みの仲間たちが『琴音だ!』って盛り上がって、見ていこうって」
琴音は一瞬、きょとんとしてから、噴き出すように笑った。
「あはは、響らしいね」
「……ごめん」
「ううん。謝ることなんてなにもないよ。
でも……そっか、そっか。私を見に来てくれたわけじゃなかったんだ……」
琴音がほんの少しだけ、しゅんとした。わざとらしく肩を落としたその反応が可愛くて、でも、僕はどう言葉を足していいかわからなかった。
「うそ、冗談だよ。響は嘘がつけない、正直者なんだね。そういうところ、信じられるなって思うし、私は好きだよ。そういうの」
そう言って、琴音は軽く肩をすくめた。僕はフォークを持ったまま固まった。胸の奥が、また小さく跳ねる。好き──その言葉が、思った以上に重く響いた。
「あ、そうそう」
僕は、自分の気持ちをはぐらかすように言った。
「昨日、仲間が言ってたんだけど、『いつか、この空の下で。』の主題歌、琴音が歌ってたんだよね。ネットで流れてきた予告だけ見たことがあった。……だから、僕、昨日が初めてじゃなかったのか」
「ふふ」
琴音はうれしそうにうなずいた。
そのときだった。
「琴音ー!」
椅子が床を擦る音がして、明るい声が近づいてきた。数人の女子学生が僕たちの席の横に立つ。自然に輪の中心が琴音になる。
「琴音が男の子と一緒にいるの、珍しいね。っていうか初めて見たかも」
「ほんと。だれ? 彼氏?」
質問が矢継ぎ早に飛んでくる。僕は、どう反応すべきか迷い、笑うことしかできなかった。琴音は落ち着いた声で言った。
「彼は、文学部の時任響くん」
「文学部? 男子で文学部って珍しくない?」
「ねえねえ、いつ、どこで知り合ったの?」
その質問には琴音があっさり答えた。
「昨日。秋葉原のミニライブのとき。ね?」
「昨日!?」
友人たちの目が丸くなる。その反応が、僕の胃をきりきりと締め付けた。そのうちの一人が、僕を見て息を呑む。
「あっ……もしかして」
スマホを操作する指が速い。
「歌ってる琴音の前に飛び出して、ライブ中断させた男って……あなた? 昨日、ネットで晒されてた」
空気が一瞬で固くなった。僕の背中を冷たい汗が伝う。
──まただ。あのときと同じ、レンズの気配。返す言葉が見つからず、僕は肩をすぼめた。居心地の悪さが、急に現実になった。
彼女たちの視線には、明らかな不審と警戒が混ざっている。
「まさかさ」
友人の一人が、強い口調で言った。
「琴音の気を引きたくて、琴音に近づきたくて、あんなことしたんじゃないよね? だとしたら、私たち赦さないから」
刺すような言葉だった。
僕は反論しようとしたが、すぐにやめた。説明すればするほど胡散臭くなる。「五分戻せる」なんて、言った瞬間に終わる。
琴音が立ち上がって、はっきり言った。
「そんな言い方しないで。響はそんな人じゃないよ。むしろ、私を助けてくれたの」
「助けた? ライブ中断させたのに?」
「そう。あれは、そうするしかなかったの」
琴音は一瞬、こちらを見た。「大丈夫」とでも言うような目だった。一度呼吸を整える。
「響にはね、不思議な力があるの。危険を察知する、特殊な力が」
僕は心臓が跳ね上がるのを感じた。彼女がなにを言い出すのか、期待と不安が混ざり合う。
「特殊な力……?」
「そんなふうに言うとちょっと大げさだけど、響には、危険を察知する力みたいなのがあるの」
僕は息を呑んだ。琴音がどこまで言うつもりなのか、わからない。
「昨日もそうだった。私やお客さんを守るために、あんなことをしたの。危険を回避するためには、ああするしかなかった」
友人たちは驚いた顔で、琴音を見つめた。
「危険って……なに?」
「それって……。もしかして、琴音が少し前から言ってた、例の脅迫メールとか関係あるの?」
友人の言葉に、僕の思考が止まった。
「……え? 脅迫メール?」
僕の口から、間抜けな声が出た。
琴音は少しだけ表情を曇らせた。それでもすぐに、覚悟を決めたようにうなずく。
「うん。少し前から来るようになって……」
「どんな内容?」
僕が聞くと、琴音はスマホを取り出し、画面を開いた。指先が、ほんの少し震えているのがわかった。
「最初に来たのは、十日くらい前」
琴音はメールを見せてくれた。そこにはこう書かれていた。
『僕はいつまで待てばいいの? 君が僕を見つけてくれるのを、待っているのに。早く僕を探し出して』
文章は丁寧で、どこか詩のようでもある。けれど、そこにある感情は濃すぎて、湿っていて、気持ち悪い。
「最初は、ただのいたずらだと思ったの。でも、念のため保存しておいた」
「送信者に心当たりは?」
「全然」
琴音は次のメールを開いた。
『君がいつまでも僕を見つけてくれないので、近いうちに僕のほうから君に会いに行こうと思っています』
さらに。
『僕が会いに行ったら、僕に対する君の想いを聞かせてくれる?』
そして。
『僕を無視するな! 君の想いはわかってるんだから』
読み進めるほど、僕の喉が乾いていく。文字だけなのに、そこには執着があり、怒りがあり、歪んだ愛情がべっとりと貼りついていて、読むほどに吐き気がした。
気配がある。画面の向こうに、人間がいる。冷たい目をした人間が、琴音を「自分のもの」だと思い込んでいる。
「……ストーカーだ」
だれかが言った。琴音はうなずく。
「五通目以降は、完全に脅迫に変わったの」
画面に表示された文面を、僕は見た。
『僕の想いをわかってくれないんだったら、君を殺すしかない』
『君を殺して、僕も死ぬ。いつまでも一緒だよ!』
胸の奥が冷たくなる。言葉の刃が、琴音に向けられている。そして、昨日のあの包丁と繋がった。それが妄想ではなく、本気だということは、もう明らかだった。
「この十日くらいの間に……三十通」
琴音が小さく言った。その声は震えていた。
琴音は、その恐怖を抱えたまま、懸命に歌い、恐怖など感じていられないくらい授業に出て、必死に笑っていたのだ。
目の奥が熱くなって、喉が詰まった。言葉が出る前に、息が震えた。
「事務所には相談してる?」
「まだ言ってないんだ。相手が本気がどうかもわからなかったし……。ただ、ここにいる友だちには相談してたの」
「じゃあ昨日の会場に、その犯人がいたってこと?」
友人が言った。
「うん。フードをかぶってたから顔はわからなかった。でも、あの人が犯人だって、私は確信した。
……だから、あのとき響が中断させてなかったら……」
琴音は言葉を途切れさせた。その先を言わなくてもわかる。想像できてしまうのが、さらに恐ろしい。
友人たちは、さっきまでの強い口調が嘘みたいに、しゅんとした。
「……さっきは失礼な言い方してごめんなさい」
「私たち、琴音の夢を応援してるから……怖くて」
みんなが頭を下げた。その素直さが、逆に胸に刺さる。だからこそ、これ以上、だれかを怖がらせたくなかった。
そう思ったとき、僕の口が勝手に動いていた。
「大丈夫。僕が、琴音を守るから」
自分の声が、自分のものじゃないみたいに聞こえ、自分の言葉に、自分で驚いた。
僕はそんなことを言うキャラじゃない。自分がそのことを一番知っているはずなのに、言い切ってしまった。
自分でも信じられなかった。でも、不思議と、恥ずかしいとは感じなかった。なぜだろう、むしろ、僕の内側から力がみなぎってくるのを感じた。
友人たちが目を見開く。無理もない、どこからどう見ても弱っちい僕が言い切ったのだから。
琴音も一瞬、驚いていた。
僕は、もう一度、今度は、噛みしめるように言った。
「僕が、必ず、琴音を守る!」
怖くなかったと言えば嘘になる。でも、それ以上に、逃げたくない、そして琴音を守りたいという気持ちのほうが勝っていた。
僕に与えられた五分戻せる力は、自分のためではなく、だれかのためにこそ使うべきだ。胸の奥で、その考えが静かに定まっていくのを感じた。
だれかの未来を守るためにこそ──純粋にそう思った。
琴音は、少しだけ目を潤ませて、笑った。
「うん。信じてる」
その一言が、僕の決意をさらに固くした。
その日から、僕は琴音の送り迎えをすることになった。正確には、「そうする」と僕が勝手に決めて、琴音が受け入れてくれた。
琴音はスマホのカレンダーを見せてくれた。日中はほぼ授業で埋まっている。空白が少ない。
「こんなに授業取ってるの? 単位、もう十分足りそうなのに」
僕が言うと、琴音は当たり前みたいに答えた。
「せっかく大学にいるんだから、時間と体力が許す限り、いろいろな講義に出てみたくて。だって、もったいないじゃん」
そして少し笑う。
「それに、いろんな講義を聴いてると、そこから新しいメロディーや言葉が降りてくるようなインスピレーションをもらうこともあるし。
大学にいる時間は、私にとって宝物なんだ」
僕は、恥ずかしくなった。僕は、適当に入れる大学を選んで、なんとなく大学に行き、留年しない程度に単位を履修し、なんとなく授業に出て、なんとなく適当なところに就職できればいい──そんな「なんとなく」の人生を思い描いていた。
が、目の前の彼女は、同じ大学生なのに、時間の使い方が根本から違う。真剣に生きている。生きることに真摯だった。
僕の「なんとなく」という生き方が、恥ずかしいほど薄っぺらく見えた。
さらに驚いたことに、琴音の最寄り駅は僕と同じだった。家は反対方向だが、帰りの電車は一緒になる。偶然でも、それだけでうれしくなった。
夕方。駅から歩いて十分ほどの住宅街。琴音の家の前で足が止まった。緊張感が半端ない。足が震えている。
(おまえ、なにしてるんだ)
知り合ったばかりの女の子の家に、夕方に行く。正気か。でも、琴音が「一度、家に寄ってほしい」と言ったのだ。
「ただいま~」
ガチャッと、琴音が玄関のドアを開ける。その瞬間、餃子の匂いがふわっと流れてきた。油と野菜と、家庭の匂い。それだけで、心が少し緩む。
「いらっしゃい。時任くんだよね?」
琴音のお母さんは、明るい声で迎えてくれた。お父さんも出てきて、軽く頭を下げた。
「琴音が男の子を家に連れてくるなんて初めてでね」
その言葉に、琴音が少しだけ照れた。僕は耳まで熱くなり、慌てて頭を下げた。
「はじめまして。時任響です。
今日は……すみません。突然お邪魔して」
「いいのいいの。上がって」
客間に通されると、そこには七十歳のおばあちゃんがいて、さらに高校生の妹──鈴音(すずね)が、元気に顔を出した。
「えー、響くん!? 昨日の人!?」
鈴音が目を輝かせる。情報の回りの速さが怖い。チラッと、お父さんの顔に目をやった。怒ってないか不安だったのだ。
でも、全然そんなことはなく、家族皆、とても穏やかな顔をしていた。家の中の空気はあたたかくて、怖さより安心が勝った。
「時任くん。もしよかったら、一緒に夕食食べていかないか?」
お父さんが言う。その言い方が、妙に優しい。
「うち、女四人でね。私はいつも肩身が狭いんだ」
「えー、お父さん、またそれ言うー!」
鈴音が笑い、お母さんも笑い、おばあちゃんが「はいはい」と手を叩く。笑い声が絶えない。僕はその輪の中に入ってしまっていることに、妙な不思議を感じた。初めて来た家なのに、初めてじゃないみたいだ。
夕食は手作り餃子だった。
「ポン酢で食べるのが柊家流なの」
勧められるままに口に運ぶと、肉汁と野菜の甘みが広がった。絶品だった。
「おいしい……!」
「でしょ? 響くん、もっと食べて!」
普段は、どちらかと言えば、少食のほうだが、あまりに美味しくて、勧められるまま、気づけば、鈴音と競うように食べていた。
「やっぱり男の子はよく食べるわね。見てて気持ちいいくらい。作った甲斐があるわ」
お母さんがうれしそうに言う。
「でも、私のほうが食べたし! 響くんに勝ったー!」
鈴音が誇らしげに言うと、おばあちゃんが笑った。
「鈴音はうちで一番の大食いだよ」
「だって合唱部、練習たいへんなんだもん。歌うとお腹空くの!」
その言葉に、琴音が小さく笑った。
「鈴音、デビュー前の路上ライブの頃、たまに一緒に歌ってくれたもんね」
僕は、その光景を想像して、胸が少し熱くなった。家族の中で育った歌。それが琴音の「声」になったのだ。
「琴音は、どうして音楽に興味を持ったの?」
僕が聞くと、琴音は少し考えたあと、立ち上がった。
「ちょっと待ってて」
戻ってきた琴音は、写真立てを抱えていた。
「まず、これがおばあちゃん。三十年以上前だけど」
そこにはステージで歌う若いおばあちゃんがいた。目がきらきらしている。
「NHKののど自慢大会で全国大会に出たんだって」
「のど自慢の全国大会? すごい……」
「けっこう良いところまで行ったんだよね、おばあちゃん」
鈴音が誇らしげに言う。
「次はこれ。学生時代のお父さんとお母さん」
学祭の写真だろうか。お父さんがギターを弾き、その隣でお母さんが笑顔で歌っている。二人とも、とても輝いている。格好良かった。
「お父さんとお母さんは音楽を通じて知り合ったんだって」
琴音が言うと、鈴音が説明してくれた。
「お父さんはお母さんの歌声に惹かれて、お母さんはお父さんのギターの音色に惹かれたんだって」
お父さんが少し照れたように笑った。
「母さんの歌声をもっと引き立たせるように弾きたいって、その一心で練習したもんさ」
お母さんが、懐かしそうに続ける。
「その優しさがね、ギターの音色を通して伝わってきたの。心地よかった。あ、この人は本当に私を大切に想ってくれてるんだなって」
素敵な話だった。聞きながら、僕は、胸の奥が静かに満たされていくのを感じた。
音楽は、この家の「言葉」なのだ。
「琴音と鈴音ちゃんは、その遺伝子を引き継いでるんだね」
僕が言うと、琴音は少しだけ照れた。
「響くんは、音楽はやらないのかい?」
お父さんが聞く。僕は苦笑して首を振った。
「僕は……全然。友だちとカラオケ行っても歌えないんです。そもそも歌も知らなくて……。琴音さんのことも知らなかったくらいで。
すみません……」
すると、お母さんが笑った。
「なにも謝ることはないわよ」
お父さんが、少し真面目な顔で言った。
「でも、正直、父親としてはちょっと安心したよ」
琴音と鈴音が「え?」という顔をする。僕も驚いた。お父さんは続けた。
「響くんは、今まで音楽に興味がなかったんだろ? 琴音がシンガーソングライターとして少し有名になったから近づいたわけじゃない。打算とか、へんな下心で近づいたわけじゃない。
……琴音という人間を見てくれたってことだろ?」
その言葉が、胸にまっすぐ入ってきた。自分でも気づいていなかった部分を、言葉にしてもらった気がした。僕は小さくうなずいた。
お母さんが、少し楽しそうに言う。
「でもね、響くんにも、音楽を好きになってほしいな。歌はいいわよ」
そして、少しだけ目を輝かせる。
「『人間の歌声は、神が与えたもうた最高の楽器である』って言った人がいるの。私も本当にそう思う」
その言葉は、どこか祈りみたいだった。
「だって、不思議だと思わない? 地球上には八十億も人がいるけど、同じ声の人はいないのよ。それどころか、人類の歴史上、完全に同じ声の人もいないって私は思うの」
お母さんは、手のひらを軽く胸に当てた。
「ひとりひとりの歌声は、歴史上、そして地球上に、たった一つの、唯一の歌声。
そう考えると……私たちの声って、一つの奇跡だと思うの。琴音の歌も、響くん、あなたの声もね。感動じゃない?」
僕は、言葉を失った。ひとりひとりの声、ひとりひとりの歌声は、一つの“奇跡”!──僕は、お母さんのこの言葉にジーンときた。これが琴音の音楽のルーツなのだ。
五分戻せる指輪よりも、よほど奇跡がここにある。
時間は戻せても、声は戻らない。
だからこそ、守る価値がある。
おばあちゃんが、にこにこしながら言った。
「響くん、いい声してるよ。もったいないねえ」
さらに、お母さんと鈴音が顔を見合わせて言う。
「それに……響くんの声と、琴音の声って、合ってる気がする」
「あ、それ私も思った」
「声の質っていうのかな? もっと、いろいろな意味で、ふたりの声は、絶妙な気がする」
僕は一気に顔が熱くなり、どう返していいかわからなくなった。琴音も、照れたのか、ほんの少しだけ視線を逸らした。その仕草が、妙に可愛かった。
いつの間にか、僕は柊家の人々の中に溶け込んでいた。幼馴染の四人といるときと同じような、あるいはそれ以上に深い「居場所」を、ここで見つけたような気がした。
食卓の笑い声を聞きながら、僕は思った。
この家の空気を壊したくない。
この人たちの歌声と笑顔を守りたい。
琴音を守るということは、この家族を守ることでもある。
僕はもう一度、心の中で誓った。
(なにがあっても、必ず、琴音を守る!)
守ると決めた瞬間、世界の見え方が変わる。
脅迫メールの文面が、頭の中でちらつく。あの「執着」の目が、どこかでこちらを見ている気もする。怖い。
でも、それでも──僕は、逃げたくなかった。
(第5章へつづく)
※本作はフィクションです。
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