
【連載】 『初恋』 最終章「初恋」
※本文 約3,400字(読了目安:約5分)
三月三日の狂乱は、夜の帳(とばり)とともに、嘘のように静まり返っていった。
あの一瞬の逆転劇は、傍(はた)からは「ストーカーの暴漢が自らつまずき、無様に顔面を強打して自滅した」という間抜けな事件として処理された。ニュース映像に切り取られたのも、その瞬間だった。
多くの人が撮っていた動画は、その日のうちにYouTubeやTikTok、Instagram、Threads、Facebookなどインターネットにアップされた。そこには、『運の悪い犯人』とか『間抜けな暴漢』、『笑える襲撃事件』といったタイトルやハッシュタグが付けられて、世界中に拡散され、一時的に大バズリした。
けれど、僕の指先には、今も、犯人にしがみついたときの冷たさが残っている。そして脳の奥には、自らの腹を刺したときの、あの灼熱の痛みが幻痛(ファントム・ペイン)として刻まれていた。
あの数分間になにがあったのかを知っているのは、僕と琴音だけ。
時間の歪み。焼けつく痛みの記憶。死の恐怖。そして、彼女の体温。それらすべてをくぐり抜けて、僕はここに立っている。
僕はやり遂げたのだ。世界でたった一人の大切な人を、死の運命から引き戻した。その静かな充実感が胸の奥に満ちていた。
琴音との出会いは、僕をほんの少し変えてくれた。いや、本当は「変えてくれた」なんて言葉では足りない。彼女を守り抜いたというこの経験、この事実が、僕の中に確かな灯をともしていたから。僕のこれからの生き方そのものを確実に変えてくれたと思えたから。
だから、感謝しかない。たとえ今日をもって、ボディガードとしての役目を終え、琴音が再び、僕の手の届かない遠い世界へ戻っていくのだとしても。それでもいいと思えた。僕にとっては、その痛みさえ、彼女を守った証として静かに胸に刻まれていた。
翌日の午後。
僕たちは、春休みの静かな大学の屋上にいた。日中の日差しがずいぶん温かく感じられるようになった。春が確実に近づいていることが感じられる。
遠くで踏切の音が鳴り、電車が通り過ぎていくのが見えた。世界は何事もなかったかのように、昨日と同じ速度で回っていた。
だが僕の身体には、まだあの痛みの残像が残っていた。腹部に手を当てると、傷はないのに、奥の方で鈍い熱がくすぶっているような錯覚がある。
生きている。その実感が、昨日よりもはっきりと胸にあった。
琴音は、コートのポケットに手を入れ、小さく肩をすぼめながら僕の隣に立って、遠くを見ている。春の風が琴音の柔らかな髪を揺らしている。
しばらく、言葉はなかった。
言葉にしてしまえば、なにかが壊れてしまう気がした。
それでも、言わなければならないことがある。
僕も遠くの空を見ながら、思い切って言葉を口にした。
「琴音の『初恋』っていう歌……」
声が思ったよりも静かに出た。琴音が、ふいっと僕の方を向いたのを感じた。僕は、なおも遠くの空を見ながら続けた。
「言葉を交わしたこともない相手への、切ない恋心を歌ったあの歌……。本当に素敵で、僕は大好きだ。心に響いてくる。琴音が、まだその相手を探し続け、想い続けているのだろうかと考えると、泣きたいくらい苦しくて、切なくなるけど……」
胸の奥に溜まっていた言葉が、ゆっくりほどけていく。
「でも、僕も琴音に恋をしたから……。僕にとっても、これが初めての恋だから……。琴音の恋心が、痛いくらいわかる」
僕は一度、深く息を吸って、琴音をまっすぐに見つめた。
「僕は……柊琴音が好きです」
琴音の瞳が揺れた。
「琴音に会えてよかった。本当にありがとう」
そして僕は、『初恋』を歌った。
声は震えていた。それでも、一語一語を確かめ、かみしめるように、なにより、琴音への感謝とさよならの気持ちを込めて、心から歌った。
私はいつまでも 探し続ける
夕焼けの街 滲むライト
名前も知らない だけど忘れない
胸の奥に残る 笑顔だけ
好き 大好き
言えないまま 強くなる
あなたに私を 知ってほしい
あなたにこの想い 届けたい
初めて会った あの日から
ずっと ずっと ここにある
私の初恋……
自然と涙が溢れてきた。不器用な僕の歌を、琴音は目を閉じて、祈るように聴いてくれていた。
やがて琴音はゆっくりと目を開いた。そして言った。
「『初恋』はね、私が高校三年のときに作った歌なんだ。私にとって、一番大切な歌……」
琴音の声は静かだった。そして、遠い空を見るような目で続けた。
「高二のある日、いつもの駅で、いつもの電車に乗ろうとしてホームに立っていたの。そのとき見えたんだ。『数分後の未来』──おばあちゃんがホームから落ちて、それを助けようと線路に降りた人たちも一緒に電車に轢かれちゃう場面が」
琴音の声が微かに震える。風が頬を撫でていった。
「どうしよう、どうしたらいいのって、必死でおばあちゃんを探した。でも見つからなかった。そしたら、だれかが落ちたって大騒ぎになって……。助けられなかった……自分の無力さが、悔しくて悔しくてたまらなかった。申し訳なくて、悲しくて……」
琴音は少し俯いた。
「先のことが見えたって、だれも助けられないんじゃ、こんな力、意味ないじゃんって。
でもね、そう思った瞬間、時間が戻ってたの。混乱した。なにが起きたのか分からなかった」
僕の心臓が大きく脈打った。
「でも、とにかく、もう一度助けに行こうとしたの」
僕は息を呑んだ。
「そしたら、向こうから叫びながら人混みをかき分けている男の子が見えたの。『おばあちゃん!』って、必死で叫んでた」
「えっ? それって……」
「うん。響だよ」
琴音は僕を見つめ、慈しむように微笑んだ。
「……あの日、琴音もあそこにいたのか」
「うん。おばあちゃんも助かって、おばあちゃんを助けようとした人たちも助かった。響は心底ホッとした顔をしてた。でも次の瞬間、『やべえ、遅刻だー!』って慌てて、電車を追いかけて走り出してた」
僕は思わず苦笑した。
「私、その響の姿を見たら、おかしくて笑っちゃった。同時に、涙が止まらなかった」
琴音の目が、優しく細められた。
「でもね、思ったの。この人は、後先考えず、目の前の、名前も知らない人のために行動できる人なんだって。だれに感謝されるでもない。なにか見返りがあるわけでもない。でも、感謝も求めず、なんの見返りも求めずに、ただ、『助けたい』という純粋な思いだけで動ける……」
「そんなたいそうなことじゃないよ」
照れ隠しもあってそう言った僕に、琴音は力強く言った。
「ううん、そんなことない。それって、ものすごいことなんだよ。すべての人にできることじゃない。むしろ、そんなことができる人は滅多にいない。でも、響はそれができる。
あのとき、私、思ったの。この人は、不器用だけど、でも、大きな大きな……とてつもなく大きな愛を持った人なんだって」
僕は、琴音の真剣な視線から目を逸らすことができなかった。逸らしてはならないと思った。琴音は一歩僕に近づいて続けた。
「そして……、私は、その人に恋をしたの。高校を卒業するまで、毎朝、ホームの離れた所からその人のことを見てた。名前も知らないまま、ずっと。
そんな中でできたのが、あの歌、『初恋』なんだ」
僕は言葉を失っていた。
「だから、あのとき……秋葉原のミニライブのとき、あなたにまた出会えたことがうれしくて……」
琴音の瞳が潤む。
「私を助けるために、後先考えず、私の前に飛び出してくれたのを見たとき、全然変わっていないあなただったこと……、私が好きなままのあなたでいてくれたことがうれしくて……」
その瞳から、一粒の涙が零れた。
そして、小さく息を吸う。
「高校二年で初めて会ったときから、私はずっとあなたが好きでした。あなたに恋をしてきました」
静かな声。
「そして今、あなたのことが……もっと好き。前よりも、もっと響に恋しています」
まっすぐに僕を見る。
「私は、時任響を愛しています」
胸の奥が静かに震えた。
「だから、これからも私と一緒に生きてください」
僕は、琴音の目を見て、黙ってうなずいた。視界が涙で歪む。そんな僕を見て、琴音は涙を指でそっと拭うと、いたずらっぽく笑った。
「それと、ね。一つ、響に嘘をついてました」
「嘘……?」
「響が時間を戻すとき、本当は触れていなくても、その場にいたら私の記憶は消えないんだ。でも……」
彼女は僕の胸元にそっと手を添え、上目遣いに僕を見て、少し照れたように笑う。
「……響に触れていたくて。響を感じていたくて……
ごめんね」
僕は、言葉の代わりに琴音を抱きしめ……そして、キスをした。
春の風が、静かに吹いていた。
〈完〉
※本作はフィクションです。
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