メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【連載】 『初恋』 第2章「指輪の力」


    ※本文 約6,000字(読了目安:約10分)


    「よ、ミスター“ファイヴ・ミニッツ・マン”。今日もご出勤か?」

    翌朝、駅の改札前。先に着いていた達也が、意地の悪いニヤけ顔で片手を挙げた。隣の香も、口元を押さえて笑いをこらえている。

    朝の駅は、いつものように混んでいた。制服姿の高校生、スーツ姿の会社員。人の流れとアナウンスの声と、少し湿った初夏の空気が、駅という箱の中にぎゅうぎゅうに詰まっている。

    「おはよ。“五分男”くん。今日もその指輪、光ってるね」

    香が追い打ちをかける。

    「なんだよ、その呼び方。頼むからもう止めてくれよ……」

    僕は力なく首を振った。僕自身、左手小指の重みが気になって仕方ないのだ。昨夜、ベッドで指輪のことを考えているうちに、泥のような眠りに落ちてしまい、母に外してもらうのをすっかり忘れていた。今朝は今朝で、起きたときには、共働きの両親はすでに家を出た後だった。家の中は静まり返っていて、声をかける相手もいない。洗面所で石鹸を塗りたくっても、オイルを垂らしてみても、指輪は僕の小指の一部になったかのように、上下に一ミリも動かなかった。結局、あきらめてそのまま登校するしかなかったのだ。

    「だって、今日も大事そうに指輪はめてるんだもん」

    香が指輪に視線を落とす。

    「なんか、外れなくなっちゃってさ……」

    そう言うしかなかった。嘘ではない。けれど、本当のこと──「自分では外せない」だなんて、言えるわけがない。言ったところで、信じてもらえる気がしなかったし、なにより、説明し始めたら自分の頭の中の現実感まで崩れそうだった。

    「ほんとかよ? 愛が重すぎて外れないってか。ちょっと指貸してみ。おれが抜いてやるよ」

    達也が僕の左手首を掴み、小指に手をかけて、「どれ」と指輪を抜こうとする。達也の手は意外と温かくて、運動部らしい強さがあった。抜けるなら、このまま抜いてほしい。いや、抜けてしまったら、それはそれで怖い気もする。昨夜までは抜けなかったのだから。

    そのとき、「おはよー」と間抜けた声で聡と結衣が合流した。

    結衣は僕らの手元を見て、目を輝かせ、スマホを向けてきた。

    「なんか絵になるね。朝から、駅のホームで、熱い永遠の愛を誓い合ったカップルが指輪交換してるみたいで。そのぎこちなさがいいね」

    動画を撮ろうとしている。

    「TikTokに投稿したら、バズるかもね」

    香もノリノリだ。

    「よせよ、結衣!」

    達也が慌てて僕の手を放して、さっと引っ込めた。顔を赤くしている。聡が笑いを噴き出しそうになり、僕は顔が熱くなるのを感じた。達也が足早に改札を入って行った。その後を聡が追う。

    「なんだよ達也!

     結衣、おまえが変なこと言うからー!」

    「えー、だって。ほら、達也の手の位置がさ。プロポーズの最終局面みたいだったし」

    「そんなことあるか!

     じゃあ、おまえがはずしてくれよ!」

    「へへへ。やだよー。他人の愛の結晶に触れるなんて、罰当たりだもん」

    結衣はいたずらっぽくそう言って、背を向け、改札に入って行く。その後を追いかけながら、香もさらりと言ってくる。

    「だったらさ、彼女に外してもらいなよ、響」

    僕も追いかけながら反論する。

    「だから彼女はいないって!」

    「だったら今日一日我慢してなよ」

    結衣がこちらを振り返って、片目をつぶる。

    「学校終わったら外してあげるから。ね、〝ファイヴ・ミニッツ・マン〟!」

    まただ。この指輪のせいで、また朝から笑いのネタにされてしまった。くそー。僕は言葉にできないむず痒さと、どこにも逃げ場のない居心地の悪さを抱えたまま、いつもの車両の列に並んだ。


    ──そのときだった。

    「キャーッ!」

    突き刺さるような鋭い悲鳴が、空気を裂いた。一瞬、時間が止まったみたいに感じた。
    ざわっ、と、ホーム全体が波のように揺れる。人々が一斉に同じ方向を向き、次の瞬間、怒号と叫びが重なって聞こえた。

    「ホームから人が落ちた! お年寄りだ!」

    だれかが叫んだ。

    落ちた? 線路に? 電車が──

    ラッシュ時のホームは一瞬にしてパニックに陥った。線路を覗き込む者、駅員を呼ぼうと走り出す者、そして恐怖に凍りつく者。前列にいた僕たちも、覗き込むように線路を見た。何両か後方の線路の上には、腰を打ったのか、動けずにいる小柄な老婦人がいた。達也がすかさず人込みをかき分けて近づいていこうとしている。

    「すぐ駅員に連絡を!」

    「もうダメ、間に合わない!」

    言葉の意味が頭に入る前に、体が冷えた。


    さらに、「キャーッ!」という悲鳴が重なった。

    一人の若いスーツ姿の男性が、助けようと線路へ飛び降りたのだ。

    「だれかが助けに飛び降りたぞ!」

    「早く引き上げろ!」

    「ダメ! 電車が見えてきた!」

    「間に合わない!」

    その瞬間、遠くから、電車が近づく低い唸りが聞こえた。ホームに響くアナウンスの音声は、まるで別世界の出来事みたいに平然としている。線路側の空気が、ひやりと変わった気がした。


    キキー!──

    金属が擦れ合う、耳を裂くような音。絶叫にも悲鳴にも似た音。電車が必死にブレーキをかけているのがわかった。

    飛び降りた男性が老婦人の脇を抱え、ホームへ押し上げようともがいている。

    無理だ。あと何秒もない。間に合いっこなかった。


    さらに、だれかの「やめろ!」が飛んだ。


    「達也、やめて!」

    香の声が、震えた。

    「キャーッ!」という聞き覚えのある悲鳴が響いた。

    達也も線路に飛び降りたのだ。

    香が口元を押さえて固まる。結衣の顔が青ざめる。聡が本を落とす音がした。別のだれかの「見ちゃだめ!」が聞こえた。


    ──間に合わない。

    ──助けられない。

    その言葉が、胸の奥に叩きつけられた瞬間、僕の右手は、勝手に左手小指に伸びていた。そして、指輪を回した。祈るように、いや、もう反射で。


    世界が、ふっと暗転した。
    耳鳴りのようなものが一瞬して、眩暈に似た感覚が脳の芯を揺らす。

    「ちょっと指貸してみ。おれが抜いてやるよ」

    気づくと、僕は──さっきと同じ場所に立っていた。目の前には、僕の左手首を掴もうとしている達也の、呑気な笑顔があった。


    戻った。五分前に。

    周囲を見渡す。人々が続々と改札に飲み込まれていく。悲鳴も、ブレーキ音も、まだ存在していない世界。

    「ごめん!」

    僕は達也の手を振り払い、弾かれたように走り出した。

    「おい、響!? どうしたんだよ!」

    達也が言った。遅れて到着した聡と結衣の声も背中越しに聞こえる。

    「ごめん、あとで!」

    振り返ってそれだけ言った。改札を抜け、ホームに駆け上がった。心臓が早鐘を打っている。手のひらは汗で湿っていた。

    いつもの所から三両ほど後ろ──いや、もっと後ろだ。とにかく、さっき落ちた位置に近づかなければ。

    僕は人の波を縫う。足がもつれる。肩がぶつかる。「すみません!」と叫んでも、声が届かない。僕の中で、五分という時間が、砂時計みたいに落ちていくのがわかる。

    あの老婦人はどこだ。

    「いた!」

    もう一つ後ろの車両付近。列の先頭付近。リュックを背負ったサラリーマンや、スマホをいじる学生たちに揉まれるようにして、小柄な老婦人が立っていた。

    彼女は今にもよろけそうなほど足元が危うい。周りの人の流れに押され、少しずつ、確実に、ホームの端へ追いやられていた。まもなく電車が到着することを知らせるアナウンスが流れた。

    背後の客たちが、無意識に前へ詰め寄る。そのプレッシャーに押され、老婦人の足がホームの黄色い線の外側へはみ出した。あと数秒で、彼女はバランスを崩す。


    焦りで胃がひっくり返りそうだった。近づきたいのに、通勤・通学客の壁が厚すぎる。腕一本の距離が、途方もなく遠い。


    どうする。
    どうしたらいい。

    僕が老婦人の手を掴みにいけば、僕自身が転ぶかもしれない。
    押し返せば、別のだれかが転ぶかもしれない。
    警備員? 駅員? そんなの探している暇はない。


    考える前に、僕は叫んでいた。

    「おばあちゃん! おばあちゃん!」

    僕は腹の底から声を張り上げた。声が、自分の声じゃないみたいに響く。周囲の視線が刺さる。でもそんなのかまっていられない。

    「おばあちゃん! おばあちゃん!」

    老婦人は気づかない。騒音にかき消されている。

    「おばあちゃん! 危ない、下がって!」

    ただ、僕の尋常でない叫び声に、周囲の乗客たちが一斉にこちらを振り返った。「え、なに?」という顔で、後ろの人の足が止まる。その視線の動きとともに、押す力が弱まる。波が緩む。

    その一瞬の緩みが、奇跡みたいに効いた。人々の身体がわずかに引かれ、空間が生まれた。老婦人の体が、ほんの少しだけ、端から離れる。背後にいたサラリーマンが、「あ、すみません」と老婦人の肩を支えた。

    その直後、巨大な風とともに電車がホームに滑り込んできた。鉄の匂い、ブレーキの熱。老婦人は、ホームの端でしっかりとその場に踏みとどまっていた。


    惨劇は、起こらなかった。


    僕は、膝が笑って、ヘナヘナとその場に座り込んだ。全身の毛穴から冷や汗が噴き出している。肺が痛い。喉がカラカラだ。

    ドアが開き、人々が吐き出され、また吸い込まれていく。その光景を、僕は座り込んだまま呆然と眺めていた。


    ──助かった。

    間に合った。

    そう思った次の瞬間、ハッと我に返った。僕が乗るはずだった電車のドアが閉まり、ゆっくりと走り出していた。窓越しに、さっき線路に飛び降りたはずの達也が、今は何事もなかった顔で車内にいるのが見えた。目を丸くしてこちらを見ているその達也と目が合った。

    「あ……」

    僕は一人、ホームに残された。遅刻が決定した瞬間だった。

     

    指輪のせいで遅刻したと取るべきか。
    遅刻はしたけれど、達也を含め三人の人を助けられたと喜ぶべきか。

    答えは明白だ。それでも、胸の奥が、妙にざらついた。

    僕は小さい人間だ。

    救えたのに。
    助けたのに。
    それなのに、僕は「遅刻」という現実で、なぜか損をした気分になってしまう。

    情けない。

     

    「響、おまえマジでなにやってたんだよ」

    昼休み。屋上の踊り場で、聡が呆れたように聞いてきた。

    「指輪が抜けないって言うから、抜いてやろうとしたら、おまえ、猛ダッシュして消えるんだもんな」

    「で、てっきり、ほかの車両に乗ったものと思ったら、ホームにへたり込んでたし」

    達也が唐揚げ棒をかじりながら、ちょっと不機嫌そうに言う。

    香は眉をひそめ、結衣は腕を組んでニヤニヤしている。

    「もしかして、指輪の彼女でも見つけた?」

    「でも、辿り着けずに、放心状態になっちゃったとか?」

    「だから、彼女なんかいないって言ってるだろ!」

    「でも、今朝の響は明らかに挙動不審だったよ」

    結衣が、得意げに言う。

    「しかし、まあ、結局、五分の遅刻だろ?」

    聡がポツリと呟く。

    「もしかして、狙ってたとか? 五分男だけに」

    達也と香と結衣が一斉に吹き出した。

    「そうだったのか? 五分だけ遅刻するっていう高度なネタなのか?」

    四人がまた腹を抱えて大笑いする。


    僕は、達也をじっと見つめた。達也は、その視線に気づかないまま、唐揚げ棒をかじっていた。

    「……まあ、そんなとこだよ」

    力なく笑い、冷めた弁当の卵焼きを口に運んだ。


    なんか、せっかく人助けしたのに。

    だから、達也だって、今、そんなに笑ってられるのに。
    ものすごいことをやってのけたのに。
    だれにも気づかれず、感謝もされず、むしろ遅刻して先生に注意されて──それで、仲間たちからは「不名誉な呼び名」をつけられて物笑いのネタ。

    全然、割に合わないじゃん。

    そう思ったら泣きたくなってきた。悔しさと、言えない事情と、正義感とも言い切れない自己満足が、ごちゃごちゃに混ざって胸の奥で暴れた。


    人助けというものは、こんなにも孤独で、割に合わないものなのだろうか。


    それから数日間、僕は指輪の力をどう使うべきか、暇さえあれば考えていた。

    ──五分だけ時間を戻せる。

    じゃあ、実際、その五分で、なにができる?

    頭の中で、現実的な使い道がぐるぐる回り出した。

    たとえば、先日みたいに、試験の答案回収直後にミスに気づけば、それを直せる。

    たとえば、試験が始まった直後に問題を一通り見て、勉強が不十分なところを把握できれば、点数を上げられるかもしれない。

    ただし、試験に関して言えば、午前中一教科、午後二教科がせいぜいだ。戻れる回数に限りがあるなら、連発はできない。第一、五分で直せる範囲なんてたかが知れている。


    たとえば、列に並んでいて、僕の直前で売り切れた。その瞬間に五分戻れば、少し前へ並び直せるかもしれない。コンサートのチケット。限定グッズ。握手会。そういう小さな「悔しい」をなかったことにできる。
    とはいえ、そもそも、そういったことにあまり興味がない。


    じゃあ、たとえば──好きな人に告白して、その場で断られたら……。確かに、時間を戻して、告白しなかったことにできる。なかったことにできる。ずるいかもしれないけれど、魅力的だ。

    ただ、僕の中にだけは、“フラれた”という事実が厳然と残る。それはそれで、けっこうしんどいと思う。もっとも、フラれる前提で告白できるほど、僕は気持ちも心も強くない。


    たぶん、実際の生活の中で、一番役に立つとしたら、車の免許を取って、事故や違反切符を避けることだろう。


    そうやって考えれば考えるほど、結局、気づいてしまう。

    たった五分で、大したことはできない。

    もちろん、今朝のように、目の前で事件や事故が起こったなら回避できる。自分が怪我をするとか、だれかが危険にさらされるとか、そういうときには、確かに役に立つ。

    でも、そんな出来事が、しょっちゅう起こるわけがない。むしろ、今日みたいな状況は、十七年生きてきて初めてだった。
    あれがまた明日も起こる? ありえない。


    その現実に気づいたとき、僕は正直、がっかりしてしまった。


    夢の中で願った力。
    現実に与えられた力。

    それは、万能な奇跡ではなく、たった五分の、ちっぽけなひっかき傷みたいな力だった。運命を劇的に変えるには短すぎ、日常を少しだけ便利にするには重すぎる……


    だから、指輪の力はほとんど使うことなく、いつのまにか、指輪は僕の小指に馴染み、お守りみたいなものになってしまっていた。「風変わりなアクセサリー」として、仲間たちも見慣れてしまった。

    断っておくが、試験で使ったことはない。それって、やっぱり不正だから。

     

    それから、数年の月日が流れた。

    僕は二十一歳になり、都内の私立大学の三年生になっていた。幼馴染みたちとは、今でもたまに集まる。達也と香は付き合い始め、聡は国立大で相変わらず難しい本を読み、結衣は服飾の専門学校で自分のブランドを持つ夢を追いかけている。

    みんな、それぞれの足で「未来」へ歩き出していた。


    一方で、僕は立ち止まっていた。リクルートスーツに身を包み、髪を整えて、インターンに行って、ESを書いて、面接の練習をして──。そんな就職活動の波に飲み込まれながらも、自分がなにをしたいのかわからず、就活にも積極的になれずにいた。


    面接で「あなたの強みはなんですか?」と聞かれるたび、僕は心の中で皮肉な笑みを浮かべる。

    (僕の強みは、五分だけ時間を戻せることです)

    そんなことを言えるはずもない。

    指輪は、今も僕の左手小指にある。かつての輝きは少しだけ落ち着き、落ち着いた銀色の光を放っているが、相変わらず僕の力では外すことができない。

    僕はただ、なんとなく大学へ行き、なんとなく就活サイトを眺め、なんとなく「特別ではない自分」を受け入れようとしていた。


    (第3章へつづく)



    ※本作はフィクションです。
    本作に関するすべての著作権は、著者・蒼顕(SOHKEN)に帰属します。
    無断転載・引用・複製・翻案・映像化等は固くお断りします。
    出版・映像・メディア等でのご関心がある場合は、必ず事前にご連絡ください。


    あなたへのおすすめ