
【連載】 『初恋』 第6章「標的」
※本文 約8,300字(読了目安:約20分)
しばらく、穏やかな日々が続いた。もちろん、琴音の活動が止まったわけではない。テレビの収録、雑誌の取材、ラジオ出演、年末に向けたリハーサル。スケジュール帳は相変わらずぎっしりと埋まっていた。
けれど不思議と、あの吉祥寺の夜のように胸の奥を締めつける不安は影を潜めていた。
そして僕たちの間には、他のだれとも共有できない「秘密」という名の絆が、静かに深く根を張り始めていた。
あれから僕と琴音は、一つだけ確かめておきたいことがあった。──もし時間を戻すとき、琴音も一緒に戻れたら。僕の五分は、きっと“守れる確率”に変わる。
だれもいない大学の屋上。冬の夕方。冷たい風が吹いている。
「……いくよ、琴音」
「うん」
琴音が僕の左手に、両手をそっと重ねた。指輪の冷たさと、彼女の体温が混ざり合う。
僕が指輪を回した瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。視界が色彩を失い、時間が逆流する独特の浮遊感。
気がつくと、僕たちは五分前の位置に立っていた。まだ会話を始める前の、僕たちだ。
「……響。今、戻ったんだね」
琴音が驚いたように目を見開く。彼女の瞳には、遡行前の記憶がはっきりと残っていた。「五分前には、まだ言っていなかったはずの言葉」を彼女が口にした瞬間、僕たちは確信した。
僕が指輪を回すとき、僕たちが直接触れ合っていれば、二人同時に、記憶を持ったまま過去へ戻れる。
だから、僕と琴音は二つの取り決めをした。
一つ目は、琴音が歌っている最中に「数分後の未来」を見た場合のサイン。
それはごく簡単なものだった。歌いながら、マイクスタンドに指先を添え、何気ない仕草で二度、ゆっくりと滑らせる。マイクの位置を直すようにも見える、その動きが合図だった。
二つ目は、時間を戻すときの条件。僕が指輪を使って時間を巻き戻す際、二人一緒に、今の記憶を持ったまま五分前に戻すために、僕が琴音に触れているか、あるいは琴音が僕に触れていること。
それは便利であると同時に、恐ろしい事実でもあった。
未来を知るということ。
時間を戻せるということ。
それは、選択を何度でもやり直せるという意味でもあり、同時に、「正しい選択」を強制され続けるという意味でもあった。
間違えれば、だれかが傷つく。
迷えば、取り返しがつかなくなる。
使い方を誤れば、刃は持ち主をも切る。
それでも──これが絶望的な未来を二人で書き換えるための、唯一にして最強の武器かもしれなかった。
十二月に入ると、琴音の忙しさは一段階、いや二段階ほど跳ね上がった。年末年始のテレビ特番の収録。クリスマスコンサートのリハーサルと本番。そして、NHK紅白歌合戦。
楽屋の空気は、独特の緊張感に満ちていた。華やかな世界の裏側で、スタッフも出演者も、ピリピリと神経を尖らせている。
マネージャー見習いとしての僕の仕事も激務化していった。現場の機材運びから弁当の手配、そしてなにより「琴音の背後に立つ影」を監視しなければならない。
僕はできる限り琴音のそばを離れないようにしていた。
そんな中、しばらく鳴りを潜めていた“それ”が、再び姿を現した。“フード男”からの脅迫メールとFAXが、琴音のスマホと事務所に、ほぼ同時に届いたのだ。
『いつも一緒にいる、ひ弱そうな男はだれ?
ボディガード? 笑わせるね。
それとも、琴音の彼氏とか?
なら、まずそいつの醜態を世間に曝してやる。
それから、琴音と二人一緒に、天国に行こう。
楽しみにしてるよ。
琴音は、永遠に僕のものだ』
画面を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。正直に言えば、少し──いや、かなり怖かった。それ以上に、気持ち悪かった。虫ずが走る、という表現がこれほどしっくりくる感覚は初めてだった。
けれど、不思議と、心の奥に別の感情も芽生えていた。
──ありがたい。フード男の第一の標的が、僕に向いた。
琴音が泣きそうな顔で僕の袖を掴む。
「響……ごめんなさい。私のせいで、響まで標的にされちゃった……」
その声は震えていた。
「琴音、僕は大丈夫だよ」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。いや、むしろ心のどこかで「ようやく僕の番が来た」という奇妙な高揚感さえあった。
「怖くないって言えば、うそになる。
でも……あいつの標的が僕になるなら、その分、琴音から目を逸らさせることができる。
それだけ、琴音を守りやすくなる」
琴音は、しばらくなにも言えず、唇を噛みしめていた。
(これは、僕にとっても『自分自身の戦い』になった)
そう実感した。
年末年始。
街は浮かれた空気に包まれ、イルミネーションが輝き、だれもが少しだけ無防備になる季節。その裏側で、僕たちは、常に神経を張りつめていた。
だが、何事も起こらないまま、クリスマスは過ぎ、年が明けた。
──終わったのだろうか……
そんな淡い期待が芽生えかけた、その矢先だった。
次のメールが届いた。
『琴音。
人生最後のクリスマスとお正月は、楽しめましたか?
もうすぐだから。
もうすぐ、僕が迎えに行くから、少しだけ待ってて。
ところで、ボディガード気取りの君。
おまえも待ってろ!』
琴音が青ざめた。
「琴音、落ち着いて」
僕は、彼女の肩にそっと手を置いた。
「“もうすぐ”……か」
頭の中で、琴音のスケジュールが浮かぶ。
「今後の予定は……今月末のライブ。二月のバレンタインコンサート。春の全国ツアー。
そして──三月三日」
琴音の誕生日。アルバム発売記念のミニコンサートと、ファン握手会。
「……ここが一番、危ない」
琴音も、小さくうなずいた。その場にいた松下さんが、腕を組んで言った。
「琴音。今年の誕生日イベント、正直、中止したほうがいいと思う」
一瞬、沈黙が落ちた。だが、琴音は、首を横に振った。
「……でも、逆なんです」
その声は、静かだが、はっきりしていた。
「大きなライブやコンサートは中止してもいい。
でも、このミニコンサートと握手会だけは、どうしてもやりたい。私のわがままかもしれないけど」
「琴音……」
「私を支えてくれた人たちに、一年間ありがとうって、ちゃんと伝えたい。怖いから逃げるんじゃなくて、怖いからこそ、向き合わなきゃいけない気がするんです」
それは、歌う者としての覚悟だった。松下さんは、深く息を吐いた。
「……ほんと、琴音らしいわね」
そして、静かに言った。
「わかった。社長に話して、その日は警備を、これまでで一番固める」
「ありがとうございます」
琴音は、泣きそうな顔をしながら、深々と頭を下げた。
三月一日。
フード男から、最後通告のようなメッセージが届いた。
『いよいよだ。
ようやく君の誕生日を祝ってあげられる。
君に僕の想いを伝えて、君を永遠に自由にしてあげられる。
そして、僕たちの願いを叶えよう。
さて、ボディガード気取りのおまえ。
いや、時任響。
おまえは、どんなふうに醜態を世間に晒したい?
自分の無能さを。
自分の無力さを。
おまえには、ふさわしい最期を用意してやる。
地獄に落ちて、永遠に悔いろ』
「……響の名前、ばれてる」
琴音が青ざめた。
「どうして? どうやって……?」
その肩が小刻みに震えている。
「琴音、落ち着いて。今の時代、調べる方法なんていくらでもある」
琴音は、しばらく黙り込んでいた。視線は床に落ちたまま、動かない。
「……もし」
ぽつりと、呟くように言った。
「もし、私が歌わなければ……」
僕は、息を呑んだ。
「イベントを中止すれば……。響は、もう狙われなくなる?」
その問いは、僕の胸の奥に、鋭く突き刺さった。
「……どうして、そう思う?」
精一杯、静かに聞き返した。
「だって……」
琴音は、唇を噛みしめたまま、続ける。
「フード男は、私が歌う場所に現れる。
私がステージに立つから、響は、私のそばに立つ。
だから……」
そこで言葉が途切れた。
「だから、私が歌わなければ……」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
「私、平気なの。自分がなにを言われても、なにをされても。
でも……」
琴音は、唇を噛みしめた。
「私のせいで、響が傷つくのは……。それだけは、耐えられない」
「琴音……」
声に出した瞬間、自分でもわかるほど、声が揺れた。
「ありがとう。
でも、そうじゃない」
琴音が、驚いたように顔を上げる。
僕ははっきり言った。
「違うんだ」
琴音は、なにも言わなかった。ただ、まっすぐに僕を見つめている。
「もし、イベントを中止すれば……」
僕は、言葉を選びながら続けた。
「確かに、三月三日は何事もなく終わるかもしれない。
でも、フード男は消えない。
来月かもしれない。半年後かもしれない。
あるいは──琴音が、油断したときかもしれない」
琴音の肩が、わずかに震えた。
「僕は……」
拳を、無意識に握りしめていた。
「先送りにしたくないんだ」
正直な気持ちだった。
「怖いよ。もちろん。
でも、それ以上に……」
言葉が、胸の奥から自然と溢れてくる。
「琴音が、ずっと怯え続ける未来のほうが、耐えられない」
琴音の瞳が、揺れる。
「次は、いつ来るんだろう。
次は、どこで狙われるんだろう。
だれが、巻き込まれるんだろう……
そんなふうに、毎日を生きるなんて……
そうやって、琴音が歌えなくなることのほうが、僕はいやだ」
首を振った。
「それは、守ってることにならない」
少し間を置いて、続ける。
「もし、あいつを捕まえるチャンスがあるなら。
もし、決着をつけられる可能性があるなら。
今しかないと、僕は思う」
そして、静かに、しかし確かに言った。
「少しでも早く、琴音を、この恐怖から解放してやりたい。
心から笑って、心から歌えるようにしてやりたい」
沈黙が落ちた。時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「でも……」
琴音は、ついに泣き崩れた。
「あいつ、本気で響を殺す気でいる……。私のせいで、響を危険に巻き込んじゃった……
なんてお詫びしたらいいのか……
本当にごめんなさい……」
「違うよ」
僕は、努めてやさしく言った。
「これは、僕が選んだことなんだ」
「でも……」
琴音は、しゃくりあげながら、僕にすがりつくように言った。
「お願い、響。約束して。
もしものときには、逃げて。私のことはかまわないで。
私は、それでも絶対に恨んだりしないから……」
琴音の指が、僕のコートの胸元をぎゅっと掴んだ。震えが、布越しに伝わってくる。
「ごめん。その約束だけは、できない」
きっぱりと言った。
「僕は決めたんだ。必ず琴音を守るって」
そして、続けた。
「それに……あの男には、絶対に負けたくない。
初めてなんだ。こんな気持ち。
男の意地とか、プライドとか……そういう言葉で片づけたくない。
自分自身にも、負けたくない……。
あの男に勝つことで、なにか、自分自身も変われるような気がしてならないんだ。
だから、これは、僕自身の戦いなんだ」
琴音は、涙に濡れた目で、僕を見つめていたが、やがて、小さく息を吐いた。
「……ずるいね、響」
そう言って、かすかに笑った。
「私が、“守りたい”って思ってることを、全部、わかったうえで言うんだもん」
「ずるいかもしれない」
素直に認めた。
「でも、これは……僕の覚悟でもある」
琴音は、しばらく考え込んだあと、そっと目を閉じた。そして、ゆっくりと、深く息を吸う。
「……私ね」
目を開けて、言った。
「正直、怖い。すごく、怖い」
声は震えていたが、逃げていなかった。
「でもね……」
一歩、僕に近づく。
「響が、そこまで考えてくれているなら。“今”と向き合おうとしてくれているなら……」
小さく、うなずいた。
「私も、逃げたくない。
私も、戦う。響と一緒に」
その言葉を聞いた瞬間、僕は悟った。
標的になる覚悟とは、逃げないと決めることじゃない。
琴音と一緒に、困難に向き合い、戦う、と選ぶことなのだと。
三月三日。
勝負の日。
僕は絶対に琴音を守ってみせる!
そして、フード男に勝ってみせる!
バースデーイベントは池袋サンシャインシティ噴水広場で開催される。サンシャインシティの中心部、専門店街アルパ地下一階にあるオープンスペースだ。
地下一階から三階までの四層吹き抜けの巨大な空間に、628インチの大型ビジョンが設置されており、三階まで到達する大きな噴水がランドマークとなっている。
逃げ場は少なく、人は多い。
イベントには、琴音の大学の友人たちと、達也、香、聡、結衣を招待した。四人とも喜んで来てくれた。四人には琴音が狙われていること、それも、今日がその日であることを伝えてある。
「琴音、来たよー!」
「二十一歳の誕生日おめでとう!」
四人が大きな花束を持ってきてくれた。
「うわー、綺麗!
ありがとう、結衣!
ありがとう、香!」
結衣と香と琴音は、初めて会った日から、オンラインでけっこう頻繁に会っているらしい。どんな話をしているのか、達也も聡も聞き出せなかったそうだ。
「これは女同士の話だから、男どもには内緒!」
と。
僕も琴音に聞いてみたことがあったが、「内緒!」と笑って誤魔化された。僕としては、結衣と香と仲良くなってくれていることだけでうれしかったので、それ以上尋ねることはなかったが。
「響。絶対に、琴音を守ってね!」
「私たちも注意して見てるから!」
「響。気をつけろよ!」
「なんなら、おれも琴音の後ろに控えてようか?」
達也が申し出た。心配してくれているのがありがたかった。だから僕は、皆を笑わせるため、精一杯おちゃらけてみせた。
「僕をだれだと思ってる? “ファイヴ・ミニッツ・マン”、“五分男”だぜ! まかせとけ!」
そう言って、親指を立てた。
「よし。琴音を救って、世界を救え! “ファイヴ・ミニッツ・マン”!」
ところが──
続々と集まってくるお客さんたちを見ながら、僕たちは危機感を募らせていった。
「なに、これ? みんな、同じ格好をしてる……」
「フードをかぶった人たちが、こんなに大勢……」
「おい、これ見てみろ!」
そう言って、聡が見せたスマホの画面には、閉鎖されたはずのファンサイト『琴音人ドットネット』が復活している。
そして、【緊急告知】として、書き込みがされていた。
『三月三日(土)、午後五時より、池袋サンシャインシティB1噴水広場にて、琴音のバースデーイベントあり。新作CDの発売記念ミニコンサートと握手会。
ただし、今回は、特別企画あり。
フード着用者限定、先着二〇〇名。
琴音とツーショット写真の整理券配布!
早い者勝ち!』
偽の情報が踊っていた。
「閉鎖されていたサイトが、フード男に乗っ取られたんだ。で、この人たち、ガセネタに踊らされたんだ」
「そして、そのガセネタを、SNSでさらに拡散させた……」
フードをかぶったお客さんだけでもゆうに百人はいる。まだまだ増えるだろう。その異様な光景に、僕たちは息を呑んだ。
「……お客さんたちを、凶器にするつもりだ」
広場を埋め尽くす、数百人の「フードを被った人間」。男性も女性もいる。若者も、中年も、善意のファンも。しかも、深いフードで顔が隠れ、性別も年代も判別できないお客さんたちも、相当数いる。
その光景は、まるで見えない死神の集団に囲まれているような、狂気的なステルス空間だった。
松下さんは、聡のスマホを奪うように受け取ると、数秒で状況を把握した。
「……完全に偽情報ね」
即座に無線を取る。
「警備リーダー、聞こえる? ガセネタがSNSで拡散されてる。フードを取るよう、司会者にアナウンス入れてもらうから、何人かで客席回って、取ってもらって」
次いで、司会者のところへ行き、事情を説明。アナウンスをしてもらうことに。
数秒後、明るい声が広場に響いた。
「お客様にお知らせがございます。
SNS上に、本日、フード着用による限定特典があるかのような書き込みがございますが、事実ではありません。本日、そういったことはありません。
安全管理のため、フードや顔を隠すものはお取りください。
繰り返します……」
ざわめきが広がる。
「え? ガセ?」
「ツーショットあるって書いてあったじゃん」
「うそだろ?」
納得してフードを下ろす者もいる。だが、その場で腕を組んで動かない者もいた。
「ほんとかよ……」
「直前に変えたんじゃね?」
「事務所が隠してるだけじゃないの?」
疑念は消えない。
松下さんはさらに指示を飛ばす。警備員とスタッフが列を回り始める。
だが、数が多すぎる。
百人を超えるフード。いや、すでに二百に近い。
顔を見せる者もいるが、深く被ったまま動かない者もいる。
広場の空気は、不安と苛立ちが混ざり始めていた。
「響……怖い」
ステージ袖で、琴音が震える手で僕の腕を掴む。僕は彼女の手を強く握り返した。
「大丈夫だ。僕たちは『五分』を持っている。あいつがどんな罠を仕掛けても、僕たちは時間を巻き戻せる。
琴音、君は、君の歌を待っている人たちのことだけを考えろ! 彼らに、君の歌を届けるんだ」
琴音は自分の頬を叩いてから、大きく深呼吸して、僕を見た。僕はうなずいた。
「琴音、いくわよ」
松下さんの声。
琴音がステージ中央に駆けて行った。
一曲目。
歓声。
二曲目。
空気が少し落ち着く。
三曲目。
観客の熱が上がる。
四曲目。
汗が頬を伝う。
フードの海は、依然として揺れている。僕はステージの袖から警戒を続けた。
だれだ。
どこにいる。
どの目だ。
軽く汗を拭いて、琴音がさわやかに言う。
「それでは最後の曲です。聴いてください。『初恋』」
歓声が広がる。
二番を歌い終えた琴音は、三番に入る前に、ギターで間奏を入れた。そして、三番をアカペラで歌い出した。お客さんたちは、静かに歌に聴き入った。噴水広場に琴音の歌声だけが響き渡る。
そのとき、僕は見た。マイクスタンドに添えられた琴音の指が、音を立てぬまま、二度、ゆっくりと滑った。
心臓が跳ね上がった。「数分後の未来」が見えたという琴音からのサイン。アドレナリンが噴き出すのを感じた。
(なにを見たんだ、琴音。どこから来る? なにが起きる!?)
具体的になにが見えたのか、聞かねばならない。今すぐにでも聞き出したい。喉元まで問いかけが出かかるが、彼女は歌い続けている。
アカペラの澄んだ声が広場に響くたび、僕の焦燥感は反比例するように膨れ上がっていく。
歌が終わり、会場中から割れんばかりの拍手が沸き起こる。
「ありがとう、琴音~!」
「素敵だったよ~!」
「誕生日おめでとう! これからも応援するからね~!」
琴音も、お客さんたちに、ありがとうとお礼を言いながら、深々と頭を下げる。
駆け寄ろうとした瞬間、広場のあちこちで、低い振動音が連鎖した。
ぶるっ。
ぶるぶるぶるぶるぶる。
なおも、拍手や声援が続く中、広場のあちこちで、低い振動音が連鎖した。
だれかの声がした。
「フード着用特典、やっぱりあるってよ!」
フードの群れが一斉にスマホを取り出し、画面を見る。
「ほんとだ!」
「マジ? やった!」
「事務所戦略だったんじゃん!」
ざわめきが広がる。僕の背中を冷たい汗が流れた。
「なんだ?」
状況がつかめない。
「“フード男”から新着だ!」
聡が、僕のところに駆けて来て、画面を見せる。
そこには書かれていた。
【緊急連絡】
『このサイトの管理人である私“フード男”は、
琴音が所属する事務所の人間です。
本日のフード特典は事務所戦略の一環で、
日ごろから琴音を応援くださっている皆様へのサプライズプレゼントです。
イベント中の混乱を避けるため、先ほどは一度否定しましたが、
ツーショット整理券を、この後すぐ、ステージ前で配布します。
先着百名!
早い者勝ち!
今すぐ前へ!』
「やられたっ!」
松下さんが無線で叫ぶ。
「警備、前方を固めて!」
だが、もう遅い。フードの群れが、ざわり、と波打った。
そのとき。
「行け!」
だれかの声。群衆が、一斉に前へ押し出され、列の境界が、音もなく崩れ始めた。
善意のファン。
写真が欲しい若者。
半信半疑の観客。
その全員が、同時に一歩踏み出す。
圧力。
押し合い。
悲鳴。
「危ない!」
警備の列が崩れる。人の塊が、雪崩のようにステージへと傾いた。群衆が、凶器になった。
僕は琴音の前に飛び出した。
この中にいる。
本物が。
どこだ。
時間を戻すか?
指輪に手を伸ばす。
そんな僕の背中で、琴音が叫んだ。
「響、逃げて!
ここにいたら、響が刺される! 逃げて!!」
一瞬、わけがわからなかった。ただ、反射的に、腕時計のストップウォッチをスタートさせた。
(琴音が見た「数分後の未来」──それは、僕の体が何者かの刃に貫かれているという未来なのか?)
そのときだった。
僕の視界の端に映ったのは、ステージ脇から駆け上がり、琴音のほうに駆け寄ってくる「フードを被っていない」ひとりの男。
スタッフのひとりが琴音をガードするために駆け寄ってきたのだろうと、勝手に思ってしまった。
致命的な思い込み。
男の手元で、なにかがキラリと冷たく光った。
次の瞬間。
「キャー!」
琴音の悲鳴が、空間を切り裂いた。
(第7章へつづく)
※本作はフィクションです。
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