メインコンテンツへスキップ
見出し画像

【連載】 『初恋』 第7章「決着」


    ※本文 約5,700字(読了目安:約10分)


    「キャー!」

    空間を切り裂く悲鳴。その直後、一瞬、世界から音が消えた。いや、正確には「意味のある音」が消えた。だれかの絶叫、逃げ惑う足音、倒れる重低音。それらがすべて遠い海の底の音のように濁って聞こえる。

    代わりに、会場のシステムが無機質に刻み続ける「日常の音」だけが、異様なほど鮮明に耳に届いた。

    広場の中央で、三分に一度の周期で高く噴き上がる噴水の、ザァッという涼しげな音。

    628インチの大型ビジョンで流れ始めた、化粧品のきらびやかなCM映像。『なりたい私に、二十歳の輝き。』という明るいナレーション。

    「しまっ──」

    サンシャインシティの吹き抜けは、今、まさに、巨大な円形闘技場(コロシアム)へと変貌していた。犯人の男は、もはや隠れることをやめていた。フードなど、初めから着ていなかった。『犯人は、フードを被っているはず』──僕たちの意識は、一つの「バイアス」に囚われてしまっていたのだ。それは、犯人からしてみれば、フードの群衆という巨大なカモフラージュを利用した、逆転のステルスだった。

    二十代後半から三十代前半だろうか。むき出しの顔は蒼白で、目だけが異様な光を帯びている。まさに死神のような……。その瞳に浮かんでいるのは、歪んだ優越感と、勝ち誇ったような高揚感、あるいは自己陶酔感だった。

    包丁の刃が琴音の首筋に押し当てられ、その皮膚がわずかに沈み込んでいた。

    そして、いやらしく歪んだ笑みを浮かべながら、僕を見ている。

    「全員動くな!」

    その蒼白な顔からは想像もつかいほどの怒号が広場に反響した。

    「全員動くな! 動けば琴音の喉を裂く!」

    二階、三階のギャラリーから見下ろしていた大勢の観客がざわめき始める。無数のスマートフォンが掲げられ、レンズが一斉にステージを向いた。助けを呼ぶためではない。この「世紀の瞬間」をフレームに収めるためだ。冷たいレンズの群れが僕たちを見下ろしている。まるで光のない星空がこちらを見下ろしているかのように。

    フラッシュが散発的に瞬く。

    噴水の水音だけが、やけに大きく聞こえる。

    僕はちらりと腕時計のカウント表示を見た。

    ──十五秒が経過している。

    「おい、そこのマネージャー……松下と言ったか?」

    男は顎で指し示した。

    「おれのこのスマホで、これから起こることの一部始終を動画で撮影しろ! 全世界でライブ中継されてるからな」

    松下さんは一瞬だけ躊躇した。しかし、スマホを受け取り、レンズを向けて撮影を開始する。その指は微かに震えている。屈辱と恐怖……

    ──四十秒。

    男は嫌悪と優越が混ざった目で僕を見た。そして、手に持っていた包丁を僕のほうに放り投げた。慌てて一歩下がる。冷たい金属音を立てて、包丁が僕の足元に転がる。そのうえで、男は、懐から、もう一本のナイフを取り出した。刃渡り二十センチほどのアーミーナイフが鈍い色を放つ。それを琴音の首に押し当てながら、意味ありげな笑みを僕に向けた。

    「時任響。ようやく会えたな」

    ねっとりとした声。

    「さて、おまえには、日本人らしく切腹を命じることにする。その包丁で自分の腹を刺して自害しろ。全世界に、日本人の“サムライ魂”を見せてやれ」

    勝ち誇り、狂ったような大笑いが、高い天井に反響する。

    「なん……だって!? 切腹……?」

    吐き気が込み上げてきた。琴音が泣きながら、小さく首を振っている。

    観客ざわめいた。耳を疑うように、周りの人に確認している声が聞こえてくる。

    「切腹……?」

    「なに? あの包丁で自分のおなかを刺せって言ってるの?」

    「なんで?」

    「どうするの?」

    「琴音、どうなっちゃうの?」

    ──一分経過。

    「三分、おまえに考える時間をやる。切腹しなければ、今すぐ琴音の頸動脈を切る」

    ナイフがわずかに押し込まれ、琴音の首筋に赤い線が浮かんだ。

    「おまえに、琴音の死んでいく姿を見せてやる。それから、おれも死ぬ。そしておれたちは一つになる」

    こいつは本気だ。

    「この包丁で僕が自分の腹を刺したら、琴音は解放すると約束するか?」

    「まさか」

    男は笑った。

    「おまえが死ぬのを見届けてから、琴音を殺して、おれも死ぬ。おまえは、琴音が死んでいくのを見なくて済むだけだ。まあ、おまえに対するおれの精一杯の敬意と言ったところか」

    琴音と一緒に死ぬことに、憧れさえ抱いているような目をしている。歪んだ陶酔だ。

    「おれは、おまえに言ったよな?

     おまえの無能さと無力さを……おまえの醜態を世間に晒してやる、と」

    琴音を見た。目が合う。恐怖の奥に、揺るがない光があった。

    琴音は、わずかにうなずいた。

    ──まだだ。

    僕は小さく首を振る。

    琴音は一瞬驚いたが、すぐに、力強くうなずいた。

    信じてる。

    その目が、そう言っていた。

    僕はカウント表示を見る。

    「一分経った。残り二分だ。

     さあ、よーく考えろ。

     なにもしないで、琴音を見殺しにするか? 琴音を助けられなかったという自分の無能さと無力さを痛感しながら、生き恥を晒して生きていくことになるだろうな。

     おまえが、腹を切って死ぬなら、おまえは琴音が死んでいくのを見ずに済む。自分の無能さと無力さを思い知ることにはなるだろうが、生き恥を晒して生きていくことはない。

     どうだ? 究極の二択だ」

    そう言って、男は再び楽しそうに大笑いした。

    (狂ってる……。でも、頭がいい)

    そう思いながら、もう一度、琴音を見た。彼女の瞳には、僕を案ずる慈愛が混ざり合っている。琴音が『初恋』を歌っていたとき、どんな「数分後の未来」を見たのか、今となってはわからない。でも、不思議と、頭の中が冴えわたっていた。

    僕は一度だけ、深く、力強くうなずいた。琴音がそれに応えるように、うなずき返す。

    僕のストップウォッチは三分二十を過ぎていた。その一方で、男のカウントダウンが始まる。

    「時任響! さあ、どうする? もう時間はないぞ。あと三十秒。

     二十秒。

     十、九、八……。

     三分経った。決心はついたか?」

    「ああ、ついたよ。……終わらせよう」

    僕は、足元の包丁を拾い上げた。刃が照明を反射して冷たく光る。

    体が震える。

    怖い。

    当然だ。

    だが、それ以上に──守りたい。

    琴音の未来を。

    歌える未来を。

    笑える未来を。

    琴音に目をやると、「なにをする気?」と不安そうに尋ねる顔をしていた。僕は、もう一度、琴音の目をまっすぐに見つめて、小さく、力強くうなずいた。

    ──僕が必ず守る! 僕を信じろ!

    そして……。その包丁で、僕は自分の腹に力いっぱい刃を突き立てた。

    空気が裂けた。

    「響!!」

    琴音が叫んだ。達也と聡、結衣と香が僕の名前を叫んだのも聞こえたような気がした。松下さんの悲鳴も。そしてお客さんたちも悲鳴を上げている。

    冷たさは一瞬で、次の瞬間には焼け付くような熱が内臓を焼き、鋭い痛みが脳を突き抜けた。

    「あ……あああああッ!」

    琴音の悲鳴。友人たちの絶叫。群衆のどよめき。

    熱い。腹の中に、真っ赤に焼けた鉄の棒を突き立てられたような感覚だ。刃が腹壁を通り、臓器に達する際の「ぐじゅり」という生々しい異物感が、僕という人間がただの肉の塊に過ぎないことを突きつけてくる。

    息が詰まる。肺が酸素を拒絶し、喉の奥までせり上がってきた鉄の味を、僕は無理やり飲み込んだ。

    視界が滲み、揺れる。ステージの白い床に、どす黒い血液が不規則な模様を描いてボタボタと滴り、水溜まりを作っていく。

    間違いなく、今まで生きてきた中で一番痛い。

    でも──倒れ込むわけにはいかない。

    武士たちはこんな地獄を堪えながら死んでいったのかと、遠のく意識の端で場違いな敬意が芽生えた。同時に、介錯人の意味を、体で理解した。彼らの存在は、慈悲そのものだったんだ。

    だが、僕には介錯人なんていない。ボタボタと床を汚す鮮血。僕は、包丁を刺したまま、男に向かって歩き出した。

    男は、僕がまさか本気で腹を刺すとは思っていなかったようだ。嘲笑に満ちていた蒼白な顔が、驚愕に見開かれ、信じられないものを見るように僕を見ている。そして、やがて卑屈な蔑みへと歪んでいく。

    「ばかか、おまえ……本当に刺しやがった」

    「響! 響!!……」

    男の隣で、琴音が涙を流しながら、僕の名前を叫び続けている。その悲痛な叫びが、僕をこの現世(うつしよ)に繋ぎ止める。

    琴音は、自分の首に突き付けられたナイフの存在など忘れたように、必死に男の手を振り払って、僕のもとに来ようとしている。

    「だまれ!」と言いながら、男が全力で、琴音を抱え込む。琴音の首筋からも血が滲み出した。

    「待ってろ、琴音……」

    声がかすれる。

    足が震える。

    からだがバランスを崩しかける。

    それでも前へ。

    意識が飛びそうになる。

    腹に刺さった包丁を、さらに押し込む。

    「がはっ!」

    強引に意識を呼び戻す。

    血液が逆流し、口中に血の味が広がる。

    まだだ。まだ……。

    僕はさらに一歩、足を踏み出した。ぐちゃり、と自分の血を踏む音がした。

    あと少し。

    四分三十五秒。

    腕時計のデジタル数字が「4:36……4:37……」と、僕の心拍とリンクするように刻まれていく。

    頼む。

    視界の端で、大型ビジョンのCMが『最高に輝く私に。』と無邪気に笑いかけている。吹き抜けの階上から僕を見下ろす数えきれないほどのスマホは、もはや人間ではなく、僕の死を待ち望む無数の巨大な眼球に見えた。

    男は笑っている。期待していた以上の「無残な敗北者の死」が、目の前で始まりつつあることに悦に入っている。

    四分五十秒。

    僕は、血の海を引きずりながら、琴音を抱える死神の懐へと、最後の一歩を踏み出した。  
    男の顔に、一瞬だけ困惑が走る。瀕死の獲物が、なぜ自分に向かって歩いてくるのか。理解できない恐怖が、男の自信をわずかに削り取る。
    が、それも一瞬のこと。男の顔が、困惑から嘲笑、そして「勝利」の確信へと変わる。

    「はい、お疲れさん。自分の無能さ・無力さがよくわかっただろ? 褒美に、琴音が死ぬところを拝ませてやるよ」

    四分五十七秒。

    「琴音と一緒に死ね!」

    男が叫び、琴音を抱え直してナイフを振り上げる。その刹那、僕はふらつく足取りで、琴音もろとも抱きついた。男の体は、驚くほど冷たかった。僕の血の熱さが、男のシャツを汚し、熱が伝わっていく。

    時間が、止まったように感じた。

    五分ちょうど。

    男の耳元で、僕は最後の力を振り絞って囁いた。

    「……僕の……勝ちだ!

     琴音、いくぞ!」

    視界が白濁する。死の淵で、僕は最後の力を振り絞って指輪を回した。

     

    刹那。世界がぐにゃりと反転する。

    音が遠ざかる。

    光が溶ける。

    世界が色彩を失う。

    体が浮く。

    落ちる。

    時間が逆流する。

    脳が器の中でシェイクされるような、あの独特の感覚。

    そして──次の瞬間。

    噴水の音。

    押し寄せる群衆。

    押しとどめようとする警備員やスタッフの大声。

    視界に戻ってきたのは、まだ血の流れていない、清潔なステージの板張り。五分前の、まだ「なにも起きていない」はずのステージの情景だった。

    僕の腹には痛みの記憶だけが残っている。

    空間が、わずかにずれている。

    足裏の感覚が薄い。

    自分自身の存在が、まだ五分前の世界に馴染んでいない──そんな、なんとも言えない不思議な感覚。

    そのとき。

    目の前で、凄まじい音がした。包丁を持った男が、ステージ袖から琴音を目がけて全力疾走で駆け上がってきた「まさにその瞬間」だった。

    全速力で突進していた男の身体は、世界のズレに耐えられなかった。

    ──あの朝。初めて指輪を使ったとき、階段で足を踏み外しそうになったときと同じ。慣性の法則を無視して脳に叩き込まれた「五分間の記憶」と、平衡感覚の完全な消失。

    男の脳内の記憶は、琴音にナイフを振り下ろしている。
    だが身体は、まだ全速力で駆け上がっている。

    男の足は、自分の意思に反してもつれ、重力に裏切られたかのように……まるで地面の位置が半歩ずれたかのように、空を踏んだ。そのまま、まるで透明な糸が切れた操り人形のように、鈍い音とともに、無様に顔面からステージの縁へと叩きつけられた。

    包丁が滑り飛んだ。会場に大きな悲鳴が上がる。

    「がはっ……!? な、なに、が……」

    男は顔面血だらけになりながら床を這った。脳を支配する強烈な「五分後の残像」──自分が勝利し、僕が腹を割いた光景──と、現実の「今」との不協和音に、男は白目を剥いて混乱している。

    「今だ! 捕まえろ!」

    僕が叫ぶより速く、状況を察した警官と警備員たちが、転倒した男の上に雪崩れ込んだ。

    「離せ!」

    男が喚き散らすが、その懐から予備のアーミーナイフが滑り落ちた。男は一瞬で制圧され、ステージの床に組み伏せられた。

    「確保!!」

     

    終わった……

     

    「響!!」

    僕の腕の中に、琴音が飛び込んできた。

    僕の腹に穴は空いていない。血の一滴も流れていない。けれど、脳が、神経が、あの灼熱の痛みの残像を拒絶するように叫んでいる。そして、琴音の記憶にも、壮絶な恐怖が焼き付いている。膝の震えが止まらない。

    「響のばか! あんな無茶して! もしものことがあったらどうするのよ!」

    僕の胸に顔を押しつけ、泣きじゃくる琴音の温もりを感じながら、僕は、左手の指輪を力強く握りしめた。

    「心配させてごめん。でも、あの状況で、琴音を守り、同時に、あの男を捕まえるには、ああするしかないと思ったんだ。うまくいってよかった」

    僕はささやくように琴音に言った。

    「ナイフを突きつけられて、怖かったろ? ごめんな。うまく、カッコよく守ってあげられなくて……」

    「いいの。よかった……。響が無事で……、それだけで、本当によかった……」

    「琴音。最後まで、僕を信じてくれて、ありがとう」

    「うん。信じてた……。響が絶対に守ってくれるって、信じてた」

    会場中が、なにが起きたのかわからず、呆然と立ち尽くしている。吹き抜けの天井から、噴水の水しぶきが、まるで僕たちの勝利を祝う雨のように静かに降り注いでいた。大型ビジョンのCMは、相変わらず明るい音楽を奏でている。世界は再び動き出していたが、僕たちの時間だけが静かに止まっていた。その瞬間、僕は初めて、本当の意味で彼女を守れたのだと思った。

    僕は目を閉じた。琴音はなおも僕の腕の中で泣き続けている。僕は、琴音をぎゅっと抱きしめ返した。彼女の体温だけが、僕に「今」を、そして「生きていること」を教えてくれた。

    もう、周りの人たちが、僕たちのことをどう見ていようが、どう思おうが、そんなことはどうでもいいと思った。できることなら、この手を離したくないと思った。


    (最終章へつづく)



    ※本作はフィクションです。
    本作に関するすべての著作権は、著者・蒼顕(SOHKEN)に帰属します。
    無断転載・引用・複製・翻案・映像化等は固くお断りします。
    出版・映像・メディア等でのご関心がある場合は、必ず事前にご連絡ください。


    あなたへのおすすめ