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いい感じになるまで 第十二話(最終話)「朝ごはん」

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     カーソルが、文末で点滅していた。

     顔を上げた途端、首の右側に鈍い痛みが走った。腕の内側には、キーボードの跡が薄く残っていた。

     ノートパソコンを閉じても、ののかは目を覚まさなかった。ベッドの上で、ブランケットの端を握ったままだった。

     昨夜から開けたままの窓を抜けた朝の空気が、カーテンの裾をわずかに揺らした。 

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    台所の流しで顔を洗った。冷たい水が首の後ろまで伝うにつれ、目の奥に残っていた眠気がようやく引いた。

     タオルで拭きながら冷蔵庫を開けると、鮭フレークの瓶の隣に、卵が二つ残っていた。

     米を研いで炊飯器に入れた。蓋を閉めるときだけ、音が立たないよう手を添えた。ベッドのほうからは、まだ寝息が聞こえていた。

     味噌汁用の湯を火にかけ、卵を二つ割った。醤油を数滴垂らして溶く。テーブルの端のノートパソコンが、視界に入った。

     熱したフライパンに半分を流し、縁が固まるのを待って巻き、奥へ寄せた。

     残りを流したところで、菜箸を持つ指に力が入った。巻き始めがうまく持ち上がらない。何度か持ち直すうち、卵焼きの端に焦げ目がついた。

     鍋の湯が沸いていた。だしとわかめを入れ、火を止めて味噌を溶く。卵焼きを切り、焦げた端もそのまま皿に並べた。

     換気扇を切ると、味噌の匂いが狭い部屋にゆっくり広がった。

     

     炊飯器が鳴ったとき、後ろで物音がした。

    「……おはよう」

     振り向くと、ののかがベッドの端に座っていた。目をこすりながら、跳ねた髪を手のひらで押さえている。

    「おはよう」

    「……いい匂い」

    「あるもので作った」

     ののかが洗面台へ向かうと、しばらく水の音が続いた。戻ってくるまでに、茶碗と箸を二つずつ並べ、ごはんをよそって味噌汁を注いだ。最後に、卵焼きの皿を二人のあいだに置いた。

     ののかが椅子に座って、両手を合わせた。

    「いただきます」

     ののかは味噌汁をすすったあと、皿を自分のほうへ回した。いちばん端のひと切れを取り、口に運んだ。

    「おいしい」

    「味、薄くない?」

    「ううん。これくらいがいい」

     ののかの目が、僕の首元に止まった。

    「首、痛そう」

    「椅子で寝た」

    「……キーボードの音、してた」

     窓からの光がテーブルの上を横切って、閉じたままのノートパソコンの縁に当たっている。

     ご飯を食べながら、ののかが言った。

    「そういえば、藤原先生に頼まれてた研究授業、断った」

    「……あの考えておいてって、そのことだったの」

     箸の先から、ご飯粒が茶碗に落ちた。

    「うん。二学期に一緒にやりませんかって」

    「いいの?」

    「うん。今のクラスのことを、もう少しちゃんと見ていたいから」

     ののかはそう言って、もうひと口運んだ。

     

     卵焼きがなくなったころ、ののかが箸を置いた。

    「昨日の、まだ答えてもらってない」

    「……」

    「読ませたらって、何のこと」

     ご飯の残りを口に入れた。噛んでいるあいだも、ののかはこちらを見ていた。

     ののかはそれ以上聞かず、味噌汁の椀を両手で持ち上げて、最後まで飲んだ。

    「ごちそうさま」

     

     空になった茶碗が、テーブルに二つ並んでいた。

    「明日も、作るよ」

     ののかの指は、茶碗の縁に触れたまま動かなかった。ゆっくり僕を見た。

    「……うん」

     返事を聞いても、すぐには次の言葉が出なかった。

     ののかは立ち上がり、二つの器を重ねた。

    「その前に」

     声が喉の奥に引っかかった。

     台所へ向きかけた肩が止まった。

     食器の向こうに、閉じたノートパソコンがあった。

     手を伸ばし、蓋の縁に指をかけた。汗で滑り、一度では開かなかった。

     開いた画面に、文章が現れた。ノートパソコンを回し、画面をののかに向けた。

    「読めるようなものかどうか、わからないけど……」

     ののかは立ったまま、画面と僕を見比べた。

    「手伝ってほしいことがあるって、前に言った」

     僕は画面に目を落とした。読めるはずの文字が、ただ並んで見えた。

    「もう、手伝ってもらってた」

     ノートパソコンの縁に置いた手を、離せなかった。

    「僕だけじゃ、書けないところがある」

     ののかは画面から目を上げなかった。

    「……これからも?」

     そこで初めて、ののかを見た。

    「うん。これからも、ずっと手伝ってほしい」

    「……読みたい」

     

     ののかが最初の一行を追い始めた。指先が、画面の端に触れる。

     部屋に残っていた味噌汁の匂いも、カーテンのかすかな音も、すうっと遠ざかっていく。青白い光の中に、文字だけが残った。

     

     その古本屋には、目当ての本があったわけじゃない。

     

     その書き出しを、ののかが初めて読んだ朝から、いくつもの朝が過ぎた。

     ののかは隣で、朝ごはんの場面を読んでいる。卵焼きのくだりに差しかかると、口元がほどける。

     手に力が入りすぎていたのだと、ずっとあとになって気づいた。ののかは何も言わず、焦げた端まで食べた。

    「ここの卵焼き、焦げてたでしょ」

    「……覚えてるの」

    「覚えてるよ。焦げてるの、知ってて食べた」

     いま、ののかとあの朝の続きを直している。

    「ねえ、ここ」

     ののかの指が、その一行を指した。

    「わたし、こんなふうには思ってなかった」

    「じゃあ、どう思ってた」

     ののかは指を画面から離した。

    「——もっと、うれしかった」

     その言葉を打ち込んだ。

     カーソルが、次の一行で点滅している。



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    言えなかったこと。失われたものの形。名前のつかない関係。 人と人のあいだに残るものを、物語にしています。

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