
いい感じになるまで 第八話「チャーハン」
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卵を二つ割ってから、一人分でよかったのだと思った。
ボウルの中で黄身が揺れている。箸でほぐして、横に置いた。冷蔵庫には、ネギの端と、ラップをかけた冷やごはんしか残っていなかった。
九時を過ぎていた。帰ってから着替えもせず、ブラウスの袖をまくっただけで台所に立っている。
律に「今度、聞いて」と送ったのは、先週の土曜の夜だった。
ビーフシチューとハンバーグ。あれを全部律が一人で作ったのだと思うと、帰りの電車の中でも胸の奥がまだ温かかった。「今日はありがとう」と送って、少し迷って、もうひとつ。
返事は翌朝、一行だけだった。
「ありがとう」
ネギを刻んだ。包丁がまな板を叩く音だけが、静かな部屋に響いている。しなびかけた端を切り落として、残りを小口切りにする。冷やごはんをレンジに入れた。
今朝、職員室に着くと、机の上に漢字テストの用紙が揃えてあった。三十二枚、ホチキスで角を留めてある。
「ついでだったので」
藤原先生は自分の席で、コーヒーの紙カップを手にしていた。
「ありがとうございます」
用紙の束を机の端に寄せた。
律の台所では、フォークが一本、洗って伏せてある。いつの間にか、そうなっていた。
フライパンを火にかけ、油をひいた。底に広がった油が、すぐに薄く揺れた。
午後、保護者から電話が来た。
ゲンくんが友達の筆箱を隠したらしい。ゲンくんに聞くと、隠してない、置く場所を間違えただけ、と言う。嘘ではなかった。でも相手のお母さんにそのまま伝えても、火に油だった。
電話は二十分で終わるはずだった。終わらなかった。相手の声がだんだん高くなるのを、受話器越しに聞いている。こちらの語尾だけは、崩さないようにした。
メモが差し出された。
『ゲンくんのお母さんにも連絡しますか? 僕からしましょうか』
藤原先生の字だった。付箋の枠に、丁寧に収まっている。頷くと、藤原先生はもう自分の携帯を手にしていた。
電話が終わったとき、職員室には藤原先生しか残っていなかった。窓の外はもう暗かった。
「お疲れさまでした」
缶のほうじ茶を、机の端に置いてくれた。
「……ありがとうございます。遅くまですみません」
「いえ。……大変でしたね」
そう言われて、受話器を持っていた右手を開いた。爪の跡がうっすら残っていた。
ほうじ茶を一口飲んだ。冷たさが、喉の奥に落ちた。律の部屋でもほうじ茶を飲んだことを思い出した。あっちは温かかった。
「駅、同じ方向ですよね」
藤原先生が鞄を持って立ち上がった。断る理由はなかった。
校門を出て、住宅街を抜けると商店街に入った。半分くらいの店はもうシャッターを降ろしている。藤原先生がゲンくんの件の報告をしてくれた。来週、双方の保護者に来ていただいて話しましょうということになったらしい。
「本当に助かりました」
「こちらこそ、勉強になります」
商店街の角を曲がったところだった。
見覚えのある歩き方が、前にあった。
Tシャツにジーンズ。肩にリュックをかけて、少し猫背で歩いている。
「律」
声をかけると、律が振り向いた。
一瞬、律の目がわたしを通り過ぎて、隣で止まった。
「……ののか」
「バイトの帰り?」
「うん」
律の視線がわたしに戻った。リュックの紐を、指で一度だけ引き上げた。
「こちら、同じ学年の藤原先生」
少し遅れて、藤原先生のほうを向いた。
「藤原先生、大学のときの友達の、律」
藤原先生が軽く頭を下げた。
「はじめまして」
律はひと呼吸置いて、目線を落とした。
「……どうも」
三人で立っている時間は、たぶん一分もなかった。藤原先生が鞄の紐を持ち直した。
「僕はこちらなので。—―今日はお疲れさまでした」
律にも軽く会釈してから、交差点の反対側へ歩いていった。
二人になった。
街灯の下で、律がポケットに手を入れた。リュックは片方の肩から下がっている。
「……仕事、遅かったんだな」
「うん。保護者の電話で。藤原先生が手伝ってくれたの」
律は何も言わなかった。
「律、ごはんまだなら――」
「大丈夫」
最後まで言い終わる前に、律の声が重なった。低く、静かで、隙間がなかった。
「……そっか」
「気をつけて」
律はそう言って、背を向けた。ポケットに手を入れたまま歩いていく。商店街の暗がりに、背中が少しずつ遠くなる。
律は振り返らなかった。
卵をフライパンに流した。
端から白く固まっていく。半熟のうちにごはんを入れて、木ベラで切るように混ぜた。卵がごはんの粒に絡んでいく。塩を振って、醤油をフライパンの縁から回した。量は測らなかった。
ネギを散らして、二度あおった。皿に移すと、湯気が少しだけ上がった。一人分だった。
テーブルに座って、テレビをつけた。画面の向こうで、知らない人たちが笑っていた。
チャーハンを一口食べた。塩が少し多かったかもしれない。でも確かめてくれる人は、いなかった。
友達、と言った。
商店街の角で、藤原先生の前で、律のことをそう紹介した。
口にした瞬間、何かがのどに残った。飲み込めないまま、まだそこにある。
翌日、律にLINEを送った。
「昨日はばったりでびっくりした」
既読がついた。返事は、その日のうちには来なかった。
三日後、もうひとつ送った。
「今週、行ってもいい?」
いつもなら「いるよ」と返ってくる。あの三文字が、いつからか当たり前になっていた。
「ごめん、ちょっと予定あって」
スマホを伏せた。
「いるよ」が返ってこなかったのは、初めてだった。
