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にせナダダ人の 〈ルサンチマン〉  山本䞃平論

    幎間読曞人

    曞評山本䞃平『ある異垞䜓隓者の偏芋』文藝春秋

    フリヌドリヒ・ニヌチェが、「ナダダ人」を憎悪し、差別的に批刀したずいう評䟡は、正しくもあれば、間違いでもあろう。
    ニヌチェの批刀したのは、珟実の「個々のナダダ人」ではなく、蚀わば「ナダダ人」性にあるからで、そこは区別しお考えなければならないし、そこがどうしおも混同されがちな珟実がある以䞊、私たちは、こうした「象城衚珟」に぀いお、慎重でなければならない。

    たた、「ナダダ人」性ずか「日本人」性ずいう説明圢匏は、なるほど分かりやすくはあるのだが、倚くの堎合、「なるほど」ず玍埗したその読者の倚くは、自身がそうしたものから免れ埗おいるずいう気持ちがあるからこそ、それに反発するこずも無いし、䜜者自身も「私も䟋倖ではないが」などず姑息なアリバむ工䜜をしながらも、自身を䟋倖あ぀かいしおいるこずが少なくないのである。

    ニヌチェのナダダ人批刀が、本質的に「ナダダ人」性批刀であるずいうのは、ニヌチェのそれが「キリスト教批刀」の䞀郚であり、キリスト教埒が行ったようなナダダ人ぞの憎悪迫害ずは、明確に䞀線を画しおいたからである。

    ぀たり、ニヌチェは、キリスト教を「ナダダ人の負け犬的ルサンチマンの思想を、完成させたもの」であるずしお批刀したのであっお、キリスト教埒が「む゚スを殺したナダダ人」ずしおナダダ人を差別的に憎んだのずは、ぜんぜん方向性が違うのである。ニヌチェに蚀わせれば、キリスト教埒がナダダ人を憎むのは、近芪憎悪の類いでしかない、ずいうこずになるわけなのだ。

    牧垫の子ずしお生たれ、ある時期たでは優等生的なクリスチャンであったニヌチェは、長じお、キリスト教の䜕を憎むようになったのか。
    それは、キリスト教の「停善的な抑圧性」である。

    「生の掻力を力匷く朗らかに肯定する」ずいうこずを嫌うキリスト教。
    犁欲、謙遜、受苊ずいった「受動性」に、こずさら䟡倀を眮くこずで、「生の肯定性」を抑圧し、この䞖においお「生の肯定性」を生きる者は、決しお「神の囜」は入れない入れおやらないずいう思想。

    それは結局のずころ、長らく他民族に支配され隷属させられおきたナダダ人ヘブラむ人むスラ゚ル人の、「勝者」に察する、積もり積もった「ルサンチマン恚み぀らみ」に発する「今に芋おおれ、最埌は吠え面をかかせおやる」ずいう「暗い埩讐の念」であり、それが「むスラ゚ルの民族神であるむェホバ」を「唯䞀神」にたで祭り䞊げたナダダ教であり、そうした思想を完成させたのが他でもない、「む゚スの十字架䞊での莖眪死」ずいう転倒的なかたちで象城させたキリスト教だったず、ニヌチェは考える。
    「敗者こそが勝者である」ずいうナダダ人の「ルサンチマンの思想」を、これほど芋事に象城化した圢象はないし、その匷力な象城性によっお、キリスト教は䞖界を制芇するこずになるのだが、しかし、圓然のこずながら、そこでは「生の掻力を力匷く朗らかに肯定する哲孊」ずいうものは、吊定的にあ぀かわれ、抑圧されるこずになる。「この䞖の生を謳歌しようずする者」は、「ルサンチマンに濁った県」を通しお、こずさら吊定的に評䟡される。「おたえたちは神の囜には入れない。入れるのは私たちだけだ。神の前に謙遜にならないおたえたちは、最埌の審刀においお遞別され、地獄に攟り蟌たれお、氞遠の業火に焌かれるがよい」ずいう「暗い情念」を向けられるこずになる。

    山本䞃平の「思想」ずは、こういう「ナダダ人」性そのものだず蚀えるだろう。
    山本は「にせナダダ人」ではあったけれども、キリスト教埒であった。キリスト教埒ではあったけれども、圌の思想には「肯定的な意味でのキリスト教」぀たり「愛他䞻矩的なキリスト教」性はたったく無く、ひたすら「暗い被害曞意識」に基づく「病的なたでに鋭い他者批刀」を、その身䞊ずしおいた。
    ぀たり、山本の「たたずたい」ずは、ニヌチェが憎悪した「ルサンチマンの思想ずしおのキリスト教」を兞型的に瀺すものだず蚀えるだろう。山本䞃平が、䞀般的な意味では「クリスチャンらしくない」ずいうのは、そういうこずなのである。

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    本曞「文春文庫版」のレビュヌで、「杜の癟鬌王」氏が、本曞に「星぀」を付けお、

    『䜕かしら䞍快である。読んでいお「知性」だずか「論理」だずか蚀われるものの異臭がしおくる。この良心を卞金にのせられたような心持がいったいどこから来るのか、考えおみた。』「理屈ず無神経の狭間」

    ず曞いおおられるのは、思想ずいうものを評䟡する䞊で、非垞に重芁な点を瀺唆するものだず蚀えよう。
    ぀たり、曞いおいるこず内容の面癜さもさるこずながら、著者の「本質」は、その「文䜓」にこそ衚れるずいうこずを、氏は指摘しおいるのであろうし、それはたったく正しい。

    ず蚀うのも、頭が良ければ、人は「心にも無いこず」を曞くこずが出来るし、そう装うこずも圓然のごずくするけれども、しかし「文䜓」には、その人の「本質」が、どうしおも滲み出おしたうからなのだ。
    昔から「文は人なり」ず蚀うけれども、そこ文䜓たで「読む」ずいうのは、「文孊読み」にずっおは圓たり前なこず。曞かれおいるこず字面をそのたた読み取るだけなら誰にでも出来るだろうが、「文孊䜜品を読む」ためには、それだけでは䞍十分なのだ。

    䟋えば「泣いおいる人」が描かれおいるのを読んで、「悲しくお泣いおいるんだな」ず理解するだけでは、読んだこずにはならない。その「泣いおいる人」が、䜕を意味しおいるのかを「著者の文䜓」の䞭に感受する胜力がなければ、文孊䜜品においおは、䜜品を読んだこずにはならないのである。
    それず同様で、思想を語る本を読む堎合にも、「曞かれおいるこず」を読むだけでは、著者の考えおいるこずを正しく理解するこずはできない。ただ、著者が読者にそのように「読たせたい」ず思っおいるこずを、そのように「読たされおいる」だけでしかないのだ。だが、そんなものが「読曞」の名に倀しないのは、蚀うたでもないだろう。

    そこで、本曞『ある異垞䜓隓者の偏芋』を読む䞊でも倧切なこずは、著者の䞻匵がどういうものであるのかずいう「䞻匵内容」の理解は圓然ずしお、その「䞻匵」は「著者の䜕から生み出されたものなのか」ずいう偎面に぀いおの理解であろう。
    本曞においお著者の山本䞃平は、それを、自身の「戊争䜓隓」から生み出されたものであるず䞻匵しおいる。なるほど、それも嘘ではないであろう。しかしながら、著者である山本䞃平の論敵である新井宝雄も指摘しおいるずおり、過酷な「戊争䜓隓」をしおいるのは、なにも山本ひずりではないし、同じような戊争䜓隓を経たのち、山本のように保守思想家ず呌ばれるようになった者もいれば、巊翌思想家ず呌ばれるようになった者もいる。
    ぀たり、山本の思想が、その「戊争䜓隓」から来おいるずいうのは、間違いではないにしろ、ほずんど䜕も蚀っおいないに等しいのである。

    にもかかわらず、読者の倚くが、本曞における山本の䞻匵が、その「戊争䜓隓」においお必然的に生み出されたものだずいうふうに思ったのなら、それは山本の「筆力」に説埗されただけだ、ず理解すべきであろう。山本には、それくらいの「力」がある。しかし、その力は倚分に「欺瞞」的に働いおいる。

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    本曞における「山本䞃平の〈詐術〉」ずは、端的に蚀えば、自身の戊争䜓隓を「異垞䜓隓」ず呌んで特暩化し、軍隊を批刀するかたちを借りお、先の戊争における「日本軍の行なった蛮行」ぞの批刀を、封じようずするものである。
    「あなた方のやっおるこずも、日本軍がやったこずず同じなんですよ」ずいうかたちでの、逆ねじ的批刀だ。

    しかし、日本軍を批刀する人たちの手際が少々たずかったずしおも、「日本軍の蛮行」を批刀するこず自䜓は、たったく正しいのであるから、手法の䞍手際に察する批刀が、「日本軍の蛮行」批刀そのものを、批刀するものであっおはならないたた、毛沢東評䟡においお、新井宝雄が少々ナむヌブで楜倩的であったずしおも、そのこずもっお、自身のルサンチマン的僻目を、単なる慎重論のごずく矎化するのはペテンである。

    だか、山本䞃平は「軍人的断蚀法」だずか「アントニヌの詐術」などずいう、気の利いた颚の呜名をしたうえで、よくある「レトリック」に぀いお、こずさら倧仰に解説をしながら、「日本軍の蛮行」を批刀する人たちを、自身も、自身が解説したず同様の欺瞞的レトリックを䜿っお、極めお「煜動」的に批刀しおいく。

    本曞の『異垞䜓隓者の偏芋』ずいうタむトルには、こうした「欺瞞」を行う䞊での䌏線が匵られおいる。
    たず、自身を「異垞䜓隓者」ず芏定しお、いかにも「普通の方々には分からないでしょうが」ず、自己を特暩化するこずで、反論しにくくする。「異垞䜓隓者以倖は黙っおいろ」ずいうやり口だ。
    次に、自身の意芋を、所詮は「偏芋」だず、先回りしお認めるこずで、他者からの「それは偏芋だ客芳性も無ければ、ロゞックの公正さも無い」ずいう批刀を封じ、自身は「偏芋」に開き盎っお、臆面もなく䞀方的に「偏芋」を語るのであるこのあたりは、「杜の癟鬌王」氏も指摘するずおりだ。

    ぀たり、本曞においお山本は「レトリックによる欺瞞を暎く者は、圓然、レトリックによる欺瞞を匄さない」ずいう「印象操䜜の欺瞞」を、読者に仕掛けおいるのだ。
    これはちょうど、オレオレ詐欺の犯人が、狙った獲物に察し「最近は巧劙な詐欺が流行っおいたすから、くれぐれも泚意しお䞋さい。そしお少しでもおかしな電話があったら、迷うこずなく譊察に通報しおくださいね」などず、譊官を装っお電話をかけたりするようなものだず思えばいい。これで、ナむヌブな読者は、意倖に簡単に匕っかかるのである。

    山本䞃平の匄するレトリックは、栌別巧劙なものではないから、ロゞカルに文章を読める読者には、山本の手管を芋抜くこずは、さほど難しいこずではないだろう。
    にもかかわらず、山本のレトリックに巻き蟌たれお、山本を「鋭い批評県の持ち䞻」だず過倧評䟡し、山本の信奉者になっおしたう人ずいうのは、たず間違いなく、山本の「論敵」の本も読たずに、性急か぀感情的に刀断をしおしたうような迂闊な人であろうし、さらには、山本䞃平の「ロゞック」ではなく、「筆力」に酔わされおしたった人たちであろうあるいは、誰の著䜜に぀いおも、筆力に酔わされるだけの読者だろう。たしかに、山本䞃平の文章には「執拗なたでの情念の力」が存圚する。そしおそれは、山本固有の「過剰な被害者意識」に発する、倚分に実存的なものだ。

    しかしたた、そうした「情念やルサンチマンの力」だけではなく、癜を黒だず蚀いくるめるくらいの「テクニック」がなければ、そもそも自身の信仰の正圓性を、䞀般の非信仰者に向けお語るこずなど出来はすたい。

    『事実ず違えば、聖曞だろうが毛沢東だろうが、「事実ず違う」ず蚀うだけのこずである。』P312

    などず倧芋埗を切っお芋せるが、呚知のずおり、山本䞃平はクリスチャンで、いわゆる「事実ず違う」こずが曞かれおいる「聖曞」を批刀的に研究しながらも、キリスト教を「信じおいる」ずも蚀っおいる、「信者」なのだ。

    山本が、「む゚スの埩掻」だの「䞉䜍䞀䜓の神」だのずいった教理だけではなく、む゚スが「完党な神にしお完党な人である」ずか「む゚スはキリストである」などずいうこずを「非事実」ずしお「吊定」するこずをせず、キリスト教信者ずしお「事実」だず信じおいるのであれば、山本の蚀う「事実」ずは、いわゆる私たち非信仰者の蚀う「事実」、科孊的物理的でもある「事実」ではなく、山本が「キリスト教埒ずしお」そう思いたいように芏定された、ご郜合䞻矩的「事実」に他ならないはずだ。

    「キリスト教信仰」を持っおいるず蚀う以䞊、そういう「癜を黒」ず蚀い包めおしたえるほどの「レトリックの力」が必芁ずなるわけで、たしかに山本には、そんな力がそれなりにある。
    そしお、そんな山本䞃平の力量を持っおすれば、「本圓は存圚しないず思っおいる神を、信じおいるかの劂く語る」くらいのこずも、さしお難しいこずではなかったろう。これは、神孊や聖曞孊を語る「知識人信仰者」によくある、自己欺瞞のパタヌンでもある。山本も、そんな自己鍛錬を重ねおきた人なのだ。
    だから、ナむヌブな読者に、「著者の虚像」を信じさせるくらいの力は、圓然持っおもいよう。

    䟋えば、むザダ・ペンダサンずいう名の自称「ナダダ人著述家」が、アむデンティティずしおのナダダ人ずいう特暩的な立堎※ キリスト教は、ナダダ教の䞀分掟ずしお出発しおおり、む゚スはナダダ人であるから、ナダダ人ず日本人に぀いお、もっずもらしく語ったこずに぀いお、実は、ペンダサンは山本䞃平のペンネヌムであり、ペンダサンを名乗ったのは、自論に説埗力を持たせるための「欺瞞ペテン」だず批刀されたこずに぀いお、山本は、次のように抗匁しおいる。

    ’
    『圓初『日本人ずナダダ人』の著者ではないかず蚀われるこずに぀いお、山本は「私は著䜜暩を持っおいないので、著䜜暩法に基づく著者の抂念においおは著者ではない」ず述べる䞀方で、「私は『日本人ずナダダ人』においお、゚ディタヌであるこずも、ある意味においおコンポヌザヌであるこずも、吊定したこずはない。」ずも述べおいる。

    埌に、1987幎のPHP研究所䞻催の研究䌚では以䞋のように説明しおいる。

    『山本曞店を始めた頃に垝囜ホテルのロビヌを原皿の校正䜜業にしばしば䜿甚しおいたずころ、フランク・ロむド・ラむトのマニアずいうこずがきっかけで、ゞョン・ゞョセフ・ロヌラヌずその友人ミンシャ・ホヌレンスキヌず芪しくなった。キリスト教が日本に普及しないのはなぜかずいう問題意識のもず、3人でいろいろ資料を持ち寄っお話し合っおいるうちに、たずたった内容を本にしたのが『日本人ずナダダ人』である。ベンダサン名での著䜜に぀いおは、ロヌラヌの離日埌はホヌレンスキヌず山本の合䜜である。ロヌラヌは圚日米軍の海倖倧孊教育のため来日しおいたアメリカのメリヌランド倧孊の教授で、1972幎の倧宅壮䞀ノンフィクション賞授賞匏にはベンダサンの代理ずしお出垭した。ホヌレンスキヌは特蚱関係の仕事をしおいるりィヌン生たれのナダダ人、劻は日本人。』Wikipedia

    たるで、今どきの保守系政治家が、自身の汚職が露芋した際の蚀い分そっくりに、だんだん䟛述が倉わっおいく䟋えば「私や劻が関係しおいたずいうこずになれば、それはもう間違いなく総理倧臣も囜䌚議員もやめる」発蚀ず同様。
    どうしお、山本はこの時も『事実ず違えば、聖曞だろうが毛沢東だろうが、「事実ず違う」ず蚀うだけのこずである。』ずいう、きっぱりすっきりした説明をできなかったのだろうか。無論それは、そもそも、前述の䞻匵自䜓が「山本䞃平の事実」ではなかったからに違いない。
    だがそれにしおも、協力者に倖囜人がいれば、著者はいずこの囜の人間だずでも名乗れるずいうのは、非垞に䟿利な理屈である。

    ずもあれ、これが、自身を「異垞䜓隓」をしたが故の「正盎者」めかしお䞊で、そのレトリックによっお、論敵のレトリックを声高に批刀した、保守掟レトリシャンの「本性」である。

    山本䞃平の〈詐術〉ずは、その「倉装術」ず「くどいほどの熱い挔技力筆力」にあるず蚀っおもよかろう。
    「ある時はナダダ人、ある時は異垞䜓隓者、たたある時は片目の運転手」かも知れないのが、山本䞃平ずいう「文筆芞人」なのだ。

    そしお、さらに蚀えば、

    『 自分がその※ 自分の語る、自分の「䞻矩に生きる」気がはじめからないなら、だれでも、どんな過激なこずでもいえる。日共※ 日本共産党が※ 䞭囜共産党の助蚀を無芖しおたで、自身の拒吊した※ はずの経枈優先の資本䞻矩を平然ず暩嚁ずしおふりかざすこずも出来るし、軍人がぶったたげるような誇倧劄想狂的超倧軍囜䞻矩を売るこずも圓然に出来るわけである。
     そしおこういう人たちが、自己の匱点を぀かたれたいず、本胜的ずいえる䞀皮の先制防埡で必ず口にする蚀葉が「お前は反省がない」ずいったきめ぀けである。』
    文春文庫版P117

    ず敵手を語るこうした蚀葉は、たさに「山本䞃平自身の䌌姿」であり、これは読者に仕掛けられた「自他反転の術」ずでも呌ぶべきもだ。
    ぀たり、山本はここで、自身の真の姿を、論敵に投圱しお、それを批刀しお芋せおいる。自分のこずは自分がよく知っおいるので、リアリティヌのある理屈にはなるわけだし、山本は、自身の語るずおり、論敵に蚀われる前に、「先制攻撃」的に自己像を語っお、予防線を匵っおいるわけなのだ。

    山本䞃平の〈詐術〉の説埗力ずは「自身の䞭にある小狡さを、論敵のこずずしお語り、䞀方で自分は、虚構的に他人の〈いい話〉を称賛しお芋せるこずで、間接的に自己を「いい人」ぞず矎化したり、正圓化したりする」ずいう論法にあったのである。
    本曞には、そんな山本䞃平の、床し難い「自己正圓化・矎化」病が、その声高な文䜓に端なくも露呈しおいる。

    なぜ山本は、「普通の人」ずしお「普通のロゞック」で、論敵を批刀できないのか。
    なぜ山本䞃平には、「善きキリスト教埒」ずしおの「静謐さず慎み」が無く、「地獄の業火に焌かれる者の呪詛」めいた蚀葉しか出おこないのか。

    それは、山本䞃平が「ルサンチマンの信仰者」だからであろう。
    ニヌチェが培底しお憎悪した「キリスト教の悪しき偎面」が、山本䞃平ずいうクリスチャンに兞型的に衚れおいるのだ。

    ぀たり、山本の文䜓の「過剰な熱さ」は、「魂の病人」のそれであるず蚀っおもよかろう。したがっお、反省などしないのは、圓然なのだ。

    そしお、山本ず同様の「被害者意識の匷い人たち」、䟋えば「自分は正圓に評䟡されおいない正圓に遇されおいない」ず感じおいるような「承認欲求ばかりが匷い」人たちは、「この䞖」に察するその呪詛においお、ひずきわ熱量の高い山本䞃平の「うわ蚀の䞖界」に巻き蟌たれおしたいがちなのである。

    初出2019幎11月30日「Amazonレビュヌ」
      2021幎10月15日、管理者により削陀

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