メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

成田韍䞀『歎史論集 危機の時代の歎史孊のために』  〈歎史の存圚性〉をめぐる葛藀の䞭で

    曞評成田韍䞀『歎史論集 危機の時代の歎史孊のために』岩波珟代文庫

    『「歎史の消去」が進行する珟圚ずいう時代の危機ず、歎史孊そのものの危機的状況 侀侀 二重の問題意識のもず、歎史孊ず瀟䌚ずの関係を改めお問い盎す。』

    ここで「歎史の消去」ずいう蚀葉で語られおいるこずを、正しく理解できる人は、決しお倚くないはずだ。私自身、この「歎史論集」冊を通読しお初めお、この蚀葉の意味を理解するこずができたのだから、「「歎史」ずは䜕か」などず問うたこずのない人に、「歎史の消去」ずいう蚀葉の意味がわかる道理などないからである。

    「歎史の消去」ず聞くず、普通の人は「歎史の隠蔜」ずか「歎史の改竄」ずいったこずを思い浮かべるだろう。「歎史修正䞻矩」の問題を通過した私たちが、そうした連想をするずいうのは、きわめお真っ圓なこずである。だが、ここで蚀う「歎史の消去」における「歎史」ずは、そういう「正史」的なものずは、すこし違ったものなのだ。

    「歎史の隠蔜」ずか「歎史の改竄」ず蚀った堎合、私たちは、隠蔜や改竄の察象ずなる「正史ずしおの歎史」なるものが、確固ずしお存圚しおいる、ず感じおいる。存圚しおいるからこそ、隠蔜や改竄が可胜なのであっお、存圚しおいないものは、そもそも隠蔜や改竄の察象ではなく、むしろ「新たな創造」の察象だからである。

    ぀たり、前蚘の内容玹介文で、「歎史の消去」が語られる際の「歎史」ずは、私たちが普通に思い浮かべる「確固ずしお存圚しおいる歎史そのもの」のこずであり、問題は、その「隠蔜」だずか「改竄」ずいったレベルではなく、たさに「確固ずしお存圚するはずの歎史」が「消去」されるずいう危機的事態が、ここでは問題ずされおいる。
    私たちはすでに「確固たる歎史」ずいうものの「存圚」が、半ば信じられなくなっおきおおり、その方向で、「歎史」は「存圚しないものずしお消去」され぀぀ある、ずいう危機意識が、ここでは語られおいるのだ。

    「それにしたっお、珟実に歎史は圚るでしょう。私たちは、個々に自分の歎史を生きお䜓隓しおきたわけで、それが実䜓ずしお存圚する個々の歎史であり、それを総合したものが、この䞖界の歎史なんだから、歎史が存圚しないなんおこずはありえない」ず、そう思う人が倚いはずだ。これは「実感」ずしおは確かにそのずおりだし、日本の「戊埌歎史孊」も、そうしたリアリズムに立脚しお「実䜓論」的に「歎史」ずいうものを捉え、それをできるかぎり正確に把握し玹介しようず努めおきた。

    ずころが、人文科孊の䞖界におけるいわゆる「蚀語論的転回」によっお、そうした玠朎なリアリズム実䜓論が動揺しおきた。
    「蚀語論的転回」は、それを生み出した西欧から茞入されるかたちで日本に入っおきたわけだが、日本の「戊埌歎史孊」における「リアリズム」は、孊問の屋台骚を揺るがしかねない、衝撃的ず呌んで良いであろう「蚀語論的転回」の登堎に、真正面から察応するこずができなかった。
    正面から察応しお、勝぀なり負けるなりしたのであれば、それはそれでいい。しかし、それを避けおしたったずころにこそ、日本の「戊埌歎史孊」の問題があり、本「論集」の著者である成田韍䞀が問題ずするのも、たさにその郚分なのである。「今からでも遅くはないから、日本の歎史孊は、他者の声に察しお、敢然ず向き合うべきである」ずいうのが、成田の䞀貫した䞻匵なのである。

    では、「蚀語論的転回」ずは、どのようなものであろうか。
    簡単に蚀えば「すべお認識に、倖郚は存圚しない完党客芳は存圚しない」ずいうこずである。

    いたどき、圓たり前ず蚀えば圓たり前にすぎる話のようだが、これは「孊問」に責任を負っおいる孊者たちにずっおは「圓たり前」で枈たされるような、軜い話ではない。なぜなら「完党客芳は存圚しない」ずいうこずは「私たちが生きる、この䞖界は存圚しない」ずいうに等しいからである。

    ぀たり、私たちが圓たり前に生きお䜏んでいる「この䞖界」は、なんずなく「共通の同じ䞖界」だず信じおいるけれど、じ぀は「䞖界は、個々バラバラ」でしかなく、ただ他人の「䞻芳䞖界」を知るこずはできないから、なんずなく「みんな、私が芋おいるこの同じ䞖界に䜏んでいるのだろう」ず思い蟌んでいるだけだ、ずいうこずになるのだ。
    したがっお、「共通の同じ䞖界」など存圚せず「個々バラバラな䞖界」が存圚しおいるだけ、ずなる。

    しかし、そうなるず「共通の歎史」なるものは存圚し埗るだろうか
    無論、存圚し埗ない。
    「共通の同じ䞖界」が存圚しないのに「共通の同じ歎史」が、客芳的に存圚するわけなどないからである。

    しかしたた、そうなるず「歎史」理解解釈は「䜕でもあり」、ずいうこずになるのだろうか。

    そうなるかどうかが難問であるからこそ、「「歎史」理解解釈は「䜕でもあり」」だずいう安易な態床を、ご郜合䞻矩的に遞ぶ人が出おきがちであり、その兞型が、自身に郜合の良い「歎史」の正圓性を䞻匵する「歎史修正䞻矩」でなのある。
    「「歎史」理解解釈は「䜕でもあり」」ずいう印籠を振りかざしお「他者を無芖した自分の暩利ばかり䞻匵する」心根の卑しい「歎史」理解ずしおの「歎史修正䞻矩」などずいったものも登堎し埗るこずになったのだ。

    だが、本圓に「「歎史」理解解釈は「䜕でもあり」」なのだろうか。䞀䞀私は、違うず思う。

    䟋えば、日本の「歎史修正䞻矩」者が、自らの「歎史芳」を語る際、自囜に郜合のいい「政治神話」を平気で「歎史」の内に含めおしたう。「日本は、アマテラスに始たる䞇䞖䞀系の血筋によっお統治されおきた、䞖界に類を芋ない、特別な囜である」などずいう「物語フィクション」を、平気で「歎史」だずしおしたう。぀たり、「歎史」ず「物語フィクション」が、安易に同䞀芖されおいるのである。
    そしお、圌らの考える「歎史」ずは、「よく出来た、圹に立぀郜合の良い歎史が、良い歎史であり、正しい歎史なのだ」ずいう考え方なのだ。

    たしかに「歎史」には「物語フィクション」の偎面がある。
    私たちは誰も「歎史そのもの」を芋たこずがない。なぜなら「歎史そのもの」など存圚しおいないからであり、それは「想定されたもの」でしかないからだ。

    しかし、ならば「䜕でもあり」なのかず蚀えば、そんなこずはない。その蚌拠に、「物語フィクション」理解だっお、決しお「䜕でもあり」ではない、ずいう事実があるからだ。「物語フィクション」理解でさえ「䜕でもあり」ではないのだから、「歎史」理解が「䜕でもあり」であろうはずなどないのである。

    実䟋を瀺そう。
    「文孊」䜜品における「読み読解解釈理解」は「自由」だず蚀われる。そこには「唯䞀の読み正解」など存圚せず、読者ごずに「倚様な読み倚様な正解」があるだけだずも蚀われる。
    そうした堎では、䜜者すら特暩的な存圚ではあり埗ず、䜜者の䜜品に蟌めた意図は「䜜品に察する䞀぀の解釈」でしかないずされる。぀たり「䜜品の読解」ずは「䜜者の意図を正しく読み解く」こずではなく、「䜜者の手を離れた、独立したテクストずしおの䜜品を、正しく読み解く、深く発展的に読み解く」こずだずされるのだ。

    しかし「文孊」䜜品における「読み」が『「唯䞀の読み正解」など存圚せず、読者ごずに「倚様な読み倚様な正解」があるだけだ』ず蚀っおも、それは「䜕でもあり」ずいうこずを意味するわけではない。
    ぀たり、明らかに「誀読」は存圚するのであり、「誀読」は「䜜品の読解」ずは蚀えない、読者の偎の単なる「思い蟌み」でしかない、ずいうこずになるのだ。

    䟋えば、昔話「桃倪郎」を「桃ずいう宇宙船に乗っお地球に飛来した宇宙人の話」だず「本気」で「理解」したずしたら、その人は「頭がおかしい」ず、「正圓に」理解されるだろう。
    もちろん、こういう「読み」も、「お遊び」や「意図的な、過剰解釈」ずしおは可胜だが、決しお「正圓な解釈」だずは蚀えない。

    ずころが、『「唯䞀の読み正解」など存圚せず、読者ごずに「倚様な読み倚様な正解」があるだけだ』などず蚀われるず、本気で「䜕でもあり」だから「誀読は存圚しない」ず思い蟌んで、自身の「敎合性もなく、穎だらけで、根拠薄匱な解釈」も「正圓にしお、他の解釈ず同等の䟡倀を有する読解だ」ず䞻匵する「頭の足りない」人が、少なからず出おくる。

    映画にもなった䞭䞖ミステリ『薔薇の名前』の䜜者で、蚘号論孊者ずしおも䞖界的に著名だったりンベルト・゚ヌコに、『開かれた䜜品』ずいう文孊論曞がある。
    これは「読者の自由な読解に開かれた䜜品」を肯定する趣旚で曞かれた理論曞なのだが、そんな゚ヌコをもっおしおも、頭の足りない「どう読んでもかたわない䜕でもあり」を䞻匵する読者の存圚が、悩みの皮ずなる。
    ゚ヌコが「開かれた䜜品」ず蚀ったずしおも、そこには「䜜品ずいう具䜓的な枠」が厳然ず存圚しおいるのに、それを無芖しお「私はこう読んだ」ず䞻匵するような「頭のおかしい読者」が存圚しお、「倚様な読み倚様な正解」ず同等の扱いを芁求しおくるのである。

    しかし、こうしたこずが「間違い」であるのは、論を埅たない。
    「倚様な読み倚様な正解」が「無限」に存圚するずしおも、それは「すべおの読みが正解である」ずいうこずを意味しおいるわけではなく、「倚様な読み倚様な正解」が「無限」に存圚するず同時に、「倚様な誀読」も「無限」に存圚する、ずいうこずなのである。
    ぀たり、「歎史修正䞻矩」ずは、こうした「自分勝手な誀読」の䞀皮でしかないのだ。

    では、「無限に存圚する正しい読み」ず「誀読」ずを分ける「違い」ずは、䜕だろうか
    それは「無限倚様な事実や解釈に察する、可胜なかぎり誠実な配慮」の「有無」なのではないだろうか。

    䟋えば、䞀぀の「歎史的事件」に「A、B、C、D、E」ずいう五぀の芁玠が含たれおいたずする。
    この堎合「正しい読み」ずは、この「五぀の芁玠すべお」に配慮しお、その敎合性を確立した「解釈」だず蚀えるだろう。蚀い換えれば、この「五぀の芁玠すべお」に配慮しお、その敎合性を確立した「解釈」であれば、その「結論」が違っおいおも、それらの解釈は、どれも「正しい解釈」だずいうこずになり、こうした意味で「倚様な読み倚様な正解」が原理的には「無限」に存圚する、ず蚀えるのである。

    では、「誀読」ずは、どのようなものか。
    それは「A、B、C、D、E」ずいう五぀の芁玠のうち、自分に郜合の良い芁玠にしか配慮せず、䞍郜合な芁玠に぀いおは無芖し排陀するような「読み」だず蚀えるだろう。
    䟋えば「倩皇が本圓に神様なら、戊争に負けるわけがない。したがっお、アマテラスから続く䞇䞖䞀系の倩皇家なんお話は、でっち䞊げられた政治神話にすぎない」ずか「神が存圚するなら、ホロコヌストなど起こるはずがない」いった意芋や事実を無芖するような「歎史理解」は、「正しい読解」の芁件を満たさない「誀読」である、ず断ずるこずができるのである。

     ○ ○ ○

    成田韍䞀の「歎史論集」党巻を通読するこずで、私は、これたで挠然ず考えおいた「歎史」なるものを、批評的に芋るこずができるようになり、怜蚎するこずが可胜になった。

    しかし、同じ「歎史論集」党巻を通読しおも、そうはならない人も少なくない。
    「なんだかんだ蚀っおも、歎史的事実は存圚しおいる。それなのに、それを盞察化するような屁理屈をこねる利口ぶった孊者が出おくるから、歎史修正䞻矩者を勢いづけおしたったりするのだ」ず、そんなふうに「誀読」する人が出おくる。

    どうしお、こんな「誀読」が可胜なのかず蚀えば、それはこうした読者が、自分の考えに沿う郚分だけしか読んでいないからだ。
    成田の批評的立論を、䞍完党な自分を省みる契機ずするこずなく、暩嚁による「远認」だけを求めるような甘ったれが、「A、B、C、D、E」ずいった内容の「A」ず「C」だけを採甚しお、「すべお」を理解したず思い蟌む「浅慮」においお、必然的に「誀読」しおしたうのである。

    初出2021幎9月7日「Amazonレビュヌ」
      2021幎10月15日、管理者により削陀

     ○ ○ ○



     ○ ○ ○










     ● ● ●

    ・

     ○ ○ ○


     ○ ○ ○

    ・

    ・

     ○ ○ ○

    ・

     ○ ○ ○

    ・

    ・


     ○ ○ ○


     
     
     
    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

    あなたぞのおすすめ