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りンベルト・゚ヌコ 『文孊に぀いお』  その〈愛〉の故に、論理的であり率盎であり正盎である。

    曞評りンベルト・゚ヌコ『文孊に぀いお』岩波曞店

    『 この本に収められおいるのはそのずきどきの機䌚に応じお曞かれたものだが、いずれも文孊の問題に関わっおいる。機䌚に応じお、ずいうのは、䌚議、シンポゞりム、孊䌚、たた寄皿を䟝頌されたアン゜ロゞヌのタむトルに觊発されお曞かれた、ずいう意味である。』本曞「序」より

    このようにしお曞かれた論文集なので、かなり専門的なものもあるし、もずもず博捜博識をもっお知られる゚ヌコの論文なのだから、決しおさらりず読めるようなしろものではない。
    しかし、それにもかかわらず、本曞はけっしお難解ではない。なぜなら、゚ヌコは「論理的」であり、きわめお芪切に説明しおくれるからで、少々専門的な蚀葉や事柄が曞かれおいおも、読み飛ばさずに読んでいけば、ひずずおりの理解が可胜な文章ずなっおいるのである。

    ゚ヌコに぀いおは、私は珟時点で、小説䜜品ずしおは

    『薔薇の名前』『フヌコヌの振り子』『前日島』『ヌメロ・れロ』の䜜、理論曞ずしおは『開かれた䜜品』『゚ヌコの読みず深読み』の冊、゚ッセむに぀いおはいく぀か拟い読みした皋床だが、本曞を読んで、゚ヌコずいう人の「特異な茪郭」がハッキリしお、ずおも興味深かったし、それは奜意のもおる肖像だった。

    ゚ヌコに぀いお、なぜ私が奜意的なのかずいうこずに぀いお曞こうずするず、おのずず自分自身のこずも倚少は曞かざるを埗なくなる。「奜き嫌い」ずいうのは、察象ずなる䜜品に内圚するものではなく、䜜品ず読者の察応関係においお生じるものだからだ。
    にもかかわらず、倚くのレビュアヌは「自分はこのような人間なので、ここに惹かれた」ずいった曞き方はしない。「察象䜜品が玠晎らしいから、ずうぜん玠晎らしいず感じられたのだ」ずいった曞き方をする。しかし、この蚀明を、より正確に曞き盎すならば「察象䜜品が玠晎らしいから、それを正しく理解できる私にはずうぜん玠晎らしいず感じられたのだ」ずなり、「曞き」の郚分を補足しなければならないだろう。
    蚀うたでもないこずだが、どんなに玠晎らしい䜜品であろうず、読者にそれを鑑賞する胜力がなければ、それは「わからない」「わからないから぀たらない」「わからないから退屈」だずいうこずにならざるを埗ないのである。

    ぀たり、䞀芋「自分のこずを語らず」に、その䜜品を絶賛する人読者ずいうのは、じ぀のずころ、暗に自分自身を絶賛しおいるのである。「私はこの䜜品が、深く理解できるよ。だからこそ、このように絶賛できるのだ」ずいう「ポヌズ」を瀺しお、自分がどういう人間であるかの説明もしないで、぀たり「理解しおいる」ずいう䞻匵の「根拠」を瀺さないたた、自分を売り蟌んでいるだけなのだ。

    『曞物においおもこれず同じようなこずが起こる。自分の考えをもたない読者や自分の考えがかたちになっおいない読者が、魅力的なフレヌズや、茝かしいフレヌズ、匷力なフレヌズなどを目にするず恋に萜ちおしたい、それを採甚し、感嘆笊を぀けおコメントする。「そう」ずか「そのずおり」などず。たるで、自分が぀ねにそう考えおきたかのように。そしお、そのフレヌズが自分の考え方や哲孊䜓系の真髄であるかのように。その読者はム゜リヌニが蚀っおいたように「立堎を瀺す」わけである。さたざたな本のゞャングルにみずから入っおいかなくおも「立堎を瀺す」こずができるように、わたしはそうした読者に「立堎を瀺す」方法を差し出しおしたっおいるのである。』P81

    こうした指摘を、あたりたえに行なう䜜家ずいうのは、ほずんどいない。こんなこずを曞けば、倚くの凡庞な読者に「嫌われる」に決たっおいるからだ。
    「䞊から目線で、偉そうに蚀うな」ずいうわけだが、じっさいのずころ、䜕の努力もしおいない読者が、゚ヌコのような博捜博識の努力家・勉匷家であり、か぀非凡な情熱家であり才人に察しお、自分が「同等の立堎」に立っおいるず考えるこず自䜓が、そもそも「身の皋知らずのバカ」でしかないのだ。

    だが、職業䜜家の倚くは、本音でぱヌコず倧差のないこずを考えおいたずしおも、やはり自分も食っおいかねばならないから、たずえそれが䞍誠実な態床であろうず、「お客様は神様です」ずいう態床を賢く遞んでしたうものだし、そうしたオベンチャラに銎らされた読者は、自分を勘違いしおしたいがちなのである。

    『 わたしたち最初のポストクロヌチェ䞖代は、りェレックずりォレンの発芋やダマ゜・アロン゜ずかスピッツァヌの読解に狂喜したものだ。圓時、わたしたちは理解しはじめおいた。文孊ずは適圓に急拵えされた構造の察比のあちらこちらに隠れた詩の花々を偶然芋぀けお摘んでいくずいうようなピクニックではないのだず。さたざたなレノェルでようやく生呜を維持するひず぀の完結したものずしお、テクストず向き合うべきなのだず。わたしたちの文化もようやくこうしたこずを孊んだはずだった。
     なぜいたそれを忘れおいるのだろうか。そしおなぜ若者に教えおいるのだろうか。テキストに぀いお語る際にしっかりした理論装備やあらゆるレノェルでの怜蚎は必芁ないなどず。あるいはコンティヌニのような批評家の長期にわたる継続的な仕事を有害なものだなどずピッツゥヌトを過倧評䟡したずいうこずだけを根拠に。いたの時代にふたたび称賛される唯䞀の理想的な批評家は、テクストがあたえる刺激に奜き勝手に反応する自由な粟神を持っおいる批評家だなどず。
    䞭略
     こうしたメッセヌゞを、ポスト叀兞䞻矩新批評の粟神的指導者は日々わたしたちに济びせかけおいる。葉緑䜓光合成を知っおいる者は氞遠に䞀枚の葉の矎しさに気付くこずができない、あるいは、血液埪環に぀いお䜕か知っおいる者はもう自らの胞の錓動を愛で高鳎らせるこずはできないなどずいったこずを繰り返し蚀い぀づけおいるのである。こうしたメッセヌゞは嘘である。䜕床も繰り返し声を倧にしおそれは嘘だず指摘しなければいけない。
     これは、テクストを愛する者ず時間を惜しむ者ずの間の生死をかけた戊いなのである。』P223〜224

    ここには、゚ヌコずいう人の基本的な構えが、たいぞんわかりやすく衚出されおいる。

    念のために説明しおおけば、゚ヌコがここで批刀しおいるのは、自己正圓化にすぎる「印象批評」家たちの存圚である。
    芁は、圌らは「小説を読むのに、難しい理屈など䞍芁である。぀たり、蚘号論だ構造䞻矩だずいったようなものは、無䟡倀な戯蚀である。小説を読むのに必芁なのは、玠盎な感受性であっお、理屈ではないのだ」ず、そんな「自己正圓化」を語り぀぀、䞍勉匷な䞀般読者に媚びお、味方に぀けようずするような、政治的批評家たちなのだ。
    そしお、゚ヌコが䞻匵しおいるのは、そういう「暪着で粗雑な読み方は、文孊テクストに察する敬意を欠いた、䞍遜で誀った態床でしかない」ずいう、きわめお真っ圓な話なのである。

    もちろん、䞀般読者が小説を読む堎合、その読者なりに楜しめればいいのだから、読解力のない読者は読解力がないなりに「浅薄なる楜しみ」を埗ればいいし、読解力のある読者は盞応に「深甚の楜しみ」を埗ればいい。そもそも「深みのない䜜品」なら、読解胜力など必芁ないのだから、そういうものしか読たない読者なら、読解胜力など無くおもかたわないだろう。
    しかし、敬意を持っお接するべき「深く完成された䜜品テクスト」ずいうものは存圚するし、そういうものに察しおたで、読解胜力をもたない読者が「感じるがたたに評䟡すればいい」などず無責任に保蚌しおたわる、欺瞞的な「俗情ずの結蚗」倧西巚人は、文孊を愛する者の誠意においお、決しお赊すこずはできない。䞀䞀ず、そう゚ヌコは蚎えおいるのだ。

    ゚ヌコは、䜜品を愛し、珟実を愛し、人間を愛する、「熱い人」だ。だから、いい加枛なずころで劥協もしないし、誀摩化しもしない。ハッキリず蚀っおやらなければわからないこずも倚いし、必芁でありながら誰も蚀いたがらないこずならば、自分が蚀うしかない、ず考える人である。
    だから、察象に察しお熱意や愛を欠くが故に、䞍勉匷か぀安易な態床を採る者たち、そこに開きなおっお自己正圓化を恥じない者たちを、゚ヌコは決しお蚱さない。なぜならそれは、「愛」を賭けた戊いだからである。

    そしお、こうしたスタンスは、なにも「文孊」関係者にだけ向けられたものではない。
    兞型的なものずしおは、「宗教」に぀いお、「オカルト神秘思想」に぀いお、「政治」に぀いおも、同様のスタンスずなる。
    それは、すべおが「珟実の䞭に秘められた真実」ぞの愛に関わるものだからだ。

    「神の存圚」であれ「隠された真理」であれ「人民のための政治」であれ、「それを本気で求めおいるのであれば、そんないい加枛なずころで手を打っお劥協し、誀摩化すこずなどできる道理がないだろう」ずいう、停善ず䞍誠実に察する怒りが、゚ヌコにはある。
    だが、もちろん゚ヌコは、自分が「真実」を独占的に知っおいるなどずいう、傲慢な考えにずらわれおいるわけではない。

    『 実のずころ教逊ある人間の第䞀の぀ずめは、日々「癟科事兞」を曞き換えるために甚心深くあり぀づけるこずなのですから。』P391

    ぀たり、突き詰めお怜蚌された結果ずしおの「圓面の真実」ずしお、「癟科事兞」に曞き蟌たれおいるすべおの項目に぀いお、私たちは、先人による突き詰めの努力を尊重し敬意を払い぀぀も、それが「最終的な真実」ではないかもしれないずいう慎重さを垞に忘れず、䞎えられたものを劄信するこずがないようにしなければならない。そのためにも、぀ねに芳察し勉匷する熱意を持たなければならない。
    そしお、それを可胜にするのは、この䞖界ぞの尜きせぬ「愛」なのであり、゚ヌコずいう人は、そうした情熱においお、文孊を愛し、この䞖界を愛した人なのである。

    初出2020幎11月21日「Amazonレビュヌ」
      2021幎10月15日、管理者により削陀

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    2026幎4月30日、個人サむト「幎間読曞人の迷宮文曞通」 https://dokushojin.jp を開蚭。今埌はこの迷宮文曞通本通にお新芏蚘事をアップしおいきたすので、どうぞご愛顧ください。なお「note」アカりントは、「別通」ずしお旧皿保管庫ずいう䜍眮付けになりたす。

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