
不機嫌なハミング <第6章>
【あらすじ】
小野寺雅斗は、アメリカの買収工場を立ち上げる初代工場長。冷酷な本部長の圧力や、文化も常識も異なる現地従業員との衝突に、独自の「戦略」で耐え忍んでいた。さらに、慣れない異国生活でストレスを抱える家族との間にも、いつしか見えない溝が生まれ、雅斗の不機嫌な鼻歌(ハミング)は止まらない。そんな中、心を閉ざした若き出向者が赴任してきたことで、工場の歪んだ歯車は予期せぬうねりを上げて回り始める。
異文化と家族の距離に翻弄されながらも、混迷の果てに見出した国境を越えた共通項、そして隠された驚くべき真実とは――。
42.195kmのマラソンと工場再生が完璧にシンクロする、ビジネスと家族の魂の再生ストーリー!
両ひざは間違いなく痛いはずだが、不思議とその感覚がなくなってきた。
霧雨は降り続いている。
冷たいミストが顔や腕、太ももに当たる。
やわらかいアイシングをしているようで、妙に心地いい。
走る。
止まって膝の屈伸をする。
ゆっくりと歩きだす。
様子を見ながら、早歩きしてみる。
そして、また走り出す。
「4:00」というプラカードを掲げ、黄色のビブスを着用したペースランナーが、まだ前方の視界の中にいる。
彼よりも、ほんの少しでも先にゴールできれば、念願のサブ4達成だ。
今、オレはどんな顔をしているのだろう?
疲れ切り、老人のように見えるのかもしれない。
自分の正確なペースすらもうわからない。
ただ、前方を揺れる「4:00」のプラカードだけを凝視しながら、ただ動き続ける。
もはや左腕のガーミンを確認するのも億劫だった。
50グラムにも満たないガジェットですら、今のオレには重く感じられる。
マラソンは長時間腕を振り続けるため、上腕二頭筋が凝り固まってくる。
両肩もひどく張っていた。
その時、一陣のそよ風が全身を通り抜けた。
その優しい感覚に、不意に口角が少しだけ上がる。
ありがとう―――。
心の奥底から、自然に対して感謝の念が湧き上がる。
風に感謝するなんて……?
何とも稚拙なポジティブ思考だな。
さらに顔がほころんでしまう。
プラカードとの距離が、また少し広がった気がする。
ちょっとでもペースを上げようとするが、身体中の細胞がそれを拒むかのように固まる。
「あー、疲れた」
素直な感情をそのまま声に出し、深く、そして長いため息を解き放った。
俺もきっと君のいる太陽のあるところへ
行ってみるよ
そしてきっと言うだろう 来てみて良かった
君がいるから
◇
Fuso Sake USAのミズーリ工場から車を東に二十分ほど走らせると、数年前から都市開発が進む郊外型ニュータウンがある。その新興住宅地に点在する、真新しいパークのひとつに小野寺家の三人はいた。製造リーダーのトーマス・クラークが、小野寺雅斗のひとり息子、弦が日本でサッカーをやっていたことを聞きつけ、「是非一緒にボールを蹴ろう」とこの週末に誘い出してくれたのだ。
トーマスは元プロサッカー選手であるが、現在は、趣味の一環として地元の社会人チームでサッカーを続けている。アメリカのフィジカル重視のマッチョなサッカーに対して、テクニックや組織的なプレーを重んじる日本のサッカーに昔から強い興味を持っていたようだった。
―――雅斗が、鼻歌を口ずさみながら工場内を巡視していると、背後からトーマスに声をかけられた。
「マサ、何か問題があるの?」
その唐突な質問に驚いて、雅斗が答えに窮していると、トーマスは少しばつが悪そうに言葉を続けた。
「マサがハミングしている時ってね、何かSOSを発信しているようにオレには聞こえるんだよね」
特に問題がなければいいんだけど、とトーマスは何事もなかったようにその場を去って行った。
そして、同じ日の夕方に、「週末、一緒にパークに行かないか」と誘われたのだった。
雅斗が最初に弦に伝えたところ、息子は躊躇したようだったが、「家にこもってばかりいては身体もなまるだろう」と、雅斗が弦だけでなく、妻の楓も一緒に連れ出す形で足を運ぶことになった。
パークには天然芝のサッカーグランドが八面もあり、空いていればいずれも無料で使い放題なところは、広大な土地を有するアメリカならではの大盤振る舞いだと、雅斗も楓も感心させられた。
さすが元プロというだけあって、トーマスのボールさばきは手品を見せられているように鮮やかだった。ボールが足についていくのか、足がボールを送り出しているのかわからなくなるほど、彼の肉体とボールは一体化していた。最初はトーマスの超絶技巧に見とれていた弦だったが、やがて負けん気に火が付いたのか、必死の形相でトーマスに食らいついていった。
汗だくになって、お互いにボールを奪い合う。取った方も取られた方も、その度に大声を上げて天を仰いだ。楽しそうにプレーし続ける彼らを見ていると、雅斗も、そして楓も、爽やかな気持ちになった。
弦があんな風に声を上げて笑ったのは、アメリカに来て初めてかもしれない―――雅斗はそう思った。それを意識した途端、急に涙腺が緩みそうになったため、雅斗は、「喉が渇いたな」と独り言のように呟き、シボレーへ水筒を取りに走った。
シボレーの壊れたドアミラーは、木下凪が直してくれた。
事故車の部品を安価で販売しているサイトをネットで見つけ、破格の値段で同型のドアミラーのみを入手したのだという。部品代と手間賃を払うと雅斗が何度財布を出しても、凪は、「感謝のしるしです」と言って頑なに受け取らなかった。
リュックが凪に対してどんな嫌がらせを働いていたかは、凪本人の口から語られることはなかった。しかし、断片的な事実は、アレックスやトーマスから雅斗の耳に入っていた。
リュックは、退屈しのぎの獲物として気の弱い凪に目をつけ、メンテナンス以外の製造や品質管理についても、「アメリカの常識ではこうだ」とあることないこと吹聴し、時には怒鳴りつけていたという。分析作業中の凪の腕を不意に引っ張ってガラス器具を破損させることも度々あり、その度に、「アジア人は、不器用だ」とせせら笑っていたというのだから、始末に負えない。雅斗が以前不審に思った、分析室のガラスの回収箱の大量の割れ物の正体は、リュックが故意に作業を妨害したことによる傷跡だったのだ。
リュックの懲戒解雇以降、凪は一日も欠勤していない。
週が明けた月曜日の朝、ミズーリ工場の入口にウーバーのRVが停車した。
四半期に一度の社長訪問である。
同行する肥後本部長が後部座席から素早く飛び出てくると、反対側のドアを開け、Fuso Sake USA社長の扶桑源左衛門の降車を促した。
「久しぶりだね、小野寺君。元気そうだね」
洗練された笑顔で、扶桑源左衛門社長が雅斗に右手を差し出す。
上背はそれほどないが、六十六歳という年齢を忘れさせるほどその背筋は凛と伸びている。きれいに整えられた白髪には清潔感が宿り、仕立ての良さが一目でわかるスーツは、高級でありながらも決して嫌味がない。それらは扶桑社長の上品な佇まいと見事に調和し、社長という人間の揺るぎない品格を雄弁に物語っていた。
その扶桑社長の背後から、脂ぎった肥後が般若のごとき形相で雅斗を冷酷に睨みつけていた。
―――数週間前のこと。いつものように雅斗のラップトップのモニターに突然、『Masayoshi Higo』の文字がポップアップされた。
「小野寺君!一体どうなってるんだね!?メンテナンスを解雇したらしいじゃないか!保全員ゼロで工場運営できるのかね!?受付嬢も保全員もいない、分析員は会社に来ない。まったく管理ができていないではないか!?君の今後のキャリアにも大きく影響する異常事態だぞ!!」
いきなり画面越しに激昂してまくし立ててくる肥後。しかし、雅斗は冷静に応じる。
「本部長、お疲れ様です」
「挨拶なんぞ、いい!どうなっているのか、説明したまえ!」
凪は、メンテナンスのリュックを懲戒解雇に処した経緯、現在の現場は凪も含めて欠勤者ゼロで正常に業務を遂行していること、を手短に淡々と説明した。
「まさか君は、メンテナンスの穴埋めも日本からの出向増員に甘えるつもりじゃあないだろうな!?君ひとりではダメ、木下君を追加してもダメで、さらにもうひとりという算段か!?一体何を考えているんだ!いい加減にしろ!そんなコストの膨張、君の今後のキャリアに―――」
「本部長。日本からの出向による増員は、一切考えておりません」
雅斗は、いつもより強い口調で、肥後の常套句を真っ向から遮った。このキツネ野郎の保身に満ちた無意味な説教を聞く気は、もう毛頭なかった。
「はあ!?どういうことだ?保全員がいないのに、工場の設備が故障したら、製造が止まるではないか?そんな基本的なこともわからないのか?すぐに現地採用できるアテでもあるのか?無いだろう!」
少しの間を置いて、雅斗は断言した。
「設備の保全は、私がメインで担当します。もちろん、製造部長やリーダーにも手分けして手伝ってもらいます」
「既に受付嬢もいなくなっているだろう?彼女は資材調達をやっていたというじゃないか。それはどうするんだ?」
「デジタル化を進め、残りは私がやります。ミズーリ工場の運営責任は私にありますので、私自身が何とかします」
モニターに映った肥後の顔が、みるみるうちに真っ赤に沸騰し、脂が浮いて不気味な光を放ち始めた。
「君ができなかったら、私の責任が問われるんだぞ!!」
深くため息をついた後、雅斗は、モニターの奥にある肥後の目を直視した。
「ミズーリ工場の立ち上げは計画通りに実行します。本部長のご迷惑になるような結果には、絶対にいたしませんので、ご安心ください」
「それが信用できないと言ってるんだ!!私がお前を信用しているとでも思ってるのか!!自意識過剰なのもいい加減にしろ!!」
ついに臨界点を超えた肥後が、狂ったように大声を張り上げた。
「では、本部長」
雅斗の目に、鋭い力が宿る。
「あなたがシカゴからここへ来て、ミズーリ工場を立ち上げますか?それとも私を今すぐ更迭して、別の工場長を連れてきますか?」
モニター越しに、肥後が言葉を失って雅斗を睨みつけた。
「それが不可能なことは、本部長ご自身が一番よくご認識されていると思います。ご自身で立ち上げても、別の工場長を今さら連れてきても、どちらの選択をとっても、あなたの部下の指導力不足を会社の上層部に高らかに宣言することになってしまいますからね」
「何だと……!」
「あなたは、私に任せるしか道はないのです」
肥後が、水に溺れて呼吸困難に陥ったように、口をパクパクと動かした。脂なのか汗なのか、大量の体液が肥後の顔全体を満たしていく。何とも哀れな姿だった。
「もう一度申し上げます。私は私自身の責任において、この工場を計画通りに立ち上げます。万が一、それができなかった暁には、『本部長は充分にご指導くださったにも関わらず、私の力量不足でした』と、私が扶桑社長に直接頭を下げに行きます。本部長には、ご迷惑をお掛けしません」
肥後は、目を血ばらせたまま、瞬きをすることすら忘れているようだった。
「本部長、あなたに損失はありません。ご安心ください」
雅斗は、目の前のモニターに映し出された、何も言い返すことができないこの老人を、どこか気の毒にすら思った。肥後は、これまでの長いキャリアにおいて、自分自身の手で何かをゼロから生み出したことは一度としてなかったのかもしれない。だからこそ、上司という圧倒的に有利な階級を利用して、ひたすらに部下を追い詰め、絞り出した成果を自分の出世のために横取りしてきた。もし、その部下が充分に成果を出せないとわかれば、先回りしてその人間の無能さを上層部に喧伝し、「それでもこれだけの数字を残したのは自分のおかげだ」と言い回る。高度成長期が終焉を迎え、バブル崩壊後の失われた時代の中で徐々に持ち込まれる成果主義という名のゲームチェンジ。肥後の世代にとっては、あまりにも目まぐるしいルールの激変だったのだろう。見方を変えれば、この肥後正義という男もまた、時代の犠牲者のひとりなのかもしれなかった。
何も言い返してこないことで、この不毛な対話は終わりだと察した雅斗は、最後に静かにこう告げて、システムからログアウトした。
「それでは、次回のご来場を、従業員一同心よりお待ちしております」
工場長である雅斗が、扶桑社長と肥後本部長を案内し、前回の来場時からの変化点を中心に説明しながら製造現場を巡回する、社長工場視察を無事に終えた。社長室に戻ったふたりに、雅斗は自ら淹れたコーヒーを差し出した。事務員のエレナ・モラレスはもういないので、これもまた工場長である雅斗の業務だった。
まずは、恒例となっている「本部長の所感」を雅斗が肥後に促した。
肥後は、もはやあら探しとしか取れないような細かい指摘を、これでもかと羅列し始めた。
従業員の作業服が汚れていた、床にゴミが落ちていた、製造エリアに不快な臭いが漂う、装置のペンキが剝がれかけている、場内の照明が明るすぎる、仕込中のアルコール発酵が弱い気がする―――。
雅斗は表情を変えず、そのすべてをノートへ几帳面にメモしながら、拝聴した。
最後に肥後は、「ミズーリ工場の状態は決してFuso Sake USAの基準に達していない。早急な改善を求める」と締めくくった。
続いて、これも恒例である「社長の総括」に移る。雅斗が、目を移すと、それまで目を瞑って腕組みをしていた扶桑社長がゆっくりと目を開け、隣の肥後に話しかけた。
「肥後君、ちょっと席を外してくれないか」
通常であれば、工場で働く従業員全員に対する労いの言葉と、改善されている現状を褒めつつ、高い目標に向かって引き続き最大限尽力するよう激励する定型のコメントで終わるはずだった。明らかにいつもとは異なる社長の申し出に、肥後も雅斗も戸惑いを隠せなかった。
「いや、しかし……」と、少し食い下がる肥後。
「小野寺君とふたりきりで話をしたいんだ。席を外してくれ」
バッサリと断ち切るような、社長の威厳に満ちた口調に、肥後は困惑の表情を浮かべたまま、渋々社長室を退席していった。
再び扉が閉じられ、雅斗は、社長とふたりきりになったことで、さらに背筋を伸ばして直立不動の姿勢を取った。
―――数週間前に肥後に対して啖呵を切った報いが、ついに来たのだ。いよいよ日本への強制送還を命じられるのだな、と雅斗は身構えた。おそらく肥後のキャリアの中で、部下からあそこまで正論でねじ伏せられた経験はなかったはずだ。表面だけを捉えられれば、「無能な部下が成果を出せないことを棚に上げて、上司に反抗的な態度を取った」と思われても仕方はなかった。窮鼠猫を噛む、だ。肥後のことだ、全力で雅斗を潰しにかかってきていることは想像に難くない。扶桑社長にも、肥後の都合の良いように歪められたレポートが伝わっているはずだった。
扶桑源左衛門は、扶桑酒造株式会社の代表取締役社長の従弟にあたる。いわゆる同族会社である扶桑酒造の役員は半数以上が扶桑姓で占められており、扶桑源左衛門はFuso Sake USAの社長でありつつ、扶桑酒造株式会社の代表取締役専務執行役員という強大な権力を有している。当然、雅斗程度の出向者など、彼の一言でどうとでもできる立場だった。
「小野寺君は、ミズーリに来て、どれくらいになる?」
落ち着いた口調で、しかし威厳を微塵も崩さずに扶桑社長が問う。
人事異動の内示を行われる際のお決まりの質問に、やはりそうなったかと腹を括った雅斗は、真っすぐに答えた。
「再来月で、二年になります」
「そうか、二年か。早いもんだな。本人としては、この期間をどう感じている?」
「ミズーリに着任するまでは、過酷な環境下では、時間の経過が早いと感じていましたが、ここに来てからは、少し違いました。まだ、二年しか経っていないのか、と。はじめてこの工場に足を踏み入れたのが、ずいぶん昔のことのように感じられます」
扶桑社長の口元に、柔和な笑顔が浮かんだ。しかし、その背後に漂う圧倒的なオーラは少しも揺らがない。これが扶桑の一族の品格か、と改めて雅斗は圧倒された。
「やり残したことは、ないか?」
間違いない。本帰国の辞令だ、と雅斗は確信した。
「やり残したことしか、ございません」
こうなったら、自分の胸にあるすべての熱量を包み隠さず社長にぶつけて散ろう、と雅斗は覚悟を決めた。、腹を括った。
「この二年間、元々中国系の調味料会社のものであった人材、設備、運用、そのすべてをゼロから、いや、マイナスからひとつずつ再構築に努めてまいりました。組織の変革には時間がかかります。蒔くべき種も、まだ充分に蒔き終わっておりません。収穫の時期はもう少し先になると思われますが、着実に地盤整備を進めてきた自負があります」
扶桑社長は、何も言わない。ただ、静かに雅斗の話を聞いている。
「今の状況は、依然としてマイナスです。扶桑グループの厳格なスタンダードに対して、まだゼロ地点にも及んでいない。ですが、今のミズーリ工場が最低でもプラスに転じない限り、誰か他の人間に引き継ぐわけにはいきません。今、ここで私が退くということは、工場長としての責任放棄に他なりません」
扶桑社長の鋭い眼光が、真っすぐに雅斗に注がれた。経験したことのない圧倒的なプレッシャーに気圧されそうになりながらも、雅斗は一歩も引かずに言葉を振り絞った。
「社長。私に、このままミズーリをやらせてください」
少し声が上ずってしまった。だが、それで構わないと雅斗は思った。
扶桑社長は、ゆっくりとコーヒーカップを手に取り、一口含んだ。雅斗はその一挙手一投足を、息を詰めて見守った。心臓が痛いほど高鳴る。膝の上で震える自分の両拳を強く握りこんだ。
「フソー・フードの荻野目社長は、私と同期だ」
ミズーリ工場に残れるか、日本へ返されるか、その二者択一の宣告を待っていた雅斗は、完全に肩透かしを食らったような面持ちになり、思わず口を滑らせた。
「ギョロメ社長のことですね」
ギョロメ社長は、雅斗にミズーリ赴任の辞令を伝えた、あの元上司だ。一瞬きょとんとした扶桑社長だったが、次の瞬間、社長室に響き渡るほどの声で高らかに笑った。
「なるほど、確かにそうだ。同期の間では、ギョロメと呼ばれてるが、君たちの世代でもそう呼ばれているとは知らなかった」
失礼しました、と自分の失言を恥じてうつむく雅斗に、扶桑社長は柔らかい笑顔のまま続けた。
「ギョロメは、私のゴルフ仲間でもある。先月、日本に帰国した際に、彼と久しぶりにラウンドしたんだよ」
フソー・フード勤務時代、工場長代理だった雅斗に対し、ギョロメ社長は頻繁に「お前もゴルフをやれ」と誘ってくれた。ゴルフ場での人間関係づくりがビジネスパーソンには大いに役立つ、お前も人脈を広げていく年齢に来ているから始めるべきだ、と。当時の雅斗は「休日を返上してまで、会社のために尽くすつもりはありません」と、にべもなく断っていた。ワーク・ライフ・バランスこそが、キャリア戦略の柱だと信じて疑わなかった。自分のあの頃の若さと狭量が、今となっては妙に懐かしく思い出された。
「そのギョロメが言っていたよ。小野寺は管理職としては、スキルも、経験も、実力も大したことはない。ただ……」
扶桑社長は、少しだけ間を空けた。雅斗は、音を立てないように注意しながら、唾を飲み込んだ。
「―――仕事を、絶対に裏切らない男だ、とね」
雅斗の胸の奥に、熱いものが一気に込み上げてきた。
自分はフソー・フードから「異物」として追い出されたのではないか、とずっと疑ってきた。ギョロメ社長とは意見が合わないことも少なくなく、その度に激しい議論を繰り返していたが、それが躊躇なくできたのは、ギョロメ社長の懐の深さのおかげだったと、雅斗自身ひそかに尊敬すらしていた。だが、扶桑酒造のグループは保守的な組織だ。部下が上司に激しく物申すなど御法度であるため、自分は煙たがられてパージされたのだと、海のものとも山のものともつかぬ海外の買収工場へ事実上の左遷をされたのだと、ずっと考えていたのだ。
しかし、ギョロメ社長が陰で自分のことをそこまで高く評価し、信じてくれていた。雅斗の目頭が、不本意ながら熱くなった。あの時、元上司が雅斗に言った「栄転やで」という言葉は、親心から生じた、一点の曇りもない本心だったのだ。
続けて、扶桑社長は、静かにこう言った。
「今の君の上司は、肥後君だ」
ミズーリ工場の惨状は、雅斗に対するかなり低い評価とともに、肥後本部長から扶桑社長にレポートされていることは間違いなかった。しかし、扶桑社長が雅斗に今伝えているのは、「一方向からの情報だけで、その人間の本質を判断することはない」という経営者としての器の大きさだった。多面的に人材を見なくてはいけないという、無言の教え。
そしてそれは、部下から上司を見る目も同じだった。いくら反目し合っているからといって、それが上司とうまくやれない理由にはならない。肥後本部長にも長所と短所、得手と不得手がある。そのポジティブな側面を上手に引き出して、その上司の持つパワーを最大限活用していくことこそが、今の雅斗のポジションに求められている高度なマネジメントなのだ。「自分ひとりで解決するから、口出しをするな」という雅斗が肥後に対して切った啖呵は、単なるエゴイズムに過ぎない。そんな幼稚な発想では、これからのグローバルな現場は戦えない。上司と部下は、お互いに利益を得るWin-Winの関係を築かなければ、組織に未来はないのだ。扶桑社長は、雅斗にそう伝えていた。
長めの沈思黙考の末、雅斗はゆっくりと口を開いた。
「社長。私に、このままミズーリをやらせてください」
雅斗ひとりがすべてを抱え込むという、自分勝手なエゴはもうなかった。肥後本部長と今後どのように対話し、コラボレーションしていくか。それこそが、このミズーリ工場の価値を最大化していくキーポイントだ。自分ならそれを見つけられるはずだと、雅斗は確信していた。
扶桑社長は、満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、どことなくあのギョロメ社長の豪快な表情に似ているようだった。
「君の収穫物が、楽しみだ」
扶桑社長と肥後本部長との会食が控えているため、いつもより早めに工場を出る必要があった。雅斗が工場長室でユニフォームからスーツに着替えようとしていると、製造部長のアレックスが部屋に入ってきた。
「マサ、そろそろ出発の時間だよね」
「ああ、あとの現場のことは頼むよ、アレックス」
笑顔のアレックスが雅斗に近付き、声を潜めた。
「ミスター・ヒゴが、さっき裏でマサのことをひどく怒っていたよ。かなり悪口を言っていたな」
「まあね。少し生意気な口を利いちゃったから、ご立腹なんだろう」
「オレのことはね、製造部長としてよくやってるってすごく褒めてくれたよ」
「そりゃ、良かったじゃないか」
「でもね、そんなの嘘だろう?……オレ、気付いたんだ。マサだって、オレがまだまだ未熟だって思ってるだろう?」
雅斗は、一瞬返答に困った。
「だからこそ、マサはいつもオレに厳しい指導をしてくれてるんだって、今ならわかる。言いたいことを全部言ってるわけじゃないのは、オレも何となくは気付いていた。マサは我慢して我慢して、それでもオレの成長のために伝えなきゃならないことだけを、率直に言ってくれる。でもミスター・ヒゴはいつもオレを褒めるだけだ。本当の指導はしてくれない。製造エリアが見違えるようにきれいになったとか、仕込もうまくコントロールできているとかね。彼が心の底で本当はどう思っているのかは、オレにはわからない。でも、おそらくそれは嘘だ。マサは、違う。いつも、まだまだ不充分だって、オレに言うよね」
「そうだね。正直、私の目指すゴールにはまだ程遠いと、毎日感じてるよ」
「だろう?ミスター・ヒゴは、本音と建前ってやつだね」
雅斗は目を見張った。
「え?それって日本特有の文化だよ。よく知ってるね」
「そんなことないよ。アメリカにも本音と建前は、もちろんあるさ。だから多くのアメリカ人は、自分のボスがクソだって本心では思っていても、平気な顔で『あなたはサイコウのボスだ!』って言えるんだよ」
雅斗の脳裏に、工場を去っていったエレナ・モラレスの姿が鮮明に浮かび上がった。
彼女が笑顔でよく言っていた「マサ、あなたは本当に良いボスよ」というあの誉め言葉。だが、彼女はFuso Sake USAをあっさりと退職した。ハウスキーピングが天職だと言っていたが、本当のところは、傍若無人に振る舞い続けるメンテナンスのリュック・ベルローズをコントロールできず、現場を泥沼化させていた雅斗という頼りない工場長に、ただ愛想をつかしただけだったのかもしれない。
何が、「コミュニケーション戦略はうまくいっている」だ。
思い違いも甚だしい。
「そりゃ……、日本もアメリカも、人間の本質は同じだね」
「でも、マサは違った。上司であるミスター・ヒゴに真っ向から噛みついたんだろう?だから、彼は悔しくてマサの陰口を言いふらしてるんだ」
「仕方ないね。上司に反抗するのは、ビジネスパーソンとして褒められた行動じゃないからね」
「マサも本音と建前の人間だと思ってたから、意外だった。そして、すごく嬉しかったんだよ、オレは。……だからね、オレもさっき、マサの真似してみたんだ」
どういう意味だ?と眉をひそめる雅斗の表情を見て取って、悪戯っぽい笑顔を浮かべながら嬉しそうにアレックスが言った。
「『オレはそうは思わない。マサはあなたと違って、オレたちのために本当のことを言ってくれる。マサの悪口は聞きたくない』って、ミスター・ヒゴに言ってやったんだ」
唖然とする雅斗の顔を見て、アレックスは笑い声を上げた。
「あの時のミスター・ヒゴの、驚いて引きつった顔をマサにも見せてやりたかったよ!」
アレックスの楽しそうな表情に引きずられて、雅斗も苦笑いを浮かべる。
「マサ」
アレックスは、これまでに見たこともないほど純粋で、深い信頼を湛えた瞳で、この日本人の工場長を見つめた。
「あなたは本当に、オレたちの良いボスになったよ」
翌朝。ベッドから起き上がって、身支度を済ませた雅斗は、一階のリビングに降りていった。
キッチンの前では、妻の楓がいつものように朝食の支度をしている。
「おはよう、マー君」
楓の表情が、心なしかいつもより柔和で、明るい気がした。週末にパークで、元気にトーマスとサッカーをしていた息子の弦の姿を見て、彼女も元気を分けてもらったのかもしれない。雅斗は微笑み返した。
「おはよう、楓ちゃん」
ふとダイニングテーブルに目をやると、見慣れない一冊の洋書が置いてあった。雅斗が、『The Glass Girl』と声を出して、表紙の文字を読み上げると、それに気づいた楓がキッチンから顔を覗かせた。
「昨日ね、弦が学校の友達から借りてきたみたい。今、こっちの若い子の間で売れてるそうよ。キャスリーンなんとかって作者らしいけど、マー君、知ってる?」
「いや、知らないなあ。へえ、弦のやつ、いつの間にか洋書なんて読めるようになってたんだ。すごいじゃないか」
雅斗が感心していると、階段から眠そうな目をこすりながら、弦が降りてきた。手に持っていた一枚の紙を雅斗の前に差し出した。
「お父さん。これにサインしておいてよ」
「何だ、これ?」
「部活の入部届。親の同意がいるんだ」
アメリカに来て以来、ずっと自室に閉じこもり、心を閉ざしがちになっていた息子の急激な心境の変化に戸惑いつつも、雅斗は用紙に目を通す。「Boys Soccer」の欄に、力強いチェックマークが付いていた。
「また、サッカーを始めるのか?」
「うん。この前、トーマスとパークでサッカーやったでしょ。彼の弟が、オレの通ってる高校のシニアなんだ。サッカー部のキャプテンをやっててさ。昨日学校で『是非、一緒にプレーしよう』って、直々に勧誘されたんだ」
トーマスに弟がいたなんて、雅斗は初耳だった。ましてや、それが弦と同じ高校に通っていたなんて。
―――ひょっとして、トーマスのやつ、すべてを事前に把握した上で、うちの家族をパークに誘ったのか。
とんだ戦略家だ。アジな真似をしてくれたもんだ、と苦笑いを浮かべながら、雅斗は、用紙の保護者欄にサインをした。
「頑張ってね、弦。お父さんと一緒に試合の応援に行くわ!」
キッチンから、楓の弾んだ明るい声が飛んでくる。
「スタメン取れるか、まだわからないよ」
申込用紙を見つめながら、照れ臭そうにつぶやく弦の横顔は、これまでにない頼もしさを湛えて、雅斗の目に眩しく映っていた。
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