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不機嫌なハミング <第3章>

    【あらすじ】

    小野寺雅斗は、アメリカの買収工場を立ち上げる初代工場長。冷酷な本部長の圧力や、文化も常識も異なる現地従業員との衝突に、独自の「戦略」で耐え忍んでいた。さらに、慣れない異国生活でストレスを抱える家族との間にも、いつしか見えない溝が生まれ、雅斗の不機嫌な鼻歌(ハミング)は止まらない。そんな中、心を閉ざした若き出向者が赴任してきたことで、工場の歪んだ歯車は予期せぬうねりを上げて回り始める。

    異文化と家族の距離に翻弄されながらも、混迷の果てに見出した国境を越えた共通項、そして隠された驚くべき真実とは――。

    42.195kmのマラソンと工場再生が完璧にシンクロする、ビジネスと家族の魂の再生ストーリー!

    「ウォーラー!」

    「ゲートゥレイド!」

    ここは何ヶ所目のエイドステーションなのだろうか。

    ボランティアの若者たちが両手に紙コップを持ち、口々にランナーたちに叫ぶ。

    アメリカでの定番スポーツドリンクであるゲータレードを、まずは受け取る。走りながら液体を飲むとどうしてもむせてしまうので、オレはこれが苦手だ。走るペースを少し落とし、競歩のような不格好な動きでゲータレードを一気に流し込む。

    続いて水の入った紙コップを受け取り、指についてしまったベタつくゲータレードを洗い流す。それから手のひらに溜めた水で顔を拭う。

    これまでいくつものマラソン大会を走破してきた、経験のなせる業だ。

    ゲータレードは乾くと糖分が析出してきて肌がベトベトになり、その不快感が残る。顔の汗も塩に変われば額や頬に違和感が残り、これもまた気になるのだ。もっとも、小雨は降り続いている今日は、雨がすべてを自然に洗い流してくれるのだが。

     
    少し雨が弱まってきたか。

     
    相変わらず調子は上がってこない。だが、この先いつ快調の波が自分に到来するかわからないので、その時を待ちながら、一歩一歩を刻み続ける。

     
    ピッという電子音に反応し、ランニングウォッチを見ると、20kmと表示されていた。

    ここまでで1時間52分。あと1kmちょっとをプラス6分で通過すれば、ハーフの通過は1時間58分。

    何とか、サブ4ペースは戦略通りに維持できている。
     

    練習は嘘をつかない。

    走った距離は裏切らない。

     
    いつの間にか、雨は止んだようだ。

     
    ふと、前方で誰かが叫んでいるのが耳に入ってくる。

    「ハーフ、レフト!フゥ、ゥライト!」

    大会関係者と思われる黄色のウィンドブレーカーを着た黒人男性が、オーバーアクション気味に左右の腕を交互に振っている。路上に置かれた看板を見ると、大きな矢印と一緒にこう書かれていた。

    HALF KEEP LEFT

    Marathon KEEP RIGHT

    フルとハーフの分岐点の到来だ。

    大半のランナーたちが、吸い込まれるように左のレーンへと軌道修正していく。

    その流れにやや後ろ髪をひかれながらも、オレは右側のフルマラソン専用のレーンへと進路を取った。

    少しばかり誇らしい気分が芽生える。
     

    オレは君たちと違って、これからさらにハーフの距離を走るんだぜ。

    だらしない体形や不器用なフォームのランナーが一斉に左側へ去って行き、右側に残ったランナーは皆、どこか余裕がある美しいフォームをしているような気がしてきた。

     
    ひょっとしたら、これは美醜の分岐なのか?

     
    さっきよりも、もっと誇らしい気持ちになった。

    まだ身体に痛むところはない。

     
    いける。

    いけるぞ、サブ4。

     
    ところが、またしてもポツポツと振り出してきた小雨が、オレのポジティブな感情に水を差す。

    下瞼に不定期にぶつかって来る雨粒が、やけに不快だった。

     
    雨よ、頼むから、オレのサブ4達成を邪魔しないでくれ。

     
     
    いいかげんな奴らも 口をあわせて
    俺と歩くだろう
     

    ◇

     
    小野寺雅斗は、木下凪とふたりきりで、工場の会議室にいた。

    早いもので、凪がミズーリ工場に着任してから既に二ヶ月が経過している。

    中国製の安価なプロジェクターで会議室の白い壁に映し出されたパワーポイントを見上げながら、雅斗が向かいに座っている凪に話しかける。

    「この資料は、ナギーが着任した当初に説明したものだよね。覚えてる?」

    「はい、もちろんです」

    壁には、『日本人出向者に求めること』というタイトルのスライドが表示されていた。そこには、雅斗が日本のフソー・フードの本社工場長代理を務めていた頃に感じたことや、このミズーリ工場をゼロから立ち上げていく過程で重要だと信じてきた教訓が、十項目程度にわたって箇条書きされていた。

    「とにかく戦略的に動くことが、何よりも大切なんだよ」

    「……はい」

    凪は無表情のまま、短く応えた。

    感情の起伏が読みづらい人間は扱いにくいな、と雅斗は内心で眉をひそめた。

    「どうだい?現時点で、何か困っていることはあるかい?」

    「……いえ、特には……」

    「何でもいいんだよ。TOEICの点数は、確か―――」

    「820点です」

    「そうだったね。500点程度の私なんかよりも、ナギーの方がずっと従業員とスムーズにコミュニケーション取れるだろう?」

    「いえ、TOEICの点数は、実際の会話にはあまり役に立たない気がします」

    「そんなことないだろう。私なんかよりもボキャブラリーは豊富だと、いつも感心しているよ」

    「ありがとうございます。でも、なかなか難しいです」

    「そうか。でもそれも慣れだよ。ナギーは若いんだから、私なんかよりも習得は早いはずだよ」

    「……はあ……」

    一向に盛り上がってこない会話に痺れを切らした雅斗は、壁に投影されたスライドを指さしながら、口調がややきつくなる。

    「とにかく、何事も戦略なんだよ。ここにも書いたように、『最初が大事。先手必勝。まずは自分の実力を見せつける』ということは、実行できたかい?」

    「やろうとはしているんですけど、何から手を付けたらいいのか……」

    「優先順位がわからない、ってこと?」

    「……はい」

    ここで感情的になってしまったら、雅斗自身が肥後本部長と同じ人種になってしまう。あの陰険なキツネ野郎のレベルにまでに落ちぶれることだけは、何としても避けたかった。

    雅斗の頭の中で『イメージの詩』の旋律が流れ始める。

    冷静にならないといけない、と自分を諭すように小さく息を吐き、雅斗は声色を和らげた。

    「何でもいいんだよ。ナギーは、これまでに商品開発と生産管理に携わってきたんでしょ。醸造技術者としてのバックグラウンドもある。自分のストロングポイントを使った戦略でいくべきだよ」

    はい、と力なく小さく頷く凪を見つめながら、雅斗は自らの成功体験を優しく語りかけ始めた。

    「私も着任当初は本当に地獄だったよ。英語は話せない、従業員が何を言っているか聴き取れない。おまけに彼らは、日本酒の作り方はおろか、わが社のブランドのことすらも何も知らない。日本が地球のどこにあるかですら、怪しかった。本当の話だよ」

    「……」

    「そこで、私は自分に何ができるかを考え抜いた。毎日、毎日。そして、ひとつの明確な戦略を立てたんだ。まずは、この拠点を食品工場として相応しいレベルまで徹底的に磨き上げようと決めた。異臭のする工場の設備をひとつひとつ洗浄していくことにした。私自身の手でね」

    「工場長である小野寺さんご自身が、ですか?」

    凪の死んだようだった目が、少しだけ驚きに揺れた。

    効果てきめんだと確信し、雅斗はここぞとばかりに畳みかける。

    「そうだよ。だって、誰もやる人がいなかったからね。毎日時間を捻出しては、設備を片っ端から洗浄していった。私の作業着はいつも汚れまみれだったけど、その背中を見せ続けるうちに、少しずつ従業員の中から協力者が現れ始めたんだ。最初は、製造部長のアレックスだったなぁ……。『オレにも洗浄させてくれ』って声を掛けてくれた時は本当に嬉しかった。ある日、アレックスとリーダーのトーマスが始業前に自発的に出勤して装置をピカピカにしてくれたことがあってね。その時、私の背中を見せるという戦略は間違っていなかったと確信したよ」

    「すごいですね」

    凪の目が、今度は確かに輝きを帯びた。

    「日本人だろうが、アメリカ人だろうが、正しい戦略さえあれば、必ず思いは通じるんだ。ナギーにだってできるはずだよ」

    「……私は、少し楽な方に逃げていただけかもしれません。私も自分にできる何かを現場で始めてみます」

    「いいね!その意気だよ」

    凪の顔に、ようやく年齢相応の瑞々しい笑顔が戻った。

    少しばかり武勇伝的な語り口調になってしまったことを内心で反省しつつ、この程度なら嫌味にもならないだろう、と雅斗は凪に微笑み返した。

    「そういえば、お伝えしていませんでしたが、」

    と、凪が思い出したように言葉をつないだ。

    「原料搬送の垂直コンベアから、引っ掛かるような変な音がしています。専門ではないので、詳しくはわかりませんが、ちょっと気になって……」

    それは、毎日のように場内を巡視しているはずの雅斗ですら、まだ気付いていない異常だった。

    「故障の兆候かもしれないね。メンテナンスのリュックには、伝えたかい?」

    「いえ、まだです」

    「そうか、完全に故障してからでは手遅れだから、異常に気付いたら、すぐにリュックに言った方がいい。それが現場の基本戦略だ」

    「……はい、わかりました」

    凪の表情が一瞬だけ不自然に曇ったのを、雅斗は見逃さなかった。

    「どうした?彼に言いにくいのかい?」

    「いえ、そんなことはありません。あとで彼に伝えてみます」

    きっぱりと否定する凪の態度を見て、ただの思い過ごしか、と雅斗は胸を撫でおろした。

    「そうしてくれ」

     
    日本国内において、昭和の全盛期には四千近くの酒蔵が様々な地方に点在していたものの、現在では、後継者不足や日本酒の消費量が減少したことで、四分の一程度にまで減少しており、日本酒製造は斜陽産業と揶揄されることも少なくない。

    そんな中、生き残りをかけて海外市場に活路を見出した酒蔵たちが、海外生産や輸出へと舵を切ってきた歴史がある。特に多様性を受け入れる土壌のあるアメリカの市場は魅力的で、日本の三~四割の酒蔵が輸出によって販路を開拓してきた。

    扶桑酒造は、平成に入った頃、輸出だけに頼っていては、アメリカ市場で勝負するには不十分だと判断し、アメリカ国内の日本酒製造を開始した。

    日本酒は、蒸米、麹/酒母づくり、発酵、仕上げ、という主に四つの工程から造られる。

    その製造には、杜氏と呼ばれる酒蔵における最高責任者が頂点に君臨し、お酒の味の設計、原料の選定、発酵の温度管理など、酒造りのすべてを取り仕切る。

    その下に、杜氏の右腕とも称される頭(かしら)、麹造りの責任者である麹師(こうじし)、酒母づくりの責任者の酛師(もとし)などの役付蔵人が名を連ねるのが通常である。

    さらには、蔵人と言われる現場の作業員たちがひとつひとつの細かい作業をこなしていく。

    だが、雅斗は、杜氏の資格など有していない。

    にもかかわらず、工場長というマネジメントの立場でこのミズーリに赴任してきた。

    出向前にいくつかの基礎研修を受けたものの、一足飛びに杜氏の職責が果たせるわけがないことは、雅斗自身が一番よく理解していた。

    現地の従業員は、日本酒製造の経験など皆無であり、蔵人と呼ぶことすらおこがましい状態だ。そんな中で、雅斗がアレックスを製造部長に据え、トーマスを製造リーダーに任命したのは、苦肉の策でもあった。

    日本国内であれば、麹師でも酛師でもない、彼らを現場の責任者に任ずることなど、あり得ないことであった。

    さらには、新たに加わった凪ですら、麹づくりや酒母づくりの多少の経験はあるものの、その年数から判断すると、蔵人レベルに過ぎないのが現実であった。

    要するに、人材が壊滅的な状態で、ミズーリ工場を立ち上げなければならないという、超難問が雅斗の肩にのしかかっているのだった。

    日本酒製造の蒸米、つまり原料処理の工程で、蒸缶に米を搬送するための垂直コンベアから異様な音がしていると、凪は雅斗に指摘していた。

    そのことが気になった雅斗は、自分の耳で確かめてみようと、製造現場に立ち入った。

    蒸缶は、間欠運転をしており、一日に三回の蒸煮を行う。

    既に一バッチ目が終了し、二バッチ目の米を缶に投入している最中であった。

    工場扇やエアーコンプレッサーなどが激しい唸りを上げている騒々しい環境であるため、垂直コンベアにかなり近づいて耳を澄ませないと、コンベア自体の音を聞き分けることは難しい。

    確かに、コンベアの鋼鉄製のケーシング内部から、不定期に金属が擦れるような音がする。しかし、言われなければ聞き流してしまうほどの、わずかな異音だ。

    凪はよくこんな微細な音に気づいたものだ、と若干感心しつつ、雅斗は手のひらでケーシングに触れてみる。

    不規則な振動を右手に感じる。

    内部で、チェーンに繋がれたバケットと呼ばれる箱か、あるいはチェーンそのものが壁面に干渉しているようだ。

    異常な挙動であることに間違いはなかった。

    近くで記録用紙を片手にデーターロガーを凝視していた製造部長のアレックスに、雅斗は近付いて声を掛けた。

    「やあ、アレックス。今、ちょっといいかい?」

    「もちろんだよ、マサ。何だい?」

    「さっき、ナギーからこの垂直コンベアから異音がしていると報告を受けた。今、確認してみたら、確かに中で何かが擦れているような音がしている」

    「え?そうかい?」

    アレックスは操作盤から離れ、コンベアの前に立って耳を澄ます素振りをした。

    「ああ、これはブロワーの音だよ。問題ないさ」

    「違うよ。ブロワーの音じゃなくて、もっと小さい音だ。ケーシングに直接耳を当ててごらん」

    素直に従って、コンベアに顔を寄せるアレックス。

    「本当だ。何か擦れてるね。……だけど、これは昔からずっとこんな感じだよ」

    「音がちょっとずつ大きくなってきているってことは、ないかい?」

    「わからないなあ。昔からずっと同じだと思うけど……」

    「この異常について、メンテナンスのリュックは知っているのかな?」

    「随分前に話したことはあるけど、その時には『問題ない』って言ってたよ」

    「そうか。念のため、リュックに一回診てもらっておいてくれ。トラブルの事前回避も、我々のリスク管理戦略のひとつだからね」

    「了解」
     

    アレックスがそう請け負った後、雅斗がさらに場内を巡視していると、廊下の向こうからリュックが傲慢な足取りで近付いてきた。

    「青いモーターが止まっているぜ」

    挨拶もなしに、リュックが不機嫌そうに雅斗に言い放った。

    「やあ、リュック。どこのモーターだい?」

    「酒を送るポンプのやつだ」

    「止まってるって、どういうこと?ただ動いていないのか、それとも動かしたいのに起動しない、ってことかい?」

    「さあね。とにかく動いていない」

    「今の製造状況はわかるかい?」

    「知らないね」

    そこへ、血相を変えた製造リーダーのトーマスが息を切らせて走って来た。

    「マサ!ここにいたのか、探してたんだ。大変だ!生酒の移送ポンプが故障しているようだ!」

    「まさに今、リュックからその報告をうけていたところだよ。いつから動かないんだい?」

    「今朝からだ。いくら起動ボタンを押しても、全く反応がないんんだ」

    「何しろ、中国製だからな」

    リュックが小馬鹿にしたように鼻で笑った。雅斗はそのあまりにも無責任な態度に閉口しつつも、工場長として状況整理に努めようと気持ちを切り替えた。

    「リュック、いつから調子が悪いんだ?」

    「知らないね。昔からずっとだぜ」

    「数ヶ月前に、異音がしていることをアレックスに伝えておいたけど、何も聞いていないのか?」

    「聞いてないぜ。あいつは、オレには何も言えないのさ。とにかく、この中国製は昔からガタがきてたんだ。今に始まったことじゃない」

    「ちょっと待て、リュック。君はこの工場のメンテナンスだろう?なぜ異音に気付いながら放置したんだ?」

    「中国製は、クソだからさ」

    「そんなことは聞いていない。なぜ、気付いていながらメンテナンスとして何の対応もせずに放置したのかを聞いている」

    雅斗は、自分のイライラを抑えることが難しくなってきているのを感じていた。

    「中国製は、クソだからさ。アメリカ製にそっくり交換するしかないぜ」

    「もう一度聞くよ。なぜ、放置したんだ?」

    「中国製は、クソだからだ」

    吐き捨てるようにそう言い捨てると、リュックはその場から立ち去ろうと雅斗に背を向けた。

    呼び止めようとする雅斗を遮るように、トーマスが声を張った。

    「マサ、確か倉庫に予備のモーターがあったかもしれない。オレが見てくるよ」

    「オッケー。頼んだよ、トーマス」

    雅斗は、遠ざかるリュックの後ろ姿を睨みつけながら応えた。

    そこへ、ただならぬ雰囲気に気づいた製造部長のアレックスが雅斗に話しかけてきた。

    「どうした、マサ?何か問題か?」

    「生酒の移送ポンプが故障した。起動ボタンを押しても、モーターが全く回らないんだ。今、トーマスが倉庫に予備の在庫がないか確認しに行ってる」

    「そうか。オレも一緒に見てくるよ」

    「アレックス、ひとつ明確にしておきたい。数ヶ月前、私が君に、メンテナンスのリュックにあのポンプの異音を伝えておくように指示したよね?それは覚えているかい?」

    「もちろん。あの時、すぐにリュックに言ったよ」

    「それで、その後、彼からの進捗報告は?」

    「何もないよ。だから、問題なくクリアされたんだと思っていた」

    製造部長という立場でも、この男の管理レベルは、この程度なのか。雅斗は改めて、このミズーリ工場の絶望的な組織レベルに深い落胆を覚えた。

    「わかった。いずれにしても、生酒が移送できないということは、それよりも前段のすべての工程がふん詰まりになるということだ。一刻も早く普及しないといけない。ラインが完全停止する切迫した状況だということを理解してくれ」

    「オッケー。予備のモーターを見つかったら、すぐにマサに報告するよ」
     

    工場長室に戻った雅斗は、デスクチェアにドカっと腰を下ろし、すっかり冷めてしまったコーヒーに口を付ける。

    その瞬間、事務員のエレナが、ノックもせずに部屋に飛び込んで来た。

    「マサ!私、もう限界!これ以上は絶対に耐えられないわ!」

    血相を変えたエレナが、目を真っ赤に充血させて叫ぶ。

    「リュックが私を侮辱した!私を侮辱したの!」

    唖然とする雅斗に、エレナは容赦なく怒号を畳みかける。

    「ここでは、もう働けない!アイツこそ、この世で最低の人間よ!」

    「ちょっと待ってくれ、エレナ。一旦、落ち着いてくれ」

    「落ち着けるわけないでしょ!それに、私は今だって充分に落ち着いているわ!」

    感情が高ぶり過ぎて、もはや本人にも自分が何を口にしているのかわかっていなようだった。

    「……扉を閉めた方がいいかい?」

    雅斗が工場長室のドアを指さすと、「あなた次第でしょ」と投げやりな言葉が返ってきた。

    雅斗はゆっくりと立ち上がり、静かにドアを閉めると、エレナをソファへと促した。

    「どうしたの?何があった?」

    感情に支配された人間に対しては、会話のペースを極限まで落とし、優しいトーンで包み込みながら、静さを取り戻すよう導く。これもまた彼が培ってきたコミュニケーション戦略だった。

    いつもより極端に早口で、下品なスラングを多用しまくし立てるエレナの言葉を、雅斗は何度も聞き直しながら、事の顛末を粘り強く把握していった。

    先週の平日の夕刻に、アレックスの妻であるローズがグローサリーで買い物をしていると、リュックに行き会ったのだという。アレックス、リュック、そして、エレナは、工場のある小さな田舎町に住んでいる。プライベートでの遭遇自体は珍しくない。その日、リュックは少し酔っていた様子だったそうだ。夕食の準備と娘の習い事のお迎えを控え、簡単な挨拶だけで立ち去ろうとしたローズに対し、リュックにしつこく絡んできた。夫の同僚だからと邪険にもできず、鬱陶しさを耐えて話を聞いた。ところが、リュックは、「工場内で、アレックスとエレナがかなり親密な関係である」と下卑た笑みを浮かべてほのめかし始めたという。会社の同僚という一線を越えているようにみえる、と。「仕事中に、ふたりきりで出かけることもある」、と。確かに、現場で急に備品が必要になった際、雅斗の指示によりふたりで近所のホームセンターへ調達に行ってもらったことは、何度かある。それはあくまで、工場長である雅斗が業務上の必要性から下した指示に過ぎなかった。それをリュックは、格好のゴシップとしてアレックスの妻に吹き込んだのだ。さらには、「エレナはシングルマザーで男に飢えているから、お前の旦那も食われないように気を付けておけ」と、ご丁寧にローズに忠告までしたらしい。

    激怒したローズから昨晩、突然の電話を受けたエレナは、あまりの衝撃に言葉を失い、その場でまともな否定すらできなかった。親友から、その夫との不倫を激しく責め立てられたエレナは、一晩中泣き明かし、どうすればいいかわからずパニックに陥っていたのだった。

    先ほどのアレックスの平然とした様子を見る限り、本人はまだ、この事実無根のゴシップをリュックからもローズからも知らされていないのだろう。
    話し終え、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻したエレナに、雅斗は語りかけた。

    「それは、とんでもない侮辱だね」

    「そうよ!あり得ないわ。リュックと同じ空気を吸いたくもない!」

    「君がどれだけ深く傷ついたか、私には想像できるよ。本当につらいね」

    「ありがとう、マサ。私が愛しているのは、三人の子どもと、今のボーイフレンドだけよ。確かに、アレックスは良い人。けど、ただの同僚だし、男性として意識したことなんて万にひとつもないわ。彼は、私の大切な親友の夫なのよ!」

    「その通りだ。本当にひどい話だね。今日は、リュックと顔を合わせたかい?」

    「会いたくないわ!アイツの顔を見たら、何をしてしまうか、自分でもわからない!」

    これ以上、現場で厄介な痴情沙汰や暴力沙汰を起こされては、かなわない、と雅斗は背筋に冷や汗が流れるのを覚えた。

    「もしよければの話だけどね」

    雅斗は慎重に言葉を選んだ。

    「私を含めた、君とローズの三人で一度会ってみるというのはどうだろう?エレナは、親友であるローズの誤解を何としても解きたいわけだよね?だけど、昨晩の電話の様子から察するに、今ふたりで会っても感情がぶつかり合って、会話は平行線をたどるだけだと思う。リュックを問いただしたところで、あの男が自分の非を素直に認めるとは思えないしね。どうだい?」

    「……そうね……。アレックスがこの件を知ったら、それこそリュックと殴り合いの大喧嘩になるに決まってるし……」

    「私は英語を完璧には話せないけど、ふたりがもう一度対話をする場所に一緒にいてあげることはできるよ」

    「ありがとう……。もしそうしてくれるなら、マサに助けてもらおうかな……」

    「いいよ。喜んで力になるよ」

    「こんなプライベートな泥沼に、ただでさえ忙しいマサを巻き込んでしまって……、ごめんなさい」

    「気にするなよ。これも私の仕事の一部だからね」

    やはり今日はリュックと同じ場所にいたくないと、エレナが早退を申し出てきたので、雅斗は、それを即座に了承した。

     
    就業時刻の17時を迎えると同時に、雅斗は、エレナとローズに会うために、約束していた工場近くの擦れたカフェへとシボレーを走らせた。

    窓際の席に腰かけていたエレナを見つけ、雅斗はその隣に腰を下ろし、ブラックコーヒーを注文した。

    ローズは、雅斗の到着から十分ほどして姿を現した。

    金髪で、体型はかなり肉付きが良い。しかし、その豊かな体躯に比べて、顔のパーツが驚くほど小さくまとまっていた。若い頃に、衣料品の広告モデルをやっていたこともあるとアレックスから聞いたことがあるだけあって、太っている現在でも目鼻立ちははっきりとした美人だった。ミズーリ工場が設立してから、毎年開催している周年ディナーに彼女もパートナーとして招待されており、雅斗はそこで何度か顔を合わせていた。ただ、今日の彼女は、その華やかなパーティーの時とは明らかに印象が異なり、表情は凍り付いたように険しかった。

    ローズが、雅斗とエレナの真向かいの席に重々しく腰を下ろす。エレナもローズも緊張の面持ちのまま、張り詰めた沈黙が流れた。ローズに何か注文するよう雅斗が促したが、彼女は「水でいい」と冷たく固辞した。

    雅斗は、あらかじめ頭の中で組み立ててきた拙い英語のスクリプトに沿って、丁寧に話し始めた。時折、雅斗のボキャブラリーが足りずローズが意味を取りあぐねていると、隣からエレナが絶妙な表現で助け舟を出してくれた。

    緊急時の備品調達は、あくまで工場長である雅斗自身の命令によってふたりで行かせたこと。それは工場長としての配慮が足りなかったと謝罪しつつ、アレックスは日ごろからどれほど家族を愛し、ローズとののろけ話を職場で嬉しそうに語っているか。彼は製造部長であり、エレナは事務員であるため、そもそも日中にふたりきりで会話する機会などほとんどないこと。それらをひとつひとつ客観的な事実として丁寧に説明した。そして、メンテナンスのリュックの素行と言動は、会社としても到底認められるものではない、ということも付け加えた。

    黙って雅斗の説明に耳を傾けていたローズが、突如、顔を覆って激しく泣き出した。

    「アレックスは、この最低なゴシップの件をまだ何もしらないはずだよ」雅斗がそう告げた直後だった。

    ローズの涙を皮切りに、今度はエレナが一気に言葉を溢れさせ始めた。

    彼女がローズという存在をどれほどかけがえのない親友として大切に想っているか。ローズの夫であるアレックスがこの新しい会社でどれだけ重責を負って活躍しているか、そしてアレックスをひとりの人間としてどれだけ深く尊敬しているか。

    気付けばエレナもまた、大粒の涙を流していた。

    終盤、誤解の解けたふたりは完全に意気投合し、激しいFワードを連発しながらリュックの人間性を徹底的にこき下ろした。あまりにも早口の英語で、しかもふたりが激しい熱量で同時にしゃべり続けるものだから、具体的にどんな罵詈雑言が飛び交っているのか雅斗にはほとんど聴き取れなかった。しかし、ふたりの顔に明らかに笑顔が戻ったのを見て、雅斗は心底、ホッと胸を撫でおろした。

    ふたりは何度も激しいハグを繰り返し、雅斗の手を引っ張って彼にもハグを求めてきたので、雅斗は、日本人らしいぎこちなさでそれに応じた。

    「マサ、あなたは、本当に良いボスよ」

    車に乗り込む直前まで、エレナは窓越しに何度もその言葉を繰り返した。

    「今回の件を、私からアレックスに話すつもりはないよ」雅斗がローズにそう伝えると、彼女は心から安心したように、美しく微笑んだ。

     
    心地よい疲労感と、自らの危機管理戦略が完璧に勝利を収めたという全能感を抱いて、雅斗は帰宅した。

    いつものように息子の弦の姿はリビングになかった。

    キッチンでは、妻の楓が背中を向けて夕食の支度をしている。

    二階に上がり、弦の部屋をノックして入ると、弦はベッドに寝そべったまま、熱心に文庫本を読んでいた。

    「ただいま、弦。何、読んでるんだ?」

    「村上龍」

    『限りなく透明に近いブルー』と書かれた真っ青な表紙で隠れていて、雅斗から弦の表情は窺い知れない。

    「そっか。お父さんも昔読んだよ。『コインロッカー・ベイビーズ』とか『トパーズ』とか……。『69 Sixty nine』なんて、面白くて二、三回読み返したな」

    「……ふぅん……」

    「その頃、他には、太宰治なんて結構読んだな。弦、読んだことある?」

    「……、国語の教科書に載ってた」

    「じゃあ、『走れメロス』かな?他にも太宰は面白いの、いっぱいあるぞ」
    親しげに語りかけたものの、真っ青な文庫本から視線をずらさない弦の様子を見て、雅斗は口を噤む。

    「……、じゃ、お父さん、シャワー浴びてくるわ」

    雅斗は、弦の部屋の扉を静かに閉めた。

    本当は、現地での学校生活のこと、新しい友人のこと、このアメリカという異国での暮らしをどう感じているのか、父親として聞きたいことは山ほどあった。

    でも、今はガマンのフェーズだ。

    なぜなら、それが多感な世代に対する、彼が導き出したベストな育成戦略だからだ。

    雅斗は、喉の奥から這い出る『イメージの詩』を低くハミングしながら、シャワー室へと向かった。

    その日の夕食は、カレーライスだった。

    一口、スプーンで口に運んだ瞬間、雅斗は奇妙な違和感に襲われた。

    ―――妙に、甘い。

    セントルイス近郊にも、いくつかアジア系のグローサリーが存在する。そのおかげで、最低限の日本食材の調達には事欠かない環境だった。カレールーもブランドの拘りさえなければ、問題なく入手できる。

    しかし、今日のカレーはひどく甘いな、と雅斗は小さく眉をひそめた。

    弦がまだ幼かった頃、子ども用には甘口、そして辛いもの好きの雅斗用には辛口と、二種類のカレーを楓はわざわざ用意してくれていた。弦が小学校高学年に差しかかかる頃には、自然と甘口のカレーが食卓からは消えていったはずだった。

    遅れて食卓に現れた弦は、その味にさして気にする素振りも見せず、雅斗が異様に甘いと感じたカレーを無言で淡々と口に運び始めた。

    楓もまた、何も言わなかった。


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    アラフィフで人生が大きく変わってしまったサラリーマンのお話です。 今の自分のイケてなさに悶々としている方、一緒に現状打破のきっかけを探しませんか!?

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